はじめに

 2022年5月28日から、「急激なグローバル化が進行するなかで新自由主義とナショナリズムが日本を席巻し、政治や経済、社会のみならず部落問題をめぐる状況も重大な岐路に直面しています。」という状況認識にもとづいて、第3期部落解放論研究会が開かれている。同研究会のこれまでの成果は、『部落解放論の最前線』(2018年)、『続 部落解放論の最前線』(2021年)と題する論説集として解放出版社から出版されている。現在進行中の第3期については、『部落解放』830号(2022年11月)から「部落解放史の最前線」の連載が開始されており、その最初の執筆者が歴史学者の寺木伸明氏である。連載は8回の予定で(現在は第4回が掲載)、いずれの論稿も、寺木氏の長年にわたる実証的研究に裏付けされた見解が、体系的かつ簡潔、平易に説明されており、大変わかりやすいものとなっている。

 今回は、その中から寺木氏の被差別部落の「起源論」の核心である「かわた身分の成立と歴史的背景」(『部落解放』833号、2023年2月)という論文を紹介し、そこでの見解を、部落差別とは多数者である民衆を分断し、無力化する装置という私の問題認識に沿って敷衍して論じてみたい。

 

近世身分制の成立とその経緯

 まず寺木氏は、戦国時代の一向一揆が北国に「本願寺の分国」「無主の国」「百姓の持ちたる国」を作り出しただけでなく、「いかに広範囲に起り、いかに強力であったか、領主側がこれをいかに憎悪し、いかに残虐非道なやり方で弾圧したか」を史料にもとづいて説明し、近世身分制の成立の経緯について「結論からいえば、中世後期から続発した土一揆、特にその後全国的に起った一向一揆という未曽有の民衆の抵抗闘争に対して領主勢力が、権力を掌握する過程で徹底弾圧を加え、二度と再びこのような一揆を起させないようにするため、身分秩序を固め強化する必要に見舞われ、近世身分制の一環としてかわた身分を制度的、全国的規模で設定したからである。」と述べている。

 この論文のなかで寺木氏が引用している藤木久志氏も「一向一揆を解体させる政策こそは、統一権力の支配政策の土台となった。統一権力は一向一揆との『戦争』を戦うなかで、みずからを創りあげてきた、といったほうが適切であろう」(『日本の歴史15―織田・豊臣政権』小学館、1975年)と指摘しているが、近世部落の成立を一向一揆のような抵抗闘争が起きるのを防止するための権力の身分政策の中に位置づけて論じたのは卓見である。これまでの研究が、すでに地域社会に存在していた差別が太閤検地によって全国的、体制的に公認された理由についての説明が出来ていなかったことを考えると、今後、このテーマにかかわる研究は、必ず寺木氏の起源論を通過しなければならないだろう。

 それでは、領主側が「憎悪し」「残虐非道なやり方で弾圧」しなければならなかった一向一揆とは何だったのだろうか。これについて、寺木氏は「一向一揆とは、一向宗(現在の浄土真宗)の門徒(その信者)が中心になって起した一揆で、同じ信仰で結ばれていたので横のつながりが強力だった。」と、紙数の関係もあるのか、簡単に説明している。

 よく知られているように、中世の人びとから一向宗と呼びならわされた浄土真宗は、「悪」といわれた人びと(金融業者、商人、職人、芸能民さらに差別、賤視されつつある非人、河原者等)を積極的に組織する動きを推しすすめた(1)。そうしたなかで、主従制の私的隷属関係に包摂されるのを望まなかった「百姓」、次第に固定化していく社会的な賤視、差別の進行、定着に抗う「賤民」は、弥陀の前での絶対平等を説く真宗を新しい救済の道をもたらすものとして受容した。戦国時代のポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、「信者の大部分は百姓と賤民である。」(2)と語っているが、それはこうした布教と受容の結果であった。

