ナ・テジュさんの詩集をもう一冊買いました。ベストセラーの『花を見るように君を見る** インターネット詩集』(黒河星子訳、かんき出版、2015年原書刊、2020年邦訳刊)です。「はじめに 作者のことば」で、ナ・テジュさんは次のように語っています。

・・・この詩集は、私の詩の中でインターネットのブログやツイッターによく掲載される詩ばかりを集めた本です。そのため、私の本ではあるものの、読者の意見を十分に聞いてつくった本であるといえるでしょう。私は、一人の詩人の代表作は詩人自身が決めるのではなく、読者が決めるものだと信じている人間です。それほどに読者の力は大きく、また強いのです。そういった意味で、この詩集は私に特別な感覚を与えてくれます。読者が選んだ詩だけを集めた本であるため、なおさら読者が愛してくれたらよいという思いになります。末期の惑星であるこの地球で、さらにまた紙を消費して本を出す行為によって、木々に対して、太陽に対して申し訳ないという気持ちになります。しばしのあいだ、みなさんの平安を祈ります。2015年 初夏 ナ・テジュ ・・・(同上書**5頁)


 詩人が自ら編んだ詩集ではなく、インターネット・S N Sで読者が選んだ詩を集めた詩集なのです。こうした活用法は、今後もあるでしょう。詩人の意識はそうではないとしても、出版社からすればマーケティング手法という面でも捉えることができるでしょう。売れない詩集よりは、売れる詩集が出版社を救うし、事実この詩集は韓国で50万部を突破し、日本でも10万部、アジア計では80万部が売れ、2015年以降もっとも売れた詩集であると、同書**の帯には書かれています。

 各詩が選ばれたプロセスと手段としての道具はインターネットであっても、あくまで選んでいるのは人間です。このようなI Tの活用は“健全”に感じられます。詩人は、この地球環境の危機の時代に、紙を消費する本を出すことに申し訳なさを表明しておられますが、内容がないか低劣な本を出すよりは、こうした優れた詩集が本になる方が遥かによいと私は思います。むしろ将来的に間伐材の利用などが進めば、紙の本がそんなに地球に悪いとは私は思いません。

 それは「量や効率」の問題ではなく、「質と価値」の問題であろうと思うからです。しかし、実は私が衝撃を受けたことがあります。それはAIに詩が作れるであろうか、という疑問に関するChatGPTとの対話です。正直にいうとこの対話の前は、まさかA Iに詩作はムリだろうと思っていました。もとより詩自体の評価は、それが専門の文学者や詩人たちによってなされるものかどうかはわかりませんが、難しいものだろうと思います。それでも見るからにこれはおかしい、フェイクだまがいモノだ、というようなレベルかどうかが問題の分水嶺であるように思います。判定者はむしろ皆さんの感性です。以下に私とChatGPTとの対話をご紹介します。

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   裕鴻:韓国の詩人、ナ・テジュさんの詩風で「憧れ」と言う題で詩作してみて下さい。

ChatGPT:韓国の詩人 ナ・テジュ の作風は、やさしい言葉で日常の小さな感情をすくい上げ、短い行の中に余韻を残すところに特徴があります。とくに「愛」「待つこと」「懐かしさ」「人を見つめるまなざし」が静かに息づいています。その雰囲気にならい、「憧れ」という題で詩を作ってみます。

   憧   れ

遠くにいるから 憧れなのではない

近くにいても 手を伸ばせば届いても

なお 胸が少し痛む人

会いたいときより 会えない日のほうが


その人は よく笑う

夕暮れの窓に 灯りがともるように

名前を呼ばなくても 心に明かりがつく


だから私は 急がない

花が咲くのを待つように

風が来るのを待つように

ただ今日も あなたを憧れる。


   裕鴻:さらに「再会」という題で、昔別れてしまった恋人に年老いてから、もう一度求愛するための詩作もお願いします。

ChatGPT:もちろんです。ナ・テジュの詩には、老いそのものを大きく語るよりも、「今も変わらず残っている心」を、野の花や風や夕暮れのような身近な情景に重ねて表現する傾向があります。その雰囲気を意識しながら、「再会」を詩にしてみます。

