19歳という同じ時期に『文藝首都』という同人誌に小説を発表して以来、盟友として深く関わった津島裕子の『アニの夢 私のイノチ』(小学館、2017年)に収録されている「アニ中上健次の夢」」(初出『新潮』1995年9月号)、「母の語りを破壊する時」(初出『中上健次全集』第4巻「解説」、集英社、1995年)という二つのエッセイは、同じ作家という視点から、中上とその作品を内側から深く理解し評論している点で、他に類を見ないものである。津島の中上健次論の特徴は、部落の外側に出てしまった人間という中上の位置と、幼年期まで過ごした新宮の部落に対する極端な愛憎の思いを起点にして、中上作品を読み解いていることである。今回は、この津島の中上健次論を紹介する。

 

津島裕子の中上健次論 

 中上作品の特色について、1975年度下半期の芥川賞を受賞した『岬』と、19777年に出版された『枯木灘』を比較して、津島はこう語っている。

   私がここでわざわざ確認するまでもなく、彼の重要な作品はすべて、「路 

  地」、すなわち、あるひとつの被差別部落のみを世界の磁場の中心にすることで

  成り立っている。そのように自分の小説を創りあげてやる、という彼の意志がは

  っきりと形をとって現われはじめたのが、『枯木灘』だった。

    (略)

   登場人物も語られる事件も彼の多くの作品と共通しているものの、『岬』では

  まだ、それが個人的な家族の次元で語られていて、彼の言葉で言う『路地』の世

  界を特権的な磁場として描こうという意志はここでは見られない。しかし一年後 

  に発表された『枯木灘』になると、はっきりと『路地』が中上健次だけの特権的 

  な物語の場となっていて、それ自体が呼吸する生き物になりはじめている。たぶ

  ん、彼は彼自身にかかわりの深い、それだけに愛憎の思いが極端に強くある『路

  地』こそが、彼の目指している物語の磁場として存在していることを、この時点

  で発見したのだろう。そして、この『発見』を徹底して方法化するために、彼の

  世界で語られる出来事に、社会一般に普遍化されるような要素を一切、認めるわ

  けにはいかなくなったのだろうし、登場人物たちの個々の現実的な顔も否定しな

  いわけにはいかくなくなったのだろう。出来事のひとつひとつが、登場人物のひ

  とりひとりが、『路地』つまり、中上健次によって強引に必然的な意味を付与さ

  れ、その意味付けの内側で動きはじめる。『枯木灘』から、中上健次は小説を書

  く散文家ではなくなり、壮大な叙事詩をいつまでも歌いつづけようとする詩人、

  琵琶を鳴らして物語を語りつづける盲目の法師に成りかわってしまったとも言え

  るかもしれない。(前掲『アニの夢 私のイノチ』38―39頁。以下、引用は

  同書から)

 津島が言う「彼の重要な作品」とは、『枯木灘』を書いた1977年から、『地の果て 至上の時』を書き終えた83年までの数年間の作品のことであり、「あるひとつの被差別部落」とは中上が幼年期まで過ごした新宮の部落のことである。小説の中で中上は、実在しているこの部落に「強引に必然的な意味を付与」して「路地」を構築したのだったが、「日本における被差別部落の意味を彼が力づくで象徴的に造形した『路地』のひとひとを主人公にして、いくつかの作品を書きつづけている」(58頁)ために選びとった方法が「英雄叙事詩」であった。津島は次のように指摘する。

   『枯木灘』の主人公秋幸は、作者自身が経験した環境と人間関係を最大

  に利用してはいるが、もちろん作者自身と重なり合う人物ではない。『路地』を

  離れたことがなく、18歳から土方として働きつづけている秋幸は、そうした人

  生を歩まなかった作者によって賛美を込めて『英雄』として創造された人物で、

  対立する実父なる人物像も言うまでもなく、作者の意志で造形されている。『枯

  木灘』はリアリズムの小説のように見えて、実際には、英雄叙事詩のような、バ

  ロック時代の音楽のような小説として書かれている。(61-62頁)

   あらゆる秩序、言葉を呑み込む『路地』の意味の絶対化こそを、彼は自分の物

  語として実現し、把握しなければならなかった。『路地』はすべてを消し去り、

  すべてを語る磁場でなければならない。そこで、中上健次が選びとった方法が、

  英雄叙事詩の方法だった。(67頁)

 この英雄叙事詩について、津島は「戦争を歌うものとして、存在する。戦争は男性の領域に属する事柄である。それゆえに、英雄叙事詩は男性の『歌』なのだ。」(68頁)と規定し、この方法によって作りあげられた中上の作品世界について、次のように述べる。

   今度、中上健次の主だった作品を読み返し、そこに徹底してリアリズムを無視 

  したひとつの世界がひろがっていることに、はじめて気づかされて、実を言うと

  かなり驚かされたのだった。(略)まとめて読んだ印象では、彼が作りあげた壮

  大な妄想の世界、妄想という言葉が悪ければ夢という言葉でもいいのたが、夢の

  大伽藍を見せつけられたような気がして、圧倒され、呆気にもとられた。(46

  頁)

