ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  10 守屋山は諏訪大社のご神体        川崎一水 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  10 守屋山は諏訪大社のご神体        川崎一水

 

 「諏訪大社」その3守屋山は諏訪大社のご神体 

 

 諏訪大社4社は別の町にある。上宮本宮は諏訪市に、上社前宮は茅野市にある。下社は下諏訪町にある。先に紹介したように下社は金刺氏の宮であるといわれ、神社が諏訪氏の宮とされる。そして上社前宮はタケミナカタ命が初め居たところであるとされ、今はその妻であった八坂刀女命が祀られているといわれる。

 

 前宮の鳥居をくぐるとそのすぐ先の左手に旧宮の跡地がある。そこには長野県指定史跡としての諏訪大社上社前宮神殿跡とあり、「ここは、諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有員がはじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、神殿は神体と同一視された大祝常住の殿舎の尊称である。」と書かれた看板がある。そしてこの神殿のあった地域を神原といい、神社の重要な神事のほとんどがこの神原で行われたという。しかしここには本殿がなく、内御玉殿、十間廊などがあるのみである。本殿はこれよりさらに道を上り200mほど離れた地にある。別の神社のようにも見える。

 

 十間廊を過ぎ一旦横に民家のある道に出て、しばらく道なりに上ると本殿がある。本殿の周りは開けた空間で明るく、他の神社とは異なる雰囲気を持つ。右手に一の御柱があり、左手に二の御柱がある。左手奥には三の御柱が、右手奥つまり一の柱の奥に四の御柱がある。それら4本の御柱に囲まれた本殿には八坂刀女命が祀られるといわれる。住むにはとても良い環境であり、ここにはもとは八坂刀女の住まいが建っていたのかもしれない。今は昭和の初めの皇大神宮の遷宮あとの社殿が移築されて建っている。

 

 そしてここには拝殿がなく本殿を直接拝む形になっている。しかし実際には本殿の奥に守屋山があり、守屋山が御神体のようにも見える。守屋山山頂は1650.3mと高く、登山コースになっていて、そこには「日本展望の山」と書かれている。

 

 

 十軒廊は古くは神原廊と呼ばれていて、中世まで祭政の行われた政庁の場であったといわれる。上段には大祝の座、次に家老、奉行、五官の座があり、下に御頭郷役人などの座があったという。1483年(文明十五年)に大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いがあったため一時中断したが、大祝家の居館として戻され、祭儀も続けられたという。

 

 上社前宮大祝家は神長官家とも呼ばれ守矢氏が代々継ぐという。諏訪惣領家は諏訪氏・神氏といわれ、タケミナカタ命の後裔一族である。土着の神を祀るで支配者であった守矢氏は、諏訪に侵入したタケミナカタ命に敗れ神氏を補佐するようになったともいわれる。守矢氏は元5人いたといわれる神職の一人として神長官と呼ばれ、諏訪氏・神氏を補佐する立場であるといわれる。今は上社前宮の御神体としての現人神ともなっている。

 

 上社諏訪惣領家である諏訪氏・神氏はタケミナカタ命の後裔一族であるはず。上社前宮の大祝が守矢氏であり、八坂刀女命を祀るとともに現人神としての御神体であるなら、守矢氏は出雲でいうスセリヒメ命を娘に持つスサノヲであり、タケミナカタ命は入り婿となった大国主のような立場ということになる。

 

 

 毎年四月十五日の「酉の祭」とも呼ばれる「大御立坐神事」には鹿の頭75が供えられる。そのため御頭祭とも呼ばれる。この神事には今では剥製が用いられているが以前は生の頭が供えられていたという。75という数字はイスラエルの「高き所」と呼ばれる礼拝所とそっくりな忌部氏の磐境神名神社の本宮である白人神社の宮人の数と同じであるといわれる。古代イスラエル人が中国開封に作ったシナゴーグも75人の宮人によって守られてきたといわれる。

 

 また、八坂刀女命の‟八坂”は八坂神社の‟八坂”であり、「祇園祭」や「八坂神社」と「蘇民将来」でも述べたように明らかにイスラエルとつながる。八坂神社には牛頭天王も祀られる。牛頭天王はペルシャの王でありユダヤ人のバビロン捕囚を解放した‟スサの王”とも呼ばれるキュロス大王のことともいわれる。

 

 また、タケミナカタ命は三輪氏・神氏の末裔であり、出雲のスサノヲの末裔でもある。ここでもニギハヤヒとニニギの話に似たことが起こっていると思われる。つまり敵だと思った相手は先祖が同じであり同族であったことが分かったという古事記にある神武東征のときの話と重なる。

 

 

 イスラエルの流れをくむ守矢家が古くより諏訪に居て、古事記にある国譲り後にタケミナカタ命の後裔である諏訪惣領家が諏訪にやってきた。当初は別の家であった両家は婚姻を重ね、しだいに一体となっていったものと考えるのが自然である。下社の金刺家も多氏の後裔であるなら、ヤマト王権側の目付と言いながら、タケミナカタ命と近い関係であるといってもよい。磯城金刺宮の‟磯城”は安寧天皇である磯城津彦玉手看命の‟磯城”であり、その伯父が多氏の先祖神八井耳命である。

 

 多氏は太安万侶の太氏でもあり、大彦と同じ大氏でもあり、意冨彦と同じ意冨氏でもある。また飯富氏とも於保氏とも書かれ、出雲の富家の流れであるということになる。意冨や飯富は出雲の名である。神八井耳命は神武天皇の皇子であったが、実際には大彦・意冨彦と同様に出雲の流れではある。ちなみに科野の国造は崇神天皇のときに派遣され、神八井耳命の子孫である建五百建命が初代国造であるともいわれ、ここでも崇神天皇が神武天皇となっている。

 

 

 そして上社本宮はなぜか上社前宮の方に向けて拝殿が建っている。御神体は守屋山といわれるが、守屋山を背に持つのは前宮である。本宮の御神体は前宮なのかもしれない。