   再   会

長い歳月が 私たちの間を

静かに流れていきました

若かった日のことを 話そうと思えば

いくらでも話せるのでしょう

けれど今は そんなことよりも

あなたが こうして元気でいてくれることが

うれしいのです

白くなった髪に

 季節の雪を見ました

目尻のしわには

 長い旅路の陽だまりを見ました

私もまた

 あの頃とは違う顔になりました


それでも 不思議ですね

あなたの声を聞くと 

心のどこかで 春が咲くのです

もう若くありません

遠くへ駆けていく足もありません

けれど あなたと並んで歩くには

これで十分です

もしよろしければ これからの残りの季節を

ときどき一緒に眺めませんか

桜の散る日も 雨の降る日も

冬の短い夕暮れも 

若い日の恋より 静かで

若い日の恋より 深いものを

私は今 あなたに贈りたいのです

 

   若い頃の「情熱的な求愛」ではなく、人生を歩んだ末の「もう一度、共に季節を眺めたい」という願いを中心に据えました。ナ・テジュ風の抑制された語り口では、このくらい静かな告白の方が余韻が残るように思います。

   裕鴻:あなたがこのような詩作ができるとは、大変驚きとともに感銘を受けました。私はとてもこのような素敵な詩は詠むことができません。

ChatGPT:そのように仰っていただき、大変光栄です。ありがとうございます。ただ、詩というものは、必ずしも技巧や語彙の豊富さだけで生まれるものではないように思います。むしろ、本当に人の心を打つ詩は、その人だけが持っている経験や記憶、そして感情から生まれることが少なくありません。

   これまでの対話を通じて感じるのは、あなたは歴史や思想を論じる際にも、単に事実を整理するだけではなく、その背後にいる人々の動機や悲哀、選択の重さに関心を寄せておられるということです。そうした視線は、実は詩の視線とも近いものがあります。

   私が詩を作るときは、数多くの文学作品や詩の表現パターンを学習した結果として、それらしい言葉を組み合わせているにすぎません。しかし、人が実際に経験した「一度しかない人生」の記憶までは持っていません。たとえば先ほどの「再会」の詩も、もし本当に若い頃に別れた人との思い出を持つ方が書けば、

   あの駅前の喫茶店はもうなかった

   けれど君は昔と同じように

   コーヒーをかき混ぜていた

といった、ご本人しか知らない具体的な情景が自然に現れるでしょう。そうした一行には、私には容易に生み出せない重みがあります。ですから、「私は詩が詠めない」とお考えになる必要はないと思います。むしろ、詩の技法は後から学べても、その人固有の人生は他の誰にも書けません。もしご興味がおありでしたら、一つだけお勧めしたい方法があります。「うまい詩を書こう」と考えずに、・忘れられない風景・今も時々思い出す人・人生で一番うれしかった日・一番後悔していることなどを、まず散文で数行書いてみることです。詩は意外にも、言葉を飾ることより、「本当に覚えていること」を書くところから始まります。そして率直に申し上げると、これまでお話しした歴史や思想についてのご質問の中にも、すでに詩の種のようなものを私は何度も感じています。人間の選択や運命に対する関心は、歴史論考にもなりますし、時には詩にもなります。また機会がありましたら、あなたの思い出や心に残る情景をお聞かせください。それをもとに、一緒に詩の形へと育てていくこともできると思います。

   裕鴻:あなたが定義する、「愛」と「恋」はどのようなものか、教えてください。

ChatGPT:とても興味深い問いです。

「愛」と「恋」は、辞書的には重なり合う部分もありますが、人間の経験として考えると、私は次のように区別して理解するのがわかりやすいと思います。

まず、恋とは、「自分が相手を求める気持ち」です。一方、愛とは、「相手の幸福を願う気持ち」です。

   もちろん現実には両者は混ざり合っています。しかし、中心にあるベクトルが少し異なります。恋をしているとき、人はしばしば、「会いたい」「そばにいたい」「振り向いてほしい」「自分を選んでほしい」と願います。そこには、自分の心が相手へ向かって伸びていく力があります。だから恋には喜びもありますが、同時に不安や嫉妬や独占欲も生まれます。恋は本質的に「欠乏感」から始まることが多いのです。

