先日、友人から「最近、読んで考えさせられた一冊」ということで平野啓一郎『死刑について』(岩波書店、2022年6月)という本を贈ってもらった。今回は、人権問題、人権教育という視点から、この本の感想を述べてみたい。
「なぜ日本ではこれほど死刑が支持されているのでしょうか。その理由はいくつかあると考えます」として、著者が最初に挙げるが「日本において人権教育が失敗している」ということである。具体的には、1975年に愛知県に生れた著者の小中学校での体験にもとづいて、死刑という問題が基本的人権から考えられていない理由として、「その(人権教育の―引用者)指導は、『相手の気持ちになって考えましょう』式の感情教育に偏していて、個人として有する当然の権利としての人権について、歴史的に、概念的に説明するということはほとんどありませんでした。」と述べている。
著者の小中学校の時代であった1980年代には、すでに人権教育が制度化され、全国で取り組まれていた時代であったが、確かに著者の言う通り、人権についての「歴史的、概念的な」知識の学習は多くの学校ではほとんど行われていなかったのではないだろうか。最近、私の子ども(16歳)に「子どもの権利条約」について尋ねたところ、まったく知らず、「学校でも教わらなかった」と言っていることからみて、このような傾向は変わっていないみたいだ。
こうした背景には、学校・教員が人権教育の重要性を真に(自分自身に照らして)自覚できないままに義務として取り組んでいること、また、教員自身も人権に関する「歴史的、概念的な」知識が欠如していることなどが考えられるが、こうしたことが著者の言うような「死刑囚になるような、心情として共感しにくい人物について、日本では権利の問題として考えるという発想が希薄」という状況を生みだしているのだろう。
それでは「他者感覚がないところには人権の感覚も育ちにくい」(丸山眞男)と言われているにもかかわらず、「相手の気持ちになって考えましょう」式の感情教育は、どこに問題があるのだろうか。この点について、著者は「もちろん、他者がどんなにつらい気持ちなのか、相手の立場になって考えるという共感能力は大切です。文学もそうした能力を発揮することで書かれていますし、読者にもその能力が求められます。/しかし、人権をこのように感情面だけで捉えてしまうことは危険です。なぜなら、共感できない相手に対しては、差別も暴力も、何の歯止めもなくなってしまうからです。」と述べている。
おそらく著者が批判している「感情教育」とは、人権問題を個人の意識や心がけに求め、人と人との関係性の歪み・偏りを生みだす社会構造とその中での自分の立ち位置を問わない教育のことだと思われるが、こうした「感情教育」が人権の感覚を育てることに「失敗」するという結論に至るのは当然であるだろう。しかも問題なのは、このような同情的・道徳的ともいえる人権教育が現在も広く行われていることである。人間の尊厳や正義感、不正感が自らの行動の原理になるような人権教育こそが学校や家庭に求められているのであり、そのためには教員や親自身がそうした行動の原理をまず身につける必要があるだろう。