ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド    -4ページ目

【アテラ】 1 漢委奴国と邪馬台国と日本国   乙巳の変から              川崎一水

 「アテラ」1 漢委奴国と邪馬台国と日本国             川崎一水

 

 

 「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。

 

 そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことになる。唐の時代には「倭」は「倭面上」となっていた。「倭面上」は草書から楷書に書き直す段階で「倭面土」が間違って書き写されたことが想像される。「上」と「土」は草書で書けば区別できない。つまり「倭面上」は「倭面土」であり、「いめど」と読まれる「やまど」であった。

 そしてさらに、「親魏倭王」の金印を下賜された「倭王」は倭の王であるが、いわゆる魏志倭人伝には「邪馬壹国」にいた「卑弥呼」であるとされる。書道家の井上悦史氏によれば、「邪馬壹国」の「壹」の文字も草書から楷書へ書き写す段階で、「臺」の文字と区別しづらいために「壹」となってしまったものであるという。陳寿が魏志を書いたのは草書であり、それを陳寿の死後に官吏が草書で書き写し、さらに後の世に楷書に書き替えられたためであるという。陳寿の時代には楷書はなかったという。対馬が「対海」になっていたり、壱岐が「一支」になっていたのはそういうことであった。「邪馬壹国」は「邪馬臺国」であった。そしてその読みは「やまたいこく」ではない。
 

 中国では一文字は一音であるという。つまり、「台」は「だい」とは読まない。「台」を「たい」と読むのは、後の世の「台湾」の「台」を「たい」と読む当て字を持ってきただけのことであるといわれる。「邪馬台国」は「邪馬臺国」であり、「やまだこく」であった。「やまだこく」は「やまどこく」でもあった。

 

 大宝律令は、令は30篇953条、律は約500条であったといわれる。後の養老年間に撰修された養老律令が757年に施行されるまでは、大宝律令がその時まで使用されたという。大宝律令も養老律令も後に名付けられた学術用語であり、当時はそのようには呼ばれてはいなかったという。

 

 一般に初めて令が編纂されたのは天智朝の近江令であり、次に天武朝の飛鳥浄御原令があるが、いずれも令のみであり律がないという。天武朝時代には唐の律を准用したといわれる。しかしこれは当然であり、それまでは倭は純粋な独立国ではなかった。なぜなら後漢書東夷伝にあるように「漢倭奴国王」であったからである。つまりは漢の「倭奴国」であり、漢帝国の中に含まれていたからにほかならない。当然のことながら、朝鮮半島にあった当時の国も漢の律令を使用していた。元号もそうであった。唐の時代も同様に新羅や百済は唐の律令を使用していた。そして当然のことながら倭もそうであった。
 
 ところが、天智2年・西暦663年に起こった百済再興のための「白村江の戦い」に敗戦して後、倭は唐の敵国となってしまったのであった。そのため、天武天皇は唐のさらなる倭への侵攻に備え、瀬戸内に山城を建て、都を京より東の比叡山を越えた近江に移した。そうして、唐の律令を廃し、668年近江令を編纂したのではないかともいわれる。編纂したのは中臣鎌足であった。

 

 中臣鎌足は、天智天皇が天皇になる前の中大兄皇子であった時の西暦645年に起こった「乙巳の変」の功労者であり、ともに「大化の改新」を行ってきた天智天皇の側近である。「乙巳の変」とは説明するまでもなく、時の最大の権力者であった蘇我入鹿の暗殺事件とそれによる中大兄皇子の母である皇極天皇の退位のことをいう。皇極天皇の御前において白昼行われた殺人事件であり、暗殺とは呼べないものであった。これはいわゆる反蘇我氏派によるクーデターであった。しかし、実際には蘇我氏の中心人物でもあった蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄が蘇我氏を倒した中大兄皇子側にいたのである。そうでなければこのことはならなかったといわれる。

 

 蘇我入鹿は一般には知られてはいないが、第9世か10世の武内宿禰である。武内宿禰については別に述べるが、天皇を大君とし、武内宿禰を大臣とする“君臣制”であった。これは後の世に云われる“君”と“臣”ではなく、大君は祭祀(まつりごと)を行い、大臣は政治(まつりごと)をおこなうというものであった。

 