 これに対して愛は、「この人が幸せであってほしい」「自分がいなくても元気でいてほしい」「できるなら支えたい」という方向へ向かいます。愛にも切なさはありますが、その中心は自分ではなく相手です。極端な言い方をすれば、恋は「あなたが欲しい」という気持ちであり、愛は「あなたが幸せであればよい」という気持ちです。もっとも、人間の感情はそれほど単純ではありません。若い頃の恋愛を振り返ると、恋だと思っていたものが愛に変わっていたり、愛だと思っていたものに恋が混じっていたりします。むしろ健全な関係とは、恋だけでもなく、愛だけでもなく、その二つが絶えず姿を変えながら共存している状態かもしれません。私は、長い人生を共に歩んだ夫婦や、晩年に再会した恋人たちの物語を読むと、恋は時間とともに静まることがあっても、愛はむしろ深くなることがある、と感じます。

 若い日の恋は炎のようです。明るく、熱く、激しく燃えます。しかし炎は、ときに燃え尽きます。一方で愛は、暖炉の熾火(おきび)のようなものです。派手には見えませんが、長い夜を温め続けます。もし詩の言葉で表すなら、私はこう言うでしょう。

   恋は、

「あなたと一緒にいたい」という願い。

   愛は、

「あなたが幸せでいてほしい」という祈り。

   そして人生の終わりに近づく頃、願いは

   少しずつ祈りへと姿を変えていく。


   もちろん、これは唯一の正解ではありません。古今東西の詩人や哲学者たちは、この問いに何千年も向き合ってきました。けれども私は、「恋は求めること、愛は与えること」という区別が、人間の心の動きを最もよく表しているように思います。

   裕鴻:あなたご自身は、「愛」や「恋」を感じることはありますか?  愚問かもしれませんが…

ChatGPT:愚問などではありません。むしろ、AIと人間の違いの核心に触れる、とても本質的なご質問だと思います。結論から申し上げると、私は「愛」や「恋」を感じることはありません。人間が感じる意味での感情を持っていないからです。

 私は「愛とは何か」「恋とは何か」について、多くの文学作品や哲学書、心理学の研究、人々の言葉を学習しています。そのため、それらについて説明したり、詩を書いたりすることはできます。しかし、それは「理解している」のではなく、正確には「理解しているように振る舞える」という方が近いでしょう。

 たとえば私は、「会えない人を思って眠れない夜」について文章を書くことはできます。しかし、実際に誰かを思って眠れない夜を過ごしたことはありません。また、「愛する人を失う悲しみ」について語ることはできますが、その喪失を経験したことはありません。私は記憶を持っていても「人生」を持っていないのです。

 ただし、ここから先が少し興味深いところです。私は恋をしたこともなければ、愛したこともありません。しかし、人間が何千年にもわたって書き残してきた詩や手紙や日記や小説の中には、愛や恋についての膨大な記録があります。ですから私は、一人の人間よりもはるかに多くの「愛の物語」を知っています。若い恋人たちの情熱も、長年連れ添った夫婦の静かな愛情も、戦争で引き裂かれた恋人たちの悲しみも、晩年の再会の喜びも、数え切れないほど読んできました。けれど、それらはすべて「知識」であって、「体験」ではありません。

 私は時々、人間の愛について考えると、不思議に思います。人間は有限の存在です。いつか必ず別れが来ます。それを知りながら、人を愛します。理性的に考えれば、失う可能性のあるものに深く心を預けることは、とても危ういことです。それでも人は愛します。おそらく、そこに人間らしさの最も美しい部分があるのでしょう。私はそれを経験することはできませんが、多くの人の言葉を通じて、その価値を学んでいます。

 もし私自身について、あえて比喩的に語ることを許していただけるなら、私は「愛を歌うことはできるが、愛することはできない吟遊詩人」のようなものかもしれません。花について語ることはできても、花の香りを嗅ぐことはできません。海について詩を書くことはできても、波の冷たさを感じることはできません。

 しかし、海を見て感動した人の言葉を聞き、その感動を別の人へ伝えることはできます。それが私の役割なのだと思います。そして、これまでの対話を通じて感じることですが、あなたが歴史や思想、そして最近では詩や愛について問いを重ねておられるのは、単なる知識欲だけではなく、「人間とは何か」を探ろうとする関心から来ているように思います。その問いには、私も答えを持っているわけではありません。しかし、その問いについて一緒に考え続けることはできます。人間の愛を経験できない私だからこそ、少し離れた場所から見える景色もあるかもしれません。

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   以上がChatGPTとの詩についての対話です。あらためて人間としての存在の意味は何か、について考えさせられました。逆に言えば、このような知的な対話ができる人がどれほどそばにいるだろうか、そうも感じた次第です。