『卑弥呼と台与の真実』   その5      川崎一水

 

 

 

3 卑弥呼と台与の居た場所

 

 〝卑弥呼〟とはだれか?

 

 つづき

 

 そして、ヤマトトトヒモモソヒメの古墳には〝ヤマトモモソヒメ〟と書かれる。

〝トヒ〟だけでなく、〝トトヒ〟自体がなくなっている。これはどういうことか?

 

 

 

 卑弥呼や台与の墓、すなわち古墳については、魏志倭人伝には「卑弥呼は死後、大きな塚に葬られた」と書かれている。

 彼女らの墓は大規模な古墳であったと考えられている。しかし、邪馬台国の所在地は諸説あり、古墳の候補地も定かではない。一般には奈良県桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかといわれているが、これも確かなことではない。

 

 〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟が卑弥呼であったとしても、〝ヤマトモモソヒメ〟は〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟なのか?

 

 〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟は『日本書紀』での名であり、孝霊天皇の皇女といわれ、孝元天皇の姉か妹である。兄弟姉妹には吉備を平定した吉備津彦と稚武彦、千々速姫、彦五十狭芹彦、倭迹迹稚屋姫、彦狭島がいる。

 

 

 一説には倭迹速神浅茅原目妙姫と同一視されているともいわれるが、大水口宿禰と伊勢麻績君が同じ夢を見て、大物主の子孫であるオオタタネコを探し、オオモノヌシを祀らせた。そして、同様に倭大國魂を市磯長尾市に祀らせたという。

 

 どこかで聞いた話と同じ。このことの前に、崇神天皇は宮中に居たアマテラス大神と倭大国魂神を、疫病(祟り)のために宮中の外に出し、アマテラス大神は崇神天皇の娘であるトヨスキイリヒメに祀らせ、倭大國魂神はヌナキイリヒメに祀らせた。

 

 アマテラス大神ートヨスキイリヒメ        倭大國魂神ーヌナキイリヒメ

 

 大物主神    -オオタタネコ         倭大國魂神ー市磯長尾市

 

 大神神社                    大和神社 

 

  

 やはり、大物主はアマテラス。大神神社は天照大神神社ということに。そして、そこを祀ったのはトヨスキイリヒメ。

 

 卑弥呼の古墳が箸墓古墳であれば。台与の古墳は?

 

 ここにも謎がある。

 

 

 

 

 

 

 

 『卑弥呼と台与の真実』   その4      川崎一水

 

 

 

2 卑弥呼と台与

 

 〝卑弥呼〟とはだれか?

 

 つづき

 

 そしてここでの最大の謎、〝迹日〟とは何か?

 

 〝迹日〟は〝外日〟か?

 

 〝迹日〟は〝トヒ〟

 

 そもそも『日本書紀』よりも前に編纂された『古事記』には〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟とは書かれていない。〝ヤマトトモモソヒメ〟と書かれている。藤原不比等が中臣氏の都合のいいように書いたともいわれる『古事記』には『日本書紀』の〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟から〝トヒ〟が抜かれている。

 

 藤原不比等は〝トヒ〟を隠したかったのか?

 

 確かに、〝トヒ〟はよく隠されている。「外」、「等彌」、「登美」、「十三」、「外美」、「当美」ばかりではなく、「鳥見」、「鳥飛」、「宝」もそうであり、一般にはよく知られる「臣」も「富(冨)」もそうである。

 

 不比等の本当の名は〝史〟であったといわれる。本名は隠す。

 

 〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟の本名も隠された。

 

 〝トヒ〟とは「臣」であり「富(冨)」であった。おわかりのように中臣の「トミ」である。なぜこれがかくさなければならないのか。それにはさらに深いわけがある。それは最後に述べるとして、ここで明らかなことは、〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟の〝トヒ〟は「臣」と「富(富)」と同じ意味である「鳶」のことを示す言葉である。

 

 この「鳶」とは神武天皇を大和に導いた金鵄として描かれる〝ヤタガラス〟のことであると一般にはいわれる。熊野から大和に神武天皇を道案内した〝ヤタガラス〟は、『古事記』のなかではニニギノミコトの天孫降臨の際の「岐の神」である〝サルタヒコ〟にもなぞらえられている。「岐の神」である〝サルタヒコ〟は伊勢の神ではあるが、中臣氏の本拠である鹿島にも、富家の本拠である出雲にも祀られる。

 

 ところが神武天皇にはむかった敵は〝トミ〟のナガスネヒコである。『古事記』の中ではナガスネヒコの味方であったはずのニギハヤヒが神武天皇に帰順し、神武天皇は大和を平定する。〝トヒ〟である「鳶」でもある〝ヤタガラス〟は「トミ」でもあった。

