Run Through Tonight...
愛する町Yotsugiをグローバルにするため、
幼なじみ4人で結成されたハイパーメディアアーティスト集団
Yotsugi Busters
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10年ぶりに好きだった女性からのLine「セラピストのエミとの恋愛譚 完結編」 ~後編~
一瞬頭が真っ白になった。10年ぶりによこしたメッセージにしてはパンチが効き過ぎている。もともとエミはセラピーを学ぶ過程でヨガとか瞑想とかは熱心に勉強していたけどこれはその先に行っちゃてる感じだ。大聖者ってなんだよ?癒しの波動ってなんだよ?(殺意の波動は知ってるけど)久しぶりの再会にお互い清まってからパブというパワーワードもなかなかだ。
イギリスの彼氏のことをフリースピリットとか言ってたけどまさか10年の間に自分がスピリットの世界にいってしまうとは。急に会うのが怖くなってきた、ウキウキが絶望に変わった。道理でろくに連絡してなくて10年経過していきなり会おうとか言ってくるわけだ、ただのカルト宗教への勧誘に違いない。こういうのは当日エミだけで会っていたら途中から「ちょっと私の知り合いも渋谷にいるみたいだから呼んでもいい?」と言って二人くらいの男もしくはすらっとした美人がパンフレット片手に登場し宇宙の理とか訳のわからないことを言い出すに違いない。
とりあえず会うのは危険だ。日曜日のランチは早速キャンセルの電話を入れ、エミには「ちょっと土日に急な出張が入っちゃった」と適当に言っておいた。しかしながら、気になることもある。あのイギリスの彼のこともそうだがぶっちゃけそれはもうどうでもいい、どっちかというとエミがこんなカルト宗教にハマってしまった経緯の方がすこぶる気になりだした。いったい彼女に何があったのだろう?そういえばLineのやり取りの中に「私もあれから色々とあってさ、オハラと会わなくなって以降はまるでしくじり先生俺みたいになるな的な仕事でドッカンな出来事体験したり…」というメッセージがあったのを思い出した。「しくじり先生俺みたいになるな」ってフルタイトルでいう人は初めてだったからよっぽどのしくじりエピソードがあるんだろうと思ってそこが猛烈に気になりだしもうエミとの交わりとかラブホとかどうでもよくなってきた、というかこんな危ない女と関係を持ったら洗脳されて全財産を持っていかれそうな気がする。今時点でもう会わずに縁を切るかと思ったが、「しくじり先生俺みたいになるな」とかカルト宗教を匂わせたりとかなりハードルが上がっているエミの空白の10年間がどうしても気になったので、ランチに行かない代わりに金曜の夜に電話で話そうということにした。
そして、迎えた金曜の夜21時震える手でエミにLine通話をかけた。「久しぶり、元気?」エミの声は年齢よりは幼く少し甘えた感じで喋るその癖が昔からちっとも変わっていなかった。僕は警戒しながら「おお、元気だよ」と無難な言葉で会話をスタートさせた。まあまずはスパの仕事が大変そうだったけどあれからどうしたの?という切り口で聞いてみた。「なんかしくじり先生俺みたいになるなエピソードがあるんでしょ?フルタイトルで言う人初めてだよ笑」と僕が促すと「そうなの。でも私テレビ見ないからしくじり先生っていうのがよくわかんないんだけど旦那とかに聞いたら、そういう波乱万丈の人生エピソードの番組があるんでしょ?それ聞いて”私それ絶対出れる!俺みたいになるなって感じの波乱万丈だったもん!”って思ったの」と。さあ、どんどん自らハードルを上げているぞ、いったい何が彼女に起こったのだろう?僕はワクワクしながら「うんうん、聞かせて?そんな大変なことがあったの?」と聞くと「あれからさ~…」と彼女は口火を切った。
1時間後
「っていうことなのよ。まあ私も色々経験したし成長させてもらった感じかな」とようやく彼女がエピソードを締めくくった。1時間彼女は喋りっぱなしである。この時僕は思い出した、10年前も彼女が酒を飲みながら話すことは自分の仕事の愚痴や彼氏の話や過去の話、とにかく自分のことばかりで僕はいつも相槌で「うん」「へえ」「ほう」しか言っていなかった。そしてもう1つ思い出したのは彼女の話がつまらないということだ。
散々あんなにハードル上げ上げで1時間という長い尺をとった彼女の「しくじり先生俺みたいになるな」「波乱万丈」エピソードは簡単にいうと「同僚と反りが合わず最終的に仕事を辞めた」というだけだった。勘弁してもらいたい、こちらは数日前からこの話を聞くのをずっと楽しみにして今日は誰にも邪魔されないようにマンション共有部の静かなエントランスにモバイルルーターまで持参してレモンサワーも上等なのを2缶も用意して待っていたのだ。同僚と反りが合わず最終的に仕事を辞めた?それがしくじりエピソード?舐めるのもいいかげんにしやがれ!!そんなの誰でも経験しているわ!!そんなしょーもないエピソードを何を仰々しく箔押ししたハードカバーに「波乱万丈!!」の赤い帯をつけて最新刊コーナーに陳列してやがる?タイトル詐欺も甚だしい。
というよりよくこんなつまらない話を1時間も長尺に引き延ばせたなっていうのと僕も我慢して横槍入れずに聞いてられたなって感心した。簡単にいうと上述の通り「同僚と反りが合わず最終的に仕事を辞めた」なんだが、いらない描写や長回しのセリフが多すぎる。覚えている範囲で彼女の話を細かく説明するとスパで最初は3人のセラピストで頑張っていた。そのうちの一人のマミさんって人が実質セラピストのマネージャーポジションになったがかなり自己中な人で人のミスとかにガミガミいうのに自分も遅刻とか多いのにそれには目を瞑るタイプ。やがてセラピストも新人が入ってくるようになって部下ができるようになったのだがマネージャーのマミさんは部下に対しても怒鳴ったりガミガミうるさくいうようになってみんなから反感を買うことになった。そしてエミもこんなマネージャーの元で働きたくないしストレスも限界だったからこのスパの本社(イギリスが本社の外資系)の人事に手紙を書いたりメールしたりしたのだが結局濁され、最終的にスパの日本支部の偉い人が退職して、上のポジションが空いたもんだからマミさんが昇格してさらに権力を持ってしまった。同時期にエミは結婚出産で環境が変わったからそのまま退職した。
…これだけである。こんな3分で終わる話をエミは「いや、まさかあんなことになるとは…」とかどうでもいいカットインを入れたり「本部の偉い人に関根さんって人がいるんだけど」「イギリス本社の人事のクレアって人がいて…」とか登場回数が1回だけのモブキャラの名前まで全部キャプション入れてきたり「後輩が新しく2人入ってきて、サキさんって人とクミさんって人なんだけど。あ、でもこのサキさんって人は年齢は私より2つ上くらいの人だから後輩って呼べるほどでもないんだけど…」とか全く必要ない人物描写をとにかく入れてきて結果的に1時間の長尺になった。大体その「サキさんって人は年齢は私より2つ上くらいの人」って説明いるか?例えばその後輩が後々エミに対して「あんた、私より年下のくせにいばってんじゃねーよ」とか言って後輩と大喧嘩したとか設定が後でちゃんと活かされるならまだしも、サキさんもクミさんも一回登場したきり二度と出てこなかった。これがしくじりエピソード?しくじり先生を舐めるなと言いたい、こんな弱いエピソードで出れるほどあの番組は甘くないのだ。もっと会社の横領事件に巻き込まれたとかイギリス本社と海を跨いで大騒動を起こしたとか自分が起こした失敗のせいでスパの店舗がいくつか閉店に追い込まれてしまったとか規模の大きい話を想像していたが、こんな話はテレビで取り上げられるどころか書類選考で落ちる。
エミに昔イギリスで出会った当時は僕より年上の27歳くらいの綺麗な女性でずっと美容師でお金を貯めてイギリスに留学に来た立派な大人な女性だな~って思ったが今となってはこの人は結構な世間知らずなんじゃないかって気がしてきた。あの当時の僕は25歳で社会人経験もない海外で大学生活を送っていた甘ちゃんだったのは認める。でも、今となっては僕はもう5社くらい経験しているし結婚もしていてそれなりに社会で揉まれてきた。だから人間関係がキツくて会社を辞めたってことが波乱万丈とかテレビで取り上げられるレベルの話ではないことくらいわかる。エミは周りにそのことを突っ込んでくれる人がいなかったのか?そういえばエミは北海道出身で東京には知り合いがほとんどいないらしいから僕みたいなイエスマンとしかつるまないんだったらこうなってしまうか。
まあ特に広げようがない話だから「大変だったね」とだけ言って次の話題に移ろうとした。僕の近況報告を少しだけ伝えた。例のカルト宗教のことを警戒して僕は嘘のプロフィールを教えた。まだ独身ってことにして、住んでいるのは都内の新宿方面とだけ伝え、仕事は前に池袋で勤めていたときの仕事をまだやっている体で伝えた。「そうか彼女とかいないの?」と聞かれたので「いるよ(本当は奥さんだけど)」とだけ答えておいた。するとエミは「彼女かぁ…いいねえ、オハラも大きくなったんだね。私はほらもうお母さんだからさ旦那もいるし子供もいるし、そういうドキドキとかときめきはもういらないかな~」とか言い出した。僕はすかさず「そのセリフ10年前も同じこと言ってたよ」とつっこんでやった。過去のブログに書いてあるがイギリスの彼氏と付き合っている時に「そういうドキドキとかときめきはもういらない」と同じセリフを言っていたのである。
「え?私そんなこと言ってた?」
「言ってたよ、ほらイギリスの彼と付き合っていた時に」
「ああ、ダニー?」
だから人名言われても知らねーっつうの。「あの時言ったのはまあそういう意味ではなくて…」とかまた長い言い訳を始めた、相変わらず言い訳と綺麗事作る天才である。もう1つ思い出したことがあるエミはカテゴリー分けをして自分を少しでも大きく見せる癖があるんだ。例えば先の通り「私はお母さん」オハラは「気ままな独身」というふうに分けることで、自分はお母さんだから色々と炊事洗濯とか子供のこととか大変で暇じゃないのよその点あんたは気ままな独身でいいわねって感じで優位に立とうとする。イギリスに留学していたときもそうだった。「私は社会人経験者」オハラは「学生」と括りをつけて当時「社会って大変だよ、特に私なんて美容師だから失敗が許されないの。毎回が真剣勝負で…」とか今考えると意識高い系の大学生みたいに煙たがれるタイプだった。まあ「独身のお前は楽でいいよな」みたいに優位に立ったつもりだろうが本当は結婚しているから腹の底ではほくそ笑んでいたが。
イギリス人彼氏と付き合っていた当時のことを聞いてみようと思ったけど、エミはそのことを突っ込まれるとバツが悪いのかほとんど記憶がないという。まああの時は「彼は本物のフリースピリット」とか「彼以外ありえない」とか今思うとかなり恥ずかしい発言の数々があるから自然と記憶を塞いでしまったんだと思う。都合のいい女だ、しらばっくれても僕の記憶とこのブログにちゃんと全て記録してあるというのに。
「あ、そうそう日曜日は映画見にいくの」ついにきたか、カルト宗教の勧誘か?警戒しつつも「あの映画はなんなの?」と話を振ってみた。ここからまたエミのターンである、映画がどうかと聞いただけだが「これって私の瞑想の師匠が出ている映画でね、その瞑想っていうのが…」また長々と話し始めた。いよいよ話が胡散臭くなり、私たちは心のお掃除が必要なの、それで私たちの魂は本来は宇宙にあって現世を経験して最終的にその魂の源に帰っていくのね、それで…ととにかく止まらなかった。一切冗談っぽい含みはなく当たり前のことのように滔々とこの宇宙がとか魂がとかを至って真面目に説明されかなり困惑してしまった。電話だから顔が見えなかったが説明しながら瞳孔が開いていたかのようなテンションだった。
ヒマラヤでの壮絶な修行で悟りを開いた人とかなんで信じちゃうんだろう?大聖者様のありがたい映画で一般には公開していないとか言ってるけど当たり前だ、誰がみにいくんだよこんなの。「本当に神聖な映画で一般では見れないのね。それでチケットもどこで手に入るんだろうって思って、運営の人に問い合わせたらやっと手に入ったの」とか言っていたが神聖な映画なのに運営に電話してチケットくださいって言ったら売ってくれたって普通なことじゃないか。神聖な映画なんだから「これは瞑想上級者しか観賞を許されていません」とかならまだわかるけど3,000円払えば誰でも見れる映画じゃないか、まあ見たくないけど。
エミがこのカルトにハマったきっかけがある時この胡散臭い人の講演会を聞きに行ったのだという。エミ曰く「この人は本物だと思った」とのこと。講演会を聞いているときに一切の雑念が消えて心が浄化されたらしい、それでハマってしまったという。いつからハマり始めたのか知らないけどこれからエミはお布施をたくさんしていくんだろうな。それこそだんだん額がデカくなって金出せば出すほど瞑想の恩恵を得られるとか信じちゃって、最終的に旦那の稼ぎにも手を出してとか考えると旦那だけでなく特に子供がかわいそうに思えてきた。おそらく子供にも心のお掃除がとか宇宙がとか言って瞑想することを強要するんだろうな。旦那は今こんなカルトにハマっている奥さんに対してどう思っているんだろうかと気になる。「そんな変なことに参加するな!かねも使うな!」なんて言ったらどっぷりハマっている人は目をひん剥いて怒るだろうし。子供も小学校高学年くらいになればだんだん自分の親が変だと気がついてきて周りの友達からも「お前の母ちゃんって危ない人だろ」とか場合によってはいじめにも発展するだろう。
結果的に僕はエミに告白をしても付き合うことができなかったが付き合わなくて本当によかったと10年後の今になって実感している、ましてや結婚していたら自分の奥さんが変なカルト宗教みたいなのにハマっていたと思うとゾーッとする。エミはテレビも見ない、音楽も聞かない、映画も見ないし本も瞑想の本しか読まないし、芸術にも関心がないし、もちろんアニメやゲームも全く知らない、つまり趣味や教養が極端に狭いのだ。だから話がつまらないのは納得できる。そしてこういういかにも怪しい胡散臭いカルト宗教にもハマってしまうんだろう。映画とか見ていれば「我は悟りを開いたもの」とか言っている登場人物が出てきたらすぐに嘘だとわかるし、こんなやつには騙されないように気をつけようとかそんなうまい話があるわけないことくらい気づくはず。
10年前にスパでエミの施術を受けても取れなかった心の凝りが今ようやく解れたような気がする。これでいい、これが僕の10年以上抱き続けてきた恋慕から醒めた瞬間だった。恋は盲目とよくいうけど今このブログを読んでいる人の中で意中の人がいて「あの人と結ばれなかったら生きていけない」と思っている人がいたら一度冷静になってみることをおすすめする。僕も10年前はそうだったが今では本当にあの時どうにかならなくてよかったなと思う。むしろ一人の女性に固執せずいろんなまだ出会っていない女性とその後の10年で知り合ったことの方が人生で自分の大きな糧になったと本当に思う。エミは人間関係がうまく行かなくて仕事をやめたことをまるで世界の終わりのように騒ぎ立て、しまいにはカルト宗教にハマってしまったがその同じ10年間の間で僕は会社を5社も経験し薬事法違反や会社倒産の危機などのスリリングな経験もしたし、エミに見限りをつけて連絡を絶ったその半年後の2011年の終わりには人生初の彼女ができたり、ウィリーさんとコリドーの大冒険に繰り出してたくさんの女性と関係をもったりと一人の女性への執着を捨てて歩み出すことで本当に多くを経験できた。
「エミが幸せそうで何よりだよ」と僕は哀れみと一種の諦めがこもったような声で言うとエミは「まあね、私は自分が幸せとかそういう概念通り越してもう心が宇宙にあるような状態だからね、そこから俯瞰してみんなを見ているような感じだよ」と言った。なんだかエミのその増上慢な態度に腹が立ってきた。エミにもきっとスパの仕事とか育児とか色々とストレスはあったと思う、でも都合よく意識を宇宙に飛ばして全ての悩みを他人事にするなんてただの現実逃避だ。心の掃除がとか魂がとか宇宙がとかそんなの目の前の現実から目を背けているだけじゃないか、パンデミックで医療現場が逼迫されたりアベノミクスで一部の金持ちだけが成功して貧富の格差が著しく開いている現実も全部瞑想で解決するつもりか?君が偉そうに言ってることなどとっくに僕は気づいてるんだぜ?
