平成29年3月に刊行された大分県先哲叢書の題記資料集には、堀悌吉提督のご遺族宅の蔵で平成20年に発見され、その後大分県立先哲史料館に寄託された数千点の堀悌吉関係資料の中から主要なものが所収されています。戦死後、山本五十六長官の遺志により親友の堀提督に託された山本提督直筆文書や書簡類、そして次の連合艦隊司令長官として戦死(*公表上は殉職)した古賀峯一提督関係文書など多くのオリジナル史料が含まれています。
特にその中で重要と思われるのは、堀提督自らが厳選し解説を付して取り纏めた「五峯録」(甲冊)という手記です。これは原典の文書・書簡類をそのまま公表するだけでは、その経緯や情況を知らない人々には故人の真意が伝わらず誤解されることを堀提督が案じたもので、「五峯録」には次のように書かれています。(*裕鴻註記)
・・・元来此の書類は筆者自分(*堀提督)に宛てて残されたものである。そして故人(*山本長官)は故人の真意を先づ自分に伝へ置かんが為に書き残したものに相違ないと信ずる。内容をなすものは、其の当時の情勢下に於て、及川(*古志郎)海軍大臣に対して述べたものの覚書であって、このまま他人に示すべきでないことは勿論である。
そこでこれが世に出て人に読まれるとき、少しでも故人の真意が誤り解せられ、それがため故人に迷惑がかかるやうなことがあっては、自分として甚だ相済まぬことになる。此の信念の下に自分は一旦之を自分に取り入れて、それを人に伝ふることが、故人の信義に応ふるの道だと考へる。斯様の意味に於て、必要な或る程度の註説を添へて置くのは自分の義務であることを信じて疑はない。(*中略)
(附言) 以上山本長官の書き残された覚書を読む人々に、理解して置いて戴きたい事柄を列記した。筆者(*堀提督)は故意に事実を誇張し又はこじつけた議論をして、山本氏を弁護すると云った気持ちは少しも持って居ないつもりだ。尚ほここに筆者の言ふところを証拠だてる資料の主なるものは、筆者の手許に於て之を求めたものであることを附け加へて筆を擱く。・・・(「大分県先哲叢書 堀悌吉資料集第三巻」216頁及223頁)
この「五峯録」は昭和27年に甲冊と乙冊の二部が主に堀提督自筆ペン書きにて作成され、甲冊は堀提督が、乙冊は榎本重治海軍書記官(高等官)が保管し、乙冊は阿川弘之氏も参照して同氏著「山本五十六」の執筆にも活用されました。乙冊はその複製が防衛研究所にも所収されていますが、甲冊自体は上記の通り平成20年になって発見されました。大分県立先哲史料館の研究によると、甲冊と乙冊の内容は少し異なり、甲冊には含まれるが乙冊にはない史料も少なからず発見されているのです。(*上記「堀悌吉資料集第三巻」22頁より)
戦後の一時期、「海軍善玉論」に批判的だった一部の人々からは、この「五峯録」の内容自体が堀提督の創作ではないかという疑念さえ表明されていました。それはその証拠となる山本長官直筆の文書や書簡が発見されていなかったからです。しかしこの大分県立先哲史料館の当時主幹研究員であった安田晃子先生ほか同館職員の皆さんの努力によって、貴重なオリジナル史料が多数発見され公表された結果、こうした妄説もようやく退けられたのです。その意味でも、今般公刊されたこの資料集の価値は高く、ぜひ皆さんも大分県立先哲史料館に申し込んで、この資料集ほかの関連書籍を入手し読んでみて下さい。
堀悌吉提督については、弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」(NHK出版新書)でも取り上げていますが、大分県先哲叢書の評伝「堀悌吉」芳賀徹先生他著が詳しく、また以前ご紹介した「最後の海軍大将 井上成美」の著者、宮野澄先生の「不遇の提督 堀悌吉」も素晴らしい本です。
さて前回、山本長官の政戦略に関する考え方を検討しましたが、この「五峯録」で親友にして海兵同期の俊英であった堀提督がどのように解説しているかを、上記の大分県先哲叢書資料集第三巻から少し見てみたいと思います。
・・・二、兵術思想
対米作戦に関する従来の軍令部・(*海軍)大学校あたりの兵術思想に対しては、山本長官は多くの点に於て真向より反対して居たことがわかる。少しく之を説明して見やうと思ふ。
従来の対米作戦として図上演習等に現はれて居たのは、
1.菲律賓(*フィリピン)島を攻略すること