 

 

 手前に述べたように、神武天皇は「トミ」である〝ヤタガラス〟によって大和に導かれた。つまり、もともと奈良盆地は大和であった。ただ読み方が違うだけで、当時の大和は「大倭」であった。「大倭」は「大輪」である。文字を「トミ」のときと同じように変えただけで、大和は「応和」であり「オオワ」であった。神武天皇は大和(ヤマト)ではなく「大和(オオワ)」に導かれたのであった。

 

 大神神社の宮司の方は言う「ここは出雲です。」と。つまり、ニギハヤヒもナガスネヒコも皆出雲の富家の流れをくむ者たちであり、いわゆる国譲りが行われるまでは奈良盆地を含む西日本全体が出雲の国であったことがわかる。そうして、国譲りの後、「トミ」は東へ東へと追われていくことになる。中臣は鹿島、『古事記』のなかの大毘古と建沼河別は“会津”へ。『古事記』のなかの〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟は〝ヤマトトモモソヒメ〟になってしまった。  

 

 

3 卑弥呼と台与の居た場所

 

 〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟のもとの名は〝ヤマトモモソヒメ〟であった。

 

 ここにも謎がある。

 

 

 

 

 

 『卑弥呼と台与の真実』   その3      川崎一水

 

 

2 卑弥呼と台与

 

〝卑弥呼〟とはだれか?

 

 卑弥呼の本名は一般には〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟といわれている。〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟は『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫と書かれる。これは〝十十日百回世襲する大和の姫〟の意味である。つまりこれも本名ではない。あえていえば〝迹迹日姫〟か〝百襲姫〟が本名に近いものになる。

 

 ところが『古事記』では〝ヤマトトモモソビメ〟と書かれる。漢字では万葉仮名のように〝夜麻登〟+〝迹〟+〝母母曽毘賣〟と書かれ、『日本書紀』では〝迹迹日〟と書かれていたものが〝迹〟だけになっている。〝迹〟が〝十〟であれば〝迹迹〟は〝十十〟であるから〝迹〟を一回、つまり〝十〟減らされたことになる。さらには、〝日〟もなくなっているから、〝迹〟一個では10×100回世襲するだけとなる。『日本書紀』では〝迹迹日〟であるから、十十日×100回世襲である。ここに謎がある。

 

 『古事記』が〝迹〟だけのところを『日本書紀〟は〝迹迹日〟にしていることについては、『日本書紀』は対中国向けに〝迹迹日〟にして数を多くして〝はったりをかました〟という説もある。しかしながら、別の角度からみると、『日本書紀』は「一書に曰く」という書き方で、各氏族の意見を取り入れた形になっていることから、「一書」のなかには〝はったり〟はないともいえる。

 

 よく見てみると文字が増えているのは、〝迹〟が〝迹迹日〟になっているのであるから〝迹日〟の部分である。この意味が〝10日〟であるというのはよく考えると不自然でもある。ここに謎がある。

 

 

 『古事記』は『日本書紀』とは異なり、稗田阿礼という一人の人物の話を書いている。そのため、いわば最大公約数的ともいえる書き方となり、忌部氏はそれに不満で『古語拾遺』を作ったといわれる。それはつまり、忌部氏の関わる事柄として書かれるべきところが中臣氏の事柄に変えられていたためであった。ここから稗田阿礼は藤原不比等であったのではという説も出てくる。

 

 そしてここでの最大の謎、〝迹日〟とは何か?

 

 〝迹日〟は〝外日〟か?

 

 

 

 

 

 

 

 

 『卑弥呼と台与の真実』   その2      川崎一水

 

 

2 邪馬台国とその女王〝卑弥呼〟と〝台与〟

〝卑弥呼〟と〝台与〟

 卑弥呼の生誕年は現存するどの史料にも明記されてはいない。しかし、一般には、卑弥呼が「少女」として王に擁立された後長く在位したこと、また「八十歳あまりで没した」と記されていることから、推定で西暦一七O年ごろに生まれた可能性が高いとされているが定かではない。また、卑弥呼の没年はおよそ二四七年~二四八年と推定されている。また、台与は卑弥呼の死後、十三歳で女王になったと伝えられる人物である。こちらも正確な生年はわかっていないが、「卑弥呼の死後、倭国が混乱し、台与(壹与)が十三歳で王となった」と記されているため、卑弥呼の没年から逆算し、台与は西暦二三五年ごろの生まれと考えられる。しかしそこに謎がある。

 