「それじゃまた」と僕は電話を切った。すでに緩くなったレモンサワーの残りをぐいと一気に飲み干すと口いっぱいに酸味と苦味が広がり最後に遅れて仄かに柑橘の香りが鼻腔を抜けていった。
Fin
10年ぶりに好きだった女性からのLine「セラピストのエミとの恋愛譚 完結編」 ~前編~
どーも、オハラです。
夏も終わりですね。コロナもだんだん落ち着いてきましたがまだまだ気は抜けない状況ですね。冬場も手洗いは欠かさずに感染対策していきましょう。
さて、久しぶりに筆を取ってブログを書きます。というのもこのブログでも前に書いたが僕が昔好きだった女性からなんと10年ぶりに連絡が来たのだ。その女性はエミという女性でとある高級スパで働くセラピストだった。彼女と出会ったのは2008年のイギリス留学中で同じ語学学校に入ってきた女性だった。顔立ちが整っていて竹内結子さんに似ているはっきりとした目鼻立ちに白く透き通るような肌の女性で僕が今まで出会ったことがない(と言っても中高男子校だったから女性とほぼ出会いがなかったが)タイプの美人ですぐに惚れ込んでしまった。いつも彼女からは上品な柑橘系の香りがして、僕は彼女の香りが好きで今でも似たような香りの香水を嗅ぐとあの時のイギリス青春時代が蘇る。
留学が終わって2011年頃に日本で久しぶりに再開した時にはエミは東京のとある高級スパで働くセラピストになっていた。そのスパはイギリス発祥の環境や体に優しいちょっと高めなボディソープとか洗顔料とかを製造販売しているブランドで、2011年に日本でアロマセラピーを母体にしたリラクゼーションスパを新しくオープンしたのだがエミはその最初のセラピストに選ばれたのだ。エミはなんとタイミングのいいことにイギリスでアロマセラピーをcollegeで勉強して帰国したばっかりの時にこのスパのセラピスト募集というチャンスを掴んだのだ。最初のセラピストはたった3人でエミはその一人、エミ以外は日本でセラピストの経験があるプロであり、一方でエミはイギリスでアロマセラピーを学んで英語もある程度できるがセラピストとしては未経験、異例の採用だったと思う。
詳しいことは過去のブログを見てもらうとして、エミは北海道出身で東京にほぼ友達がいない。なので僕がよく彼女の飲みや買い物に付き合わされたりということがあったが当時の僕にとっては好きな女性からお呼ばれされるなんてこの上ないご褒美である。会うたびにどんどん彼女に惚れていったが当時彼女には結婚を前提として付き合っていた40後半のイギリス人彼氏がいた。そんな彼氏がいたのにそのスパにやってきた常連客の歯医者にエミは惚れ込み始め最終的にはその歯医者と付き合い始めた…。というところで僕はもう彼女から身を引くことを決めた、これ以上エミにアプローチしてもこの子を振り向かせるのは無理だなと悟って2011年7月を最後に彼女への連絡を断ち切った。
あれからちょうど10年、今から2週間前くらいに突然エミからLineがきたのだ。お互いに電話番号を変えていなかったからつながったらしくエミから「久しぶり!元気?イギリスでお世話になったエミです」みたいなハイテンションなメッセージが届いた。彼女のFacebookか何かであの歯医者と結婚して子供も授かったということはなんとなく知っていた。この謎なタイミングで僕にLineを送ってきてしかも今度ランチでも久しぶりに行こうよと打診してきた。まあ彼女も40歳だし子供も少し大きくなってきたし、歯医者の専業主婦として過ぎゆく毎日に飽きてしまい旦那にももう女として見られず夜の営みももう随分ご無沙汰になりだんだん自分の雌としての本能の消失に危機感を覚え始め、もう一度女の生の実感と性の快感を呼び覚ましてくれる存在そうだオハラなら私を好いているし10年経過した今も私でマスをかいているに違いないからやつを使ってもう一度あの快楽に溺れてみよう、ということで僕に打診をしたのだろう。まあ女性の性欲は40歳くらいから強くなるのはさまざまな研究から証明されているし僕はすぐに合点が入った。
僕はもう結婚をしてしまったがエミへの気持ちはずっと心の奥底にあったのは事実である。あのこにイギリスで出会ってからずっと彼女のその茶色の綺麗に透き通った瞳と甘く爽やかな柑橘系の香り、そして白い肌と唇に触れたくて思いこがれ何度も彼女と交わる様を思い浮かべながら股間にティッシュを当ててきた。彼女がスパでセラピストをやり始めた時も僕はお客さんとして何回かそのスパを受けにいった、一回¥15,000以上する高級スパだが彼女に施術してもらうだけでその価値は十分にあった。薄暗い部屋に案内されアロマが焚かれていてヒーリングミュージックが微かに流れる空間でベッドの上に寝かされて「それでは足の筋肉をほぐしていきますね」とクリームで僕の足に直接エミが触れる。そうして上半身に移動し彼女の細い指が僕の腹や胸を流木が岩の狭間をしなやかにすり抜けていくように移動すると僕の股間が微かに震えたのを今でも覚えている。ああ、僕はこうして大枚をはたかないとエミに触れてすらもらえないがイギリスの彼氏やその常連の歯医者は無料で彼女と肌を重ね合わせ互いの大事な所を愛撫しあったりしているのだと思うと胸が締め付けられる思いで、筋肉が解れるどころかどんどん僕の心と同じように凝り固まるばかりだった。
でも僕はこの時がいつか来るのではとずっと待っていた。付き合っていなくてもセックスはできる、僕とエミはイギリスで出会ってから不思議な縁でずっとつながっていることを思うと最終的にこうなることは必然であり最高のカタルシスである。僕は彼女とのランチの約束を快諾し、今度の日曜日に会おうという話になった。どうもその日はエミは午前中に映画を見にいく予定でそれが終わったら渋谷で会おうということになった。渋谷、僕がよく出会い系アプリで出会った女とよくいった町だ、ちょっと奥の路地に向かえばラブホテルが乱立しているから非常に攻めやすいエリアである。今でもラブホの場所は頭にインプットされているから何気なくそっちの方でランチを食らって昼から少し酒でも入れてやる、横並びの席を選んであえて近い距離を陣取りさりげなく肘が触れたり冗談でポンと肩を叩いたりしてスキンシップを嗜む。頼んでもいないのにエミは旦那が相手してくれない女として見てくれないとか愚痴を始めるはずだ、そして僕が「そんなことはないよ、エミは今でも魅力的だよ」と目を見ていってやればエミは瞳を潤ませながらそのまま接吻をしてくるだろう。40歳という年齢と飲酒からくる多少の口臭は我慢だ。そしてそのあとはスマートにドンキホーテ裏の通りへと誘導していき僕が昔よく利用していたあのラブホに連れて行けば僕の10年間抱き続けた大願がやっと叶う。
エミはせっかくのイギリス繋がりだからどこかイギリスパブみたいな所がいいとリクエストしてきた。渋谷にそれっぽい店があったのでテーブルを予約した。計画は完璧だ、あとは日曜日が来るのを待つのみ。僕はいい機会だから彼女にいろんなことを聞いてやろうと思った。前のブログに書いたが彼女はイギリスの彼氏にぞっこんの癖に歯医者に鞍替えしたりととにかくその時その時で言動が変わる。僕はあらかじめ下記のように質問リストを作っておいた。
・当時40後半だったイギリスの彼氏はどうなったの?
・そのイギリスの彼氏と結婚するんじゃなかったの?
・そのイギリスの彼は自分のことを本当にわかっていて裸の自分を知っているんじゃなかったの?
・イギリスの彼以外ありえないとか言ってなかったっけ?
・自分はもう日本人男性と付き合えない日本の男って奥手だしエスコートしてくれないしそれに比べてイギリスの彼はとか言ってなかったけ?
・イギリスの彼は40過ぎても会社には属していない自営業の大工みたいな仕事をしてお金があるわけじゃないけど彼は縛られない生き方をする本物のフリースピリットなのよ、私はそこに惚れたわとか言ってなかったけ?
・もっと遡るとイギリス語学学校在籍当初に当時20歳の違法パスポートで滞在している中国人と付き合ってなかったっけ?
と、こんな感じで最後のやつは蛇足だがとにかくあれだけイギリス彼以外ありえないとか、40過ぎてフリーターやっている彼を「本物のフリースピリット」とか言っちゃうくらいぞっこんだった男を振って今の歯医者に鞍替えした経緯について聞きたい。僕にはそれを聞く資格が十分あるなぜなら10年前にエミは会うたび会うたびにこのイギリス彼氏の話を散々聞かされていたからその顛末を全部聞くだけの権利が僕にはあるはずだ。特に先の「フリースピリット」の件は赤面必至だろう「私そんなこと言ってたんだ、恥ずかしー!」というリアクションが目に見える。
こうして久しぶりのときめきを感じ日曜日を心待ちにしている僕にまたしてもエミからLineがきた、あと三日もすれば会えるというのにエミはなんだか長文でLineをよこしてきたのだ。
そのメッセージの内容というのが下記の通りである。
「そういえば今度の日曜日に私が見る映画なんだけど、非公開のとても神聖な映画なんだ。
ヒマラヤで壮絶な修行をし、清め抜いて悟りを開き、人類の救済の為に今下界に降りてきたXXXXさんという人でね。大聖者様なの。
世界で二人しか下界には降りてきていないうちの一人でね。
癒しの波動が素晴らしいの(ハート)
その方のインドで撮影された特別な映画なんだ♪
広大な大自然と申請なヒマラヤに旅する気持ちでよかったら一緒に見れたら嬉しいなと。
朝から気持ちよくスタートしたくて(笑顔マーク)
久しぶりの再会にお互い清まってからパブもいいな!って思ったけど興味あったらぜひ。
次回の公開は未定と聞いてまーす。」
続く
2020年 総括03
おそらくこの会社は長くはないだろうと予想している。と言うのも、コロナでどの会社でも同じように売り上げが低迷していると思うがこの会社もまた然り。それだけでなくこの会社はUSはでかいと言うのが自慢で日本は弱小である。日本法人が設立からまだ5年くらいしか経過しておらず立ち上げだから仕方ないがずっと赤字続きなのだ。このコロナ渦において赤字続きのUSから見れば海の向こう側の小さい10人もいない日本支部をこのまま放っておくだろうか?USを守るために普通は事業を縮小しましてや赤字続きの日本支部は簡単にトカゲの尻尾切りされても仕方ないと僕は予想している。僕は外資系の怖さを知っている、突然「今月でうちの会社は倒産します」とか大胆なことを言うのだ。金融系や大きい企業になるとそれが顕著である。リーマンブラザーズの倒産の時にニュース映像を見るとみんな従業員が茶色段ボールのようなもの1箱に私物を詰め込んで会社から出ていく姿が映っていたがあれが海外の倒産した時の解雇の様子だ。従業員は箱を手渡され自分のデスクにある私物だけを入れて、カードキーや社員証をおいて出ていく。その荷物をまとめている間はずっと警備員が後ろで何か変なことをしないか見張っているのだ。これは顧客情報とか中には腹いせに何かやってやろうとやけになる人がいるからその防止策である。
まあうちの会社はそんなことまでしないと思うが、いきなり倒産は十分ありうる。僕は2016年に在職していた会社がとあるオランダの外資系企業の日本法人の営業代理店みたいなことをやっていたが、その時に僕が雇われてたった3ヶ月後にそのオランダ会社との契約を切られてしまった。2015年9月に僕は雇われ「これからオハラくんには稼いでもらうよ~」とか言われていたが2016年1月4日に出社したら「オランダ会社は大手に買収されることになりましたので、あとはよろしく」と言うメールが英語で飛んできてそれで終わり。ただし、この時は2016年6月から買収元の会社が全部仕切ることになっていたので6月までは不服だがその買収元へ簡単な引き継ぎ作業をしながらも仕事を続けた。あの時は不思議な気持ちだった、せっかく雇われたけど「6月で終わりか」と思いながらもオランダから出張で来た外人を連れて日本クライアントを訪問したりした。2016年の春先にフランス支社からきたフランス人男女2人を連れて京都や静岡の学会に参加した時がなぜかあの会社での思い出として今でも覚えている。フランス人男女はどちらも40手前くらいで男の方は白い肌に茶色混じりの金髪をワックスで立ち上げたクルーカットをしていて、陽気な楽しい人、女性の方は皺が目立つが40手前でもシュッとした体型を維持している少し小麦色の肌をした服装がおしゃれな女性でこれまたノリが良い面白い二人組だった。
今、NETFLIXで「エミリーin Paris」と言うドラマを見ているが、フランス人の働き方や生活に翻弄されるやり手の若いアメリカ女性エミリーを描いた女性向けドラマだが、なかなk面白い。フランス人は日本人と違って仕事は決して優先順位ではない、「食うために働いているだけ、働くために食っているわけじゃない」と言うのが彼らの生き方だ。だからバリバリ働こうとしているエミリーが彼らにとっては「俺たちの生活を乱すな」と言うことで邪魔者扱いを受ける。昔フランス人は昼飯に2時間かけるとか言われていたことがあるがそのドラマを見るとそれを本当にやっているし、お昼でも普通にワインを一本開けてみんなでゆったりとランチを楽しんでいる。東日本大震災の時に僕はとある会社で働いていたが、日本人は家族の安否よりも仕事の納期を心配していたのを覚えている。電車も止まっているのに自転車を購入してまで職場に行ったりとか僕はかなり異常に感じた。「地震の影響で作業ができません」と言えばいいじゃないか?むしろそれでクライアントが「いやそんなの知らねーから早く納品しろよ」とか言ってきたらそんな会社とは取引しなければいい、人命や安全よりも納期が優先な会社なんてこっちから願い下げだ。
閑話休題
フランス人二人組を引き連れて京都へそして静岡へと一緒に移動したが、時間がない朝にスタバが飲みたいとか言い出したりとにかくマイペースだった。印象的だったのは品川駅から京都まで新幹線で行こうとした当日の朝、フランス人女性は品川駅のあのぞろぞろと人が列をなして歩いている様子を物珍しそうに動画撮影していた。「何やってるの?」と聞くと「すごい異様な光景だから動画撮ったの。みんな一列になって同じ背広を着て無言で下を向きながら一方に向かって歩いていたから」と言っていた。確かに日本では通勤ラッシュは当たり前の光景だから疑問に思わなかったけど怖い光景だ。まるでBig Brotherによる監視社会みたいに余計なことを喋らず画一的に同じ格好と同じ行動を取ることを強いられているかのように。面白いのは日本人は別にそれを強要されていない、法律で罰せられるわけじゃないのにみんながみんな同じような行動をとる。日本は唯一成功した社会主義国と言われたことがあったが、その通りな気がする。
陽気なフランスコンビだったが仕事はちゃんとこなしていた。お客さんから聞かれたことに対して的確に答えていたし、外人が英語でプレゼンをやっているのは何か簡潔で様になっているというか引き込まれるものがある。静岡に着いた時は午前中がまるまる時間が余ったので僕が観光がてら浜松を案内してあげた。駅から浜松城まで歩いて案内してあげてその日は気温も高く天気も良い日で女性の方は花柄のワンピースにグラサンと言う完全にオフな格好で写真を撮ったり楽しんでいた。昼飯には日本を代表するファストフードのモスバーガーに連れて行ってあげた。フランス男性の方は食事の時に必ず水を頼む癖がありこのモスバーガーでも「水ください」と100円を出しながら店員に言っていたが「日本は水はタダだよ」と言うとすごく驚いていた。3日間に及ぶ外人を引き連れた出張で僕の顔にも少し疲れが出ていたのかモスバーガーを平げた後でこの二人が「オハラ、疲れただろう?あとは俺たち勝手に回っているからさ、君はホテルに帰って休みなよ」と急に優しさを見せ始めた。僕は素直にそのやさしさが嬉しかった。彼らはラフな格好しているが僕はずっとスーツを着ていたし、丁寧にどこにでもついてきてくれる僕を気遣ってくれたんだと思う。先のエミリーの話じゃないがフランス人からしたらずっとスーツで自分達についてきてくれる僕を働きすぎだと思ってくれたのかもしれない。「大丈夫だよ」と僕は笑って返した。その後も一緒にデパートを見てまわったりしたが、その中でビジュアル系ファッションを専門に扱っている服屋さんがあり「何これ?面白い」とフランス人の彼が中に入っていくと「うわー、これはだめだ」と非常に落胆した表情で僕にとある帽子を見せてきた。その帽子はいわゆるナチスの格好を模した帽子で鉤十字のマークが刻まれていた。フランスはナチスによって占領された歴史がありましてやナチスはヨーロッパではファッションにあしらって良いものではないのだ。「いやいや、ただのファッションだよ」と僕が言ったが「わかってるけどさ…」とさっきまでの陽気な様子から一転して一気にテンションが下がっていたのがすごい印象に残っている。日本もナチスと同盟組んでいたからフランス人からしたらそういう目で見られたりするのだろうか?