 もとはといえば、大臣であった蘇我氏は“臣”ではなかった。大臣は大君と実の兄弟であった。景行天皇の王子であった後の成務天皇と武内宿禰は双子の兄弟であったといわれる。そのためときどき付け髭をつけて入れ替わっていたという。そのため政務天皇はあるときは武内宿禰になり政治を行い、武内宿禰は政務天皇となり祭祀を行った。天皇即位に伴う大嘗祭にも関わるといわれる武内宿禰はヤマトタケルの兄でもあった。つまり、政務天皇と大碓と小碓ら兄弟の小碓がヤマトタケルである。そして成務天皇には皇子がいなかったため、小碓・ヤマトタケルの子である仲哀天皇が皇位を継承したが、これは小碓が兄である武内宿禰によって死に追いやられたため、その罪滅ぼしの意味もあり小碓の子を天皇にしたともいわれる。そして天皇と同じ“尊”の称号を贈り“倭建尊”としたともいわれる。

 

 そして「乙巳の変」の最大の功労者であった中臣鎌足は“中臣”つまり“中富”であった。現在は継体天皇陵としてほぼ確定している今城塚古墳のそばに中臣鎌足の別荘があったといわれる。中臣はこの地域を所有していた。ここは現在の大阪府高槻市である。しかしこの“中臣”の“臣”は“おみ”ではなく“とみ”と読む。この“臣(とみ)”は“富(とみ)”であった。この“富”は関東では富岡製糸場の“富”でもあり、那珂の“富”でもあり、関西では奈良の“登美”でもあり、“等彌”でもある。また“外(とみ)”とも書かれ、神武天皇を助けた金鵄である“鳶”でもあり、最近発掘され日本最大の2m37cmの蛇行剣が発見された富雄丸山古墳の北には登美ヶ丘もある。

 

 富雄丸山古墳は直径109mの円墳であり、長さ6.4m幅1.2mの粘土槨に割竹型木棺があり、三角縁神獣鏡3面と鼉龍文盾形銅鏡も副葬されていた。4世紀後半頃の築造といわれるが、ちょうど政務天皇の時代である。

 

 政務天皇と武内宿禰は双子であったといわれる。

 

 しかし、富雄丸山古墳の被葬者は手白髪郎女・手白香姫ともいわれるが、彼女は仁賢天皇の娘であり、継体天皇の皇后であり、欽明天皇の母である。政務天皇からは8世代ほど後の人である。

 

 そして、政務天皇と双子であった武内宿禰の9世代後は蘇我入鹿である。しかし実際には第一世武内宿禰は仲哀・応神・仁徳・景行の4代の天皇に仕えた。つまり、入鹿の4代前は稲目である。蘇我稲目も第6世か7世の武内宿禰である。

 

 富雄丸山古墳は直径110mの円墳である。墳頂には古墳の被葬者が埋葬されていたが、明治期に盗掘されてその詳細は不明であるという。そしてこの度この古墳の北東側の作り出しの部分から木棺と蛇行剣と盾形銅鏡が発見された。この木簡の被葬者は女性であった。竹製の豎櫛と青銅鏡3枚が副葬されていた。欽明天皇と堅塩媛が被葬者ではないかとの説があるらしいが、ここは円墳である。天皇の墓ではない。欽明天皇の墓ではないはず。欽明天皇の御陵は前方後円墳の梅山古墳である。

 

 堅塩媛は蘇我の稲目の娘である。蘇我稲目の子である馬子や小姉の君の妹である。そして欽明天皇の妃である。そしてさらに欽明天皇の母が手白髪郎女・手白香姫である。彼女の父は天皇である。ここにはいるはずはないことに。

 

 つまりは、富雄丸山古墳は蘇我稲目とその娘である堅塩媛の可能性が考えられる。最も高位の祭祀を行う武内宿禰である稲目とその娘ではないかと考えられる。2mを越えるというこの蛇行剣は祭祀にしか使えないものであった。
 

 そして、「親魏倭王」の金印が魏より下賜されたのは卑弥呼が亡くなったといわれる西暦248年よりも前である。その当時には奈良の纏向には大きな都市があった。そして最初の巨大前方後円墳がその南の箸中に築造された。一般に箸墓古墳と呼ばれる箸中丸山古墳はこのころにいたヤマトトトヒモモソヒメが埋葬されているという。宮内庁の管理で大市墓ともいう。ヤマトトトヒモモソヒメは卑弥呼ではないかともいわれる。

 

