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ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  5 八坂神社とスサノヲ神社

 

   「八坂神社」と「スサノヲ神社」 

 

 1 「スサノヲ神社」の〝蘇民将来〟とは

 

 

 八坂神社を語るにはスサノヲ神社について語らなければならない。そしてスサノヲ神社にまつわる“蘇民将来子孫也”について知る必要がある。

 

 “蘇民将来子孫也”とは「備後国風土記」逸文に残されている説話であり、それはつぎのような内容である。あるとき南海を旅していたスサノヲが宿を求めて巨旦将来を尋ねたところ、巨旦将来はみすぼらしいスサノヲを見て宿を貸さなかったという。その後、巨旦将来の弟の蘇民将来に宿を求めると、貧しい蘇民将来はそれでも粟殻の座と粟飯でもてなし宿を貸したという。蘇民将来のもてなしを歓んだスサノヲは「後の世に疫病が流行したときには自分は蘇民将来の子孫であると言い、茅の輪を腰につけておけば免れさせる」と告げたという。

 

 そしてこの説話から、祇園祭を締めくくる「夏越祭」では「茅の輪守」が授与されるという。この風習は「茅の輪くぐり」にも通じるものがあり、全国のスサノヲを祀る神社では毎年「夏越祭」で「茅の輪くぐり」が行われる。また、京都では“蘇民将来子孫也”と書かれた護符をつけた粽を各家の軒先につるようになったといわれる。そしてこの粽は山鉾を立てる各町内で配られるという。

 

 この話はユダヤ教徒の「過ぎ越しの祭」に通じる話でもあり、7月15日から7日間続くという点も関係がありそうである。そもそも、蘇民将来という名前こそが“蘇民(イスラエルの民)”であり、“平安京(イエルサレム)”の祭りであったからである。

 

 そして、南海を旅していたスサノヲというのも事実ではないように思える。そもそもスサノヲは出雲の人である。出雲のスサノヲが南海を旅するとすれば、高天原から追放されて地上(日本列島)に降り立った後さらに南海の追放されるというのも変な話である。

 

 “疫病退散”をさせるために必要な、疫病に対抗できる強い霊力を持った恐ろしい荒ぶる神スサノヲを持って来たかったのであるとは思うが、そこに収まった神はユダヤの神であり、その神に守られるのは“蘇民将来(イスラエルの民)”の子孫でなければならないという当然の帰結であった。

 

 ではそのユダヤの神が牛頭天王か?

 実はそうではない。そこには深い意味がある。

 

 

 

 

 

 

㋐からはじまり㋜でおわる   はじめに                     川崎一水

 

㋐からはじまり㋜でおわる         川崎一水
 

はじめに

 

 

 カタカナ書きで㋐が付くものは何でしょう?
 