彼らが参加する静岡での講演会も無事に終わりその日の夜は打ち上げのためカラオケに行った。フランス人は歌うことよりも踊ることが好きで最終的に「Sex on the beach」とかクラブミュージックをリクエストして狭いカラオケルームで踊り狂っていた。22時をまわったくらいでカラオケを後にしてようやく僕は解放された、あとはこのフランスコンビは明日の朝には成田から帰国すると言うことで「それじゃ三日間ありがとね」と言うと女性の方が当たり前のように笑顔で両手を広げながら僕に近づいてきて抱擁をして、両頬くっつけてチュッチュとしてくれた。僕は嬉しくて疲れが一気に吹っ飛んだ。コロナで今は密着ができない世の中だが人同士のふれあいはとても大事だなと思う。この3ヶ月後には買収元が完全に業務を引き継ぎ僕のお役は御免だったがこの時の二人を連れて行った出張はなんだか今でも楽しい思い出として残っている。
閑話休題02
今の会社のことで気になるのが年末に突然古株の経理担当が退職したのだ。よく潰れる会社の特徴の1つに経理が突然退職すると言うのがある。経理は会社の懐を一番知っているから「この会社やばい」と言うことを察知するのが誰よりも早い。この会社の日本法人創立から5年間ずっといる人が急に辞めてしまった、なんかおかしい。さらにクライアントの1社から突然電話で「御社はアジア撤退するって本当ですか?」と言う電話が年末かかってきた。悪い噂が立ち始めると言うのも潰れる会社の特徴だ。そして最終的には海外のニュースサイトでこの会社のアジアビジネスを売却検討中か?みたいなニュースが流れてしまった。これに対してこの会社は特に何も言っていない。「最近こんな噂が出ているが、まあうまくやってくれ」みたいなメールは英語で回ってきたが、特にそれに対して日本社長からのコメントはない。社長の謎の外出が増えると言うのも潰れる会社の特徴だと聞いたことがあるがうちの日本社長もやたらテレワークが多いし、年末はほぼ出社していない。正直不安でいっぱいだ。
こんな感じでこの会社が存続するのも時間の問題だと思う。早くから転職活動を続けていたから一応他の社員よりかは先に動いているが僕ももう年齢も上だしあまり書類選考に通過することが多くない。面接も数回やったがなかなか採用までは漕ぎ着けることができていない。2019年まではどちらかというと人手不足だから転職する側に有利だということだったが今ではそれが逆転してしまった。誰も今のコロナを予測できなかったしこんなパニックに苛まれることを予測していない。そう考えるとテレビでズバズバ偉そうなことを言っている占い師ってどうなんだろうと思う、このことも予想して物を言ってもらいたいものだ。
・コロナによるいろんな変化
年収とかも条件をよく見て求人票を吟味しているが最近思うのは自分も含めコロナによって人々の価値観が大きく変わってしまったのではと言うこと。2020年に新卒の若者は入社したけどやることがないとか、内定を切られたとか、なんだかんだで2021年の新卒の大学生もどれくらいが仕事が決まっているんだろう?つくづく僕は2006年にイギリス留学に行っておいてよかったと思う。あの時「今しかできないし、今行かないと後悔すると思う」と今では絶交した友人に言ったが「俺の知り合いにもそう言って海外留学して結局何も身に付かないで帰ってきた人たくさんいるよ」とか否定的なことを言われたが、あの時に友人の言うことをそのまま鵜呑みにしていたら自分は一生イギリス留学はできなかったと思う。パンデミックなんて起きない、SFだと思っていたことが実際に起きてしまった。今の世の中、一寸先は何が起こるかわからないと言うことが証明されてしまった。いつこの騒動が収まるかまだ見通しはつかない、少なくとも2021年中に収まるとは思えない。従って、オリンピックも結局中止になるだろう。中止になった場合の経済損失は4兆5,151億円の見込みらしいからいよいよ日本経済が危ういことになるだろう。でも僕は中止するべきだと思う、むしろ早めに中止して舵取りして損失を最小限にするべきだと思う。そのオリンピックで使う予定だった金を少しでもこのコロナ対策に回すとか、命と経済を天秤に乗せるとある人は「経済優先」他方では「命が優先」と大きく分かれると思うが僕は完全に後者だ。先に述べた通り僕はフランス人の「食うために働いている、働くために食うわけじゃない」のマインドが好きだ。
今は旅行にも行けないし、高い洋服を買っても着ていく場所がないしましてや高いフランドのジュエリーを買ってもそれを見せる場所がないし、高級車を買うことも、女性を侍らせて豪遊することも全てができない状態。こんな時にお金の価値観というのは大きく変わっていくのではないかと思う。ちょっと前に若い人の〇〇離れとか言われて悟り世代とか揶揄されていたが、健康で質素な生活を送れればそれでいいと言う考えにだんだんみんな傾倒していくと思う。「2019年までは良かった。元の生活に戻りたい」と言うけど多分もう元に戻ることはできないと思う。このコロナを気をつけながらと言う生活が向こう何年も続くと思う。過去に戻るのではなく未来を生きないとだめだ、強制的に人々は少し先の未来の世界に時間を早回しされたんだと思う。リモートワークの推進、集まることではなくデジタルをフル活用したイベント、仮想現実を応用し自分がその場所にいくのではなくその場所が自分の元に来ると言う発想の転換。イギリス留学時代に世話になった友人が言っていたが「これからは誰もがスカイプなどを通じて話すようになり、実際に人に会うことがなくなるだろう。全てガジェットで事足りる時代がくる、唯一食べ物だけは転送することはできないから同じ食べ物がデリバリーで指定した時間に届くようになってオンラインで飲み会ができる時代が来るだろう」と言っていたがそれが現実のものとなってしまった。
これから生き抜くには新しい世界に迎合していく柔軟な心が必要だ。2年前までは「マスクをして接客なんて失礼だ」とか言っていた人がいたが今はマスクしない方が失礼だという考えが真逆の世界になっている。Iphoneは13年前の2007年に発売されたがたった10年で誰もがスマホを持つのが当たり前の世界になっている。時代は変化している世界も変化している気候も変動している、その全てがもう他人事じゃない。時代においていかれる人は近年の日本のようにガラパゴス化していくことを自覚するべきだ。
しかしながら、新しいものに触れそれを取捨選択するのは自分が判断しないと行けない。その時にあなたの哲学が問われる。今のような極限状態において経済を優先するか命を優先するかもまたあなたの哲学が問われる。あなたがどんな考えで今まで生きてきたか、あなたの価値観は、どんな映画をみてどんな芸術に触れたか、どんな文学を読み、どんな言葉に救われ、そしてどんな人に出会ってどんな体験を経て今の自分があるかが問われるのだ。コロナウイルスをChina Virusと呼称して一方的に中国を憎む運動にあなたも加担するのか?誰かのせいにしたりせず今のこの世界をより良くするにはどうすればいいのかと未来を考えるのか?よってたかってマイノリティな人種をマジョリティ側について一緒になって叩くのかそれとも勇気を持って大多数の間違った意見にNOと言う勇気を持つのか?
パンデミックによってより個が強調される時代になったと思う。集まることが少ないから自分で何かを考え、自分で何かを発信していかないと行けない。2021年、あなたはどのようにして生きていくか?
Fin
2020年 総括02
・仕事の不満
前の記事で少し触れて中途半端に終わっていたが、2019年の6月から僕は新しい仕事についた。
前の職場は決して悪くはなかった、某大手外資系の日用品メーカーに出向してそこで商品パッケージの印刷管理をするというかなり特殊な仕事をやっていた。海外のビジネスモデルでPrint Managementと呼ばれる仕事である。
簡単にいうとクライアントがパッケージ印刷とか販促物の印刷とかの取りまとめや印刷会社とのやりとりが面倒くさいからそれを全部うちが代わりに引き受けますと、しかも常に御社に駐在して印刷のことならなんでも面倒見ますよという仕事だ。このポジションは英語ができて何より印刷知識がないとだめという募集要項だった、僕は英語はできるが印刷知識はない。それでも一応イラレとか使えますとかイギリスにグラフィックデザイン留学してましたとかアピールしまくってなんとか雇われた。
配属されたチームは僕の他に2人年上の先輩がいて二人とも印刷関係の仕事出身だったので僕に印刷のことを1から教えてくれた。印刷はCMYKでするものという超初歩知識しかなかった僕にオフセット印刷の仕組みや特色のことや印刷に使う色の数の縛りなど様々なことを教えてくれた。その代わりに僕はこの二人を英語でサポートした。二人とも英語が得意ではなく文章が読めるけど自分が英文を作るのが苦手、喋るのも苦手というタイプだった。ほとんどの人がそうだと思う。こと英語においては「言ってることはなんとなくわかるけど、なんて言い返せば良いかな?」という人がほとんどだろう。そういう時は中学生英語を思い出せばいい、単純な「私はラーメンを食べた」とかの文をすらっと言えるだけで十分。現在完了とかは慣れるまで全く使う必要なし、全部過去形で置き換えて話せばいい。その短文ですらっと言い返せることになれたら少し付け足して文章を面白くすればいい。「I ate noodle」から「I ate delicious noodle yesterday」とすれば「delicious」と「yesterday」の2単語追加するだけでより詳細で面白い文章を作れる。「sometimes」とか「often」とか結構中学生の早い段階で覚えるけど慣れるまで使う必要なし。「I go to gym」の言い方になれたなら「I go to gym often」にするだけで頻度まで伝えることができる。こうやって少しずつなれていけばいい。
閑話休題
2人の先輩はgoogle翻訳を使って海外メンバーと連絡を取り合っていたが、どうしても長い文章や細かいところを説明するのにはそれなりに文章と単語力が必要になるそういう時に僕がサポートをして、その代わりに印刷の知識を教えてもらうという持ちつ持たれつのいい関係だった。そして何より自分が好きなパッケージデザインの印刷に携われるということでとても充実していた。しかしながら2018年の後期から結婚を意識し始めていて2019年には交際していた彼女にプロポーズしようと考えていた僕はだんだんとこのままの給料で大丈夫なのかとという不安を覚えていた。当時の年収はボーナス入れなければ480万くらいだった。ボーナス入れると520万くらいだが2019年あけて毎年もらえていたボーナスが0だった。海外拠点の業績が悪かったとかなんとかの理由でカットされたがちょうどお金のことを心配していた僕にとってこの出来事は衝撃で「どうせ来年も同じ理由でカットするんだろう」とか色々と邪推してしまい僕は一気に転職活動にギアを入れて数社の面接を受けに行った。その中の1つが現職の会社である。
面接では「あなたの印刷管理の経験がいかせます」とか「英語も頻繁に使うのであなたのように英会話できる人を探してました」ということで僕は雇われた。オファーはボーナス含めれば600万以上になり、ボーナス入れなくても540万くらいの年収だった。この給料に関しては自分の狙い通りだった。しかし、職務内容については全く納得が行ってない。結果的にこの転職は年収が上がったということ以外は失敗だったとかなり後悔している。というのも営業とはどこにも求人に書いてなかったが結果的に仕事内容は営業なのである。「営業ではないですよ。現在やられているような印刷管理の仕事でしかも外資系なので、まさにオハラさんのような人を探していました。存分にそのスキル経験を活かせます」と面接では言われていたが正直いうとこの仕事は印刷の知識がほとんど必要ない。前職で先輩に教わったように特色インクを追加するとか色数の制限とサンプルが出てきたらその色がちゃんと色見本とあっているかとかそういう作業は皆無で、クライアントがリーフレットを20,000枚作りたいからどの印刷会社が一番安くて早いかを探してきてそこに発注をかけてマージンを乗せて見積もりを出して納品されるまでのスケジュールを管理して請求書出して入金確認。この仕事をいかにたくさんとってくるかがミッション。月々の売り上げ目標、年間の売り上げ目標、定期的な顧客訪問、月一の営業会議…営業会議?やっぱり営業じゃねーか。そういえば出社初日に「はい営業さんはこちらの机でーす」と案内された時点で「え、営業?」と固まってしまったのを覚えている。
後日このことをもちろん転職エージェントにも言ったし、社長にも言った。「あのー、僕営業職につくつもりはなかったんですが、現に前職が営業じゃないし…」と相談したがその社長は「自分の考える営業とオハラくんの考える営業の認識が違かった」とかお茶を濁された。実をいうと面接を受けて内定をもらった後でわかったのだが、僕の前職の社員の中にこの会社で数ヶ月働いていた人がいたらしく、退職することを前の職場の朝礼で僕が公表した後でその人が「オハラさん、〇〇に転職するんですか?」とこっそり話をしてきた。この人によるとその会社で酷い目にあったらしく「営業じゃないと言われたけどバリバリの営業を任されて、しかも新規開拓とかもやらされて、仕事ができないとパワハラされて…」ということを聞かされていた。内定決まったばかりなのに嫌なことを言うやろうだなと思ったけど、結果的にこの人の言うことが当たってしまった。この人も入る前は「営業ではない」と聞かされていたらしく入ってみたら売り上げがどうのとか仕事をもっととってこいとかそう言うことに追われる日々に耐えきれず数ヶ月で辞めてしまったらしい。なんだかんだで僕はもうこの会社で一年半働いているがどうやら僕が入る前にも何人かこのポジションに人がいたらしいがみんな数ヶ月で退職していて僕のように一年以上持っている人は実に3年ぶりぐらいらしい。
仕事の内容はブラック会社ではない。夜中まで働かされるとか明らかにきついノルマを課せられるとかはない。でも、この会社は日本法人が設立されたのが5年前くらいだから何もかもがハリボテで作られているような業務ばかりなのだ。ワークフローが確立されておらず、その場その場の担当者の匙加減で決めて進めたり「こういう時はこうしよう」と言うマニュアル的なものも皆無で全部自分の匙加減で決めて進めることが要求される。リーフレットの同じデザインの増刷を発注するくらいならいいが、それだけじゃなく売り上げのためになんでもやると言うスタンスでダイレクトメールの郵便サービスとか埼玉の倉庫と契約してそこにクライアントの販促物を保管して注文アプリ見たいなものを運用してその使い方サポートや在庫管理を担当したり、webに精通している人が一人もいないのにwebsite更新業務も引き受けたり、しまいにはコロナに便乗して検温機付き顔認証システムの導入仲介ビジネスをやろうとか、ここまで読めばわかると思うが印刷に全く関係しないビジネスをやっているのである。印刷知識を使うとか僕の経験が活かせるとか言っていたが、印刷の仕事は先に述べたようなリーフレットの印刷を受注、しかも同じデザインの単なる増刷でしかないから印刷知識は全く不要。さらには、英語を使う仕事と言われたが一年半務めて英語で話をした機会が3回くらいしかなく英語のメールも前職では毎日当たり前のように書いていたが今は週に数回程度。これについてもエージェントや上司に相談したことがあるが「じゃあ、そう言う前職でやっていたような仕事を自分がとってくればいいんだよ」と言われた、んなアホな。
この仕事、なんでも自分で決めたい、なんでもやりたいと言う人には打って付けかもしれない。いわゆる新規で仕事をとってきてその導入のための打ち合わせ、ベンダーとの連携、そして導入して軌道に乗るまでの根気強い運用をやるところまで一気通貫でやりたいと言う人ならいいかもしれない、しかも従業員少ないから主に一人でやることになる。でも自分はその類ではない。僕は新規開拓をしたいわけじゃないし、どっちかというと「仕事」がちゃんとあってそれをやってもらうために求人を出して入社してもらう、と言うのが僕の思う就業の概念だ。1から仕事を作るのはどっちかという経営者側の仕事じゃないか?それを入社一年もしてない人間になぜ任せる?発想が飛躍してしまうが今の仕事を例えると「板とかをつなぎ合わせてなんとか作った船があるからオハラくんにはそれで海を進んでもらう。目的地はどこでもいいよ、とにかく前に進んでくれれば。新大陸発見してくれても全然OKよ。あと、この用意した船も別にオハラくんに知識があるなら改造してもらうなりお金出して良いやつレンタルしてきてもいいし、なんなら船じゃなくてもいいよ、とにかく前に進んでくれれば。んじゃ、よろしく!(ウィンク)」と言われてるような感じだ。
と言う感じで全く自分のやりたかったことと乖離してしまっている。「給料上がったんだからいいじゃん」と思うかもしれないが、最初は僕もそう自分に言い聞かせていたがそれにも限界がある。シェフをやっていた人が別のレストランに転職して自慢の腕を振るいたいのにずっとウェイターとか調理器具のメンテナンスやらされているような状態だ。2020年はコロナによってその仕事もかなりスローになってしまって、暇といえば暇だがこう言う時に営業のポジションにいる人は「コロナでもできる仕事をとってこい」と言われるのが世の常。しまいには同僚の女がことあるごとに僕の仕事にいちゃもんをつけてくるモンだからそのせいで常にストレスがマックスである。この女のことはいつか別の記事で書いてやろうかと思うが簡単に言うとクレーマーである。僕がとってきた仕事にいちいち細かいツッコミを入れ、最終的には「明日地球が終わったらどうするんですか?」とか言い出しそうなくらいとにかく「なんで?どうして?意味は?」とかしまいには自分の気分次第でこちらの振った仕事を拒んだりするので手に負えない。明らかに反抗的で攻撃的なメールを返信してきたりととにかく「どうしてそこまで非情になれるの?」と思うくらい非協力的な女だ。おそらく僕が嫌いなんだと思う。