 しかし、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国は九州にあったとしか考えられない記述がある。また、それよりも前の時代の「漢倭奴国王」の金印を下賜された倭奴王は誰であり、どこまでが「漢倭奴国」であったのか。この金印が漢より下賜されたのは後漢の建武中元二年・西暦57年であった。倭の奴国王は光武帝の時代である建武中元二年春正月に使いを送り奉献したという。洪武帝紀には、倭の奴国の使者が後漢の都である洛陽における正月の儀式に参列し、印綬を賜ったという記事があるという。その金印が後の江戸期の天明四年・西暦1784年に福岡県の志賀島で発見された。後漢書東夷伝には、「倭の奴国 貢を奉じて朝賀す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武 賜うに印綬を以てす」とある。

 

 そしてここでの謎は、漢の「倭奴国」のあった西暦57年に、倭には「奴国」のほかには国はなかったのかということ。漢代の官印には位によって玉・金・銀・銅があり、印文には「璽」・「章」・「印」の別があり、鈕には龍・亀・駱駝・蛇・鼻鈕という区別があったという。また、印を吊るす綬には赤・緑・紫・黒・黄色などの序列があったという。「倭奴国王」の印は、印文は格下の「印」であり、鈕は蛇で、綬は紫であったであろうといわれる。しかし、金印であることにおいては内臣の王璽と同じ位であったともいえる。また、その後の安帝の永初元年・西暦107年には倭国王帥升等が生口160人を献じて清見を願うとある。「倭国王帥升等」とはだれか?「帥升等」なのか「帥升ら」なのか?

 

 そして最大の謎である「親魏倭王」とはだれか?「卑弥呼」は固有名詞か?そして「狗奴国」の「卑弥弓呼」とはだれか?

 これらの謎を独自の視点で解明していきたい。

 

『土佐国風土記』 3 "神武東征”とトミノナガスネヒコ          川崎一水

 『土佐国風土記』 3 物部と神武東征            川崎一水

 

 

 物部川は「物部」と名がつけられているように物部氏に由来する。

 

 古事記の話では神武東征といわれるものがあったことになっている。その時代は日本書紀では紀元前660年とされるが、実際には紀元後の西暦50年代であったといわれる。しかしそのときに行われた「神武東征」は神武天皇によるものではなかったといわれる。

 

 後に初代神武天皇カムヤマトイワレヒコと呼ばれ、ハツクニシロシメススメラミコトと呼ばれる狭野命が、その兄たち五瀬命と稲飯命と三毛入野命と共に東征したことになっている。いわゆる神武東征ではあるが、この神武東征は実際には第十代崇神天皇ミマキイリヒコイニエのことであり、神武天皇と同じくハツクニシロシメススメラミコトとも呼ばれる崇神天皇が九州から瀬戸内を通る"神武東征”を行ったのであるといわれる。

 

 では初代神武天皇は東征しなかったのかと言えば確かにそうではあるが、そのころそれに似たことがあった。つまり「物部」の東征である。先に紹介したように「弓月の君」が渡来したころよりも前の時代、まだ出雲族が全盛のころのことであったといわれる。

 

 そのころの出雲族は西日本一帯を支配していた。全国が神無月の時に出雲国では神在月であった。各国の長であるトサノカミやトヨノカミなどが出雲に集まる儀式があったといわれる。弥生時代のころから今の愛知県である尾張から九州宗像までの西日本を支配していた出雲族は今の奈良・京都から鳥取・島根を本拠としていた。奈良時代までその名残があるといわれる。

 

 奈良の外山はトミヤマと呼ばれるが、出雲の王の名は「富氏(向氏)」と「神門臣氏」であったという。登美とも等彌とも鳥見とも書かれるが、中臣のトミでもある。古事記で有名なのが神武天皇に敵対したというトミノナガスネヒコである。ナガスネヒコは後に神武天皇に降伏することになっているが、ここで敵対したのは神武天皇とナガスネヒコではない。崇神天皇の話でもない。

 

 富家の資料によれば、トミノナガスネヒコの本名は第八代孝元天皇の皇子である大彦・意冨比古であった。後にナカソオオネヒコともよばれたことからもじって“なかそねひこ”から“ながすねひこ”になったといわれる。古事記の稗田阿礼によって“登美能那賀須泥毘古(日本書紀では長髄彦)”とされたといわれる。

 