 いま売り出し中の「アノちゃん」、彼女のことは数年前から知っていた。地下アイドルをやっていて結構人気があった。スマホでみると、‟「アマゾン」が一番に出てきた。「アジア大会」も出てくる。いま中国で広州アジア大会が開催されているためか。検索すれば「アバンギャルティ」、「アイオニック」、「アステロイドシティ」などが出てくる。最初のは何かのライブパフォーマンスをするグループらしい。つぎのは100%電気自動車。つぎのは映画タイトル。
 検索途中出てきたものでめぼしいのは「アニメ」、「アロマ」、「アクア」など。どれも外来語である。最初に紹介した「アノちゃん」の「アノ」は想像だがたぶん「あの」という話はじめの言葉ではないか?今は大人になってちゃんと喋れるようになったがが、十代のころの彼女はコミュ障ぎみで、そのせいで話はじめに「あの」と言い、その後の二の句が話せなかったらしい。うちの子もそうであったが不登校でもあったらしい。今だから言えるが、うちの子は二人とも出席日数が足りなかったのに先生の計らいでなんとか留年せずに中高卒業できた。今は大人になってちゃんと大学も行き働きだした。「あの」しか言わないからそれがあだなになったのかもしれない地下アイドルだった「アノちゃん」もついにブレイクした。スマホの検索サイトは別に広告枠があるらしく、最初にそれらが出るようになっているという。「アバンギャルティ」や「アイオニック」や「アステロイドシティ」などはその類のものらしい。いずれにしてもカタカナの㋐から始まる言葉は外来語がほとんどで、ほかには「アの文字の形の由来」などしか出てこない。
今の日本人は物中心の生活で、物には恵まれてはいるが心に飢えているのではないかともいわれる。お金を稼ぐために家族との時間を取れないお父さんやお母さんが多いし、子供たちも塾や宿題や習い事で忙しい。一部にはスマホゲームで忙しい子供たちもいて、うちの前の神社では昔よく聞いていた子供の声は今はもうきこえなくなった。
 昔の日本人、とくに古代の日本人は精神(心)をたいせつにしていた。「一寸の虫にも五分の魂」とか「木にも石にも霊が宿る」とかと言っていた。催事は良い日に行い、物事の初めや終わりも日を選んだりしていた。いまの日本人だって他の国に比べるとずいぶん精神(心)を大切にするとは思うが、昔ほど気にしなくなった。近年では婚礼を大安に限るともしなくなった。それでも今の若者の精神(心)も捨てたものではない。最も世界的なスポーツであるフットボール(サッカー)のワールドカップでは日本人サポーターの試合後のごみ拾いが話題になった。また試合に出た選手のファウルの少ないプレーも評価され、フェアプレー賞をもらったりしている。日本人には宗教を信じている人は少ないが、神や仏は信じているといってもよい。日本人は仏壇に手を合わせたり初詣に行ったりしたことのない人はいないのではないかと思う。日本人はみんな無宗教と自分では言うが、他の国の人から見れば生活そのものが宗教のように見えるといわれる。それほど日本人の生活はいまでも宗教的である。それほど日本人の生活にはそれが溶け込んでいるのである。
 また日本人はきれい好きで、路地の掃除を地域の人総出でやったり、また風呂好きでもあり、清潔で、し尿も当時のヨーロッパと違い農家が買い取り堆肥にして田畑の肥料として再循環させるという環境にも人にも良い社会システムがすでに出来上がっていた。そのころからすでにSEDsを実践していたのである。普通に街に糞尿があり、それを踏まないためにハイヒールが考案されたという中世のフランスなどとはかなり違った社会であった。そういう当時の日本にやってきたフランシスコ・ザビエル一行のイエズス会は他の国との違いに驚いたという。そして彼らが驚いたのはそれだけではない、さらなる重大な驚きがあった。
 当時の日本の主権者は天皇であったが、中心的な行政者は織田信長であった。その織田信長がキリスト教を信奉し使節団をバチカンに送っていたということがのちに分かった。蓮如を中心とする本願寺一向宗を排除する方策のひとつであったとは思われるが、キリスト教を信仰していたように今ではドラマなどで描かれる。そのためキリシタン大名というものが多く現れることとなった。実際にはキリシタン大名であった大友宗麟などがその使節団を編成しバチカンに送ったといわれる。一般に「天正遣欧使節」または「遣欧少年使節」とも呼ばれ、そのメンバーは15歳くらいの少年たちであったという。
 しかし、もともと織田信長は今の福井県の劒神社の一族の裔である忌部氏であった。平家と名のってはいたが、実際は忌部氏であった。その劒神社の御祭神はスサノヲであるが、もとは忌部氏である伊部氏がスサノヲを伊部郷から勧請し、敦賀を平定したといわれる忍熊王の劒をご神体として創建された神社であった。つまり織田家は忌部氏であった。忌部氏とは古事記にもあるように、天照大神が岩戸に隠れたときに天香山のハハカ木を取ってきて占ったフトタマの後裔であった。
 つまり、織田家は神を祀る神社の家柄であった。そのために日本の神のいわれを知っていたのである。㋐にはじまり㋜で終わる神のことを。そして、㋜にはじまり㋾で終わるスサノヲのことも。日本の神の代表でもあるアマテラスとスサノヲは、㋐始まり㋾で終わるのである。その当時は今の五十音の最後の「ン」はなかったので、その当時の「N」は「ナ」で代用され「ユ」も「ヰ」で代用されたといわれる。「INRI」は「イナリ」であった。「YINRI」とは「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」の略であり日本語では「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」、イエスが十字架に磔刑になったときにイエスの頭の上につけられた板に書かれていた文字である。そして「夢中」は「今中」であった。今でも日本円の「円」は「YEN」で始まる「イェン」である。 貨幣の代表でもある「銀」は「G」から始まるのではなく「Y」から始まる「YⅠN」であり、中国の「元」も実は紙幣には「圓(円)」と書いてあり、発音が「yuán」であるので同じ音の「元」を当てて人民元と呼ばれているという。そのためJPY「円」とCNY「元」はどちらも「¥」を使うことがある。
 そして最も驚くことは日本の「いろは歌」の一番下を読むと「とがなくてしす(咎なくて死す)」と読むことができ、最初の行の「いろは」の上端の「い」と最後の行の「えひもせす」の上端と下端を読むと「いゑす」を読むことができるのである。また、昔の五十音の順は「あいうえお」の順ではなく、「あおうえい」であったといわれる。「あ」で始まり「い」で終わっていた。「天」は「あまぁ」であり下にある「地」

