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ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  9 諏訪大社はなぜ四社       川崎一水

 

 「諏訪大社」その2諏訪大社はなぜ四社 


 御柱祭で有名な諏訪大社は四社ある。下社二社と上社二社の四社である。下社には春宮と秋宮があり、上社には前宮と本宮がある。なぜ上下それぞれに二社あるのかと言えばそれぞれの神が遷宮するからであるといわれる。出雲や伊勢は社を建て替えるのが遷宮(式年遷宮)であるが、諏訪では社は上下それぞれ常に二社あり、神が遷るといわれる。下社では春と秋にそれぞれ遷り住むという。

 

 

 下社で春宮と秋宮に移り住むのは、タケミナカタの子孫である諏訪氏ではない。金刺氏である。金刺氏は諏訪氏を監視するためにヤマト王家から派遣された。もとは磯城の金刺宮に居た神であった。神といっても出雲の千家と北島家と同じようなヤマト王家から派遣された占領軍の駐留軍のような立場であった。

 

 

 上社では昼と夜とで遷る。しかしこれは前宮を見る限りそこには政庁があり、住まいというだけではない機能を持つ。前宮の旧宮は政庁と同じ場所にある。ただしいまある宮はその政庁の100mほど上にあり、旧宮とは別の社殿ともいえる。つまり、神が遷るというよりも、タケミナカタ命とその妻である八坂刀女命が初めに住んでいた家が前宮であり、当時はその近傍で政治も行われていたと思われる。その後、タケミナカタ命は本宮に移ったといわれるが、八坂刀女命は前宮の今の宮にそのまま祀られている。ときどき遷るというのが正しければ、八坂刀女のもとにタケミナカタが時々戻ってくるという通い婚のようなものであったのかもしれない。住まいを前宮本殿とし、政庁を本宮に移したのかもしれない。昼と夜とで遷るともいわれるのはそういうことを例えて言っているのかもしれない。

 

 

 御神体は守屋山ともいわれ、物部守屋の名前もあるようにここでも出雲と物部が合体している。神官は守矢氏といわれる。守屋または守矢のモリヤとは、聖書の創世記に書かれたモリヤの地のことであり、イスラエルのシオンの丘ともいわれる。聖書の創世記には次のように書かれている。

 

 

 創世記 22章2節
 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の生贄としてイサクをわたしに捧げなさい。」

 

 そして、全焼の生贄としてイサクを捧げたアブラハムの信仰を神が確認したことによりイサクの命は解放される。同様の神事が諏訪でも行われている。神行(オコウ)の神事という。8歳の男児を神に捧げる神事である。ほかにも御頭祭という75頭の鹿の首を生贄としてささげる神事があり、鹿やウサギを捧げる。どれもユダヤの神事に近い。守矢氏のルーツはイスラエルの民ーいわゆる失われたイスラエルの10氏族の末裔ではないかともいわれる。

 

 四国を統一した土佐の長宗我部氏は、鎌倉期に信濃(しなの)から移ったといわれる。土佐国長岡郡宗我郷に入ったので宗我部と呼ばれ、別の香宗我部と区別するために長宗我部と呼ばれた。長宗我部氏は後に今の高知県南国市岡豊(おこう)に城を構えた。今は城址となっていて長宗我部氏の岡豊城博物館があるが、ここでも神行(オコウ)が行われていた可能性がある。なぜなら、長宗我部氏の祖は秦氏である。秦能俊を家祖とし、その父秦明友は秦忌寸からの家系であり、葛城襲彦とともに渡来したともいわれる。応神天皇(武内宿禰の子)の意によって渡来を許されたといういわゆる弓月君の一族である。彼らは秦氏となった。京都太秦には大避神社がある。大酒神社でもあり、ダビデ神社でもある。そして諏訪の御頭祭では75頭の鹿が捧げられるが、イスラエルの祭壇は75人によって守られるという。

 

 そして、土佐国一宮は「高鴨大明神」とも「しなねさん」と呼ばれる。

 

 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  8 諏訪大社 その1  出雲から諏訪へ      川崎一水

 

 「諏訪大社」 

 

 諏訪大社本宮には本殿がない。諏訪の神は人であるといわれる。諏訪の大祝家は諏訪氏とも呼ばれるが、大祝そのものが御神体であるということになるらしい。そして、諏訪の大祝は出雲のスサノヲ命の子であるタケミナカタ命の子孫であるといわれる。出雲の国譲りの際に、武御雷命と戦い敗れ、諏訪国に逃げ延び、諏訪から出ないことを誓って許されたということになっている。

 

 当時の出雲は今の島根県だけではなく、九州以外の西日本全域を支配していた。神無月のあったところはすべて出雲であった。今の奈良も京都も出雲であった。出雲の一宮である熊野神社の主祭神加夫呂伎熊野大神櫛御気野命はスサノヲ命の尊称である。しかし本来、出雲の王は代々大名持と呼ばれ、副王は少名彦と呼ばれていたはず。それが古事記ではスサノヲという名になっている。出雲族はインドのドラビダ族であるクナト王国を起源とするといわれる。

 