 そして、孝元天皇の皇子である大彦が崇神天皇と戦ったことから、古事記の中では、登美のナカソオオネヒコである大彦がトミノナガスネヒコにされ、崇神天皇が神武天皇として描かれているのである。そして神武東征は崇神天皇によって行われたものを描き、またウマシマジは古事記のなかではニギハヤヒにされているのである。

 

 

 実際のウマシマジは物部の祖であるが、九州の南部の大和族の出自とも考えられる。そのため古事記のなかでのニギハヤヒは神武天皇と同じルーツであったことを確かめ合ったのである。古事記のニギハヤヒはニニギの兄であった。これらはすべて稗田阿礼の創作ではあるが、実際にあったことを取り混ぜて描いているのである。実際の人物であるウマシマジは古事記の中では大和族の先陣であり物部の祖となったニギハヤヒにされているのであった。そしてその後の物部は、奈良の外山近郊に根付き出雲族と一体化し、出雲族と物部族は今では同一視されるようになってしまったのである。

 

 奈良の天理にある石上神宮は物部の神社であるが、ここに祀られる「フルノカミ」は物部の神であるが、同じくここに祀られる「フツの御霊」は、蘇我氏が物部氏に勝ったのちに蘇我氏によって祀られた神である。「フツの御霊」は国譲りに立ち会った「布津主の御霊神」とも考えられ、鹿島神宮に祀られる武御雷命とともに国譲りに立ち会った香取神宮の布津主命の御霊である。

 

 大和族であり、ニニギと兄弟であったニギハヤヒは物部にされてしまったのである。そして大和族に国を譲った出雲族と合体してしまったのである。古事記に描かれたニギハヤヒは大和族であり、ニニギよりも先に奈良の地に入った兄であったことを示しているともいわれる。そして古事記に書かれたニギハヤヒは物部にされてしまったウマシマジであった。

 

 邪馬台国の祭祀王卑弥呼に敵対した狗奴国の統治王である卑弥弓呼は、"ヒメ”と"ヒコ”であり、大君と大臣でもあった。そして祭祀王卑弥呼と統治王卑弥弓呼は奈良の地ではヤマトトトヒモモソヒメと大物主であった。

 

 この三輪山の大物主こそが天照国照彦天火明櫛魂饒速日であった。本名を大年という。

 

 

『土佐国風土記』 2 物部川と仁淀川と渡川              川崎一水

 『土佐国風土記』 2 土佐と物部        川崎一水

 

 

 土佐国は、もとは土左国とも書かれ、古くから「とさ」と呼ばれていた。「とさ」と呼ばれるようになったのはなぜか?  ―  それは「遠宇佐」であった。

 

 

 1 物部

  

 土佐には大きな川が三つある。東から物部川、仁淀川、渡川である。渡川は今では四万十川と呼ばれるようになった。昔の教科書は渡川であった。最後の清流と呼ばれるが見た目は濁っている。見た目にきれいなのは仁淀川である。今、「仁淀ブルー」が注目されてもいる。この仁淀川とは「入土川」が基の意味であったといわれる。和同六年元明天皇による「好字二字」の詔によって「仁淀川」になったと思われる。「諸国郡郷名著好字令」ともいう。もしそうだとすれば、かなり古くにつけられた名である。物部川も仁淀川も渡川も同じころにつけられた名ではないか?

 

 仁淀川の古い名である「入土川」は「にゅうどがわ」と読まれる。昔教科書で習った「不輸不入の権」の「不入」は「ふにゅう」ではあるが、「不入土」と書いて「ぶによど」と読む。「入ってはいけない土地」の意味である。「不入土川」という川があったとすれば「ぶによどがわ」と読まれる。「入土川」は「によどがわ」であう。「仁淀川」に「入土」したのはだれか? 物部である。 「淀川」は「仁淀川」がさらに略された呼び名と思われる。誰が入土したのかは知らないが、「淀川」は九州にも大阪にもある。

 

 今は四万十川と呼ばれる渡川は誰が渡ったのか?物部である。ここには今でも人がいない。そのために清流と呼ばれる。今でも人が少ないということは、土佐神社の志那禰様が住むのによくないといった内ノ浦と同じである。今も内ノ浦はあまり人が住んでいない。

 

 そして物部川は、高知県の東にある一級河川である。西にあるのが渡川せある。今は四万十川と呼ばれる。通称であった四万十川という名が今では本名となった。渡川は誰が渡ったのか? ー 物部である。ここには今でも人がいない。そのために清流と呼ばれる。土佐神社の志那禰様が住むのによくないといった内ノ浦と同じである。