や「海」は「ちぃ」であり「うみぃ」であったといわれ、「あ」から「い」に下がるのであった。そして「天」から「地」や「海」に移動するための動詞は「あ」と「い」の間の「う」であり、「天下るぅ」であり「降りるぅ」であり「降るぅ」であった。そして今の五十音にも「イエス」が隠されているともいわれる。このようなことがなぜ起こっているのかをこれから明かしていきたい。
 
   
    いろは歌                                                                INRI

                                       IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」

㋑ いろはにほへと㋣  色は匂へど 散りぬるを
   ちりぬるをわか㋕
   よたれそつねな㋤  我が世誰ぞ 常ならむ
   らむうゐのおく㋗
   やまけふこえて㋢  有為の奥山 今日越えて
   あさきゆめみし㋛

㋽ ゑひもせす㋜     酔ひもせす

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  4 祭りと言えば「葵祭」

 

   祭りと言えば「葵祭」 

 

 

 

 葵祭は賀茂祭。加毛大御神を祀る賀茂別雷神社(上賀茂神社と呼ぶ)とその御祖を祀る賀茂御祖神社(下鴨神社と呼ぶ)の祭り。欽明天皇の御代に凶作が続いたことから祭礼を行ったのが始まりとされる。江戸期に社紋にも使われているフタバアオイの葉を着けたことからそう呼ばれるようになったという。

 

 毎年5月15日、御所から天皇の勅使一行が賀茂御祖神社(上賀茂神社と呼ぶ)を経て賀茂別雷神社(下鴨神社と呼ぶ)に向かう「路頭の儀」と、両神社で行われる「社頭の儀」が葵祭りのクライマックスとなる。それに先立ち、5月1日には上賀茂神社で「競馬足汰式くらべうまあしそろえしき」が、3日には下鴨神社で「流鏑馬神事」が行われる。また、5月4日には 祭りに奉仕する斎王代以下女人列に参加する四十余名のみそぎ祓を行う「御禊神事」が執り行われる。この儀式は上賀茂神社と下鴨神社が交代で行い、今年は上賀茂神社で行われた。さらに、五日には下鴨神社で「歩射神事ぶしゃしんじ」が、上賀茂神社で「賀茂競馬かもくらべうま」が行われる。そして、5月12日には比叡山麓の御蔭山より神霊を迎える「御蔭祭みかげまつり」が行われる。

 

 「路頭の儀」では、天皇が賀茂神社に行幸する代わりに、天皇の勅使が賀茂神社に詣でることにはなるが、実際にはこの勅使も行列には加わらず、そのさらに勅使の代理が行列に加わり、行列中の最高位の人となる。その役を「近衛使代このえつかいだい」という。天皇の代理のさらに代理ということらしい。今は宮内庁の掌典が務めるという。右腰に銀製の魚袋を付け、騎馬ということは武官ではあるが殿上人でもあるらしい。その本列につづき、次に「斎王代さいおうだい」の列が続く。斎王代も斎王の代理である。斎王は平安時代には内親王が選ばれ、祭りに奉仕していたが、その代理ということで在京の未婚の女性がその役を務める。

