■違うと思うならそう伝える

あなたのことは、
あなたが決めます。

それは他の誰にも
決められないこと
です。

もし、他の人が
自分のことを決めつけてきたときに
「そうかな?」と思うことは
その他の人が決めたのではなく、
その他の人の話を聞いた上で
自分で自分を決めた
ということです。

例えば、
「あなたは臆病者だ」と
言われたとします。

自分のことは
自分にしか決められないので
この人は、自身が思っていることを
こちらに話してくれただけです。

なので、その通りに聞くと
「わかりました。
あなたは私を臆病者と
思っているのですね。」
という淡々とした感じになり、
とくに感情的になる理由がありません。

ああ、わかりました。
どうぞ自由に思ってください。
私は自分を臆病者とは
思っていないので、
私とは違いますね。
という感じで
さらりと受け流して
”通過”できる感じ
です。

しかし、
相手に言われて
自分もその通りだと感じてしまって
そう言われるがままに
その通りだと
自分で自分を決めてしまう

状況が変わります。

もしそうなると
「あなたは臆病者だ」と言われると
即座に自分で自分を
臆病者としてしまい、
臆病者=悪い印象=孤立の怖れ、を
感じてすぐさまそれを
否定しないといけない
(生き延びられない)と
ついつい感じてしまいます。

生存本能(命の危険への反射)を
刺激された感じです。

自分で自分を悪く決めて
それをひっくり返そうとするなんて
外から見ていると
なんだか滑稽にも見えてしまいます。

でも渦中にいると
怒りの感情を感じたり
心拍数が上がったりして、
「とにかくなんとかしなくては」と
状況把握など悠長にやっておられず
力任せに状況を変えよう
してしまいがちです。

でも、でも、その渦中には
自分で入ったので
自分で抜けることができます


なぜなら
「自分のことは
自分にしか決められない」

思い出して、次のように
力を込めて言うことで
やりとりを終えることが
できますから。

「私はそう思いません。」

そして立ち去るだけです。

■思う自由の承認

「自分のことは
自分にしか決められない」

すなわち、
「相手のことは
相手にしか決められない」

ということでもあります。

相手が何を思っても自由と
認めることで
自分が何を思っても自由も
認めること
になります。

この自由の承認
力を注ぐわけです。

すると、
相手と自分とがそれぞれに
単に違うことを思っているだけ
という状況になります。

それは、
善悪のある世界ではなく
ただ違うだけ、という
ただ平和な世界
です。

■権力争い

一方で、
相手が自分に権力争い
仕掛けて勝利することで
優越感を得たい場合もあります。

そんな場合、相手は、
自分を屈服させること、
すなわち、
自分に劣等感を感じさせると
相手が場の支配者で勝利者となり
その劣等感と同じくらいの
優越感を得られる

信じているわけです。

だから、
屈服させれば屈服させるほど
おいしい優越感を
たっぷり搾取できると
思っているわけです。

対等な話し合いにならずに
モメがちなのは、
目的が「合意の形成」ではなく
「優越感の搾取」だから
です。

その権力争いという
ゲームに参加すると
論争となって
時間と労力を
浪費することになります。

相手の信じることは
相手にしか変えられないので、
それを変えようとすることは
最初から無理なのです。

無理なので、相手は
自分に相手の信じることを
いつまでも変えさせる努力を
させることができ、
いつまでも優越感を搾取できて
しまうわけです。

つまり、
絶対に勝てないゲーム
参加してしまっている
ことになります。

だから、参加してしまうと、
「臆病者と言われたくないなら
○○してみなよ」みたいな脅迫も
有効だと感じてしまうわけです。

■不参加は相手のためにもなる

権力争いに参加するのは
自分のためにはもちろんですが
相手のためにもなりませんので
「私はそう思いません。」と言って
すぐに立ち去ること

互いにとても効果的な選択です。

相手のためにならない、とは
権力争いに参加することが
その権力争いを助長すること
なるからです。

その相手が権力争いで
優越感を得られた経験が
増えれば増えるほど、
権力争いへの依存度が深まります。

感じるしあわせを増やすなら
他者の利益に関心を持ち、
共同体の利益に貢献する活動
によって得られる貢献感で
増やすことが健全
です。

それは、
誰かが損したから自分が得した
というものではなく、
誰も損せずに自分は得できた
という状況です。

しかし、
権力争いに依存すると
他者の利益に関心を持つことや
共同体の利益に貢献する活動に
困難を感じ、
自分自身を最優先に
その困難を回避して
手っ取り早くしあわせを
感じたくなり、
その方法に権力争いを
選びたくなってしまいます。

それは、
誰かが損したから自分が得した
という世界です。

この方法では
いずれ孤立してしまいます。

アルフレッド・アドラーいわく
「孤立は社会的な死」です。

刹那的なしあわせを得るために
社会的な死へ向かって
しまうこと
になります。

だから、
権力争いに参加しないことは
相手のためにもなるのです。

参加しないと
その場ではその相手に
嫌われてしまうかもしれませんが、
そこは勇気の使いどころです。

■大切だから大切にする

立ち去るとは
権力争いの道に進まず
自分の道を行くことです。

自分の道とは
自分の目的に向かう道です。

つまり、
自分のしたい
他者貢献の活動をすること
です。

そして、それには
「自分のことは自分が決める。
他者はそれを決められない。」

よく感じることです。

他者があなたを
いくら臆病者と言ったとしても
あなたが自分を臆病者としない限りは
あなたは臆病者にはなりません。

他者があなたを
いくら使えない奴と言ったとしても
あなたが自分を使えない奴と
しない限りは、
あなたは使えない奴にはなりません。

他者があなたを
いくら負け犬と言ったとしても
あなたが自分を負け犬としない限りは
あなたは負け犬にはなりません。

他者があなたを
いくらダメと言ったとしても
あなたが自分をダメとしない限りは
あなたはダメにはなりません。

他者があなたを
いくら生まれてこなければ
よかったのに、と言ったとしても、
あなたが自分を生まれてこなければ
よかったと思わない限りは
あなたは生まれてこなければ
よかった人にはなりません。

絶対に。絶対に。

自分が自分を大切にする限り、
自分はどこまでも大切な自分に
できます。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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