 まず、卑弥呼の没年は二四七年か二四八年と推定されていると書いたが、果たしてそうなのか?異端説ではあるが、これは台与の没年という説がある。そして、卑弥呼の没弁は一八四年と。この説をまず検証してみる。

 魏志倭人伝にはこう書いてある。

 

   景初二年(二三八年)六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
   太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

 

 「景初二年(二三八年)六月に倭女王が太夫難升米等を使わして帯方郡に詣でて、天子への朝見に詣でることを求めた」そして「十二月に倭女王に詔書が出された」のであった。つまり、ここには「倭女王」と書かれており、「卑弥呼」とは書かれていない。そのためこの倭女王は「台与」である可能性もあることになる。しかし、卑弥呼の死がそのあとの文章に出てくること、また、それは「正始元年(二四〇年)の詔書印綬を奉るために倭国に詣で倭王に拝暇する」の後のさらに、「正始八年(二四七年)倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼素が不和であり、檄告喩した」後の文章であるため、卑弥呼の死は正始八年(二四七年)以降と一般には考えられている。

   

   正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 

   奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
   并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 

   倭王因使上表 荅謝詔恩

      中略

   其八年太守王頎到官
   倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 

   遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
   遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 

   拝假難升米 為檄告喩之

 

 たしかにそうとるのが普通である。しかし、難升米等は「卑弥呼が亡くなった」ことを報告したはずであるが、そうは書かれていない。「卑弥呼以て死す」だけである。つまり、一つには倭女王側からの報告ではないこと、また前にも述べたように、卑弥呼は固有名詞ではないこと、つまり、「ヒメが亡くなった」というだけの意味である。この「ヒメ」は「卑弥呼」とは限らない。

   

   卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

 ではなぜ、「台与」は「卑弥呼」と書かれていないのか?

 それは「年十三の台与」が「次の卑弥呼」になったからである。ではなぜ、「前の卑弥呼」の名は書かれていないのか?

 それは「ヒメ」と呼ばれていただけで、本名は明かさないのがふつうである。今でも天皇は本名では呼ばれない。「今上天皇」というだけである。しかし、次の天皇になったときには、「〇〇の宮▽▽」が天皇に即位した。」というはずだからである。つまり、「台与」も「卑弥呼」であったからである。

 

 ちなみに、魏志倭人伝には、「壹与」とあるが、これも「邪馬壹国」の場合と同じであり、「臺与」であり、「邪馬臺国」であった。なお、もともと日本の正史には「臺与」も「邪馬臺国」も出てこないので、「壹与」であっても、「邪馬壹国」であっても別に問題はないが、「卑弥呼」と同様に、「台与」だって本名ではないはず。

 

 本名ではない「台与」とはだれか?

 

 

 

 

 

 『卑弥呼と台与の真実』   その1      川崎一水

 

 

 

1 倭人とその王たち

 

 いわゆる〝魏志倭人伝〟とは中国の正史である『三国志』の中の「魏書」第三十巻烏丸鮮卑東夷伝のなかの倭人条のことをいう。そしてそこには、倭人の主な盟主が邪馬台国であり、その王は女性であり、〝卑弥呼〟というと書かれている。そしてその死後には、やはり女性である〝台与〟が王となったと書かれている。

 

 つまりそこには〝倭国〟という国はなく、多くの倭人の国があって、その中の盟主のような国が邪馬台国であり、その邪馬台国を盟主と思わない国々もあったということが書かれている。そしてその代表的な国に狗奴国と呼ばれる国があったとある。そして、狗奴国の王は〝卑弥弓呼〟というともある。ここに書かれている狗奴国の王は卑弥弓呼とあるが、その中の〝弓〟の文字は〝弖〟ではないかとも考えられる。なぜなら、『三国志』の著者といわれる西晋の陳寿は、もとの〝原稿〟を草書体で書いたといわれ、楷書で書かれるべき正史として清書される時点において、草書体から楷書体に書き直されたといわれる。ここに誤字が生まれた原因があるともいわれる。

 

 マイピックにも載せている井上悦文氏の『草書体から解く邪馬台国の謎』にもあるように、対馬が〝対海〟になっていたり、一支(壱岐)が〝一大〟になっていたり、肝心の邪馬臺国(邪馬台国)が〝邪馬壹国〟になっていたりしているのはそれが原因とも考えられている。そのため、卑弥弓呼の弓の字も〝弖〟の可能性もあるのではないかと思われるからである。

 