こんな感じで中年人生の要である仕事がぜんぜん充実しておらず、2020年の初旬からずっと転職活動を続けているが、コロナの影響もありそれも難航している。
続く
2020年 総括01
どーも、オハラです。
2020年も終わりに近づいてきました。
久しくブログを更新してませんでしたが、この辺で今年の締め括りに2020年のまとめを書いてみようと思います。
まず、今年はみなさんご存知のように新型コロナウイルスの影響でほとんどの人たちが何もできずに終わった一年だったと思います。もちろん僕もかなり行動が制限された一年でした。
取り急ぎ僕はまだコロナウイルスには感染していません。外出は極力避けていますが、それでも盟友ウィリーさんとツバメグリルで牡蠣のオーブン焼きを食べに行ったり、嫁と時々外で食べたりするくらいで、ひっそりと暮らしています。
さて今年はどんな一年だったかを項目に分けて振り返ってみようと思います。
・結婚式をあげた
プライベートでは去年に嫁と入籍して本来だったら今年の4月にやる予定だった結婚式が10月に延期したことが言ってみれば今年の一番の出来事ですね。結婚式を無事に終えた時点で僕の今年の大仕事はもう終わった感じです。本当に色々とすったもんだがありました。
というのも嫁のリクエストで「結婚式は出雲大社でやりたい」と言い出したので僕も「いいよ」と簡単に返事をしてしまったのが運の尽きだった。もともと嫁の実家は島根にあって、島根といえば出雲大社だからそこでやりたいということ。ただでさえ結婚式は準備とか色々と面倒ということは聞いていたがまさか遠方で結婚式を企画しないといけないというかなりハードルがアゲアゲなイベントに挑戦することになってしまったわけだが、いやー本当に大変だった。
出雲大社は大きく分けて本殿で上げる場合と北島会館というちょっと傍の方でこじんまりやるパターンの二種類がある。我々は呼ぶゲストも少なく身内だけでやる予定だったので北島会館の方を選んだ。出雲大社では写真屋さんとか衣装屋さんは指定されているからここは選ぶ必要ないし相見積もりをとる必要もない。そこは楽でいいところ。
ただし、現地調査とか打ち合わせで最低2回は出雲大社に直接行く必要がある。ここでまずお金がかかるのが難点。そして、一番大変なのがゲストである。
幸いにも嫁の方は島根出身だから嫁側は当日現地集合でOKだったが僕の方は東京からお招きして前日入りしてホテルを予約しないといけない。出雲大社のすぐ目の前に「月夜のうさぎ」というできたばかりのきれいなホテルがあるのでそこを12人くらいの団体で抑えた。ホテル予約と飛行機代だけで合計80万くらいはかかる。ちなみに出雲大社には初穂料として5万円を奉納すれば、極論を言えばこれで式はあげられるが、当日のカメラマンや披露宴会場代や食事代やスタッフ手配などはもちろん別料金。先の80万円と合わせて合計でなんだかんだ200万はかかったが、ゲストからのご祝儀で6割くらいは回収できた。
これを4月に予約してそしてコロナの影響で延期になったのでキャンセルして10月に予約し直してとかのやりとりがめちゃくちゃ大変だった。こういう時は旦那である僕が率先してExcelにゲストリストみたいなものを作ってとか管理をがんばったが、ややこしい。まあ、本来ならこういうのは結婚式のエージェントみたいなのがいてそこがマージン取る代わりに全部スケジュール管理とかしてくれたりするのかもしれないが、如何せん僕は全部自分で連絡して管理してとがんばった、「お前もなんかやれよ」と嫁に言いたいのを抑え、嫁の願いをかなえるために頑張る自分は立派だなと思った。
席札は自分たちで作ろうとかウェルカムボードを作ろうとか色々とアイデアを出してくれるのはいいがそれらを制作するのは全て僕の役目である。さらに嫁は結構横着な正確なのでこちらが「そろそろ準備しよう」と言わないと基本動かないのだ。当日の式の司会も本来は会場が手配するらしいのだが僕は自分でやることにした。全部自分で台本を考え「昨今のころなウィルスにより一度は延期となりましたが、こうして皆様にお会いできて誠に嬉しく思います」みたいな時事ネタを盛り込みつつ自分でセリフを考え、それを全部暗記した。もちろん嫁のセリフは皆無で全部僕が暗記して進行をする。結婚式前日まで家で何度も練習をしている僕に「そこのセリフ変えた方が良くない?」と前日になって言い出すのに怒りをあらわにすることなく「ああ、そうだね」とさらっと受け流す。自分が喧嘩っ早い性格とかじゃなくて本当によかったと思った。今の夫婦生活がなんとかうまく行ってるのは嫁がヒステリーな性格でないのと僕が平和主義だからだと思う。
結婚式当日は天候にも恵まれて10月の秋晴れの中、八百万の神々に見守られながら式を執り行った。当日は僕の見事な司会ぶりに両親並びに親族一同が目を丸くしただただ驚くばかりで誰一人涙を流すことなく余興を兼ねた企業セミナーに参加したかのような充実感を覚えてそれぞれの帰路についた。出雲大社から出雲縁結び空港までのマイクロバスの中、オレンジからライラック色の綺麗なグラデーションを夕暮れの空をぼーっと眺めながら結婚式を無事に終えた達成感とこれからコロナウィルスによるパニックで自分の結婚生活はどうなってしまうのかというなんとも言えない不安を覚えていた。
・子作りを始めた
こうして嫁の願いは往々にして叶えてやった。婚約指輪にはブルガリの指輪が欲しい、一緒に住む場所は高田馬場がいい(東京の東側に住むのは論外)、結婚式は出雲大社でやりたいなど全部現実のものとなった。唯一叶えられなかったのが新婚旅行にマルタ島に行きたいということ。このコロナ渦ではさすがに新婚旅行に連れて行くのはもう無理だ。子供ができる前に二人だけの最後の思い出を作りたかったがもう仕方がない。少し子供が大きくなったら行こう、それか60過ぎてから行くのでも悪くはないだろう。
ということでもう新婚旅行はお預けと考えた我々は子作りを始めることにした。小生はもう37歳、嫁は34歳である。日本では昔は25歳くらいが結婚適齢期とか言われていたが晩婚化が進んで今ではそんな若い時に結婚する人の方が少数派である。子供を作ることを考えると若い方が確かに体力や出産におけるリスクも低いかもしれないが、最近では40歳でも元気な赤ちゃんを産んでいる人がたくさんいるし、そもそもヨーロッパでは40歳くらいまでなら子作りは問題ないと考えれているらしい。
そんなこんなで結婚式が終わった10月あたりから子作りを始めた、つまり夜の営みが拳サポをつけた寸止めからフルコンタクトに移行したのである。僕は今までフルコンタクトでやったことは3回くらいしかない。25歳の時にイギリス留学中に知り合った23歳の日本人語学留学生「K」と筆下ろしを経験したが、その時がフルコンタクトだった、つまり初の実践がフルコンタクトというかなりストロングスタイルである。もちろんフィニッシュは外に出してはいたが今考えると試合の経験が25年間全くなかったのにフルコンタクトで戦ったのはかなり無謀だったと思う。でも今でもあの時のKとのファイトは思い出して想像するだけで自慰ができるくらい淡い思い出となっている。お互いに異国の地で言語と文化の違いから来るストレスと冬の寒さと暗さからの孤独感から自然と人肌を求める人間の本能が剥き出しになった官能的であり原始人間的な結びつきだった。外はマイナスに近い漆黒の闇が広がる大英帝国の南の小さな田舎の汚い部屋で布団をかぶって裸で抱き合うと人間の温もりを感じると同時に快楽の神経が刺激され背中の中心からゾワっと全身に鳥肌が立ち広がるのがわかりその瞬間だけ全ての孤独、ストレス、不安を忘れることができた。Kには当時、日本に彼氏がいた。でも半年という長い期間の異国の冬の生活から人肌を求め僕と肌を重ねたのだ。お互いにこの関係はこのイギリスにいる間のみの期間限定だとどこかで認識していた。
それからというもの僕は2012年に人生初の彼女ができてそこからまた試合をするのだがもちろんその時は拳サポをつけていた。しかしながらこの女性と付き合い1年記念日の時に拳サポが破損するくらいの激しい戦いをしてしまい結果的にフルコンタクトでフィニッシュしてしまった。これがきっかけでこの女性とは結局別れてしまい、それ以降は拳サポをして試合に臨んでも「破損しないかな」と恐れながらの戦いだったのでフルコンタクトでやることに抵抗があった。そして、今年の10月からフルコンタクトでの試合を開始したが最初は何かえも言われぬ緊張があった。おそらく子作りを始めた男性の多くが思ったことだろうが、それまでは彼女や不特定多数の女性と試合をした際には快楽を目的に拳サポをはめてことに及んでいたのでいざ子供を作ろうという目的でことに及ぶと妙な緊張感が過ぎる。フィニッシュする直前に「いいのか?後戻りできないぞ」と脳裏に浮かぶが体はもう止められずそのままフィニッシュをするが10月に初めてフルコンタクトをした時は終わった後に何だか遠い目で色々と考えてしまい寝つきが悪かったのを覚えている。
よく父親や母親になることに不安を覚える人が多いというがこの辺の男性がフルコンタクトで行うことの複雑な心情にフォーカスすることはあまりないだろう。しかも自分はもともと拳サポをつけていても試合時間が短く、フルコンタクトとなると開始からものの60秒で残り時間僅かを告げる巾着袋が投げ込まれるので、夜の営みとはよく言ったもので作業に近いものになって行く。「彼女」として付き合っている時は互いに家も離れていて、デート場所に待ち合わせるので彼女も顔面に化粧を施し着飾って登場するが夫婦になって一緒に暮らすとむしろスッピンで部屋着でいる時間を眺める方が多くなり色気を帯びている時間が圧倒的に少なくなる。部屋着と言っても女性ライフスタイルマガジンで見るような「理想の柔らかボディ」特集で田中みなみさんが来ているような胸元緩めの無防備スタイルではなく、丸首トレーナーにジャージという違う意味の無防備スタイルでソファや布団にずっとの転がっている。しかもどうも女性は眼鏡にこだわりがないようでコンタクトを外した後に着用する眼鏡がすこぶるダサいのである。男性は僕もそうだが眼鏡に少なからずこだわりがありバディ・ホリーみたいな黒縁メガネとか昔の文豪が描けるようなまん丸の眼鏡とかこだわりがあるが嫁の眼鏡は教頭先生がかけているような眼鏡で全然オシャレ感がない。
このようなことからだんだんと生物学的に色気を感じる時間がどんどん短くなって行くので、試合に及ぶ機会も減ってくるのである。現に去年の9月から一緒に住み始めて試合に及ぶペースは月に1~2回である。日本人は夫婦間の営みが少ないとよく言われているがその通りだなと実感している。しかも戦いの始まりは大抵が土曜日の夜に歯も磨いて風呂も入って電気消して寝床に入って10分くらいしたらこちらからそそっと布団に入っていき、胸を触り初めるところから入って行くのがいつもの流れである。暗闇で前述の通りジャージ姿でスッピン(暗闇だから実際顔は見えないが)という状態での戦いだから色気も官能的な状況もなくただただ「営み」と化して行くのである。何とか自分としては工夫を凝らそうと考えて「コスプレをしてくれ」とか「一緒に風呂に入ろう」と提案をするがほぼ却下される。僕の誕生日とクリスマスの日だけプレゼントを所望する代わりにコスプレをしてくれるという年に2回だけいつもより興奮するイベントがあるがそれ以外は先の通り暗闇デスマッチである。
子作りには夜の営みが不可欠である。どっちかがきっかけを作ったりしないと事には及ばないのでそこはお互いの協力が大事でいつも男から仕掛けないといけないというルールはない、というか毎度言っているがそういう時だけ「男のくせに」とか「女の子だから~」とかいうのが僕は大嫌いだ。女だけでなく男もいないと子供は作れない、女の方も少しは協力してセクシーな下着を購入して迫ってみるとか互いに協力することが大切だ。「今日排卵日だからよろしく」と夫に告げるだけで何を楽しようとしているのだ?お笑い向上委員会見ながらそんなこと言われてもこの後こっちはどうすればいいのだ?女性特有の日とかその日のコンディションなどあるからなかなか男の方から戦いに持っていっても「ごめん今日はだめ」と言われて戦意喪失することが多々あるが、こちとら誘われればいつでも応じてやるだけの雄度はまだたぎっている。いつ何時俺は誰の挑戦でも受けるという猪木イズムで臨戦態勢でいるのだからいつでも誘惑してくればいいじゃないか。ましてや一日一回寝る前にしか歯を磨かないなんて論外なのである。接吻というジャブから入って戦いは始まるのだ。それなのに寝起きの菌が充満している口腔内をそのまま引きずり朝食のパンを食べて、昼食のニンニクの効いたパスタを食し、そのまま夕飯のちょっと高い寿司も食べて散々歯垢がこびりついたほぼ尿臭に近い状態で官能的な雰囲気が生まれるわけもない。
世の女性たちに心から願うことは1日3回きっちり歯を磨いて清潔にしていないと子作りの機会もどんどんと逃げて行くことを覚えておいて欲しい。
続く
2019年を振り返って007
2019年7月 懊悩編
エージェントは僕が不安に思っていることを社長に伝えると言ってくれた。もちろん角が立たないような言い方で伝えると。そして、程なくして僕はその社長に「時間ある?」と別室で面談をすることになった。「どうした?なんか不安に思っているのか?」と聞かれ僕は全部吐き出した。正直自分の思っている仕事と違った、自分はもっと前職で培った印刷知識とかそういうのをフルに活かして仕事をすると思ってたとか。社長は親身になって話を聞いてくれたがここはうまく逃げられた気がしたというのも「営業じゃないですよね?」と僕が入社めに確認したときに「違う」と社長は言ったが「私の考える営業とオハラくんの考えている営業に違いがあるようだ」と逃げられた。営業は営業だろう、現に営業さんと呼ばれているし。2時間ほど、この社長の口臭に耐えながら議論を続けたが「分からないことがあったら全面的にサポートするから」ということで話は終わった。
自分のやりたい仕事ではないがブラック会社ではなかった。僕が1社目に経験した毎日終電とか土日も出社しないといけないとかはなく、普段は19時には上がれる。仰々しく天井が高いオフィスエントランスを抜けて外に出ると冷房で冷えた体を7月の熱気が一気に温めてくれた。19時とはいえ日が長くなりビルから出て目の前にそびえる東京駅の近代的な建物のシルエットが夕暮れの空に映えて夏の開放的な空気と東京駅というビジネスの中心街の雰囲気が一瞬だけ自分にビジネスマンとしてのステータスがついたような気分にしてくれた。東京駅の目の前には期間限定でオープンテラスのビアガーデンみたいな場所があり、たまには一人でビールでも飲んでから帰ろうと思った。クラフトビールを頼んでロハスを意識している木製のテーブルに腰を下ろして乾いた喉を潤した。喉をクラフトビールの独特な柑橘系の香りと清涼感が通り抜け疲れた体に染み渡った。よく考えてみれば自分は不器用ながらも前に進んでいるのかもしれない、考えてみればイギリス留学から帰ってきて2011年に初めて27歳で社会人デビューした、その時は世間知らずでデザイナーになりたかったからとりあえずDTPの会社からキャリアを積もうと始めたが家には帰れないし土日もいつ呼び出しがあるか怯えながら過ごすという最悪な会社に入った。その時の年収は240万ギリギリ行ったかどうか。あまりの辛さに半年で辞めてしまったが、やめるときに「ウチでやっていけないならオハラくんはどこ行っても無理だと思うよ」と上司に嫌味を言われた。あれから8年が経過して今の僕の年収は600万になった。あの会社の人とは連絡を一切とってないが僕が今やあの上司の年収より上を行っていると思うと僕はちょっとずつだけど前に進んできたんだなと過去から現在の自分を確かめるようにしてビールを一口ずつゴクリゴクリと飲み込んだ。年収は上がった、でも仕事内容はどうかと言われると「営業やりたい訳ではないんだけどな」と常にため息が出る。正直まだこの時点で1ヶ月だが前の職場に戻りたい気持ちが強まっていた。
前の仕事は嫌いではなかった。むしろイギリスにグラフィックデザイン留学した僕にとってパッケージデザインという商材に関わりさらに英語もいかせた仕事なので持てるスキルを存分に活かすことができた仕事だった。辞める時も社内よりもどっちかというとクライアントや印刷のやりとりをする印刷会社の営業さんにすごく惜しまれた。ボーナスを全面カットという強硬手段に嫌気がさして飛び出してしまった感じだ。しかも前の会社も外資系で日本の社長とそのやり方が気に入らなかった。前の会社の社長は女性である。50丁度くらいの年齢だが、見た目は細くて若々しく見える。関西出身でノリが完全に関西のそれである。声が愛らしく、しゃべり方もなんかわざとらしい、例えるなら90年後期の一般路線ではあまり勝負できず、若手お笑いコンビが体当たり企画や街ブラロケなど1クールで終わる瞬間最高視聴率を獲得する為にあえて深夜0:55という中途半端な時間から開始する30分番組などで野郎二人だけじゃ花がないからと激安な出演料で時々ゲストとして呼ばれて、その舌足らず気味で「こんぐらちゅれーしょん!!」みたいな大げさな日本人発音英単語を会話の端々に織り交ぜながら、終始宙に浮いたような天然かつカマトトぶった態度で、ごくごく一部の声優やアニメ、アイドルオタクから微細な支持を得て、文化放送で土日の人気アニラジ時間枠ではなく時間が余って、次に売り出したいアイドルとの出演契約が成立するまでの間の完全な穴埋めの為に拵えられたリスナー獲得が難しい月曜の23:00の30分というナイターが延長したら真っ先に削除リストに勘定される、自身のイメージを彷彿とさせる菓子類や甘味またはふんわりなどの角の丸いフレーズを冠したラテ欄に全部入りきるはずがないふざけたタイトルの番組を任されるも全7回で終了。メジャーなアイドルファン層を獲得できないからと仕方なしに自身の愛らしいしゃべり方と声がアニメや声優ファン層なら可能性があると見込んだ事務所の意向で萌えアニメやゲームの巡業イベントなどにアシスタントMCとして参加させられるも結局芽が出ず20代後半になって一切アイドルの仕事は入ってこなくなり、なんとか業界のツテで入れたもらった名の知れない劇団で童顔を活かしてかなり無理のある女子高生の役などを派遣登録バイトの傍でいくつかこなし、31歳頃から急激に酒量が増え自律神経が不安定になり泣く泣く田舎に帰って以後不明、みたいな感じの社長である。