2.菲島救援(奪回)の目的を以て西航する米の大艦隊を、マリアナ列島の線に哨戒艦艇航空部隊を配して捕捉し、潜水艦又は軽快部隊(*水雷戦隊)を以てする夜戦により、又は島嶼等を利用する空中攻撃を以て、漸減作戦を行ふ。
3.我艦隊を集結して黎明戦により艦隊対艦隊の大海戦を強行し一挙に敵を撃滅する。
と云った如き形式の経過を予想するものであった。
艦隊等でやる大小の演習では、往年ジュットランド(*ユートラント)沖の英独海戦に於て見たるが如き、数十隻の主力艦より成る大艦隊の展開方式を、僅に数隻の主力艦を基幹とする我が艦隊に適用して、大袈裟の戦術運動を実施して居た。従て砲戦は最大射程付近の遠距離射撃、魚雷戦は強襲と称しながら射点(発射位置)に達するを得れば直に全射線を発射する公算発射、又潜水艦戦は所謂誘致戦術に呼応する待機発射といふ風に型に嵌ったものが多かった。演習後の研究に方りては、甲乙両軍の各隊航跡図を見て成果を判定するを以て主眼とするを常識とした。
以上の如き傾向を帯びる演習訓練実施の結果は一種の概念遊戯に堕してしまって、攻撃効果を狙ふべき真の戦闘方式、例へば咄嗟砲戦とか強襲襲撃とか言ふ様なことは軽視されがちの趨勢を醸し成すに至った。
此の種の形式主義は一般に波及して、恰も兵術の正統派であるが如き観を呈するやうになり、之によりて兵術思想の統一を行ふべしと主張し、苟くも少しでも之を外れて新機軸を求むるものあらば、忽ち兵術に疎き異端者として取り扱はれるが如き、独善横行の社会となり了った。
凡そ戦時に於ける海軍の第一任務は、敵海上兵力の掃蕩、特にその主力の撃滅に在る。即ち用兵の要義は敵を索めて之を攻撃する点に存する。然るに敵の行動を一の約束事の様に考へて、敵状判断をなし、虫の良い経過を予定するが如きは、兵術の根本義に背くものであって厳に戒しめねばならぬ。前に述べたやうな対米作戦の型は、兵術上に於ける攻撃の長所を捨て去って、而も内線防禦の利を完うせざるものと謂はねばならぬ。(*中略)
或る年、(*海軍)大学校かどこかで図上演習が執り行はれた。経過は例の如く型に嵌ったもので、対菲(*フィリピン)攻略戦、敵艦隊洋上捕捉、漸減作戦等と云った調子のものであったが、研究会の時某氏が「敵が菲島救援に来ぬ場合もあるべく、又敵が直ちに本土に逼(*せま)る場合も考へらるべきにつき、専ら対菲作戦の研究に多くの力を尽すことは尚考慮を要せずや、即ち他の場合をも研究の要なきや」と云ひしに、演習指導部員として来合せて居た軍令部の一員が「菲島攻略は帝国海軍既定の作戦方針であって、陸軍方面とも合同して研究中のものである。それを否認する様な議論をきくのは甚だ遺憾である。抑も兵術思想を統一するのが演習の一目的であると云ふことを無視してはならぬ」と云った様の事を述べた。これは独善の一例として、ここに揚げる。・・・(上記「大分県先哲叢書 堀悌吉資料集第三巻」217~219頁より)
海軍大学校には「海戦要務令」という教本(*最高機密レベルの「海軍軍機」の「赤本」)があり、そこに上記の型にはまった対米作戦である「漸減邀撃作戦」が定められていました。いわば映画のシナリオの様に決められた筋書き通りに演習訓練して、決められた通りに動くことに慣熟することが求められていたといいます。開戦時の海軍大臣を務めた嶋田繁太郎提督が海大教官の時は、学生に「海戦要務令」を読み直せと叱っていたといいますが、世界初となる空母機動部隊を提案した小澤治三郎提督は、海大教官時代には学生に「あんな本は読むな」と注意していたといいます。
確かに地政学的諸条件や様々な日米艦隊の特徴、勢力、想定される情況から、ある戦略・戦術を生み出し、それを基にした具体的「作戦」を立案することはもちろん必要なことです。しかし問題は、ある時期にそれが固定化されてしまい、その後の時代変化、技術革新を考慮に入れずに、そのパターンを墨守する様になったとすれば、それはやはり弊害ではなかったかと思われます。
尚、「漸減邀撃作戦」については、本ブログの「山本五十六長官は愚将ではない(5)漸減邀撃作戦の問題」をご参照下さい。
基本的には、日露戦争の日本海海戦の再現を目指し、米主力艦隊(*戦艦部隊基軸)が、日本が緒戦で攻略占領したフィリピンを救援するために太平洋を西航してくるのを洋上で索敵捕捉し、潜水艦部隊、水雷部隊(軽巡洋艦と駆逐艦)、航空部隊(島嶼基地航空部隊と空母航空部隊)が、米艦隊を途中で「漸減」し、減勢された米艦隊を日本近海で待ち受けた巨大戦艦を主軸とする日本主力艦隊が邀撃、撃滅するという作戦構想だったわけです。
