■凍り付く前に

悲しいときは
悲しめる私でいたい。

悲しいのに
悲しいことがなかったと
してしまうなら、
その悲しみは
そこで凍り付いてしまうから。

一度、凍り付いた悲しみは
自分で解凍しようとしても
なかなかうまくいかない
気がする。

ふとした拍子に
突然解凍されて
今までなかったことにした
悲しみに
直接触れてしまって
心が沈みまくったり
することもある。

だから、せめて、
悲しいときは
凍り付く前に
悲しめる私でいたいと
思うのです。

その一部であっても。

■悲しむ怖れ

悲しむことに
怖れがあるとしたら
悲しんでばかりいると
他のことができなくなって
しまって他者に迷惑を
かけてしまうこと。

悲しんでばかりいると
他者に「それじゃだめだ」とか
「元気を出しなよ」とか
「あなたを救いたい」とか
言う人が出てきて、
その人のそう言う期待に
応えられないと思うこと。

その人のそう言う期待に
応えられないことになって、
その人を失望させてしまって
その人に見捨てられるかも
しれないと感じること。

そんなことが繰り返されると
社会の中で自分は
次第に孤立して
生き延びられなくなると
感じること。

そうして誰もが
自分のことを忘れてしまったら
どうして良いのかわからない。

だから、
悲しみに任せて
悲しみ続けることは
困難だと感じる。

その困難がある限り
悲しむことを
自分に許可できないで
時間ばかりが過ぎていく。

■悲しむこと

悲しむ、とは、
悲しみを感じることです。

自分の中にある
悲しいという感情を
「悲しいという感情」として
感じることです。

悲しみは
反対側を育ててくれる
大切な感情です。

例えば、
いつもよく一緒に居た
仲良しの友人が
突然遠くに行ってしまって
以前のような「よく一緒に居る」が
できなくなった状況。

そんな状況を経験すると
「仲良しの友人とよく一緒に居る」が
どんなに自分にとって
大切であったか、
楽しい時間であったか、
心の栄養になったか、を
感じます。

その時間をすごしているときは
その時間をすごせることが
「普通」なので、特別な時間だとは
なかなか感じられません。

でも失ってみると
それがいかに特別な時間だったかを
体感します。

その体感をした自分で
他の仲良しの友人と
「よく一緒に居る」をしたとしたら
その時間をすごしている最中に
すでにありがたい気持ちを
感じていることでしょう。

喜びが「高さ」なら
悲しみは「深さ」です。

その間が広ければ広いほど
心豊かな自分になれると
思うのです。

だから、悲しみの感情を
ちゃんと感じることは
これからの喜びが
いかに尊いものかを
感じる感知器の感度や精度が
高まることにつながります。

■悲しみの感情を感じる

悲しみの感情を感じることは
その悲しみの感情を
「表現する」ことで、できます。

胸に手をあてて
感じることも
一つの表現ですし、
文章にしてみたり、
動画に録ってそれを見たり、
身体の動きで表現することも、
表現の一つです。

何が「表現する」になるかは
人によって違いますので
自分に合った方法を
見つけれられると、すてきです。

ただ、誰にも共通する
表現方法が「話す」です。

その悲しみや
その感情の周辺情報の
話を聞いてもらえる人に
話すわけです。

しかし、そういう話を
聞く立場になると
優越感の搾取が簡単なので
つい問題解決を提案したり
評価を下したりしがちです。

自分のことを
まるごと横に置いておいて
話を聞ける人にならないと
適切に「話す」を受けることは
できません。

不適切な方法で聞かれてしまうと
「話さなきゃよかった」と
二次被害みたいになるので
そこは自分大事に慎重に
なりたいところです。

ある人にこの方法を話したら
「それは相手を愛する方法ですね」
と話してくださいました。

私も本当にそう思います。

自分のことを
ぜんぶ横に置いておいて
相手の悲しみの話を
適切に聞き続けることは
「自分より相手優先」どころか
「相手のことだけ」にもなると
実感します。

悲しみを感じることは
悲しみ切れたと感じられるまで
やろうとすると
どれだけ時間がかかるのか
事前にはわかりません。

なので、時間を決めて
悲しみを感じる試みをすると、
その後の予定に与える影響を
軽微なものにできます。

悲しみを感じることが
深くなりそうな予感がしたら
しっかりと余裕を持てるくらいに
時間を確保してから
すると安心です。



お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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