 卑弥呼の邪馬台国に対抗していた国が狗奴国であった。卑弥呼の邪馬台国が九州北部にあって、仮に大和族の国であったとすれば、出雲のクナト国が狗奴国であったもおかしくはないが、邪馬台国の南にあった狗奴国は大和族の出自である宮崎よりも南の熊襲である熊本薩摩であった可能性の方がわかりやすい。隼人族が従ったというヤマト王家は山幸彦であり、敗れた海幸彦は熊襲となった。

 

 出雲族はむしろ邪馬台国を取り込んだと思われる。なぜなら、スサノヲとアマテラスは子供を生んでいるからである。そしてスサノヲが勝ったことになっている。そのことは記紀が認めているから、大和族もそういう認識であったと思われる。

 

 

 つまり、出雲族と大和族は武御雷命による国譲りよりもずっと前の時期に融合していた。なぜなら、出雲族であるスサノヲと大和族であるアマテラスははじめは戦っていたがその後八人の子をなした。八人の子とは東京の八王子のことである。大和族である宗像家と出雲族である神門臣家が婚姻を結び、宗像三女神を生み、その宗像三女神がさらに出雲族と婚姻を結んだ。出雲の神様は縁結びの神といわれるのは、このように出雲族と大和族の婚姻を取り決めたからであった。

 

 その後、スサノヲは自分が勝ったとおごり高ぶり乱暴狼藉を働いたが、それでもアマテラスが怒らずに我慢していた時期があったのは出雲が強かった時期があったという史実のようである。さらにその後は、大和族であるアマテラス側が我慢しきれずに天岩戸に隠れてしまったが、ここでも大和族は出雲族であるスサノヲに戦いを挑んではいない。堪忍袋が裂けても引きこもっただけであった。

 

 そのさらに後には、徐々に力を付けた大和族が出雲から国を譲らせたのが国譲り神話である。しかし、実際には武御雷命がタケミナカタ命と戦ったのではなく、大和族が徐々に勢力を広げていったようである。出雲の伝承によれば、五瀬命とウマシマジによる東征では大和族は出雲族に取り込まれてしまった。そして、ウマシマジは四国南岸を通り、直接紀伊半島に上陸したため、それまでは戦いがなく、さらに熊野を通り吉野に直接入ったので五瀬による紀伊での戦いしかなかった。その後の大和族であるウマシマジは物部となり、ニギハヤヒとなった。そして出雲族と一体化していった。

 

 また後に崇神天皇であるミマキイリヒコイニエと垂仁天皇であるイクメイリヒコイサチによる二度目の東征と、神功皇后であるオキナガタラシヒメと武内宿禰による三度目ともいえる東征があったが、古事記の中で神武天皇(崇神天皇)の東征が困難で何年もかかったと描かれるように、出雲族と大和族の戦いは熾烈であったといわれる。実際には神武天皇による東征でも、崇神天皇による東征でもなかったがそれは後に紹介する。

 

 古事記のなかではスサノヲの子であるスセリヒメの夫大国主とスセリヒメの子である事代主とタケミナカタが武御雷命に国譲りを迫られ、大国主は出雲の国を譲るかわりに自分を大きな社に祀れといい、さらに事代主を出雲族をまとめる王とするよう大和族に迫った。そしてそれは神と神の契約となった。そして大国主を祀る大きな社として杵築大社が建てられ、事代主は神武天皇の義理の父となった。事代主の娘であるヒメタタライスズヒメと婚姻を結んだ神武天皇(崇神天皇)は出雲国の王となったのである。それは大国主がスセリヒメと婚姻を結び、出雲国の王となったのと同様であった。

 

 

 そして、タケミナカタは大和族との和議に応じず、徹底抗戦の立場を取ったといわれる。そして、諏訪へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  8 諏訪大社   出雲か諏訪へ          川崎一水

 

 「諏訪大社」その1出雲から諏訪へ 

 

 諏訪大社本宮には本殿がない。諏訪の神は人であるといわれる。諏訪の大祝家は諏訪氏とも呼ばれるが、大祝そのものが御神体であるということになるらしい。そして、諏訪の大祝は出雲のスサノヲ命の子であるタケミナカタ命の子孫であるといわれる。古事記では、出雲の国譲りの際に武御雷命と戦い敗れ、諏訪国に逃げ延び、諏訪から出ないことを誓って許されたということになっている。

 

 出雲国の一宮である熊野神社の主祭神加夫呂伎熊野大神櫛御気野命はスサノヲ命の尊称である。しかし本来、出雲の王は代々大名持と呼ばれ、副王は少名彦と呼ばれていたはず。それが古事記ではスサノヲという名になっている。出雲族はインドのドラビダ族であるクナト王国を起源とするといわれる。彼らはクナトの神と幸ノ神を信奉し、大山とサイヒメ山(三瓶山)を拝む太陽信仰であったという。

 

 卑弥呼の邪馬台国に対抗していた国が狗奴国であった。卑弥呼の邪馬台国が九州北部にあって、仮に大和族の国であったとすれば、出雲のクナト国が狗奴国であったもおかしくはないが、邪馬台国の南にあった狗奴国は大和族の出自である宮崎よりも南の熊襲である熊本薩摩であった可能性の方がわかりやすい。隼人族が従ったというヤマト王家は山幸彦であり、敗れた海幸彦は熊襲となった。