 

 志那禰様は土佐国の一宮である土佐神社の神様である。今も内ノ浦はあまり人が住んでいない。

 

 そして物部川は、、、

『土佐国風土記』 1 「土佐とさ」は「遠宇佐とおとうさ」           川崎一水

 『土佐国風土記』 1 「土佐とさ」は「遠宇佐とおとうさ」      川崎一水

 

 

 はじめに

 

 土佐国は、もとは土左国とも書かれ、古くから「とさ」と呼ばれていた。「とさ」とはどういう意味なのか?  ―  それは「遠宇佐とおとうさ」であった。

 

 都から近い海は「近江おうみ」と呼ばれ、遠い海は「遠江とおとうみ」と呼ばれるが、「遠宇佐とおとうさ」が「遠江」と同様に名づけられたわけではない。なぜなら「近宇佐おうさ」はないからである。ただ単に「遠い宇佐」と名づけられた。ーなぜ?ー それはおいおい語っていきたい。

 

 なぜ「とさ」なのか?土佐に居る人も今ではわからなくなっている。中世の言葉が多く残る今の高知県のことではあるが、それでもわからないのは中世の言葉ではないということである。高知に生まれた坂本龍馬のおかげで「いかんぜよ」というのが日本中ではやり言葉のようになった時期もあったが、これは江戸期幕末の坂本龍馬の話を書いた司馬遼太郎の『竜馬が行く』のおかげではあるが、高知には中世の言葉が多い。龍馬の言葉で「いかんぜよ」の「如何」もそうであるし、「お前は」の意味の「おんしゃ」も「お主は」の略語である。面白い言葉で「へんしも」という言葉があるが、「至急」という意味である。もとは「片時も待てない」という意味あったといわれ、「片時」と書かれたのが「へんし」になったといわれる。また「寸志」や「片志」も「へんし」ではあるが、「ちょっとした志」の意味であるから「片時」が正しいのだろう。

 

 土佐藩山之内家の領地となる前の戦国期に四国をほぼ統一した長宗我部は、今の南国市岡豊の曽我部の地を源頼朝から与えられたことからそう名乗るようになったといわれる。もとは信州の秦忌寸の裔といわれる初代秦広国を祖とし、第二十代秦能俊が土佐の宗我部(曽我部)の地に来て以降、他にも曽我部が居たので、長宗我部と名乗った。秦氏はよく知られているように応神天皇の時代に多くの民を率いて渡来した弓月君を祖とする渡来系一族であり、一説には秦の始皇帝の末裔ともいわれる。

 

 遡っては今大河ドラマでも描かれている平安時代の一条氏の下向地としても知られている。当時は流されるか逃げるのは四国であった。四国はもとは土佐・阿波・讃岐・伊予の四か国であるから、古事記にあるようにもとはタケヨリワケ(建依別)、オオゲツヒメ(大宜都比売)、飯依比古(イイヨリヒコ)、エヒメ(愛比売)といった。四国は面が四つあるからそう呼ばれたと書かれてはいるが、もとは“伊予の二名島”とも“死国”とも呼ばれ、“死からの再生”を表す意味であったともいわれる。

 

 伊予の二名島は「伊予」のほかにもう一つの名があった。「臺与」であった。「臺与」の読みは「とよ」であった。「豊」である。四国は「伊予の島」であったが、「豊の国の島」でもあった。

 

 高知に生まれ、なぜに高知というのか?名瀬に土佐と呼ばれるのか?その疑問を調べるうちにその答えにたどり着いたのである。


 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  5 八坂神社とスサノヲ神社

 

   「八坂神社」と「スサノヲ神社」 

 

 2〝蘇民将来子孫也〟と〝牛頭天王〟

 

 

 八坂神社には出雲の神スサノヲと秦氏の神牛頭天王がともに祀られる。

 

 しかしその牛頭天王は今の広島県の東部にある備後のスサノヲ神社に元は祀られていたらしい。このスサノヲ神社は明治期までは神仏習合の寺であったらしいが、今では神社となっておりスサノヲが祀られている。この神社の境内には摂社として疱瘡神社と蘇民神社が建てられている。その蘇民神社のわきには備後国風土記にある蘇民将来の話が書かれた碑が作られている。

 

 八坂神社にはスサノヲとスサノヲの妻たちなどたくさんの神が祀られる。八坂神社の境内摂社には疫神社がある。祇園祭の主役である荒ぶる神スサノヲではあるが牛頭天王とも呼ばれる蘇民将来の神でもある。

 

 牛頭天王とは誰なのか?