簡単にいうと頼りない社長だった。完全に雇われ社長みたいな感じでこの会社の日本オフィスが立ち上がった時からずっと頑張ってきた人なのだが、もちろん色々と大変なことはいっぱいあったと思うのだがイマイチ社長という感じがしない。会社の為の英断を下してきたとかそういう感じが全く感じられない。先に述べたとおりの飄々とした舌ったらずな感じのしゃべり方とノリで、一見して楽しそうな会社に思えるが一事が万事この調子だと、こういうボーナスが削除された時などのシリアスな事態に陥った時に普段のあの飄々さが頭をよぎって、普段のあの感じはもしかして俺たちをナメくさっていたんじゃないのか?と邪推してしまって余計に会社に不満を覚えると同時に普段があんな感じだからこういう時に全く頼りなく感じる。一応何とかしてもらえるように本社に掛け合っていると言ってたが、全従業員が期待していなかった。おそらく、経営能力ではなくあの愛くるしいキャラと愛嬌で今までやってきただけじゃないかと思う。
何かの転職サイトでこの会社の評判を見たが「社長や経営陣が大学のサークルのノリ」と書いてあった。運動部で実力はないけど面白い先輩というだけで部長をやっているみたいなそんな印象を受ける。
社長の周りをぴょんぴょん飛び跳ねている上長の人間もかなりのポンコツだった。いつも社長とランチに行ってる女性(実質これが日本の副社長ポジション)がいるのだが個人的にこいつが一番ムカつく。「社長と毎日ランチ一緒に行ってるだけで高い年収もらってる」と陰口を叩かれるくらいの不支持率。こいつは一応人事担当というか、悩める従業員のカウンセリングもしなくちゃいけない立場なのに公然と朝礼で「最近、いろんな悩みをみんなからもらうけど、一方的に相談に来るんじゃなくて、ちゃんとしっかりとした自分なりの答えを持ってから相談にきてください」と言いやがった。つまり「私に相談されても困る」ということ。上司に個人的に相談に行くなんてよっぽど切羽詰まった状況だ。「どうしていいかわからない」というのが相談者の本音だろう。それを優しく接して一緒に解決法を探ってあげるのが彼女の役割だ。そんな迷える子羊たちを谷底に突き落とすような所業。結果的に優秀な人間はどんどん辞めていった。こんな会社だったが、仕事内容は嫌いじゃなかった。結婚を機にもっと稼がないといけないという気持ちが先行してボーナスもくれない会社に見切りをつけて出てきてしまった。クラフトビールを全部飲み切ると僕はグラスをカウンターに返してそのまま帰宅した。東京駅から自宅までは25分くらいだった。僕はまだこの時は子供部屋おじさんで家に帰れば母親がおいしい夕飯を用意して待っていてくれた。彼女との婚約が決まった今やこのおいしいご飯ももうすぐ食べれなくなるんだな、僕の体にフィットしたフカフカのベッドと人生の大半の時間を過ごしてきた子供部屋とももうすぐ別れを告げるんだなと思うと寂しい気持ちがした。眠りに入る前に僕は将来のことを想像してみた、僕と彼女の将来…具体的には何も浮かび上がることはなかった。
この新しい会社での疑問に拍車をかける出来事が起きたのは入社1ヶ月目に上司が飲みに誘ってくれた時だった。上司は社長の次に年齢が上で55歳くらいだった。この人に僕は色々と営業のことや仕事について指導をしてもらっていた。上司はバリバリの営業マンでいろんな会社を渡り歩いてきたベテランである。仕事もできるし何より問題解決能力に優れているし仕事が早い。社長からも一目置かれている人だった。若い頃はよく六本木で朝まで飲んだりしたもんだと昔の話を語ってくれた。こういう人は昔の話を語るのが好きだから目を輝かせて「え、そうなんですか?すげー」とか相槌を打てば得意になって「昔はこうだった」とどんどん勝手に話してくれる。それでいい気分になってくれるから僕にしてみれば楽だった、僕はこういう付き合いは上手い方だと思う、だから年上からは好かれる質なのだ。「よしじゃあ今から六本木に行こう」と仕事上がりにそのまま勢い付いて六本木までタクシーで行くことになった。東京駅から六本木まで、うーんちょっと今時二軒目に六本木というのもなんか考えが古い気がする。今の若い人は激安な居酒屋でなるべく安く飲むのが主流だがこういうところで世代間の考えの違いは生まれていくんだな。六本木について上司の行きつけというキャバクラに連れて行ってもらった。久しくウィリーさんとコリドーナンパに明け暮れていたからこういうお店は久しぶりだった、実に5年ぶりぐらいかもしれない。六本木のこういう店は来たことがなかった、どうやら上司と店長は昔から付き合いがあるようで一言二言話すと適当に女の子をつけてくれた。上司の方にはおそらくその店で一番可愛い子だろうと思われる売れっ子をつけて、僕の方はまあまあ普通よりちょっと可愛いレベルの子をつけてくれた。正直上司の方についた子は可愛くてドレスも胸を強調した感じで羨ましかった。僕の方についた子は悪くないがどうやら風邪をひいてるみたいで喉が少し枯れていてかわいそうに思った。
水みたいに薄い鏡月も久しぶりに飲んだ。すでに時刻は23:00を過ぎていた。もう終電は諦めてタクシーで帰ろうと思っていた、1時間もすると女の子が入れ替わってここから30分くらいで女の子がローテーションして行ったがどれもいまいちな子ばかりで最終的に地味で話も下手な女の子をあてがわれたものだから会話も成り立たない。新しく女の子がつくたびに「何歳?普段何してるの?」とこっちが聞いて下らない会話をしてまた次の女の子がきてとこの繰り返しだ。正直楽しくない、ずっとウィリーさんと街を歩いている女の子をナンパすることに味をしめていた。ナンパなら向こうもビジネスとか関係なく「誰かいい人いないかな~」と思っていてそこでうまくマッチングするから会話が弾んでいき、最終的にはベッドまで持ち込むこともあったりというドキドキが味わえる、しかもタダで。一方でキャバクラは一時間4000円とか女の子に酒を奢るまでするのになんか沸きらない虚しい気持ちになる。働いている女の子も別に話のプロでもカウンセラーでもないので合わない人は本当に合わない。一方でナンパの方は「あの子よさそうだな」とこっちもちゃんと選んでから話しかける、いざ話しかけてみて「はい」「いいえ」しか返さない子だったらもうそれはこっちも潔く諦める。話が合いそう、ノリが良さそうな人を狙ってたまたま偶然Barで出会って酒を飲みながら二時間前までは赤の他人だったのに気づいたら話こんで肌を重ね合わせるまでの関係になるというのが大人の遊び方だ。何度も足繁く金払って通っていつかはお店を卒業する女の子を追いかけるのも悪いとは言わないが、テレビ越しのアイドル追いかけるような途方もなさを感じる。
上司についてきたもののその当人もなんか退屈で眠そうな顔をしているのだ。「もう帰るか」の一言をずっと僕は待っているが一向にそれがないまま0時を回り、1時を過ぎた頃にやっと「そろそろ行こう」ということになった。ほっと胸を撫で下ろしていると上司がおごってくれることになりカードを店員に渡した。しかし、カードを渡してから30分、一時間経過しても一向にお会計がこなかった。上司もさすがに心配になり店長を呼んで「おい、お会計早くしてくれよ」と促したがこの店長が「まあまあ、まだいいじゃないですか」とカードを返さなかった。久しぶりに来てくれたこの上司を帰さないように茶化す真似をし始めた、これが悪夢の始まりだった。時刻が2時を回っても会計が来ず、さすがに上司がもう一度店長を呼び出して「おいそろそろ帰るよ」と言ったが店長は「まだいいじゃないですか」と調子に乗り出してなんとシャンパンまで開け始めた。僕はうわーまだ付き合うのか~とくたびれはてたが上司はすくっと立ち上がり「てめー、ふざけんなよ!!」と大声でキレ始めた。さすがに店長もやりすぎたと一気に反省し顔に血の気がなくなっていた。「カード返せよ!!こっちはもう帰るって言ってんだろ!!」と上司のキレる声に反して店内では陽気な曲に合わせて別のテーブルの客が濁声で歌を歌っていた。僕はどうしていいかわからずその様をずっと見ていたが上司が店長の胸ぐらを掴み始めていよいよまずい雰囲気になってきたのでさすがに僕は間に入って「まあまあ落ち着きましょうよ」と止めに入った。荷物をまとめてさっさとエレベーター前まで進んだ。店長はずっと「すいませんでした」と泣きそうな顔で頭を下げていた。上司はまだ怒りが治らずついにパシッと店長を思い切り平手打ちした。「ちょっと、やめましょうよ」僕がまた間に入って引き剥がした。エレベーターに上司とふたりで乗って下まで降りる間の無言がかなり辛かった。ドアが開くと上司は「ごめんよ、オハラくん。ちょっと飲みなおそう」と次の知り合いの店に行くことになった。正直「えー、まだ行くの?」ともう泣きそうになったがここで帰ってしまうと上司の顔が立たないと思い僕は付き合うことにした。そのキャバクラから徒歩5分くらいでカウンター越しに女の子と喋るいわゆるガールズバーみたいな店に連れて行かれた。そこの店長はもう上司の舎弟みたいな40半ばの太めの体型のおっさんで上司が「聞いてくれよさっきさ~」と先ほどのキャバクラのことを愚痴り始めた。正直もう空気は最悪で僕はただでさえ会社に対して不満があったが、僕はこの先この人についていくのかと思うとさらに不安要素が増えてしまった。これから結婚するのに、キャバクラに行ってしかもこの上司は人を殴っている、妙な騒ぎに発展したらどうしようとか不安が一気に押し寄せてきた。もう酒も味がしないし酔いもすっかり覚めてしまった。もうすぐで3時である、さすがにそろそろ帰ってもバチは当たらないだろうと思い「すいません、そろそろ僕はお暇します」と告げて店を後にした。外はサーっと絶え間ない雨が降っていた。六本木の深夜に絶え間ない雨が降ってる、まるで野獣死すべしのオープニングみたいだ。タクシーを拾って自宅まで帰った。帰りの車の中、本当に自分はこの会社でやっていけるかの疑問がさらに色濃く浮かび上がり「結婚」「仕事」「家族」「将来」などの二文字の角が尖った漢字が次々と頭に浮かんできては僕を疲弊させた。運転席の後ろに取り付けてある薄型ディスプレイでは次から次へと企業向けCMが流れていて、さっきまでのカラオケのうるさい音から解放されワイパーが一定のリズムで雨粒を拭き取る機械音がなぜか耳に心地よく響いた。そういえば1社目のブラック会社にいた時もこうして終電を逃してはタクシーで帰っていたなと思い出した。あの時は安い月収で残業代は出ないからタクシーも自腹だったので、結果的に手元に残るお金がほとんどなかったというかむしろマイナスである。あの時よりは前に進んだのかな?今こうして婚約もできたし年収もあの時より3倍近くになった。
自分の求める仕事内容じゃないかもしれないが、とりあえずお金を溜める目的でなんとか続けてみよう、そしてどうしても合わない時は仕事を変えればいいじゃないか。最低3年は在職しないとだめとかいう謎のルールに縛られる必要はない、むしろその根拠のないルールに縛られて貴重な30代の働き盛りの時間を無駄に過ごす方がもったいないじゃないか。家が近くと「あ、そこの一方通行のとこ左曲がって少し道なりに行くとセブンイレブンがあるのでその辺でお願いします」慣れた口調で僕は運転手に告げた。タクシー帰りが多かったブラック会社のことに覚えたフレーズだった。
つづく
2019年を振り返って006
2019年6月 新会社編
ウィリーさんとの沖縄編でかなりの尺を取ってしまったが、それだけ僕とウィリーさんの沖縄遠征は濃い時間だったということだ。楽しいこともそうだが考えさせられることも多かった。水納島で帰りのフェリーを待っている間にずっと意味もなく遠い海を眺めていた。曇っていても綺麗な水色の海をぼーっと眺め、少し遠くに目をやればずっと水平線の向こうまで曇り空が広がっていてこれから先の結婚した後の自分の人生を案じしているかのように感じた。映画「卒業」で主人公が結婚式に乗り込み花嫁を奪ってバスで逃げるという名シーンで幕を閉じるという大団円を迎えるがなぜかそのバスの中には爺さん婆さんばかりで一方で結婚したばかりの自分たち若い二人が対照的に描かれ、さっきまで明るい表情だった若い二人も表情を曇らせたまま映画が終わっていくという、なんとも後味がよくない終わり方だが結婚した後の二人の未来を暗示しているかのような「いいことばかりじゃないんだぞ」という現実的な終わり方だったと思う。「僕の今後の人生はどうなるんだろう?」海を見ながら自分に問いかけてももちろん答えなんかでない、未来はその時になるまで誰もわからないのだ。
東京に帰ってきて、成田から夜にもかかわらず混雑している電車に揺られながら地元へと向かうと一気に現実に引き戻された気分になった。ウィリーさんとは実家が近いから自分の家到着のギリギリまで一緒に歩き「ありがとう」と最後に告げてそれぞれの家に入っていった。こうして久しぶりの男だけの旅行を楽しんだが、すぐにその二日後から新しく始まる会社のことで急に不安でいっぱいになった。ほんとにあの会社を選んで大丈夫だろうか?何か見落としていないだろうか?正直少し早とちりしたような気持ちはあった。これから結婚をして一緒に住み始めてという新しい生活が待っているのにもう少し生活が落ち着いてから転職するでもよかった気がする。これからガラッと生活が変わっていくだろう、ストレスも感じるかもしれない、そんな中でやっていけるのか?もし入った会社がブラックだったらとかいろんな不安が一気に頭の中に渦巻き出した。「悩んでも仕方ない」となんとか自分に言い聞かせ眠りに入った。僕はこういう不安な時は独り言で自分に言い聞かせる。いつからかわからないが不安があると僕は独り言で自分と会話するようになった、もちろん誰もいないトイレとか部屋とかだけでやるようにしている。「ああ~、不安だな。どうしよう?でも入社して働き始めるまでわからないよな~」とかを実際に声に出して自分に言い聞かせているのだ。溜めているよりこうして吐き出す方がいい、一番いいのはそれをちゃんと聞いてくれる友人や家族がいることだが、毎日愚痴ばかり聞かされるのも億劫だろう。だから僕は独り言で吐き出し、さらに自分でその意見にうなづいたり、時に「いや、でも…」と反論したりという独り議論のようなことをやる。これはいろんな角度から意見を考えることができるし考えが偏らないように工夫ができる。もちろん一人での議論だか結論がほぼ出ないことが多い、でも結論が出なくても問題はない、自分に言い聞かせているだけだし大事なのは声に出して吐き出すことだ。
6月10日、とうとう初出社の日を迎えた。勤務場所は東京駅の目の前の大きなビル、と言ってもそのビルのフロアを丸々借りているわけではなくていわゆるレンタル集合オフィスのようになっているフロアの一部をその会社が借りているだけだ。大きくて綺麗なオフィス内でコーヒーマシンなども完備され飲み放題。大きなビルの貸しオフィスを借りているがこの会社のメンバーは8人しかいないので2部屋程借りてそこに4人:4人で配属というかなり縮小した使い方だ。この部屋は本来二人でデスクとキャビネットを構えてゆったりと使う部屋なんじゃないかと思うくらいの広さなので4人だと正直きつい。廊下に出ればこの大きなビルのワンフロアをそのまま貸しオフィスとしているのでかなりの広さだ。天井の高い廊下の端から端までおそらく徒歩で2~3分は歩かないと到着しないくらいの広さで所々に会議室に使用する大部屋やリフレッシングスペースなどが設けてありすりガラス仕様になっていてシルエット以外何も部屋の様子が伺えないので窮屈せずプライバシーは守れるという構造になっていた。
初出社の簡単な挨拶を終えて自分のデスクに通された「営業さんはこちらです」一瞬耳を疑った。僕は営業ではないと再三あの面接で確認したのに営業さん呼ばわり。はめられた…、その後でオフィスのセキュリティカードの使い方や簡単なオリエンテーションをしてもらったが、ほとんど耳に入っていなかった。「僕は営業をやらないといけないのか…?」心臓がドキドキして変な汗が頭皮から垂れてきて一気に不安が僕を襲った。こういう時に僕の悪い癖でもあるのかもしれないが、ちょっとした失敗とかがすぐに「死」に直結してしまう癖がある。「転職失敗→結婚生活破綻→死す」というなんとも短絡的な回路だがすぐにこう考えてしまうんだ。おそらく小心者と言われる人の回路も僕と似ているだろう。例えば仕事でちょっと間違えて違う会社の担当者にメールを送ってしまった、「オハラ様、弊社に佐藤というものはおりませんが」というメールでも届こうものなら「失礼しました!!」と電話で平謝り。それだけで済まず、トイレの個室に駆け込み「うわーやっちゃったよ~」とずっと独り言を言いまくり、「会社クビ→家族露頭に迷う→死す」という回路にすぐ行き着く。メール間違えるくらい誰でも一回はあることだ。金融系の会社だったら一発でクビかもしれないがこれぐらいでクビにされることはほぼない。芸人の山崎邦正さんも昔、自慰行為のやりすぎで下半身のちょっとした手術が必要になったらしいがその時に松本人志さんとか集めて真剣な顔で「僕はもうダメなんです」と語ったという。局所麻酔を使った本当に日帰りで終わる手術なのにどうやら彼の頭の中では「切り落とす」「不能になる」「場合によっては死ぬ」みたいな思考回路になったらしく「芸風もそっち系に変えて、キャバレーとかに出て、そうするとなぜか霊感にも目覚めて…」と真面目な顔で語っていたらしい。気が小さい人の共通点はこのように「死ぬ」というところへ思考が直結しやすいのだ。