 このような「無理を承知の執念」で「夢の大伽藍」を中上が作りあげねばならなかった理由についてこう述べている。

   ここまで彼ひとりの内側にすべてを引き受け、すべてを解釈し、むりやりにで 

  も大伽藍に仕立て上げあげなければならなかった執念、あるいは愛情とは現実の

  「路地」、日本で被差別部落と呼ばれる、面積でいえばごく小さな場所が彼に要

  求しつづけたものだった、と私は自分の答えを出さずにいられない。彼はその要

  求から逃れられなかった。しかし、彼はその要求に応じる自分自身があまりにも

  多くの矛盾を抱えていることにも、気づいていただろう。(46―47頁)

 中上が抱えていた「多くの矛盾」とは、次のようなものであった。

   路地の人間になりきろうとしても、彼は現実には『路地』の外側に出てしまっ

  た人間でしかなかった。土方作業をはじめとする肉体作業に生きるひとたちに成 

  りかわる彼は、そのひとたちを観察し、解釈する立場を越えることはできなかっ

  た。説教節や瞽女歌などの語り物の世界に限りなく身を寄せながら、彼は書きつ

  づける人間であるほかなかった。また、彼の小説で繰り返し書かれている内容を

  ここでなぞり直せば、『語る女たち』だった母や姉たちと彼は自分を同化させ、

  女としての自分に愛着しながら、彼は実際には男の肉体を持ち、それは母を、姉

  たちを切り刻まずにはいられなかった。そして男という性では、兄、姉たちの

  父、養父、実父、そのいずれをも自分の根拠にすることのできない宙づりの隙間

  に、彼は立たされていた。(51頁)

 こうして「この矛盾のすべてを同時に肯定し、引き受け、生きつづける方法として、彼は彼だけの夢の大伽藍をたゆまず、彼の言葉で拡張させつづけるほかなかった」(51頁)と述べ、『枯木灘』以降の作品について、津島はこう評価する。

   (略)彼は『枯木灘』で英雄叙事の方法をみいだし、彼に残されたのちの約1 

  0年間、ときには強引なまでそれに継続させた。そのように彼は選択し、小説を

  書きつづけた。彼はその方法を彼の『路地』のために守りつづけなければならな

  かったのだろう。彼の『路地』への愛着は、ほかの可能性を決して許さなかっ

  た。彼には、事実、選択の余地などなかったのかもしれない。彼の英雄叙事詩に

  完結をつけたかのように見えた『地の果て 至上の時』を書きあげても彼は立ち

  止まらず、なおも『日輪の翼』や『讃歌』、『奇蹟』を書きつづけた。いつまで

  も彼は自分の英雄叙事詩を歌いつづけなければならなかった。彼自身が『路地』

  の英雄叙事詩そのものとして生きはじめてしまっていたから。その自分を自分の

  都合で消し去ることはできなかったから。(71頁)

 しかし、中上にはこのような「英雄叙事詩」の方法とは別の選択があったのではないか、として津島があげたのが、実母をモデルに描かれた『鳳仙花』(1980年)であった。この『鳳仙花』について「女性を主人公にした小説の形として、『鳳仙花』はほとんど完璧に近く成功している」(69頁)と述べ、それにもかかわらず、「『鳳仙花』は今、彼の全作品のなかで、例外的な孤立した作品として残されている」(60頁)理由について、次のように指摘する。

   この作品で母フサを主人公に据え、その語りを忠実に辿って書きつづけたため

  に、作者はフサの言葉に閉じ込められ、フサの論理に従属せざるを得なくなって

  しまった。母の語りをみずからなぞるということは、当然、なぞる側に同一化を

  迫る。しかし、その同一化は小説家中上健次を裏切るものだった。彼は『枯木

  灘』で、すべてを否定しすべてを肯定する磁場を、彼の方法によってはじめて見

  つけだしたはずだった。母と父たちを否定して、ひとりの孤立した英雄像を見い

  だしたはずなのだった。あるいは、悪の権化のような実父というもうひとつの英

  雄像も、『路地』の影の支配者として作りあげた。ところが、母フサの語りのな

  かでは、このせっかくの両方の英雄像がただのふびんな息子になり、ただの憎ら

  しい男になってしまう。『路地』が『路地』である必然性も薄らいでしまう。

  (69頁)

   母が母でありつづけるためには、母の論理を守らなければならない。自分の子

  どもを生み、自分の乳で育てる母の論理とは、孤児を英雄とする英雄叙事詩の原

  型を壊す性質のものだし、『路地』の特性を破り、人間の関係を一般化してしま

  うものでもある。母の語りに忠実に物語を語れば語るほど、母の論理、母の普遍

  性に従わなければならない。作品としては成功したものの、『鳳仙花』が彼に突

  きつけたその矛盾から、中上健次は二度と母の語りに身を寄せようとはしなかっ

  た。書くことを自分に認めようとしなかった。(70頁)

 このように述べた後、津島は、中上健次論の最後を「『鳳仙花』を彼が自分

の世界から見捨てなかったら、あるいは、もっと長く小説を書く時間が彼に与

えられていたらと、想像しても意味のないこととわかっていながら、それでも

繰り事めいて思わずにいられないのは、彼の全作品を前にして、『鳳仙花』の

世界を切り捨てた結果、彼がのちに引き受けなければならなかった代償の大き

さに、私は茫然と息を呑まずにいられないからだ。」(71頁)と締めくくった。