しかし仮に対米7割以上の艦隊勢力を連合艦隊が保有していたとしても、洋上で索敵捕捉するためや途中に夜戦で攻撃して「漸減」するために水雷部隊などを分派した場合、本隊の日本艦隊勢力は減少することに加え、もしも元々大勢力の米艦隊により分派した日本艦隊が各個撃破されたならば、益々日本側勢力は減衰することになります。
日本海海戦で活躍した秋山真之参謀が研究していた村上水軍の戦法は「我が全力で敵の分力を撃つ」という極意に要点があったと言われていますが、まさに米艦隊の全力で日本艦隊の分力が撃たれることになるのではないかという怖れがあり、この点は「漸減邀撃作戦」を推進した末次信正提督自身が懸念していた点でした。そして山本長官の航空兵力の積極的活用策自体は、この弱点を克服するものとして末次提督も認めるところであったことが、山本長官戦死時に寄せられた末次提督の哀悼談話にも表れているのです。
ここで問題となるのは、「兵術思想の統一」という点です。確かに海軍部内全般、特に参謀連と司令官、司令長官の全員が同じ「兵術思想」で統一されていれば、議論は無用であり、参謀が起案したものが「つう・かあ」で各級指揮官に共有されるし、短時間での一斉対処で迅速かつ整然とした艦隊行動、部隊行動が実施できるでしょう。通信上の問題も簡潔明瞭かつ短い電文で充分となりますし、こうした一連のスムースな流れは海軍の気質にも合っているものです。しかし、訓練ならそれも見事なりということになるとしても、突然想定外のことが連続して発生する様な、何が起こるかわからない実戦の現場では、想定内の原則を離れた臨機応変の対応対処が求められる局面も多々あります。
例えば、ミッドウェー海戦で、予想していなかった米空母部隊の出現報告に対し、折からミッドウェー島への第二次空襲のため、山本長官の指示によって準備していた艦船攻撃用の魚雷を外して陸用爆弾への換装作業をしていた各空母艦内は騒然となります。しかも上空にはミッドウェー島第一次空襲部隊が帰投してきており、これを母艦に着艦収容しないと燃料切れでむざむざ海上に不時着させて機も人も無用に失うかもしれない情況となっていました。
常識的には、まず第一次攻撃隊を収容するとともに、艦内格納庫では陸用爆弾から魚雷に再換装させ、準備が整ってから一斉に敵空母への攻撃隊を繰り出すのが順当な策です。しかも護衛戦闘機隊は、ミッドウェー基地から飛来した米航空攻撃部隊の撃攘・艦隊防空に活躍中で、彼らに給弾と給油をしないと敵空母に向かう攻撃隊の護衛につけてやることができません。それでは味方攻撃隊の犠牲が増えることになります。
南雲忠一長官率いる機動部隊司令部が出した「正攻法で行こう」という決断は、論理的には極めて正しい選択でもあったのです。しかも南雲司令部は敵空母の推定位置が実際にいた位置よりも遠いと思っていました。(*これについては、この海戦の決定版ともいうべき書、森史朗著「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」2012年刊新潮選書の85~89頁に詳述されていますので、ぜひ同書をお読みください。)
しかし一方で、第二航空戦隊の山口多聞司令官(飛龍坐乗)は、旗艦赤城の機動部隊司令部に対し、発光信号により「現装備のまま直ちに攻撃隊を発進せしむるを至当と認む」と意見具申しました。(*上記の森史朗著「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」109~110頁)
これは敵空母を発見した以上は、陸用爆弾でも空母の甲板を破壊すれば敵艦上機部隊を封じることができるのだから、魚雷で撃沈できなくとも先ずは今できる攻撃をするべきだという判断です。また護衛の戦闘機隊をつけられず攻撃隊に犠牲が出ようとも、そして第一次ミッドウェー島攻撃部隊が海上に多少不時着しようとも、とにかくいち早くできる限りの攻撃隊を敵空母に向けて発進させるべきだという、一面非情さを伴った決断なのです。そしてこれは、孫子の兵法にいう「兵は巧遅よりも拙速を尊ぶ」という精神に通じるものだったのです。
つまり戦闘中ではなく平常時にたっぷり時間をかけ、机上であらゆる智恵を絞って論理的に整合する素晴らしいアイデアに基づくプラン(計画)を練り上げたとしても、その計画策定時点からの時間推移による変化や、情勢・情況などの変化を複合・綜合した「前提条件」の変化が当然生じるわけであり、その情況の変転に伴って適宜適切に計画を改変・変更・変化させてゆく、或いは情況によっては思い切って廃棄・新規設定することはなかなかできません。