 ところで、いつの時代でも闘争が効果をあげるには、大規模な動員だけでなく、闘争に参加する人たちの質の確保が重要であり、そのためには「参加者が無力感から抜け出し積極性を持つと同時に、恐怖を克服している必要がある」(3)。阿弥陀仏・親鸞の下での平等を意味する「御同胞」思想で強く結ばれている点で一向一揆参加者の質はきわめて高く、藤木久志氏が述べているように、「門徒ハミナ開山(親鸞)ノ門徒ナリ」を組織の原則、戦闘的なエネルギーの源泉とするその世界は「まとまった領域を単位とし、タテ型の個人的な主従制・知行制と武力の強制で結ばれた、戦国大名の『領国』とは質の違う世界であった。」(4)。

 このように、信心と身分解放を一体化させた一向一揆は、「種々の身分・序列の結集体はその成立の当初から分裂の危機をはらんでいた」(5)とはいえ、朝尾直久氏も指摘しているように、「一向一揆が天下一統にとって最大の障害となったのは、それが武士団の支配そのものの存在を問う要素を内包していたからである」(6)。それゆえに、領主側が「憎悪し」「残虐非道なやり方で弾圧」しなければならなかったのであった。

 

織田・豊臣・徳川政権の身分政策

 それでは織田・豊臣の政権によって成立した近世身分制の骨格は、具体的にはどのような政策によって形成されたのだろうか。この点について、寺木氏は、次のように述べている。

 1575年、織田信長の家臣柴田勝家は越前一揆の弾圧のあとに「『刀さらへ』(刀狩り)を行うとともに、一向信者に転宗を迫り、江戸時代の宗門改めにつながる政策をとった。同時に兵農分離、百姓に対する耕作強制・土地緊縛政策を推進した」。

 1588年、豊臣政権によって「刀狩り令が発布されたが、(略)民衆の武装解除と百姓の耕作強制を意図していた」。

 1591年には身分令が出されたが「この法令は、(略)朝鮮侵略に備えて軍団構成員を確保し、兵糧米を確保するため百姓を農業生産に緊縛するために出されたとされ、(略)結果として武士・百姓・町人という身分の固定化を促進する役割を果たしたことは疑いえない」。

 「さらに豊臣政権は、天下統一過程においていわゆる太閤検地を全国的に強行実施した。これにより兵農(武士と百姓)分離が図られるとともに、百姓と町人の分離も推進されたのである」。「このとき同時に百姓とかわたの分離も図られたのである。(略)支配者にとって重要な土地台帳である検地帳に『かわた』と記されたことで、即被差別身分として規定されたとはいえないにしても、かわた身分成立への画期となったと言うことはできよう」。

 このように、刀狩りや検地によって兵農分離が徹底されたことで身分の固定化がはかられたが、とりわけ寺木氏の見解で着目する必要があるのは、太閤検地によって「百姓とかわたの分離も図られ」、「かつ『下』の地位に置かれていたであろうこと」、「かわた」が単なる職業名ではなく、「即被差別身分とはいえないにしても」身分名であることを論証した点である。

 「かわた」について、寺木氏は「近世において領主や百姓・町人などから『穢多』と呼ばれた人のことを指す。(略)近世被差別身分のなかで主流をな」す、と説明しているが、このような「百姓」と「かわた」の分離、そして「かわた」身分としての固定化を図るために権力が利用したのが、政治・宗教と並べて、「ケガレ」観念や「屠者」に対する差別観念を「受容し、風俗・習慣化してきた地域社会等々の影響」(「かわた身分の起源」『部落解放』832号、2023年1月)であったということを指摘した点も重要である。

 こうした一向一揆のような強力な抵抗闘争を未然に防ぐために、支配階級が民衆をいくつかの身分に分けて支配するということは、日本に限ったことではなかった。たとえば、北米のイギリス領バージニアでは、1676年に植民地人口約4万人のうち8千人もの白人、黒人、ムラートら、若く貧しく土地を持たない年季奉公人たちがナサニエル・ベーコンをリーダーとして団結し、支配層(植民地総督やプランター)に対して反乱を起した。これを転機にして、1690年以降になると、バージニアの支配層は、「労働力の問題と極貧層に対する不安を一挙に解決するための策略を慎重に練り上げた。彼らは貧民層をいくつかの身分に分け、ある者には特権や富を得る道を与え、他の者は永久奴隷の身分に落とした。一つの明確な分割のポイントは、皮膚の色を中心とする身体上の差異と出自を指針としたものであった」(7)。