 

 斎王という役は平安時代よりも前にもあったらしい。伊勢神宮にも斎王がいた。最近ではもと紀宮内親王であった黒田清子さんが勤めていた。古代はかの有名な垂仁天皇の皇女倭姫や崇神天皇の皇女豊鉏入日賣や孝霊天皇の皇女倭母母曾毘賣もそうだったのかもしれない。

 

 葵祭の行列には「山城介やましろのすけ」も加わる。「山城使やましろつかい」という。御所を出るとそこは洛外となり山城国の国司の管轄となり、行列を警護する目的で加わる国司庁の次官が務めるという。葵祭は賀茂祭なので当然のことではある。山城介に警護されながら御所を出た行列は賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に向かう。

 

 山城国は和気清麻呂の地である。宇佐神宮神勅事件で天皇位を道鏡から守ったという「護王」の名を与えられてはいるが、光仁天皇擁立につながる事件でもあり、藤原氏や秦氏と協力し、自らの支配地に桓武天皇を招いた。

 

 御所からの行列が下鴨・上賀茂両神社に着いてから行われる儀式を「社頭の儀」という。勅使からの御幣物の奉奠、御祭文の奉上、牽馬・舞人の東游などが行われるといわれる。最も重要な儀式は上賀茂神社における最終の儀式である勅使の奏上に対する神霊の返答であるともいわれる。

 

 その問いに対する神霊の返答は「諾」と決まってはいるという。しかし、その問に答えるという儀式は、古代八咫烏に道案内をしてもらったといわれる神武天皇の磐余を継ぐものであるともいわれる。

 

 賀茂別雷神社の御祭神は加毛大御神であって、賀茂御祖神社の御祭神は加毛大御神の御祖であり、比叡山麓の御蔭山より神霊を迎える「御蔭祭みかげまつり」は賀茂御祖神社で7月12日に行われる。比叡山は日枝山。比叡山には日吉神社もある。

 

 

 平安京は藤原氏と賀茂氏と秦氏が造った。藤原氏は洛中に。賀茂氏の祭りは「葵祭」。秦氏の祭りは「祇園祭」。

 

 

 六代大名持神門臣八束水臣津野                  六代少名彦富之

         国引主 

 七代少名彦神門臣                        七代大名持富之天冬衣

                                      

 八代大名持神門臣八千矛   大年(天照国照彦火明櫛玉饒速日)  八代少名彦登美之八重波津身

   大巳貴八千矛大国主                          都味歯八重事代主

 九代少名彦神門臣味鋤高彦  五十猛(天香山、天歌語山、天籠山) 九代大名持登美之鳥鳴海

      建角身、下照姫                         天日方奇日方、姫蹈鞴五十鈴姫、五十鈴依姫

 十代少名彦神門臣      天村雲(建葉槌、天稚彦)      十代大名持登美

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  3 「葵祭」は「賀茂祭」  賀茂御祖神社と賀茂別雷神社

                    

 

 賀茂御祖神社と賀茂別雷神社

 

 

 平安京は藤原氏と秦氏が造った。秦氏は秦の始皇帝の裔といわれる。藤原氏はもとは中臣氏であった。中臣氏は関東の出と思われているが、元は出雲である。中臣氏の先祖は天児屋命である。

 

 天照大御神が天の岩戸にこもり、この世が暗くなった時に、思兼命が八百万の神々を集め協議した。神々は集いに集いて諮りに諮りた。そのときに祭具の制作を行い占ったのが太玉命と児屋命であった。太玉命が忌部氏の祖であり、児屋命が中臣氏の祖である。

 藤原氏のもとである中臣氏は児屋命の裔であり、「仲冨」であった。「仲冨」は「仲国」にいた「富」であった。「富」は「登美」であり、「登美」は「登美のナガスネヒコ」の「登美」でもある。奈良の纏向の南の鳥見山には等彌神社がある。鳥見山は「登美山」であり、「等彌神社」は「登美神社」である。そしてその「登美」の前は「富」であった。