序でながら、目前の実行計画(Action Plan)である具体的「作戦計画」のレベルではなく「漸減邀撃作戦構想」のような兵術思想を伴う「戦略・戦術の計画」の場合は、ましてそれが「機密扱い」となればなおさら改訂には様々な手続きを要し、益々簡単にいじることはできなくなります。さらにそれが当該組織の「金科玉条」となって、信仰的に共有する一種の「常識」と化している場合には、それを日頃の訓練や部隊行動の根基と考えている組織成員のその「信念」まで覆すことは実際上極めて困難なのです。
もちろん策定の時点では素晴らしいものであって、専門的な観点からの多数の目による厳しい審査にも合格し、主要担当者や上司・上官のほぼ全員に受け入れられた「戦略・戦術」ないしはそれを具現化する「作戦計画」であったとしても、こうした「時間経過・情況変化」による「変更・進化ないしは根本的入れ替え」の必要性から免れることはできないのです。それほど一旦作り上げられたものの影響は大きいのです。
まして日本人の特質として、洗練や完成度を高める精緻さを伴うことが、この計画策定にも影響し、ある意味では「作り込み過ぎた詳細かつ完璧な計画」になっているとなおさらです。少しでもある部分をいじると他の関連する部分も全部修正しなくてはならなくなり、改訂の困難度は一層増すのです。
こうした「計画の存在自体が持つ硬直性」とともに、「臨機応変の困難性」があります。転瞬の極めて短時間に、根本的要因としての変化を正確に見抜き、それに対する適確な反応と最も効果のある対処を、判断・案出・主張・実行しなければなりません。
しかもこうした「想定外」の急変する事態に直面している場合には、採り得る策は局限され、先ず全てを満たす百点満点の案はないことが殆どであり、必ず何かのマイナスや犠牲の「痛み」を伴う案しかない状況となることが多いのです。つまり「何を犠牲にして何を得るか」という厳しい判断を迫られることになるのです。
しかし元々戦争に限らず「戦い」にはこうした様相は不可欠に随伴します。例えば「将棋」でも、ある時は自分の「飛車」や「角」を犠牲にしても相手の「王手」を防がねばならぬこともあるのと同様です。これは減点主義を基底にしていれば、何をやってもどこかに「減点」を伴う回答しかないのですから、当然「百点満点の正解はない」ことになります。
そこでは「マイナス点を被ろうとも逆に何点得点できるか」という加点主義・得点主義で評価しない限り、適切な回答案を出す思考訓練さえできないことになるのです。そして実戦で指揮官に容赦なく突き付けられるのは、実はこうした種類の判断なのです。
この時の山口多聞司令官の判断こそは、結果的に見ればこうした意味において適確な判断であったのではないかと思われます。もちろん満点の回答ではないでしょうが、それがどの様な成果を挙げ得たかは俄かに推定できないとしても、三空母が被弾脱落した後の、飛龍ただ一隻だけの奮戦を見れば、ある程度想像することはできます。
ただし、「将棋の駒」とは異なり、生身の部下の生命を賭する判断になるのですから、極めて厳しい判断であることは論を待ちません。その意味で将軍や提督の判断というものは常にある非情さを伴うものなのです。上記の森史朗著「ミッドウェー海戦 第二部」(*212頁、266頁)によれば、山口多聞提督は兵学校時代から兵理について「50パーセントの可能性があれば、断行すべきだ」と語っていました。
四空母のうち唯一隻生き残った飛龍艦橋で山口司令官は、凛とした声と厳然たる口調で「ただちに飛龍は敵にむかって進撃する。この飛龍一艦で、敵空母を差しちがえるのだ」と強い決意を示し、その意をうけた加来止男艦長は、赤城など他空母所属の残存機も合わせた攻撃隊出撃の際、燃える味方空母を指差し「あれの仇を討ってくれ!」「おまえたちばかりを死なせはしない。おれも後から行く。敵空母を撃滅せよ!」と送り出しました。
そして飛龍攻撃隊が死力を尽くして空母ヨークタウンを大破した後、飛龍もまた米空母攻撃隊により致命傷を負い、山口司令官と加来艦長は、敗戦と戦死した部下たちへの責任を執ってその言葉通り、沈みゆく飛龍と運命を共にしたのです。
戦史に向き合う場合、こうした生命の犠牲という粛然とする事実に対して、真摯かつ敬虔な姿勢を持つべきことを、我々は決して忘れてはならないのです。