 このように、身分制の強化によって多数者である民衆を分断する政策は世界に共通するものであったが、ここで注意しなければならないのは、「彼らは貧民層をいくつかの身分に分け、ある者には特権や富を得る道を与え、他の者は永久奴隷の身分に落とした。」という点である。日本の近世の場合でも、百姓は検地帳に登録されることによって夫役を負担する「公儀の百姓」として、「その地位と権利(もちろん義務も含め)はむしろ確固たるものとなった」(8)。その一方で、「かわた」のように、「ケガレ」観念や生業に対する差別観念の定着を背景に、江戸時代に入ると「被差別身分」(「賤民」身分)に固定化されたものがいた。この点について、寺木氏は、次のように述べている。

 「江戸幕府は、各国ごとの国絵図と郷帳(一国内の村名と村高を記載)を国家的事業として作成するが、(略)『国絵図の記載は、国家が直接的に『かわた村』を掌握したことを意味する。この意味において、かわた身分が国家の身分体系=空間に位置づけられ、統治する対象となったということができる。身分規定の完成である。』(藤本清二郎)」、「以上述べてきた経緯によって、17世紀中頃までに武士・百姓・町人・かわたという主要な身分が成立し、身分制度が整うのである。」

 豊臣政権における「かわた」身分の成立を被差別部落の起源と捉えられていることからか、江戸幕府の身分政策、とりわけ「穢多」身分の成立の問題について、寺木氏はこの論文では詳しく取りあげていない。この点については、東日本における被差別部落の成立に触れて網野善彦氏が「ほぼ将軍綱吉の時代に、江戸幕府が生類憐み令や血の穢れに対する対応を細かく定めた服忌令を定める動きの中で、『穢多』『非人』が身分として固定されたことによって、東日本においても被差別部落が定着したと思われる。」(9)と指摘しているように、江戸幕府の全国支配が確立された後に出された「生類憐み令」や「服忌令」、それに加えて「宗門改」などの全国的な政策が実施されるなかで、「穢多」身分が作りだされたのだった。

 このように、一向一揆のような抵抗闘争を未然に防ぐために、支配階級は民衆をいくつかの身分に分けると同時に、農民には「公儀の百姓」としての法的な地位を公認する一方で、「かわた」などは「ケガレ」観念や差別観念を受容した地域社会の習慣を利用してそれから分離した身分として把握した後に、「被差別身分」として固定化した。

 ガンディの非暴力不服従運動を土台として実践的な非暴力論の戦略を提唱したアメリカの政治学者ジーン・シャープは、政治権力は一方的なものではなく、被支配者との相互関係によって成り立っていると指摘し、人がなぜ政治権力者に服従するかという問題について、制裁への恐れ、道徳的義務、自己利益、無関心、不服従への自信の欠如とともに、習慣、支配者との心理的一体感をあげている(10)。そうしたことからするなら、近世の部落は、少数の権力を握る者が多数者である民衆の同意と協力を引き出すために、地域社会の「習慣」や「公儀の百姓」という「支配者との一体感」を利用して設定したものであったといえるのではないだろうか。

 

おわりに

 作品自体が壮大な部落解放論ともいえる長編小説『神聖喜劇』の作者大西巨人は、『朝日ジャーナル』の編集者から提示された「現代社会における少数者の位置」という課題に応えた「分断せられた多数者」(『朝日ジャーナル』1974年1月4日・11日合併号。『運命の賭け』晩聲社、1985年収録)という批評で、「支配する少数者」は「本来、実質的『多数者』たる被支配階級が現実的・能動的『多数者』となり『多数者』の『名実』を兼備することに対して、多大な嫌悪または恐怖を抱懐して対処してきた」として、その「対処」の方策が「被支配階級分断政策」であり、「被差別部落の存在は、旧時幕藩体制下においても現時資本主義体制下においても、支配階級による分断政策遂行(「程度・態様の相違」利用)の一番露骨陋劣無残な実証である。」と指摘した。