 

 八坂神社の神であるスサノヲはもと葦原の中つ国にいた。そしてイザナギから海を治めるように指示された。しかし、亡くなった母イザナミに会いたいと泣いてばかりいて、さらにはアマテラスの居る高天原に行き、乱暴狼藉をして高天原から追放されて出雲の地に降り立った。そこは出雲の肥河の上、鳥髪というところであった。

 

 つまり、海を治めもしなかったスサノヲは葦原の中つ国や高天原にはいたが、南海を旅してはおらず蘇民将来に出会うことはなかったはず。もし、出雲に降り立って後の話であれば、出雲から南海に出かけたことになる。実際、スサノヲは出雲から九州には言ったことが在ることにはなっているが、九州を南海というには無理がある。また蘇民将来という名も九州の名ではないし、日本の名ではないと思われる。結局のところ出雲に来る前の時期にスサノヲは南海に行ったことがあるということになる。  

 つまり、八坂神社のスサノヲの出自は南海にあるということである。

 

 スサノヲを出雲の人々の祖と考えれば、そのルーツはインドであるといわれ、インドのドラヴィダ語族であったという。出雲族の先祖であったクナト王が率いる集団はゴビ砂漠からバイカル湖を通りシベリアを通りアムール川を下り北海道沿岸から津軽半島にたどり着き、青森の三内丸山にしばらくいたといわれる。そして、寒冷化により南下し今の出雲にたどり着いて定住したといわれる。そのため、出雲の言葉が元になっている日本語はインドのドラヴィダ語の一種であるタミル語と似たものが多いといわれる。金属のことをカネと呼んだり、猛烈な火をタタラと呼ぶという。また象のような鼻の高いものをサルタというらしい。猿田彦は鼻高彦とも呼ばれる。また、蘇民将来のような人名やユダヤの過ぎ越しの祭に似たことから考えれば、高天原の前には中東にいたのかもしれない。そこでまず言えることは、スサノヲも出雲のスサノヲと出雲に来る前のスサノヲの祖先であるインドまたは中東のスサノヲの二通りのスサノヲがいるということである。

 

 出雲族の伝承ではその祖先はインドのクナト王国であったという。そして祇園祭の元はユダヤの過ぎ越しの祭であったのならユダヤ系秦氏の祖先にまつわる伝承に由来するものである可能性が出てくる。クナト王国の民が日本列島に到達したのは紀元前8世紀ほどといわれる。また秦氏がやってきたのは紀元後3世紀である。また別の話ではあるが徐福がやってきたのが紀元前3世紀であるから、弥生時代の初めがいつであったのかに2通りの説があるのもうなずける。

 

 その徐福もユダヤ系ではないかともいわれており、徐福の末裔と秦氏の末裔が出会った紀元後三世紀の話と、ニギハヤヒの末裔である物部氏とニニギの末裔が出会った話とはオーバーラップする。古事記にあるようにアメノハバヤとカチユキを見せあったことによりお互いのルーツが同じであったことを確認する話はユダヤの失われた10氏族の末裔が出会った話のようにも見える。

 

 祇園祭のスサノヲはインドのドラヴィダ族であるクナト族とは趣が少し異なる。インド由来というよりも中東の過ぎ越しの祭の方が祇園祭の源流である可能性が高いように思われる。そしてその由緒はユダヤのバビロン捕囚に由来するようである。

 

 バビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したのはペルシャのキュロス大王であったといわれる。紀元前559に当時は小国のペルシャ王に即位した彼は、紀元前540年にはスサを陥落させエラムを征服し、さらに紀元前539年には新バビロニア王国を倒し、捕囚されていた諸国民を解放したといわれる。そして彼は牛の角をつけた兜をかぶっていたといわれる。

 

 彼は“牛頭天王”であった。そして“スサの王”でもあった。

 彼はインド以東エジプト以西の広大な領土を誇ったアケメネス朝ペルシャのキュロス大王であり、秦氏の祖先でもある捕囚されていたユダヤ人を解放した“スサの王”ではあったが、荒ぶる神スサノヲではなかった。

 

 ユダヤ人はペルシャのスサの王に助けてもらっているのなら、もっとイランとイスラエルは仲良くしてもよさそうなものだが。