 

 「富」は出雲の東王家であった富家の「富」であった。出雲の富氏は、国譲りによってヤマト側に国を譲り、東に追われ、関東に逃げ延びた出雲の勢力であるスサノヲの八人の皇子であった「八王子」の子孫たちであった。今の千葉の総国の仲国にいた「富氏」が「仲富氏」となった。

 

 そして、「仲富氏」は「中臣氏」となったのである。そして「中臣氏」は「藤原氏」に。「中臣氏」が「藤原氏」になったのも、「仲富」の文字を消すためではなかったか。

 

 藤原氏は今の京都である山背国に平安京を造った。「山背」は山を背にする場所の意味と思われるが、「山代」とも「山城」とも書かれる。

 

 平安京は藤原氏と秦氏が造ったが、藤原氏は出雲の富氏、つまり出雲の王の子孫であり、秦氏は秦の始皇帝の子孫であった。秦の始皇帝の名は「瀛政」という。秦は今の中国の最西部に位置した。中国ではローマ帝国のことを「大秦国」と書く。秦は西域人の国であったかもしれない。聖徳太子と呼ばれていた厩戸御子はペルシャ人の装束であった。

 

 出雲の伝承では、出雲の王であった第八代大名持は「大国主八千矛」であったといわれる。そして、大国主の子がアジスキタカヒコネ(建角身タケツノミ)であったといわれる。しかし、ヤマトの伝承では、建角身の父は大国主(オオナムジ)であったといわれる。オオナムジはどこから来たともわからない出自不明の人物といわれる。また、建角身タケツノミの叔父である大年オオドシは、出雲の生まれであったにもかかわらずヤマトのアマテラスとなったという。そして大年は天照国照彦火明櫛玉饒速日と呼ばれたという。

 
 
 大国主ナムジがナガスネヒコとの戦いでもう駄目だと思ったときに、手に矛を持ち海を照らしながら大きな船団で大国主を助けに来た。海照(アマテラス)火明であった。

 

 また、大年の伯父である少彦名スクナヒコナは知恵の神であった。少彦名は体が弱く、その分学問を学び知識の神となった。大国主の義理の伯父でもあった。大国主の参謀であり、ナガスネヒコとの戦いでは軍師となった。少彦名は大年の伯父、大国主の義理の伯父、建角身の祖父(スサノヲ)の兄であった。

 

 「少名彦」は出雲の副王の名である。その名をもじってスクナヒコナ(少彦名)と古事記は呼んだ。本当の名である「少彦名」の弟子は大年とクエビコといわれる。クエビコは大国主の側近であった。クエビコは大国主を助けた。タニグクもいた。彼も大国主の側近であった。

 

 タニグクとは「カエル」のことである。クエビコとは「カカシ」のことである。どちらも「あだ名」である。タニグクはカエルのように、クエビコはカカシのように働いた。カカシはずっと動かないのが仕事であった。クエビコはずっと出雲を守っていた。大国主が出雲を離れたときもずっと出雲で待っていた。大国主が帰って来たときに報告できるようにずっと出雲を守っていた。ずっと動かずに待っていた。それでカカシと呼ばれた。

 

 大国主は建角身の父であった。父の側近クエビコも父と同世代であった。また、大年は大国主と同世代であった。大国主と大年は子供の世代のために、出雲をまとめ、さらにヤマトを平定したのであった。

 

 大年がアマテラスになり、大国主は大国彦となったという。ヤマトの伝承では、天皇家の始祖は大国主であったのか、それとも大年であったのか?