その日のお昼休みに僕より1ヶ月早く入社していた女性の社員のTさんとご飯を食べに行った。そのTさんは僕より2歳年上で僕が入社するまでは彼女が最年少だったらしいと言っても1ヶ月前に入社だが。ベリーショートの髪型でフチなしのメガネをかけたキャリアウーマンという感じの女性、念の為言っておくが美人ではない、「激レアさんを連れてきた」の再現イラストで出てくるキャラクターの絵で似顔絵を書いたら似てそうなそんな感じの顔である。お昼に東京駅のどこか適当なお店でご飯を食べながら僕は正直にTさんに事情を話した。「営業とは聞いてなかったけど営業にされた」「僕は営業したくて転職したんじゃない」などなど。Tさんはそうか~と親身になって話を聞いてくれた。Tさんは「でも、大丈夫だよ。私も前職営業だったけどなんとかできたし。わからなかったら相談してくれていいよ」と言ってくれた。Tさんは前職は7年くらい油圧測定のためのマシンなどを製造するメーカーに勤めていたという。最初は営業事務みたいなポジションから始めたが最終的にもっともっと仕事にチャレンジしてみたくて自ら営業のポジションへ志願したという。
入社最初の週の金曜日の夜にTさんに飲みに誘われた。僕が入社してひどく落ち込んでいることを察してくれて彼女の方から飲みに誘ってくれたのだった。Tさんも飲むことが好きで僕と同じくビール好きだった。Tさんは若い頃にドイツに語学留学に行っていたらしく、ドイツ文化に造詣が深かった。こういう人との話はとても楽しい、留学とか異国でしばらく生活したことがある人は固定概念に囚われず日本の古い習慣とかも気にしないからTさんの方が年上ではあるが敬語を使わないでもいいと言ってくれた、でも僕は最低限「ですます」くらいには気を使いながら話をした。とりあえず僕の言いたいことを全部吐き出した。見積もり作る作業はあるが営業じゃないと聞いていたのにとか、結婚したばかりでこれから長く働ける場所を探していたのにとか、新婚生活からこれでは将来不安だとか色々と吐き出した。Tさんは上述したようにメーカーで営業として7年くらい頑張った女性で、実はかなり女性ということで辛い境遇にあったと話てくれた。前職がいわゆるコテコテの日本の古いメーカーでそれなりに大きい会社でEUとかとも繋がりがあり彼女は本当にたまにだがドイツ語を生かすことができて、さらに営業にも挑戦できてチャレンジングな環境だったという。そういうメーカーの営業は古来から男がやるものと決めつけているらしく女性の営業は彼女一人だったという。Tさんは若い頃から女であることで社会的に差別を受けたりすることにすごく敏感でいわゆる男女雇用均等や男尊女卑などの差別に強い関心がある熱い女性だった。僕は女性をからかったりすることはあるが差別はしない、ふんぞりかえっているだけで何もしないはげたおっちゃんより女性たちの方がどれだけ優秀なことか、Tさんは女ってだけで前の職場でかなり悪い待遇を受けたらしい。例えば、営業で得意先に訪問した時も遠回しではあるが「女の君に説明ができるの?」みたいな扱いを何度も受けたという。会社内でも周りのおじさんたちからの協力をあまり得られず「女のお前に何がわかる?現場に口出しするな」みたいな理由で意見が通らなかったりということが何度もあったという。それでもTさんはめげることなく7年間もそこで営業をやり続けた自分自身戦ったことが誇らしいようだった。
2020年を迎えようとしているのにいまだにそんなことがあるのか思うようなセクハラも彼女は経験していた。得意先の偉い人と飲みにいくのを付き合わされカラオケまで行って興が乗ったのか得意先の偉いおっさんが彼女に思いきりベロチュウをしてきたらしい。彼女はそれを訴えることもできたが自分がそれをすることで取引に影響が出てしまったり周りに迷惑をかけまいとしてそのことは誰にも言わずに黙っていたという。ただでさえ社内でも「女のくせに」とかよくない待遇を受けている彼女だったがそんな過酷な状況で7年も耐えた彼女は男に負けてたまるかという強い意志を常にその鋭い眼光に滾らせながらも「男なんて糞食らえ」みたいな極端な思想に走ることがない公平さと柔軟性を持った女性だった。僕の愚痴を散々聞いてくれたおかげで少し気持ちが晴れ、今度はTさんの話を聞くことにした。Tさんは僕と同じで去年結婚したばかりだった。旦那は26歳でなんと彼女より10も歳が下である。飲み屋さんで知り合ってそのまま意気投合して付き合い結婚に至ったという。しかし旦那が少し鬱病を患っているようで仕事が長続きしないようだった。「仕事がきつい」「自分のやりたいことがわからない」とか古い考え人が聞いたら「ただの甘えだろ」としか思わないかもしれない。でも、鬱病の当人にとっては本当に辛いことなのだ。盲腸の痛みは盲腸になった人にしかわからないように鬱病の辛さもなったことがない人にはわからないのだ。病気の人をばかにしたり、障害者をばかにしたり、心の病気を持つ人をばかにしたり、そんなことは絶対にしてはいけない。あなたが今日の帰り道に車にはねられて一生体に障害を持つかもしれないし、「健康を保つのは自己責任、普段から気をつけてないやつがアホ」とか言っているくせに定期検診でガンが見つかった瞬間に自分がこの世で最も不幸だみたいなことを言う奴がいる。いつ自分がその立場になるかはわからないのだ、思い上がってはいけない。鬱病で苦しんでいるTさんの旦那はやっとのことで携帯ショップの販売員に就職して今は頑張って仕事をしているらしい。結婚式は9月に予定しているそうだ。
僕は吐き出せた開放感と辛いのは自分だけじゃないと言う気持ちに少し救われた気がしてその日はよく眠れたのを覚えている。しかし翌日からはまた自分が望んでいた仕事とは違うあの職場に行くと思うと憂鬱になった。僕は前の仕事は印刷にかかる仕事で、大手企業が新しい商品を企画してパッケージデザインをするときに印刷に関しての専門的なアドバイスをすると言う少し特殊な仕事をしていた。例えば、「こう言う色を作りたい、キラキラひかるようなエフェクトをかけたい」とかクライアントの要望を聞いた上で僕たちがアドバイスをする「この色を出すには特殊なインクが必要なのでその分コストが上がってしまいます」そうするとクライアントは高くなるのは嫌だとわがまま言い出す「じゃあ、ロゴの色は絶対に崩すわけにいかないからここだけ特別なインクをつけましょう、あとはCMYKで成り行きにすれば問題ないと思います」みたいにクライアントが納得するように印刷知識を使って導いていくと言う仕事だ。本来これは印刷会社の営業さんがやることであるが、海外ではPrint Managementという仕事で成り立っているビジネスである。大きい企業さんが印刷物のことを管理するのが面倒だからプロに全部任せたいという必然的に大手がクライアントになるビジネスだがもちろんその分結果を問われる。しかも外資系のクライアントばかりなので英語力も問われる。そう考えると印刷知識と経験だけではダメで英語ができてさらにイラストレーターとかも使ってデータをある程度チェックする能力がないとダメなのだ。意外にも印刷会社の営業さんはイラストレーターが使える人がほぼいない。データが入稿されても中身の確認もせずそのままオペレーターに投げる人がほとんどだ。そう考えると僕は印刷知識があって英語が喋れてイラレも使えるという海外向けに展開している印刷会社とかからしたらすごく有能な人材なのかもしれない。
その経験知識とさらに英語も活かせるというから入った会社だが、やっていることが営業そのものである。主に仕事内容としては3~4社のクライアントを持ち、それらが「ポスター100枚作りたいから見積もりください」と連絡がくる、そしたら僕は3社くらいのパートナー印刷会社に見積もりを同時にかけてその中で一番安く受けてくれるとこを選び、それにマージンを載せて見積もりを出す、受注する、印刷を発注する、納品する終わり。という感じでクライアントは印刷の質など一切話に出さない。安ければ安いほどいい、クオリティは二の次というファストフード的な印刷仕事のやり方。僕が前にやっていたような特色を追加するとかどんな色を再現したいですかとかそんなことは一切触れず安くして、そして僕たちのミッションは営業だからいかにマージンをせしめるか、数字と売り上げが全てというまさに営業さんの仕事である。僕は営業さんを悪く言ってるわけじゃなくて、むしろ常に先頭に立って交渉して仕事をとってきて会社に利益をもたらし、儲けが出るように計算と予測を立てて先読み行動する能力を問われる営業さんをむしろ尊敬しているし、僕は数字とかで物を語るのが苦手で予測とか立てたりが苦手だから営業という仕事は自分にはできないなと思っていた。しかも、印刷だけでなくこの会社は見境なくなんでもやる、クライアントのカタログとかをしまっておく倉庫とかをどっかから探してきてその在庫をいつでも取り出せるようなオーダーシステムを作ってくれるシステム会社を探すとか、DMの郵送を代行するサービスとかしまいには人材派遣のためのお給料支払いを代行するようはクライアントに給料支払いの口座貸しをするような、いわゆる何でも屋をやっているのである。
ここまで見て、印刷関係ないし今までの仕事と全く違うということを親愛なる読者の皆さんにもお分かりいただけたと思う。僕は見積もりを作って発注をもらって請求書を立てて、月末締めの翌月払いで入金してもらってとかそういうことを今までやったことがないから36歳の中途採用として入ったものの新卒社員のように「見積もりってこれであってますか?」とか「発注書ってどうすればいいですか」とかいちいち聞きながら仕事を進めている。多分こんな36歳の社員はいないと思うが、僕は知ったかぶりとかは嫌いだからわからないことはわからないとはっきり言って恥を忍んで教えてもらうという姿勢で仕事に望んでいる、むしろそれしか能がないのだ。どういうわけか分からないことを認めて質問しながら仕事を進める僕のことをこの会社の社長(面接担当者)はすごく評価してくれていて「オハラくんは分からないことをはっきりわかりませんと質問してくることは偉い」と褒めてくれた。これでいいのかなと思いながらなんとか1ヶ月仕事を続けるもやはりモヤモヤは晴れることがなかった。どこか自分の中に「営業やりたくて転職したんじゃないのにな」という気持ちが拭えないでいた。僕はもやもや悩んでいる愚痴ばかり言っていて何もしないでいることが嫌いだった、よく飲み会で「うちの会社はダメだ終わってる」とか「給料低くてやってらんねーよ」とか好きなだけ愚痴をこぼして結局何もしないでその会社に居続けたりする人がいる。僕はそうなりたくない、何か困ったりしたら行動に移さないと始まらないのだ。とりあえずこの仕事を紹介したエージェントに話をしてみることにした。
2019年を振り返って005
1945年の3月末に沖縄の慶良間諸島という沖縄本島から少し西にある小さな島にアメリカ軍が上陸した。そこから一気に4月1日には沖縄本島の西海岸に上陸し、ここから約3ヶ月間の戦いがいわゆる沖縄戦と言われている。この上陸した西海岸は読谷という沖縄本島のちょうど真ん中あたりの地域でそこから約2週間でアメリカ軍は北部を占領した。日本軍は中部に待ち構えていたが南にどんどん追いやられていった。首里城の地下に司令部を立てていたが、そこも捨てて最南端の方まで退いていく…。
石碑を一通り見終わり、僕たちは平和祈念資料館の中へと入っていった。入場料¥300を払って中の展示を見て回った。中には沖縄戦の歴史にまつわる年表や実際に着用していた住民の服や生活用品、そして防空壕の中の様子などがリアルな人形とともに展示されていた。比較的新しい構造の展示施設ではあるが照明は暗く全体的に重たい空気が流れ陰鬱なムードだった。沖縄は当時はまだ琉球という日本とも言えないどちらかというと独立した自分たちの文化や言語などがあり戦争とは無縁の状態だった。そこに日本軍がいきなりやって来て基地を構えて、住民たちを戦いに巻き込んだという悲惨な事実があった。想像してもらいたい、自分が南国の楽園の島で平和に暮らしていたらいきなり日本軍がやって来て「今日からここは我々が使わせてもらう。君たちの文化は捨てて、こちらのやり方に従ってもらう、そしてその使っている言葉も標準日本語をしゃべること。さらに人手が足りないので若い男子は全て戦いに参加してもらう」と言われたらどう思うだろうか?普通、軍隊は軍隊と戦うものだがこと沖縄戦は日本の敗北が濃厚な戦争末期の人手が全く足りてない状態で10代前半の子供も含む住民が戦いに駆り出され日本軍の手伝いをさせられていた。展示物はこれでもかというくらい残酷な歴史を僕たちに突きつけていた、それまで平和に暮らしていた住民たちが突然日本軍が現れて戦争に駆り出され、日本軍のために食糧など全て持っていかれ、多くの命が奪われていった。アメリカ軍の方も誰が住民で誰が日本軍なのかわからず無差別に命が奪われていったという。東京は空襲にあったが沖縄戦はアメリカ軍が上陸し住民のいる場所で日本軍と地上戦で戦った、空からの攻撃、銃撃、火炎放射、海からは艦隊射撃で狙われ、爆弾が大嵐のように降り注ぎアメリカ軍は「ありったけの地獄を集めた」戦場と呼んでいる。アメリカ軍も沖縄戦は精神異常やトラウマになる兵士が続出したという、泣きながら爆弾を抱えてアメリカ軍目掛けて走ってくる女や子供もいたらしく、想像しただけで震えが止まらない。
沖縄戦は軍隊が住民を守らなかったと語り継がれている。中には日本兵に命を助けられた人もいるかもしれないでもほとんどが日本兵に命を脅かされたり、敵国のスパイと見なされ実際に命を奪われている人がいたと展示されていた。栄養失調、餓死、そしてマラリアで死亡した人たちもたくさんいる。中には自決する人も多数いたという。日本軍の教えは生きて虜囚の辱めを受けずというようは捕虜になるくらいなら死を選べという教えだった。大怪我を負って沖縄の洞窟内に寝かされた軍人たちの中には毒が入った飲み物を飲まされ集団自決したという事実も残っている。一方で住民たちにも自決を迫っていたという、兵士と同じ軍官民共生共死という方針で住民がアメリカ軍に投降するのも許さなかったという。「国のために戦う」という名目で多くの命が奪われた。果たして日本軍はこれだけ多くの人たちを犠牲にして何を守ったのか?展示物を見れば見るほど守っていない、むしろ死に追いやっているとしか思えなかった。沖縄の北側が占領されて投降した沖縄の住民たちはアメリカ軍から食べ物などをちゃんと与えられていて、子供達がテントなどの中でアメリカの教育を受けていたりという映像の記録が残っていた。投降した方がちゃんとアメリカ兵が守ってくれたように思える映像だった。戦争の捕虜も人間として扱うべきだが、日本軍は歴史をちょっと調べてみれば捕虜に対して容赦していないことがすぐにわかる。コリンファース主演の映画「レイルウェイ」という映画で1942年の泰緬鉄道の建設のことを描いていて、一応日本でも配給はされている映画だが日本軍がイギリス人やオランダ人、オーストラリア人の捕虜たちに強制労働を強いていた様子が比較的ソフトに描かれているので見てもらいたい。マラリア、コレラや栄養失調さらに次の作戦のために建設を急いだせいで1日10時間以上も働かせ合計で10万人以上の捕虜がこの建設で命を落としたと言われる。あまり勧めたくないが「日本鬼子(リーベンクイズ)」というドキュメンタリー映画がある、1931年の満州事変から15年に及んだ日中戦争の中で中国に対する侵略行為を実際に実行した元日本軍兵士14人を取材し、自分たちが実際にしたことを本人の顔出しそのままにインタビューを収録したという映画だ。これを見ると加害の歴史がよくわかるが内容がかなりエグいので見る人はかなり覚悟して見た方がいい、中には笑いながら自分の行った残虐行為を語る人たちがいた、さも自分の功績のように目を輝かせていた。その人たちによれば中国侵略していき村々を襲って食料を奪い、村人は殺し、若い女はかたっぱしから犯してからその後で殺害した。中には犯した女を井戸に蹴落として、近くで赤子が泣いていたのでどうやらその女の子供だったらしいので、赤子も一緒に井戸に放り込み手榴弾を入れて一緒に殺害したと本当にその映像で本人が語っている。猟奇殺人などのニュースがたまにあると人間の怖さに改めて恐怖するがそのどれよりも僕はこの日本軍の行いの方がゾッとする。
戦争には勝った国と負けた国があり、そして勝ち負けに関係なく加害者と被害者がある。日本は原爆を二回も落とされて戦争の悲惨な歴史として刻まれた。その印象が強いからか、どうしても日本は「戦争によって甚大な被害を受けた」という印象が先行し日本人の記憶に刻まれているが、日本も加害の歴史が事実としてあることを忘れてはいけない。中国や韓国が反日運動をしているニュースを見て「いつの時代の話言ってるんだよ?」とか「はいはい、またやってるよ」と鼻で笑う人がいる一方で日本も毎年8月6日、8月9日には原爆被害にあった人たちを弔う式典が開催され大々的にニュースで報道されている。アメリカ大統領がそこに列席することに「お前らが落としたのにどの面さげて列席してるんだ?」とか憤る人や東京大空襲の悲惨な歴史を引っ張り出してはアメリカに対して敵意を剥き出しにする人がいる、それは「いつまで昔のことを言っているんだよ?」と矛盾するのではないだろうか?僕は原爆被害にあった人を軽蔑するつもりじゃないし悲惨な歴史を繰り返すべきじゃないと心から思っているしどんな理由があっても戦争には大反対である。だが自分たちのやったことに目を瞑って、被害にあったことだけをいつまでも語り継ぐことに疑問を感じているのだ。