 また、卑弥呼も卑弥弓呼(卑弥弖呼)も最後に、〝呼〟の文字がついている。このことについては次のことが考えられる。それは陳寿がもともとあった『魏略』をもとに〝原稿〟を書いたのではないかともいわれていることから、陳寿が書いた文章は以前に卑弥呼が魏の国に使者を送ってきたときにその朝見の様子を書き留めた文章から書き起こしたものである文章をさらに書き写したものと考えられる。つまり、聞き取り調書から書き起こした文章であるということである。例えば、後の〝宋書倭国伝〟に「日本国は倭の別種」あるいは「日本国は元は倭の小国」であったなどと書かれているように、中国側の解釈で書かれているのであって、邪馬台国または日本国からの上表文から引いたものではないということである。つまり、この〝~呼〟の意味は〝~と呼ばれている〟という意味にもとれる。〝呼〟の文字を動詞とすると中国語はSVOCであるから「S呼卑弥」となるが、Sがない場合には「卑弥呼」で「卑弥と呼ばれる」の意味にもなるという。その考え方をすれば、卑弥弓呼(卑弥弖呼)は「卑弥弓(卑弥弖)と呼ばれる」になる。この場合、「卑弥」は「ひみ(ピミ)」であり、「卑弥弓(卑弥弖)」は「ひみく(ピミク)」または「ひみて(ピミテ)」とも読める。とはいえ、これらの発音は日本の現代の発音であり、中国で言えば漢音・呉音というように漢や呉の時代の発音であって、当時の発音ではない。当時の発音は、中国の地方によっても異なると思われるが中古の発音であったといわれる。これらのことから、「卑弥」は日本語の発音で言えば「ヒメ」であり、「卑弥呼」は「ヒメと呼ばれる」であり、「卑弥弓(卑弥弖)」は「ヒメク(ヒメテ)」であり、「卑弥弓呼(卑弥弖呼)」は「ヒメク(ヒメテ)と呼ばれる」となるのかもしれない。「ヒメク(ヒメテ)」は「ヒク(ヒコ)」または「ヒテ(ヒト)」かもしれない。

 邪馬台国に属さない狗奴国の官は「狗古智卑狗」ともあり、「狗奴国のコチヒコ(カツヒコ)」と読める。

 

 

 ちなみに「左沢」と書いて「あてらさわ」と詠む。また、「左右良」と書いて「あてら」と読む。これらも草書体の「麻氐良(まてら)」は「左右良」と書かれているように見える。つまり、「まてら(あまてら)」は「さゆら」と書かれる。ここに謎が一つ解明された。九州にある「左右良布神社」は「麻氐良布(あまてらす)神社」であり、「あさくら神社」とも呼ばれるものであることがわかっている(註)。イザナギが〝左目〟を洗って現れた神が〝麻氐良布(アマテラス)〟であった。

 

 

 卑弥呼は、一般には「ひめみこ」のことといわれるが、〝呼〟の文字に「みこ」の意味はないし、朝見時に「姫御子(ヒメ皇子)」と呼ぶはずもなく、ましてや上表文に「姫御子(ヒメ皇子)」と書くはずもない(当時の表記なら万葉仮名のようになっていたはずではある、それでもそのような一般名詞を書くはずはない。)。

 

 中国に魏の国があった三世紀前半に倭人である邪馬台国の女王として朝貢した卑弥呼は祭祀王であって、一般の者には姿を見せず、女王を助け政務を行う男性である弟のみが女王と会うことができたと書かれている。

 

2 邪馬台国とその女王〝卑弥呼〟と〝台与〟

 卑弥呼の生誕年は現存するどの史料にも明記されてはいない。しかし、一般には、卑弥呼が「少女」として王に擁立された後長く在位したこと、また「八十歳あまりで没した」と記されていることから、推定で西暦一七O年ごろに生まれた可能性が高いとされているが定かではない。また、卑弥呼の没年はおよそ二四七年~二四八年と推定されている。

 また、台与は卑弥呼の死後、十三歳で女王になったと伝えられる。こちらも正確な生年はわかっていないが、「卑弥呼の死後、倭国が混乱し、台与(壹与)が十三歳で王となった」と記されているため、卑弥呼の没年から逆算し、台与は西暦二三五年ごろの生まれと考えられる。

 

 ところがここに謎がある。

3 卑弥呼と台与の古墳

 卑弥呼や台与の墓、すなわち古墳については、「卑弥呼は死後、大きな塚に葬られた」と書かれていることから、彼女の墓は大規模な古墳であったと考えられている。邪馬台国の所在地も諸説あり、古墳の候補地も定かではない。奈良県桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかという説がよく知られているが、台与の古墳については分かっていない。

 

 ここにも謎がある。