 さらにまた、「多数者」が「少数者」に服従するという転倒した関係がいかに維持されうるのかという問題については、「被支配階級各部分は、例の『程度・態様の相違』にみずからの異様な執着心ないし愛好心を保有し、その執着心ないし愛好心を陰に陽に発動する。そうすることによって、被支配階級各部分は、支配階級の自己温存・強化に『下から』手を貸し、支配階級の被支配階級分断政策を『下から』促進助長し、『支配せられる多数者』の現実的・能動的『多数者』化ならびに『多力者』化をみずから阻害断絶する。」と述べ、「支配せられる多数者」がただ単に「支配する少数者」に従うだけでなく、自発的かつ積極的に従属していたことを指摘した。

 こうした巧妙な統治のメカニズムは、過去の問題ではなく、現代においても機能しているということを強く意識し続ける必要があるが、もう一つ大西氏の指摘で重要なのは、連鎖的な隷属関係と共犯的な協力の根底にあるのが「『支配する少数者』にたいする『支配せられる多数者』の消極性・受動性・攻撃力薄弱・想像力貧困』」という点である。しかも、「長年月間最大の差別・抑圧・疎外・非力化の対象とされてきて人たち(被差別部落の人たち―引用者)の間においてさえ、情況は、かくのごとし。」として、実例をあげて被差別部落民も例外でないことを論証した。

 このように、隷属をしりどける人間の思考、判断力、想像力の欠如という「支配せられる多数者」の精神的な面での無力化こそが、さまざまな差別を存続させている大きな要因の一つであり、今日の日本社会を生きる人たちも陥っている深刻な問題である。それゆえに、個人が自らを差別・抑圧から解き放つ力の育成はますます重要な課題となっているが、こうした課題に取り組む事を何よりも優先してきたのが全国水平社以来の部落解放運動であった。この点に着目するならば、「吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」と謳った全国水平社、一人ひとりが自立して闘うための基礎となる「権利意識」の自覚を求めた戦後の行政闘争、「自力自闘」の精神を強調した狭山闘争などに示されているように、部落解放論とは、力をつけた個人が、個人として自ら立ちながら結束するための理論・運動論であったといえるだろう。

 大西巨人が強調したように、「『支配せられる多数者』の本源的な消極性・受動性・攻撃力薄弱・想像力貧困を主体的に確認して、それの徹底的克服・それからの最終脱却のために、いよいよますます力を入れ」(11)、「『各人の弱みや卑屈さをたがいに薄汚くいたわりあって衆を恃むような消極的連帯』でなく、『ひとりですっとたってゆ』く各人の積極的連帯が出来あがらなければならない」(12)。

 

(1)網野善彦「日本中世における差別の諸相」(奈良 人権・部落解放研究所編  

   『日本歴史の中の被差別民』新人物往来社、2001年)。

(2)藤木久志「門徒ハミナ開山ノ門徒ナリ―一向一揆の世界」(週刊朝日百科24

   『日本の歴史 中世から近世へ④一向一揆と石山合戦』2002年11月10

   日)。

(3)中見真理「ジーン・シャープの戦略的非暴力論」(『清泉女子大学紀要』第5

   7号、2009年)。

(4)藤木久志、前掲論文。

(5) 同前 。

(6)朝尾直弘「天下一統」(週刊朝日百科25『日本の歴史 中世から近世へ⑤信

   長と秀吉 天下一統』2002年11月17日)。

(7)オードリー・スメドリー「北米における人種イデオロギー」(竹沢泰子編『人

   種概念の普遍性を問う』人文書院、2005年)。

(8)朝尾直弘「公儀と百姓」(前掲『日本の歴史 中世から近世へ⑤信長と秀吉 

   天下一統』)。

(9)網野善彦『日本の歴史第00巻 日本とは何か』講談社、2000年。

(10)中見真理、前掲論文。

(11)大西巨人「分断せられた多数者」(前掲)。

(12) 同  「雪の日」(初出『群像』1994年2月号。『五里霧』講談社文芸

   文庫、2005年収録、36頁)。