 

 ヤマトの王となったのは大年であった。大年は亡くなった後、三輪山に祀られた。そして大年の子が神武天皇になったアメノムラクモであった。そしてまた、大国主の子が建角身であった。しかし、建角身は大国主の子となってはいたが、実はアメノムラクモと双子であったため、大国主の養子となったといわれる。そのため渡来したともよくいわれることとなった大国主(オオナムジ)は、渡来したのではなく、実は出雲の王大国主(大名持)であり、大年こそが渡来したフツノミタマを受け継ぐものであった。

 

 後世、古事記の編纂者が神武東征のときに神武天皇を援けた「八咫烏」になぞらえた。建角身は神武天皇を補佐した「八咫烏」として「迦毛大御神」と呼ばれた。そして、建角身と双子の兄弟であったアメノムラクモは神武天皇と後に呼ばれるようになった。彼は次の「天照大御神」となったのであった。

 

 今年の葵祭は雨のため1日順延されたが、平成太上天皇皇后も路中の儀に来席なされた。葵祭は「賀茂祭」である。京都御所を出発し、下賀茂神社を経由し、上賀茂神社に至るルートを進む。

 

 「賀茂祭」は、天皇の勅使を中心とした路中の儀の行列に加わる者たちが、葵の葉を頭に飾ることから「葵祭」と呼ばれるようになった。葵は賀茂神社の社紋である。

 

 下賀茂神社は賀茂御祖神社という。建角身とその娘が祀られるといわれる。娘の名はタマヨリヒメ。しかし、記紀の中でのタマヨリヒメは、ウガヤフキアエズ命の妻であり、神武天皇の母である。ここに秘密がある。

 

 賀茂御祖神社に祀られるタマヨリヒメは、建角身の妹であるシタテルヒメであって、アメノワカヒコの妻となったシタテルヒメである。そして、アメノワカヒコは建葉槌でもあり、アマテラス大年の「若」アマテラスであった。つまり、アメノワカヒコは「若」天照大御神であり、シタテルヒメはその妻であった。神武天皇の妻であった。シタテルヒメはタマヨリヒメであり、アメノワカヒコこと建葉槌は建角身の双子の兄であり、シタテルヒメが嫁いだ神武天皇であったことに。

 

 結局のところ、賀茂御祖神社の御祭神はタマヨリヒメことシタテルヒメであって、その親である大国主を祀っていることになる。そして、シタテルヒメの兄であった建角身も祀られていた。

 

 そして、上賀茂神社である賀茂別雷神社は、建角身の双子の兄である建葉槌ことアメノワカヒコを祀っていることに。そう、アメノワカヒコは神武天皇であった。神武天皇を助けた八咫烏こと建角身はアジスキタカヒコネとも呼ばれる。そして迦毛大御神とも呼ばれる。

 

 賀茂別雷命を祀る賀茂別雷神社は、迦毛大御神である建角身とアメノワカヒコこと神武天皇を祀る。天照大御神に唯一対応する「大御神」という名の迦毛大御神は建角身ではあったが、共にここに祀られるもう一人の神は、賀茂別雷命であった。つまり、ここには迦毛大御神こと建角身と賀茂別雷命とアメノワカヒコが祀られていることに。

 

 そしてこのアメノワカヒコこそ、大年のつぎの天照大御神であり、本当の神武天皇でもあり、本当の迦毛大御神でもあったのである。

 

 建角身と双子の兄弟であったアメノワカヒコこと建葉槌は、武御雷とも呼ばれた。建角身とシタテルヒメとの父である大国主から、もとの出雲である賀茂から国譲りをさせた建御雷命でもあり、本当の神武天皇でもあった。

 

 賀茂別雷神社には二つの砂山がある。その天辺には松葉がさしてある。松葉は二つが一つになっている。ここには迦毛大御神と天照大御神が祀られている。

 

 そして、このほんとうの神武天皇の名は、「アメノムラクモ命」とも呼ばれる。

 

 

  初代大名持富之菅八箇耳(須賀之八耳)

  二代大名持神門臣八島士之身(八島篠)

  三代大名持富之兄八島士之身(八島手)

  四代大名持神門臣布葉之文字巧為

  五代大名持富之深淵之水遣花

  六代大名持神門臣八束水臣津野(国引主) 

  七代大名持富之天冬衣

  八代大名持神門臣八千矛(大国主)天照国照彦火明櫛玉饒速日大年 八代少名彦富之八重波津身(事代主)

                  五十猛                   富之鳥鳴海(九代大名持)