加害の歴史の贖罪はお金を払って終わりではないと思う、被害者が相手を許すかどうかだと思うのだ。許しを得るまで誠意を見せることが大事だと思う。韓国の徴用工問題とか「もう戦後に賠償はとっくに済んだ」と言って何も取り合わない日本の姿勢に僕は疑問を覚える、「お金を払ったらもう黙れよ」という態度は絶対に取ってはいけないと思う。遺族の方々に対しての謝罪とそれに見合った賠償も必要だと思う。そこまでの誠意を見せて被害者が「あなたの誠意はわかりました、もう結構です」と言ってくれるまでやり続ける必要があると思う。金が全てじゃない、これ以上お金が払えないなら謝罪やその歴史があったことを正式に認める、そして教科書に掲載したり、事実としてちゃんと後世に伝えるように努力をすること、それらの姿勢を見せ続けることが大事だと思う。中には「いや、それをやると永遠にたかられる。金を払わされる」という意見もあると思う。万一たかりはじめたらそれはまた次の問題になる、そんなことをすれば今度は近隣諸国からのイメージがガタ落ちになるから被害者国もそこは慎重に考えるはずだ。
「お金を払ったからもういいだろ?黙れよ」という考えはじゃあ、あなたに息子がいて明日その子が車に轢かれて亡くなったとする。運転手が金持ちで慰謝料を大量に支払って来て「お金を払ったからもういいだろ?黙れよ」と言ってきたらどう思うだろうか?それで許せるだろうか?以前に僕の知り合いと議論したことがあった、その人は僕より年上で子供もいる。その人は昨今の中国や韓国のことに関して「昔のことを今色々と言ってくるのはおかしい。もう賠償も済んでいる」という主張だった。そこで上述のように「あなたの息子が交通事故にあったら」という話をしてみた、でも彼は「それとこれとは違う」と主張した。何がどう違うかを聞いても彼は答えられなかった。彼の主張は戦争で起きた昔のことをいつまでも引きずっていると前に進めない、だからどこかで終わったことと線引きをしないといけないというのが彼の主張だった。でもそれを言っていいのは被害者の方である。加害者がそれを言ったら被害者としては怒りが増すだけである。
沖縄は戦争の後も翻弄され続けた。展示の最後の方は戦後沖縄の当時の生活様式などが当時の街角の様子などをマネキンなどと一緒に展示していた。アメリカ軍を主なお客としてオープンしていたBarやいわゆるキャバレーのようなお店、アメリカのタバコの銘柄、英語で書かれた錆び付いた看板など当時使われていた実物がいくつか展示してあり、先ほどの沖縄戦の展示スペースとは違ってやや明るいタッチで陳列されていた。戦後の沖縄はアメリカ軍政下におかれ、やがて朝鮮戦争が始まると沖縄を東アジアの要としてアメリカ本土からの駐留軍を追加し、旧日本軍の施設以外にも住民の土地を強制的に接収した。これは「銃剣とブルドーザーによる土地接収」と呼ばれて、沖縄戦の時は日本軍が守ってくれず、戦後はアメリカが軍事力にものを言わせ土地を奪っていくという翻弄される歴史を辿っていた。そして1952年の平和条約において沖縄は正式にアメリカ軍の管理下におかれ、琉球政府が創設されるとアメリカの軍事施設が次々と建設されていった。無理矢理土地を奪っていくアメリカ軍と住民との間で事件が起こり被害者も多く出るようになると、「島ぐるみ闘争」と言われる抵抗運動を県民たちは起こすようになる。抵抗運動が激しくなり琉球政府はアメリカに対し「土地を守る四原則」を直接アメリカ政府に訴え、この要請に対しアメリカ下院軍事委員会はプライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣した、しかしプライス議員は結果的に長期にわたって沖縄をアメリカの統治とすることでの利点などアメリカに都合のいい報告をアメリカ議会にしただけで沖縄住民の期待を大きく裏切る結果となり1965年の夏には島ぐるみの闘争はさらに過激になっていった。
こうした沖縄の抵抗に対し、アメリカ政府はオフリミッツという米軍関係者を民間地域への立ち入り禁止とすることで戦後復興の最中なのに経済的なダメージを与えた。結果として琉球政府は米軍基地として土地を使用することを認めざるを得ないという歴史を辿った。
ニュースで普天間基地の問題など沖縄の問題を聞いてもいまいちピンとこない人がほとんどだろう。でも、自分の家のそばに米軍基地があって快晴の空を米軍の軍機が飛び交い、いつ墜落してくるかわからない不安と恐怖と騒音に今でも悩まされ、沖縄戦で使用された不発弾がいまだに地中深く埋まっているという恐怖にも怯えないといけないと想像すれば少しは沖縄の人たちの気持ちに寄り添ってあげられるのではないだろうか。酔っ払った体格の良い軍人が夜道で女性に絡んできたり暴行などの問題も取り沙汰されている。
資料館を見終わり外へ出ると抜けるような青い空が広がっていた。太陽の光が室内の暗闇に慣れた目を鋭く貫いた。この美しい空と海、豊かな自然と独特の文化と風土、そして助け合い歌と踊りと芸術を愛する自由な精神、戦争に巻き込まれその美しさゆえどちらの国にも翻弄されてしまった沖縄という南の楽園。戦争の暗い歴史の中で失ったものは計り知れない、家や生まれた土地を失った人たち、家族や愛する人を亡くしてしまった人たち、それでも沖縄の人々は希望を捨てず明るい明日が必ずやってくると信じ続けた。「ありったけの地獄を集めた」戦場となった土地に咲く血のように赤いデイゴの花言葉は「夢」。夢を信じ続け希望を持ち続けて乗り越えて来た歴史があるから沖縄のこの島と人々は力強く美しいのかもしれない。
一陣の風が平和祈念公園の中、木々を揺らし駐車場へ向かう僕たちの体をすり抜けた。なぜかはわからないが風に乗って、あまり聴いた覚えがないThe Boomの「からたち野道」が聞こえたような気がした。
赤い実にくちびる染めて
空を見上げる
これ以上つらい日が来ませんようにと
飛び石踏んだ
からたち野道 花ふく小道
泣いたらだめよと虫の音小唄
からたち野道 はるかな小道
あの人のもとへと続く道
紅い血にくちびる噛んで
空を見上げる
もう二度とつらい日が来ませんようにと
まぶたを閉じた
からたち野道 垣根の小道
泣いたらだめよと沢の音小唄
からたち野道 はるかな小道
あの人の歌が聞こえた道
赤い実にくちびる染めて
空を見上げる
これ以上つらい日が来ませんようにと
飛び石踏んだ
からたち野道 草笛小道
泣いたらだめよとなずなの小唄
からたち野道 はるかな小道
あなたのもとへ駆けてゆきたい
ひとりぼっちの陽だまり小道
泣いたらだめよと虫の音小唄
からたち野道 あの日のままの
あなたのもとへ駆けてゆきたい
続く
2019年を振り返って004
向かいの店の軒先のテーブルに僕たちと同じ年くらいの男性二人が女性二人とテーブルを共有し談笑していた。どうやらナンパで成功したらしく男側はなんとか盛り上げようと大声と身振り手振りで頑張っている姿が見えた。女性の方は決して若くはなく、どっちかというといい年齢である、おそらく30後半に差し掛かっているくらいの年齢で何より巨乳を通り越して爆乳の持ち主だった。残念ながら顔面などその他は印象に残らなかったが、僕たちも酒を飲みながら暫し遠くからその爆乳を眺めていた。昨日最後に飲んだ女の子でも通りかかれば「あ、どうも」なんて言って近づくことが容易だが、その可能性にかけるのも勝算が低い。暫し男同士での飲みを楽しんだが、如何せん女性たちが通らない。大抵、カップルか家族づれ。とりあえずこのままこの屋台村に居座っても何も発展は望めないだろうということで一旦、屋台村を離れて国際通りを闊歩した。
21時を回ったがまだ人通りはまばらにあった。おそらくこれも7月8月はもっと人でごった返すんだろう、6月は混雑しなくてちょうどいいが、ナンパ目的ではお勧めできない。
気がつくと足が自然と昨日のクラブの方に向いていた。暗い階段を上がり重厚な扉を開けると昨日と同じようにまばらに数人の客がテーブルに座っているだけで店内には華麗なダンスを披露する海外ミュージシャンのプロモ映像が流れていた。僕たちはハイネケンを注文してしばらく店内のうるさい音楽に適当に身を任せていた。すると重厚な扉を開けて二人の若い女性が入ってきた。見た感じ20代前半のちょっとギャルっぽいファッションと化粧のまあまあ可愛い女性二人組だった。他にコンペティターがいない、絶好のチャンスだった。女性たちは店員に注文を告げるとスマホをいじり始めた。最近はみんな何か動作が終わると必ずスマホを見る。注文を終える、スマホを見る。お茶を一口、スマホを見る。便座に座る、スマホを見る。ラーメンを一口すする、スマホを見る。働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり、じっとスマホを見る。といった調子でスマホが体の一部になってしまっている。スティーブジョブス氏はこうなることを予言していたらしく家族にはあまりスマホに頼ることを良しとはしなかったという。電車でももはやスマホ見ていない人の方が圧倒的に少ない、そういえば昔に比べてチューイングガムの売り上げが下がったという、その原因の1つに昔は電車を待ってる時とか移動中に暇だからガムでも噛みながら音楽を聴いたりして暇を潰したからだという。好きな時にゲームもできるし、調べ物もできるしスマホがあればなんでも事足りてしまう。頭でっかちなおっさんにはなりたくないがなんでもスマホに頼りすぎるのもよくないというのは明白である。以前にウィリーさんとコリドーでナンパをしている時に、その日は特に何も戦績がなく諦めてタクシーで帰ろうと東銀座の方まで歩いて帰っていた。時刻は深夜1時を回っていてその時は寒い冬だった。あるシャッターが降りたお店の前に若い女の子が寒そうにダウンコートに身を包みボーッと突っ立っていた。ウィリーさんが「どうしたの?」と声をかけると友達を待っているという。どうやら18時くらいからずっと待っているらしい、つまり7時間近くこの場所で突っ立っているというのだ。なんとなく東銀座駅近くのこの通りのあの辺みたいな曖昧な集合場所にしてしまったらしく、さらに不運なことにスマホの電池がなくなってしまったのだという。この子はどうやら地方から遊びに来ていてその友達の家に止めてもらうのだが、どうしていいかわからず友達が自分を探してくれるまでこの場所でずっと7時間も突っ立っていたという。この子は曖昧な場所を指定してもまあスマホで調べればいいかくらいに思っていたのだろう。しかしその命綱であるスマホの充電がまさかなくなるとは予想していなかったのだろう、結果寒空の下で7時間も棒立ち。なんだか悲しい気持ちになった、スマホがないとどうしていいかわからない、自分が危機的状況に陥ってもそれを対処する方法もスマホで調べないとこの子はわからないのだ。おそらく「スマホの電池切れたらどうしよう?調べてみよう、あ、電池ないんだった」というなんともお後が宜しいような展開。ずっとこの寒い中外で待ってないで、どこかカフェに入るとか思いつかなかったのだろうか?カフェにコンセントを用意しているところもあるし、もっと考えればドコモショップとかで事情を話せば無料で充電させてくれたりするはず。僕はさっさとその女の子の目の前にあるコンビニで乾電池で充電ができるタイプの使い捨て充電器を買ってきてやり、彼女のスマホを生き返らせてやった。スマホばかりに頼りすぎて自分の頭で考える癖がないとスマホが使えない時にまさにこのような何もできない事態に陥る、それを目の当たりにしたある意味貴重な体験だった。おそらくスマホと共に生きていきた若い世代は「何かあったらスマホで調べればいい」という認識があるのだと思う。その結果、知識として蓄積されにくいだろう。次から次へと右から左に情報が入っては抜けていくから身に付くということにならないだろう。何か疑問に思ったことをすぐに調べられることはいいことだ、知識欲が旺盛なのもいい、ただこの子のようにいざスマホが使えなくなって何もできなくなるということにはならないでもらいたい。スマホがないと時間も潰せないとか、そんな大人になっちゃいけない。ウィリーさんは尊敬する中島らもの言葉引用して「教養とは学歴ではなく一人で時間を潰すことができる能力である」と。スマホがあれば誰だって時間を潰せるでもそれを取り上げられたらあなたは他に時間を潰せるだろうか?
閑話休題
二人のちょいギャル風の女性に自然と近寄っていくウィリーさん、少し会話を交わしたが程なくしてウィリーさんはこっちに戻ってきた。どうやら彼女たちはこれからタクシーでどこかもっと騒げるところに行くらしい。おそらくここよりももっとクラブっぽいところがあるのだろう。次に予定が明確に埋まっている女性は深追いをしないのがウィリーさんのやり方である。そこで粘ってもただのしつこい男に成り下がってしまう。ハイネケンももう飲み切ってしまい、ここにいても特に次の発展が望めなかった僕たちは店を後にし、湿気の多い国際通りに舞い戻った。特にあてがない僕たちはこれ以上屋台村や国際通りを行き来するだけではもったいないので夜の沖縄の街を散歩に行くことにした。旅行に来たからにはそのご当地の食べ物を食べて、観光スポットを回って、その土地の風土に触れることは大事にしたい。よく旅行に来てもラーメンだけしか食べないとかせっかく海外来たのに日本食レストランに行ったり特に街を散策したりはせず滞在ホテルの付近を10分くらいプラプラするだけ、中にはホテルから一歩も出ない人がいるがなんてもったいないのだ。僕はせっかく来たからにはその土地の有名な食べ物を不味くてもとりあえず食べてみるし、観光で有名ならそこに行って写真の1つでも記念に撮って帰る。そういうことをせず移動だけで疲れて何もしないなんてつまらない、その点ウィリーさんは一人でドイツ、ネパール、メキシコ、タイ、ベトナム、しまいには国際免許を取得してアメリカを車で一人で旅して回ったりもするくらいの行動派だ。前置きはこれくらいにして簡単にいうと風俗街に行ってみたいというのが我々の目的だ。国際どおりからそう遠くないところに「松山」と呼ばれる有名な風俗街がある。僕たちは酔いに任せて風俗街を目指した。
22時も後半に差し掛かっていて国際どおりから外れるとすっかり街は夜の静寂に包まれていて、国際通りから5分も歩いていけばすっかり人の通りは減ってしまう。松山方面へ歩くと街の中に小さな川が流れていたいわゆるドブ川のように街の下を流れる汚れた川でもちろん柵で整備されている。その川の上はモノレールが通っていた、ゆいレールと呼ばれる線である。この川沿いを暫し歩いていると何やら怪しい看板の店が現れた。看板には「ケツの穴」と書かれていた。そっち系の店があるのはまだまだ先なのになぜこんなところに?しかも名前が町田康の小説に出てきそうな強烈なセンスだ。怪しい空気は満々だが後で調べたらどうもここはケツメイシにゆかりがあるmusic barでだいぶまともな酒飲みのお店らしい。紛らわしすぎる、僕たちも将来足立区あたりで「ア●ルインパクト」なるBarでも経営しようかと冗談を飛ばしながら松山を目指した。
どうやら気がつくと松山に入っているらしく、このドブ川の向こう側がもう松山のエリアらしい。風俗街、歓楽街と聞いて想像するのは新宿歌舞伎町のような豪華絢爛なネオンと大勢の人でごった返しているイメージだが、ネオンも控えめで尚且つ建物の造形たちもかなり控え目で普通の6Fくらいの雑居ビルのような建物が車がほとんど通らない三車線くらいある大きな通りの両側に立ち並んでいて、時々「いらっしゃいませ」的な煌々とした目立つ看板がちらほらあり、中には普通の中華料理のお店なども営業していたりして妙な落ち着きを持った通りだった。人通りもそれほど多くなくというよりオフシーズンだから全くいないに等しく、僕たち30代の暇そうな男二人はこの街にしてみれば格好のカモだった。あまり客引きみたいなのはいないなあとしばらく歩を進めていくとだんだんとディープな街並みに変わっていった。さっきまでのはまだ序盤で奥に進んでいくとそれなりにいかにもキャバクラって感じのイタリック体フォントで書かれた外国人女性のような名前の店名の数々が軒を連ねていた。すると餌に群がる生簀の鯉のように客引きの男が寄ってきた。「お兄さん何系をお探しですか?」僕たちはお店に入る気はなかった、ただの見物客である。一応店のシステムと料金などを軽く聞いてみた。キャバクラ、ガールズバー、抜きありなどいろんなジャンルで選べますと怒涛のセールストーク。適当に「ちょっと考えます」とあしらうと今度は別の客引きが僕たちに寄ってきて「何系探してますか?」とまたくっついてきた。どうやらこの歓楽街では客の取り合いみたいなことはせず、キャバクラならあの人、抜きたいならあの人みたいにそれぞれ役割分担が決まっているようでお互いに助け合っているようだった。なるほど、ここにもみんなで助け合おうユイマール精神が根付いているのだと感心した。
適当にプラプラ歩いてみたが客引きも「そろそろ決めてくださいよ~」という感じで僕たちを離してくれなかった。「うーん、ちょっと二人で作戦会議します」みたいに言ってタクシーに乗って逃げようとした。するとどうやらそのタクシーはいわゆるこれからホテヘルとかの利用のためだけのタクシーで僕たちのように普通のホテルに泊まっている人の宿泊先までは行ってくれないという。危ない、危ない、変なところに連れて行かれるところだった。とりあえず、僕たちは通り沿いまででていきそこでタクシーを拾った。時刻は23時過ぎていてそろそろ35歳の老体には堪えた。ホテルについて一息つくとどうやらウィリーさんはスイッチが入ってしまったらしく「ちょっと散歩」といって外に出てしまった。どうやらこのホテルの界隈は実は看板を出してない風俗街らしく、さっきの歓楽街よりかなり裏方面な営業をしているようだった。ウィリーさんは散歩がてらホテルの裏路地辺りをふらふら歩いていると、確かに「無料案内所」なるものが構えてあった。ウィリーさんが情報収集と立ち話をしているとどうやらこの時期のこの時間に観光客がいるのが珍しいらしくその界隈の案内所各地で観光客が一人店を探して出歩いてるという情報がジョン・ウィックの如く一斉に配信されたらしく「お兄さんこっちはどう?」「いや、うちは可愛い子いるよ」など30分くらい散歩して帰ってきたがいろんな客引きに絡まれたとだいぶ疲れた顔をしていた。とりあえず、夜の歓楽街も堪能したし明日に備えて眠ることにした。
