ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド 12 「熱田神宮」と「天叢雲剣(草薙剣)」その2  川崎一水 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド 12 「熱田神宮」と「天叢雲剣(草薙剣)」その2  川崎一水

 

 「熱田神宮」と「天叢雲剣(草薙剣)」 

 

  

 熱田神宮は尾張国三宮であり一宮ではない。尾張国一宮は天火明を祀る真清田神社である。天火明の本名は「大年オオドシ」である。彼の名前はたくさんある。「天照国照彦火明櫛玉饒速日」と呼ばれる。スサノヲの三男である。熱田神宮の境内摂社御田神社にも祀られている。そして、その御祭神名はかくされている八剣宮にも。

 草薙剣を祀る熱田神宮と天照を祀る八剣宮

 

 

 草薙剣をヤマトタケル(小碓)から預かり祀ったミヤズヒメ(熱田神宮巫女)は尾張家・海部家の娘であった。もともと尾張家と海部家は同族であり、海村雲(天村雲)を祖とする。熱田神宮の脇には上知我麻神社と下知我麻神社とがあり、それぞれ上知我麻神社には乎止與が、下知我麻神社には真敷刀俾が祀られる。ミヤズヒメの父と母である。

上知我麻神社と下知我麻神社

 

 

 スサノヲの子孫が出雲からヤマトに移り畿内でヤマト王国を作ったが、東出雲王家である富家の一部が葛城山東麓に移り住み、西出雲王家である神門臣家の一部が葛城山南部に移り住んだという。そのときの初代王は海村雲(天叢雲)であった。後に丹後の海部氏となる。ヤマトに来た富家は磯城登美家となり、葛城一言主を葛城一言主神社に、事代主(八重波都身ヤエナミツミ)を鴨都波神社に祀った。また神門臣家は高鴨神社に阿治志貴高日子根(味耜高彦根アジスキタカヒコネ)をタカテルヒメ・シタテルヒメを葛木御年神社に祀ったという。

 

 

 その後、九州から四国の南岸を経由して物部一族が紀伊半島に上陸した。その中には五瀬とウマシマジがいたといわれる。大彦を中心とした先住の畿内出雲族との戦いで五瀬は亡くなったという。その後は、畿内出雲族側も物部の攻撃を嫌い、フト二(孝霊天皇)らは吉備に、大彦は伊賀に移ったといわれる。

 

 

 ウマシマジら物部族は紀伊半島の紀ノ川沿線では大彦を中心とする畿内ヤマトの出雲族に敗れたが、その後は南部の新宮から熊野川を上り吉野を経由してヤマトに入り、橿原に落ち着いたという。道案内をしたのは太田タネヒコであるといわれる。出雲族の富家の一部が畿内ヤマトに移り磯城登美家となったが、太田家は登美家の分家であった。太田タネヒコは堺の太田の杜付近に居た。陶荒田神社に祀られるという。太田タネヒコは大直禰子とも書かれ、大神神社の摂社若宮社にも祀られる。また、‟神武天皇”ことウマシマジを導いたということで登美(鳶・金鵄)とも呼ばれる。また、アジスキタカヒコネと同様に八咫烏とも呼ばれる。熊野速玉大社には八咫烏神社がある。

熊野速玉神社摂社八咫烏神社と大神神社摂社若宮社(大直禰子を祀る)とヤタガラス

 

 畿内ヤマトに居た出雲族の登美家は、ウマシマジら物部族が南からヤマトに侵入したために押された形で北に移動し、生駒山から矢田山東麓に移った。今の奈良市富雄丸山遺跡付近である。当時の王フト二(孝霊天皇)らは吉備に移り、大彦は伊賀に移ったという。

 

 

 古事記日本書紀では初代天皇をカムヤマトイワレヒコとしたが、実は海村雲(天村雲)のことであったともいわれ、そして大年オオドシは海家の五十猛(香語山・籠山)であったともいわれる。オオドシこと五十猛(籠山・香語山)は丹後の籠神社に祀られる。火明の子である五十猛は村雲の父である。ウマシマジら物部族に言わせれば、海部家は物部家と同様に志那禰であり志那都彦であった。古事記はその同族逸話をニギハヤヒ(天火明)とトミノナガスネヒコ(大彦)に当てはめて描いたのであった。

橿原神宮

 

 

 尾張家はもともと海部家と同族であったが、近畿から東海にかけてを支配していた豪族である。畿内ヤマトにおける出雲族王朝の同盟国であった。畿内ヤマトにできたヤマト初代王である海村雲(天村雲)の7世孫であるマシキヒメの夫である乎止與オトヨはやはり海村雲(天村雲)の9世孫でもある。彼らの娘がミヤズヒメであり、ヤマトタケルから預かった草薙剣のもとの名は天叢雲剣である。

 

下知我麻神社と上知我麻神社

 

 ウマシマジら物部族が九州倭から熊野を上り畿内ヤマトの南部に移り住んだのは、畿内ヤマト巻向に移り住んだ崇神・垂仁天皇らの東征よりも100年近く前であったといわれる。崇神・垂仁天皇らは、五瀬とウマシマジより100年近く後に彼らと同様のことをしようとした。ウマシマジら物部族の失敗は出雲族の太陽信仰(クナトの神信仰・勾玉)にのみこまれたことであった。その同じ失敗をしないために、出雲の勾玉と剣と物部族の鏡とを分けることを考えたのではないだろうか。三種の神器は出雲と物部との合体を表すものであり、三種の神器を引き継ぐことが出雲と物部と新しい大和を引き継ぐ天皇の権威とするべきものであったが、伊勢に鏡を出し、物部の力を遠ざけようとしたのではないか。

 

 

 八咫鏡を宮から出すことによって、崇神・垂仁天皇ら新しい大和は旧ヤマト出雲族や物部族に飲み込まれないようにしようと考えたのではないかと思われる。そのために出雲族と合体した物部族である五十猛や村雲が元居た籠山(吉佐宮)に鏡を移そうとしたのではなかったのか。

籠神社由緒

 

 八咫鏡を託された豊(台与)であるトヨスキイリヒメやヤマトヒメは、最終的にはトヨキイリヒコが勢力を広げた伊勢に落ち着くこととなったのではないだろうか。大きな旧勢力の支配地域であった尾張は、豊によって新しく生まれ変わり、崇神・垂仁天皇らの東征もその後の新しい大和の支配をも支える尾張となったのではないかと思われる。

 

 

 九州倭から畿内ヤマトにやって来て政権を奪った崇神・垂仁天皇らが、奪われた側の畿内ヤマト勢力を鎮めるためには、畿内ヤマトの出雲族の神であるクナトの神(太陽神)と物部族の祖ニギハヤヒ火明を祀る三輪大神を支配する必要があった。そのために鏡を宮から出す必要があったのではないかと思われる。

 

 

 熱田神宮には草薙剣が祀られるが、アマテラスとオオドシも祀られている。オオドシ大年は香語山(籠山)ともいわれる。天照国照彦火明櫛玉饒速日とも呼ばれる。