       建角身(味鋤高彦)下照姫 建葉槌(天稚彦)アメノムラクモ     蹈鞴五十鈴姫

 

 

 

 

 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  2 須佐神社  スサノヲを祀る

 

 須佐神社(須佐大宮)

 

 令和五年五月、出雲の須佐神社に参拝した。出雲には何度も来ていたにもかかわらず佐田町には初めて来た。出雲の伝承を裏付けするために再度出雲大社に参拝する道すがら、その途中にある「須佐能哀命」を祀る「須佐神社に立ち寄った。

 

 「須佐神社」は、出雲市の南部の神門川上流にあり、須佐能哀命だけではなく、稲田比賣命とその親である手摩槌命と足摩槌命と祀る。うちの家の鎮守の神社も同様の神を祀る。

 

 鳥居をくぐった先には安芸の宮島の厳島神社と同様の櫛磐間戸神と豊磐間戸神が門番として左右に立っている。古事記での天岩戸から天照大御神を出し新宮にお連れした時のその宮の門番であった天石門別神とされる。
 
 古事記では、須佐能哀が高天原から地上に天下り、田を荒らし機織姫を死に至らせた乱行に嫌気をさして天岩戸にこもった天照大御神の岩戸隠れの話に出てくる神である。

 

 櫛磐間戸神の「櫛」は櫛玉饒速日命の「櫛」であり、豊磐間戸神の「豊」は豊玉姫である豊国のヒメ大神の「豊」である。邪馬台国の話に出てくるトヨキイリヒメである台与の「豊」でもあった。

 

 つまり、スサノヲはニギハヤヒのヤマトとヒメ大神の豊を従えているという意味である。とすれば、この造りは新しい。ニギハヤヒとの時代はB.C.3世紀であるが、ヒメ大神の豊の時代は3世紀であるから、厳島神社と同様に豊の時代である3世紀以降に造られたものであると思われる。

 

 また本殿は出雲の神魂神社の社殿に似ている。神魂神社本殿は出雲の王がもと住んだ宮殿であったともいわれ、今はアメノホヒの子孫が宮司であるといわれる。その神魂神社の造りに似ているが、そういう理由でこの造りがこの地域に広がったのではないかと思われる。もしそうであれば、ここに祀られる神もひょっとしたらスサノヲはではなくスサノウに変えられている「素鵞」かも知れないとも感じた。

 

 古事記の中では、スサノヲが高天原から天下って初めて出会ったのが手摩槌と足摩槌であった。娘を八岐大蛇に貢ぐことを嘆いていた彼らを救うために、スサノヲは八岐大蛇と対決することとなったのであるが、その顛末は御存じの通りで、スサノヲは八岐大蛇を退治した後その娘である稲田姫を娶ることとなったのであった。

 

 「須佐神社」の宮司家は、今でも手摩槌と足摩槌の子孫であるという。この話がほんとうなら須佐能哀がここに来たというのも実際にあった話かもしれない。須佐能哀がこの土地に来て須佐田と名を定めたという。須佐能哀の田であり、須佐能哀の稲田であった。そのためここを須佐田の須佐というようになったという。ここは今は出雲市佐田町須佐という。

 

 また、須佐神社の由緒付記によれば須佐能哀はここで一生っを終えられたともある。しかし、須佐能哀はここで生涯を終えたという話は他の話とは食い違う。須佐能哀は古志の八岐大蛇を退治し、古志を平定したはず。

 

 とはいえ、須佐神社の大宮司家である「須佐家」は24代益成のときに国造りに任じられたという。それは成務天皇の御代三十年(160年)であったという。それより後、代々交代で出雲太郎、出雲次郎を名乗っていたが、永享年中(1,434年)に「出」の一文字を除き、雲太郎、雲次郎となり、今日まで78代続いている今の宮司須佐建紀氏は雲太郎であるという。須佐の名字は明治の初めにつけたもので、それまでは須佐国造某と名乗っていたという。

 

 その国造りの制は「大化改新」の時に廃されたが、出雲、紀伊、阿蘇、尾張の国造りだけは残されたという。これらの国はヤマトの時代より前の時代に力をもっていた地域であった。

 

