『卑弥呼と台与の真実』 その1 川崎一水
1 倭人とその王たち
いわゆる〝魏志倭人伝〟とは中国の正史である『三国志』の中の「魏書」第三十巻烏丸鮮卑東夷伝のなかの倭人条のことをいう。そしてそこには、倭人の主な盟主が邪馬台国であり、その王は女性であり、〝卑弥呼〟というと書かれている。そしてその死後には、やはり女性である〝台与〟が王となったと書かれている。
つまりそこには〝倭国〟という国はなく、多くの倭人の国があって、その中の盟主のような国が邪馬台国であり、その邪馬台国を盟主と思わない国々もあったということが書かれている。そしてその代表的な国に狗奴国と呼ばれる国があったとある。そして、狗奴国の王は〝卑弥弓呼〟というともある。ここに書かれている狗奴国の王は卑弥弓呼とあるが、その中の〝弓〟の文字は〝弖〟ではないかとも考えられる。なぜなら、『三国志』の著者といわれる西晋の陳寿は、もとの〝原稿〟を草書体で書いたといわれ、楷書で書かれるべき正史として清書される時点において、草書体から楷書体に書き直されたといわれる。ここに誤字が生まれた原因があるともいわれる。
マイピックにも載せている井上悦文氏の『草書体から解く邪馬台国の謎』にもあるように、対馬が〝対海〟になっていたり、一支(壱岐)が〝一大〟になっていたり、肝心の邪馬臺国(邪馬台国)が〝邪馬壹国〟になっていたりしているのはそれが原因とも考えられている。そのため、卑弥弓呼の弓の字も〝弖〟の可能性もあるのではないかと思われるからである。
また、卑弥呼も卑弥弓呼(卑弥弖呼)も最後に、〝呼〟の文字がついている。このことについては次のことが考えられる。それは陳寿がもともとあった『魏略』をもとに〝原稿〟を書いたのではないかともいわれていることから、陳寿が書いた文章は以前に卑弥呼が魏の国に使者を送ってきたときにその朝見の様子を書き留めた文章から書き起こしたものである文章をさらに書き写したものと考えられる。つまり、聞き取り調書から書き起こした文章であるということである。例えば、後の〝宋書倭国伝〟に「日本国は倭の別種」あるいは「日本国は元は倭の小国」であったなどと書かれているように、中国側の解釈で書かれているのであって、邪馬台国または日本国からの上表文から引いたものではないということである。つまり、この〝~呼〟の意味は〝~と呼ばれている〟という意味にもとれる。〝呼〟の文字を動詞とすると中国語はSVOCであるから「S呼卑弥」となるが、Sがない場合には「卑弥呼」で「卑弥と呼ばれる」の意味にもなるという。その考え方をすれば、卑弥弓呼(卑弥弖呼)は「卑弥弓(卑弥弖)と呼ばれる」になる。この場合、「卑弥」は「ひみ(ピミ)」であり、「卑弥弓(卑弥弖)」は「ひみく(ピミク)」または「ひみて(ピミテ)」とも読める。とはいえ、これらの発音は日本の現代の発音であり、中国で言えば漢音・呉音というように漢や呉の時代の発音であって、当時の発音ではない。当時の発音は、中国の地方によっても異なると思われるが中古の発音であったといわれる。これらのことから、「卑弥」は日本語の発音で言えば「ヒメ」であり、「卑弥呼」は「ヒメと呼ばれる」であり、「卑弥弓(卑弥弖)」は「ヒメク(ヒメテ)」であり、「卑弥弓呼(卑弥弖呼)」は「ヒメク(ヒメテ)と呼ばれる」となるのかもしれない。「ヒメク(ヒメテ)」は「ヒク(ヒコ)」または「ヒテ(ヒト)」かもしれない。
邪馬台国に属さない狗奴国の官は「狗古智卑狗」ともあり、「狗奴国のコチヒコ(カツヒコ)」と読める。
ちなみに「左沢」と書いて「あてらさわ」と詠む。また、「左右良」と書いて「あてら」と読む。これらも草書体の「麻氐良(まてら)」は「左右良」と書かれているように見える。つまり、「まてら(あまてら)」は「さゆら」と書かれる。ここに謎が一つ解明された。九州にある「左右良布神社」は「麻氐良布(あまてらす)神社」であり、「あさくら神社」とも呼ばれるものであることがわかっている(註)。イザナギが〝左目〟を洗って現れた神が〝麻氐良布(アマテラス)〟であった。
卑弥呼は、一般には「ひめみこ」のことといわれるが、〝呼〟の文字に「みこ」の意味はないし、朝見時に「姫御子(ヒメ皇子)」と呼ぶはずもなく、ましてや上表文に「姫御子(ヒメ皇子)」と書くはずもない(当時の表記なら万葉仮名のようになっていたはずではある、それでもそのような一般名詞を書くはずはない。)。
中国に魏の国があった三世紀前半に倭人である邪馬台国の女王として朝貢した卑弥呼は祭祀王であって、一般の者には姿を見せず、女王を助け政務を行う男性である弟のみが女王と会うことができたと書かれている。
2 邪馬台国とその女王〝卑弥呼〟と〝台与〟
卑弥呼の生誕年は現存するどの史料にも明記されてはいない。しかし、一般には、卑弥呼が「少女」として王に擁立された後長く在位したこと、また「八十歳あまりで没した」と記されていることから、推定で西暦一七O年ごろに生まれた可能性が高いとされているが定かではない。また、卑弥呼の没年はおよそ二四七年~二四八年と推定されている。
また、台与は卑弥呼の死後、十三歳で女王になったと伝えられる。こちらも正確な生年はわかっていないが、「卑弥呼の死後、倭国が混乱し、台与(壹与)が十三歳で王となった」と記されているため、卑弥呼の没年から逆算し、台与は西暦二三五年ごろの生まれと考えられる。
ところがここに謎がある。
3 卑弥呼と台与の古墳
卑弥呼や台与の墓、すなわち古墳については、「卑弥呼は死後、大きな塚に葬られた」と書かれていることから、彼女の墓は大規模な古墳であったと考えられている。邪馬台国の所在地も諸説あり、古墳の候補地も定かではない。奈良県桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかという説がよく知られているが、台与の古墳については分かっていない。
ここにも謎がある。