翌日、今日はもう東京へ帰る日だ。小さい頃は旅行となると全く異世界に入ってるような時間概念でまるで自分のいつもの学校生活の世界の時間が家の玄関を開けて中に入るまでずっと今まで停止していたような錯覚を感じていたが、大人になるにつれ自分で好きなところに好きにいけるようになるとなんだかそういう不思議さも薄れていく。そんなことを感じるたびに自分はどんどん大人になっているんだなと少し切ない気持ちになる。この日の朝も僕はそんな気持ちに浸っていた。帰りたくないけど、時間は止まってくれないのだ。僕たちは顔を洗ってもちろん歯をしっかりと磨いてからホテルを出て車を走らせた。相変わらずの晴天で沖縄の島が僕たちの帰りを気持ちよく見送ってくれているようなそんな幸福感を覚えた。でも、今日の僕たちはそんなリゾート気分とは違うシリアスなアクティビティをする予定でいた。糸満市という沖縄本島南部に僕たちの目指す平和祈念公園はあった。この平和祈念公園は「沖縄戦終焉の地」である糸満市に設立された。31キロ平方メートルの広大な場所に祈念資料館と平和祈念堂そして広大な敷地に並ぶ平和の礎などが設置されていた。まだ朝の10時だからか駐車場はガラガラで客もあまりきていない様子だった。僕たちは広い公園を平和祈念資料館の方を目標に歩いて行った。白い壁と西洋風の赤茶色の屋根の平和祈念資料館の目の前には扇型に広がる広場によく手入れされた芝生、草木、花などがそこここに植えられていて等間隔にきれいに磨かれた石碑が置かれていた。そこには多くの人たちの名前が数え切れないほど刻まれていた。ちょうどAvengers End Gameでサノスに消されてしまった人たちの名前が刻まれている石碑のシーンがあったと思うがそれと同じ光景だった。この名前は沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を刻んだ祈念碑である。現在も追加で刻銘することを受け付けておりおよそ24万人ほどの名前が刻まれている。中には日本人ではなく韓国や中国の人の名前も刻まれていた。痛ましいのが名前ももらえなかった赤子まで刻まれてあった。僕たちは暫し自分のペースでゆっくりとその石碑を見て回った。言葉が出ない、軽い言葉を出すことすら憚れるようなそんな雰囲気だった。空は真っ青な夏空で降り注ぐ太陽の光が草木を照らしてはその生命力を助長し緑が萌えていく傍で漆黒の石碑は草木の葉が揺れるだけの静寂の中でその背負った歴史の重みそのままにそこに存在しているのだった。
ウィリーさんは予てから沖縄戦についてずっと思いを寄せていた。沖縄戦は1945年、第二次世界大戦の終戦間近の4月頃から約3ヶ月にわたる戦いを沖縄戦と呼ばれている。第二次世界大戦は1939年から6年間に続く長期の戦争になったが、日本が介入し始めたのは1940年にドイツとイタリアと同盟を組んだことから参戦する形になっていった。今年「ジョジョラビット」というナチスドイツを題材にした映画が日本でもヒットして、ナチスのことが題材になるたびにみんな「ひどい国もあったもんだ」と他人事のように思うだろう、でも日本はそのナチスと同盟を組んでいた事をみんなあまり知らない。そして翌年1941年に日本はついにハワイの真珠湾を奇襲した、つまりいきなりアメリカを攻撃した、これにより日本はアメリカとイギリスに対し宣戦布告をした、そうこの歴史もあまり習ってないかもしれないが、日本は広島や長崎の原爆を経て結果的に敗戦したから「被害者」という意識が強いが、喧嘩を吹っかけたのは日本なのである。自分から仕掛けたけど負けたから被害者というイメージが定着していると思うとこの日本という国に少し疑問を覚えないだろうか?この真珠湾攻撃が第二次世界大戦の一部である太平洋戦争の始まりだ。沖縄戦はその戦いの最後の最後、戦争が終わる1945年8月15日、その直前の戦いということで日本がもう負ける寸前のボロボロの状態の戦いである。どれだけ苛烈で悲惨な状況だったことか。
続く
2019年を振り返って003
いつもの通り僕は助手席でウィリーさんは運転席、水納島のシュノーケリングは14:00くらいだったのでそれまで適当な観光地を回った。恩納村(おんなそん)と言うところに海を見下ろせる岬があるのでそこに行くことに。飛び出た岬にぽっかり丸い空洞が空いていて群青の綺麗な海と空に映えて息を飲む美しさだった。天気は快晴で帽子を持ってこなかったことを後悔した。水分をこまめに取りつつ車から降りて岬へ向かう途中でたくさんの観光客とすれ違った。その多くが韓国や中国の人たちだった、どれだけ日本はインバウンドに頼っているかがよくわかる。みんな日本に来てくれているのだ、お金を使ってくれているし本当に嫌いならこんなに遊びに来てくれないはずだ。九州に韓国人がよく訪れる観光地があると言う、そこの看板やメニューが丁寧に韓国語で書いてあるのを見て「ここは韓国かよ?」「ここは日本なんだから日本語で書けばいいじゃん」とネットで批判している奴がいるが、英語表記は良くてなんで韓国語はダメなのか?どうせ「英語はかっこいいから」とか「世界共通語だから」とか言うのかもしれないが明らかに韓国からのお客さんが多い場所なら何ら問題ないむしろ親切でいいじゃないか。英語の方がもっと多くの人に話されているとか屁理屈いうなら日本語より遥かに中国語の方が話されているから中国語も併記するべきではないか?思いあがってはいけない、日本語は日本という小さな島国でしか使えない言葉である。中国語なら台湾とかでも使えるし、世界中至る所にあるチャイナタウンでも使えるし、人口の多さから言って汎用性があるしスペイン語も使える場所が比較的多い。でも日本語は日本でしか使えない、それなのに日本に来たら日本語喋れとか旧日本軍みたいなことを言っておきながら何が白目を剥きながら「オ、モ、テ、ナ、シ」だ馬鹿野郎。
閑話休題
恩納村を後にし、僕たちは腹ごしらえにソーキソバの有名なお店に行った。国道沿いにあるラーメン屋のようなドライブインタイプのお店に入ってソーキソバセットを注文。僕は汁物やラーメンが大好きなので是非ともこの名店のソーキソバが食べたかったのだ。黄金色のスープを飲むと薄口のそれでいてしっかりと出汁が効いた風味が口いっぱいに広がって前日の屋台村で飲み過ぎた胃を癒してくれた。東京の沖縄料理屋でソーキソバを食べたことは何度もあるが、ここの味は格別にうまかった。今まで食べた中で間違いなく一番である。お土産に買って帰りたいくらいだったので、通販の申込の紙だけもらって店を後にした。
12:30を周り、水納島へこのまま行くのも時間が中途半端だったので食後のコーヒーを飲みに行くことにした。ガイドブックに載っていた丘の上のほうにある洒落たカフェに行ってみた。36歳のおじさん二人が女子が出会い系サイトの趣味の欄に必ず書く「カフェ巡り」実行である。かなり急な坂を車で上がって細い路地を曲がった先にそのカフェはあった。いわゆる古民家風カフェで木造の家を改築しそれに付随していた広めの庭にもさらに観葉植物などを植えて木造テーブルやハンモックなどを取り付けた開放的なカフェだった。丘の上なので海を見下ろすことができその日は天気も良く遠い離れた小島まで見渡せた。僕たちはアイスコーヒーを頼んで暫し風に身を任せるようにゆったりと時間を過ごしたと言いたいとこだがこの後の水納島への移動距離を考えて20分ほどくつろいで移動となった。
水納島へはフェリーで移動する。その島はクロワッサンの形をした小さな島で港からフェリーで20分くらいのところにある。ウィリーさんの算段はこういうツアーに参加する女子二人組と同じツアーとアクティビティを通して仲良くなるという作戦、いわゆる吊り橋効果だ。さらに孤島にいることで特にやることもなく一緒に島を散策とか簡単に口実をつけて近づくことができる。そんな淡い期待を胸に僕たちはフェリーに乗って水納島へ向かった。フェリーは80人くらいが乗れる中型の船で3人がけの椅子が3列横に並んでいて通路もしっかりと幅を確保している非常に快適なフェリーだった。しかし、乗っている人が少ない、パッと見て10人ちょっとしかいない。水納島付近の空模様と同じように僕たちの顔も曇り始めていた。どう見ても若い女性がいないのだ。カップルが1組、四人親子連れが1組、そして日本人と外国人のカップルが1組とオハラ&ウィリーのタッグである。しばし嫌な予感を感じ始めウィリーさんはその名前の由来通り燃えよドラゴンのウィリーが香港からボロ船でハンの島に到着寸前の時のような眉間にシワを寄せてだんだんと近づいてくる水納島を見つめていた。フェリーに乗って20分もしないうちに水納島についた。柔らかくてサラサラの細かい砂のビーチに降り立ってすぐに小さな海の家が見えた。海の家というかもはや藁葺きの小屋でそこに3~4人の日焼けした茶髪の若い男女のスタッフがウェットスーツやシュノーケリングの道具などを干したり道具の手入れなどをせっせとこなしていた。その小屋以外はずっと向こうまで広がる砂浜と小屋の後ろは手付かずの植物や海風でやられた背の低い枯れ木があるだけであとは島の奥に続く緩い登り坂があった。小屋の横には船が着くまでの待合所としてコンクリートの小さな建物が拵えてあった。お店やレストランなどは全くなく、自動販売機が一台置いてあるだけで住んでいる人も10人いるかいないかの小さな島だった。荷物を置く間もなく僕たちは小屋に向かって従業員にシュノーケリングを予約した旨を告げるとウェットスーツを貸してくれた。ちょうどそのスーツがAvengers End GameのTime Heist衣装に似ていたのでウィリーさんと一緒にAvengersっぽくポーズを決めて写真をとった。ちなみにウィリーさんはマイティーソーのファンで僕はドクターストレンジのファンである。女性のスタッフに先導され僕たちはボートに乗り込んだ、これからシュノーケリングのスポットまでボートで移動してそこから海を泳ぐ、おおよそ一時間ほどのコースだ。親愛なる読者のみなさまはもう気付いているかもしれないが、若い女性は一人もいない。完全に僕らの読みは間違った。そう僕たちは平日に有給を使ってきているのだ、ただでさえ旅行者が少ない時にこんな水納島なんていう穴場にくる若い女子がいるわけがない。普通女子はせいぜい王道な観光コースをぐるっとするだけ、あとはホテル前のビーチで寝そべってピニャコラーダとお互いの顔を寄せ合いながら写真を撮ってインスタに載せてヤシガニの死骸を見つけてはキモいと言いつつ写真をパシャリとそんなもんである。読みは間違えたが、せっかくきたからには楽しもうと久々のシュノーケリングに僕は胸を躍らせた。
ビーチから10分ほどボートを走らせ水納島の全体が見渡せるくらいの沖合までくるとシュノーケリングのゴーグルを装着し着水した。海面に顔をつけて中を覗くとコバルトブルーの世界の中を色とりどりの魚たちが踊っていた。大小様々、色や柄もそれぞれ個性的で敷居も国境も人種もないみんな自由に泳いでいる世界が広がっていた。魚肉ソーセージをパラパラと指で砕いてやると一斉にネオンカラーの魚たちが僕の指先に集まってきて我先にと食らいついてくる。天気は曇り空だったが時々雲の隙間から差し込む太陽の光がふわっと漂うまるで光のカーテンのように海中を照らし、今にも美しいマーメイド達が岩陰からはしゃぎながら出てきそうだった。こんなきれいな海をずっと眺められたらなとうっとりしながら海中をしばらく漂った。沖縄に勝手に移り住んで暮らしている人がたくさんいるらしい、その気持ちもよくわかる。この美しい海と開放的な空気、家賃や生活費もそこまで高くないらしいから最低限の賃金でもなんとか暮らしていける。でもこの空気に飲まれれば大儲けしたりお金に執着することが愚かにも思える。この美しい海と自然は金では買えないのだ。でも楽なことばかりじゃない、台風が毎年襲ってくる沖縄はそれこそ命がけで生き延びないといけない時期が毎年やってくる、その自然の脅威とも共存しないといけないのだ。この美しい海も今は煌びやかだが夜になれば光のない漆黒の闇、その暗闇でどんな獰猛な生物が牙を光らせているかわからない。自然は息を飲む美しさと自由と引き換えに死の危険と隣り合わせでもあるのだ。
ギャルと戯れることは叶わなかったが、魚たちと戯れ満足した我々は一旦ビーチに戻った。困ったことにシュノーケリングが終わると次の船が来るまで1時間以上、やることがなかった。これで女子二人組でもいれば、一緒に島を回ろうとか如何様にもできたのだが、仕方なく僕たちは島を散策して見ることにした。ビーチの藁葺き小屋の隣から島の奥へと伸びる緩やかな坂を登ると一応申し訳程度に道が整備されていていくつかの分かれ道になっていた。とりあえず適当に歩を進めていくと右手に3F建くらいの大きな建物と小さなグラウンドが見えた、学校である。教室の数はおそらく5室くらいしかない小さな学校だった。もうこの島の子供は通っていないだろう、少子化が進んですっかりこの建物は一時避難場所としてしか機能していないのかもしれない。10分も歩くともう島の反対側にたどり着いてしまいこちらは先ほどのビーチと違い、岩がゴロゴロと転がっていて強い風が波を乱暴に運んで岩に打ち続けていてその先の水平線が果てしなく続いている様がなんだかこの荒廃した風景がどこまでも続いているような恐ろしさを感じた。今にもこの岩間と波の間から被弾して苦しんでいるなんの罪も無い沖縄の民間人が体を引きずりながらこちらに助けを求めてきそうなそんな感じがしてたじろいだ。1945年の第二次世界大戦の本当に最後の方で沖縄は戦争に巻き込まれた。日本は圧倒的に負けていた、その最後のもう精神だけで戦うしかないそんな状況で沖縄を拠点として日本軍は戦った。「最後の最後まで戦った」と聞けば美談かもしれないけど明らかに負けそうなのに、一般市民が暮らしている沖縄にいきなり基地をおいてなんの罪もない民間人を巻き添えにして多くの犠牲を出したことが果たしてよかったのか?自分がこの水納島のような沖縄の小さな島で平和に暮らしていたところにいきなり銃を持った兵隊が来て戦争に巻き込まれたらと思うとゾッとした。先ほどのきれいな海とは反対側の激しく波打つこの海岸が沖縄の美しさ華やかさとは真逆の沖縄の知られざる悲惨な歴史を物語っているような気がした。この翌日、僕たちは平和記念公園を訪れるがもっと悲惨で凄絶な戦争の歴史を目の当たりにすることになる。
ようやく到着したフェリーに乗って僕たちは沖縄本島に戻った。久しぶりの水泳ですっかり体は疲れていたがウィリーさんの体力は無尽蔵で全く疲れた様子を見せず車に乗り込むとアクセルを踏んだ。もう17時になっていて、あたりは薄暗くなり始め、しばらくすると突然の大雨が僕たちを襲った。熱帯の地域の天気は変わりやすい、高速道路を走っているとまさにバケツをひっくり返したように絶え間ない大雨が降ってきた。この後の予定は何もない、ただ僕たちにはあそこしかないよなという共通認識があった。それは国際通りの屋台村である。ホテルに到着し荷物を置くと少しベッドに横なって目を瞑った。微睡の中でこの旅行は僕のBachelor旅行であることを思い出した。でも、そんなのは口実でただ単にこうしてウィリーさんと旅行に来れればそれでいいのだ。8月に彼女と入籍して二人で一緒に暮らすことになるだろう。健やかな時も病める時も愛し続けることを誓うのだ。子供ができたらもうこんなふうに友達と旅行に出かけるなんてできなくなるだろう。僕の好きな映画「ロストイントランスレーション」で子供ができたら自分の今まで慣れ親しんだ人生はそこでおしまい、もう二度と帰ってこない、今度は本当の意味で人のために生きないといけなくなる。でも、その子供が歩き出したり言葉を覚えていくとだんだんとその成長を見守るのが楽しみになっていくというセリフがあった。この映画を鑑賞したのは23歳の時だったけど、このセリフがずっと僕の頭にこびりついている。あの空気感漂う独特のタッチで何か人生への希望とも諦めとも言えない不思議なこのセリフが妙に突き刺さった。僕も将来同じように思うのだろうか?その答えがもうすぐ出るのかもしれない。
少し眠ってしまったようで19:30を回っていた。僕たちは軽く整髪し身なりを整えて外に繰り出した。もちろん歯は磨いてある。タクシーに乗って昨日と全く同じコースを辿った。国際通りまで来ると僕たちは屋台村に一目散に入っていった、というのもこの屋台村も陣地を固めないと良いファイトはできない、できれば騒音と熱気覚悟で屋台村の入り口の外テーブルに陣地を構えるのがベストだった。入り口付近なら新しく入ってきた女子たちをささっとこちらに誘導できるからだ。相変わらず賑わっていて、入り口付近の飲み屋はすでに満席である。仕方なしに奥に進むも、実はこの屋台村はそんなに広くないので入り口を抜けると後は昨日飲んだお店が顔を出しその先に5~6件居酒屋が連なっているだけだった。取り急ぎ昨日とは違うお店に入り焼き鳥を頼んだ。もちろん乾杯はオリオンビールである。正直、若い女子だけの組み合わせはあまりいなかった。というのも何度もいうがオフシーズンなので観光客そのものがそこまで多くはない、おそらく7月8月はもっと人でごった返しているのだろう。でも今は全体数が少ないので必然釣り糸に食いつけば水面から引き上げるのは容易だろうがその肝心の魚がいない状態。入り口付近のテーブル席でいい感じのギャル二人組をゲットしていた40手前ぐらいのマッチョ系の男二人組がいたが、正直それ以外はというと対象となる魚はおらず、僕たちは暫し野郎二人だけの酒を楽しんだ。
続く