 「大化改新」は御存じの通り中大兄皇子が中臣鎌足と行ったクーデターである「乙巳の変」のあとの政体の一新であり、明治維新のようなものであったと思われる。「大化改新」を行った中大兄皇子は後に天智天皇となり、中臣鎌足は藤原氏の祖となった。その後は、大化改新の前に政治を行っていた蘇我氏は没落してゆき、藤原氏がさらに台頭していく。

 

 日本の初期王権であった出雲の東王家は「富家」であった。初代王は「富の須賀之八耳」であった。しかし、ヤマト側の侵略によって国譲りが行われた。そうして、出雲の王家「富家」は東へ落ち延びていったという。そうして、今の千葉の「仲国」に至り、「仲国の富家」となった。それが、「仲富」であった。「仲富」は「中臣」であった。大化改新後の世に出雲の東王家であった「富家」は復活し政権に返り咲いたのであった。

 
 「須佐」の須佐神社は「須佐社」である。「須佐社」は「須佐能哀社」であり、「須賀社」であったはず。菅八耳の「素鵞社」は今では「須賀社」に変えられているが、この「須佐社」は正真正銘の須佐能哀を祀る「須賀社」のようである。

 
 しかしながら、出雲の伝承では出雲の国造家は、もともとは出雲の人ではないといわれる。ヤマト側から派遣された、代官のような立場であったらしい。つまり、この話は出雲をヤマトが支配するために創られたのかもしれない。さきに紹介した「素鵞社」のある出雲大社宮司家と同様に。

 

 また、当然のことながら須佐能哀も出雲の人ではない。出雲の国譲りを行わせるためにヤマト側である高天原から派遣された天照大御神の夫であった。須佐能哀は天照大御神の弟といわれるが、兄弟では子供は生まれない。実際には、二人の間には誓約によってできたたくさんの子供がいる。夫婦であった証拠である。

 

 出雲のほかにも尾張、紀伊、阿蘇の国造りは残されたという。これらの国も出雲の末裔たちが住む国であった。

 

 須佐神社の向かいにはなぜか天照社があり、毎年4月18日の例大祭では朝覲祭が行われ、須佐神社から天照社まで神が神行するという。そして翌19日にはなぜか陵王舞神事と百手神事がおこなわれるという。

 

 陵王舞とは安芸の宮島にある厳島神社でも行われる蘭陵王の舞か?そういえば、厳島神社にも須佐能哀が祀られている。

 
 須佐能哀と天照が一緒に仲良く鎮座するのはやはり夫婦であった証でもあるが、そのような神社はほかにはあまりみかけない。ほかには日御碕神社しかないかもしれない。

 

 須佐能哀が治めたという須佐は古代出雲の伝承の残る神社であることは間違いない。須佐能哀は出雲の人ではなかった。高天原から天下った(渡来した)のであった。後に須佐と名付けられた地で稲田姫を娶った。そして最古の和歌を詠んだという。その場所は今の松江の八重垣神社であったともいわれる。

 
 スサノヲはヤマトの王であるアマテラスと共に出雲を支配しようとしたのであった。このときのアマテラスは出雲の大年であったという。そしてスサノヲは高天原から天下った大国主(オオナムジ)であったといわれる。しかし本当の大年は、実は高天原から渡来した天照国照彦火明櫛玉饒速日とも呼ばれるホアカリであったといわれる。そして彼こそが高天原から天下ったスサノヲでもあったのである。そして本当の大国主は出雲の第八代大名持ヤチホコであったのである。

 
 その真実はいまでは出雲国風土記にわずかに残っているのみである。

 

 

  初代大名持 富之菅八箇耳(須賀之八耳)

  二代大名持 神門臣八島士之身(八島篠)

  三代大名持 富之兄八島士之身(八島手)

  四代大名持 神門臣布葉之文字巧為

  五代大名持 富之深淵之水遣花

  六代大名持 神門臣八束水臣津野(国引主) 

  七代大名持 富之天冬衣

  八代大名持 神門臣八千矛(大国主)

  九代大名持 富之鳥鳴海(八代少名彦事代主八重波身津長男)