 

 出雲族はむしろ邪馬台国を取り込んだと思われる。なぜなら、スサノヲとアマテラスは子供を生んでいるからである。そしてスサノヲが勝ったことになっている。そのことは記紀が認めているから、大和族もそういう認識であったと思われる。

 

 

 つまり、出雲族と大和族は武御雷命による国譲りよりもずっと前の時期に融合していた。なぜなら、出雲族であるスサノヲと大和族であるアマテラスははじめは戦っていたがその後八人の子をなした。八人の子とは東京の八王子のことである。大和族である宗像家と出雲族である神門臣家が婚姻を結び、宗像三女神を生み、その宗像三女神がさらに出雲族と婚姻を結んだ。出雲の神様は縁結びの神といわれるのは、このように出雲族と大和族の婚姻を取り決めたからであった。

 

 その後、スサノヲは自分が勝ったとおごり高ぶり乱暴狼藉を働いたが、それでもアマテラスが怒らずに我慢していた時期があったのは、大和よりも出雲が強かった時期があったという史実のようである。さらにその後は、大和族であるアマテラス側が我慢しきれずに天岩戸に隠れてしまったが、ここでも大和族は出雲族であるスサノヲに戦いを挑んではいない。堪忍袋が裂けても引きこもっただけであった。

 

 そのさらに後には、徐々に力を付けた大和族が出雲から国を譲らせたのが国譲り神話である。しかし、実際には武御雷命がタケミナカタ命と戦ったのではなく、大和族が徐々に勢力を広げていったようである。出雲の伝承によれば、五瀬命とウマシマジによる東征では大和族は出雲族に取り込まれてしまった。そして、ウマシマジは四国南岸を通り、直接紀伊半島に上陸したため、それまでは戦いがなく、さらに熊野を通り吉野に直接入ったので五瀬による紀伊での戦いしかなかった。その後の大和族であるウマシマジは物部となり、ニギハヤヒとなった。そして出雲族と一体化していった。

 

 また後に崇神天皇であるミマキイリヒコイニエと垂仁天皇であるイクメイリヒコイサチによる二度目の東征と、神功皇后であるオキナガタラシヒメと武内宿禰による三度目ともいえる東征があったが、古事記の中で神武天皇(崇神天皇)の東征が困難で何年もかかったと描かれるように、出雲族と大和族の戦いは熾烈であったといわれる。実際には神武天皇による東征でも、崇神天皇による東征でもなかったがそれは後に紹介する。

 

 古事記のなかではスサノヲの子であるスセリヒメの夫大国主とスセリヒメの子である事代主とタケミナカタが武御雷命に国譲りを迫られ、大国主は出雲の国を譲るかわりに自分を大きな社に祀れといい、さらに事代主を出雲族をまとめる王とするよう大和族に迫った。そしてそれは神と神の契約となった。そして大国主を祀る大きな社として杵築大社が建てられ、事代主は神武天皇の義理の父となった。事代主の娘であるヒメタタライスズヒメと婚姻を結んだ神武天皇(崇神天皇)は出雲国の王となったのである。それは大国主がスセリヒメと婚姻を結び、出雲国の王となったのと同様であった。

 

 

 そして、タケミナカタは大和族との和議に応じず、徹底抗戦の立場を取ったといわれる。そして、諏訪へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  7 もうひとつの熊野神社

 

 「もうひとつの熊野神社」 

 

 全国に多くある熊野神社は熊野速玉大社から熊野神あるいは熊野権現を勧請したといわれる。また、10世紀に熊野速玉大社神主であった鈴木基行はウマシマジの後裔であったという。ウマシマジは物部の祖であることから、熊野神社は物部の神社でもあった。ところがひとつだけそうではない熊野神社が出雲にある。

 

 出雲國一之宮 熊野大社 (kumanotaisha.or.jp)

 

 島根県松江市八雲町熊野にある熊野神社は、熊野坐神社とも称され、熊野本宮大社と同じ名称であった。熊野大神宮とも熊野天照太神宮とも呼ばれた時期があったという。また、日本火出初社ともいわれ、出雲國一宮でもある。

 

 主祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命であり、称える素戔嗚尊でもあるという。『日本書紀』に出雲國造をして厳神の宮を作らしむとの記載ありという。また、『出雲國風土記』に熊野大神の記載ありという。つまり、熊野大社から勧請された神社ではない。

 

 『出雲國風土記』には熊野大社、『延喜式神名帳』には熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称された。ちなみに出雲大社(杵築大社)は出雲国一宮ではない。また、出雲大社宮司の襲職は当社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で、今も奉仕されているという。要は出雲大社よりも格が上であるということである。

 

 つまり、この熊野神社はウマシマジの子孫が祀る神社ではないし、主祭神も熊野本宮大社の祭神である「家都美御子」ではない。「家都美御子」は「スサノヲの御子」であった。ここの熊野神社は「スサノヲの御子」である「家都美御子」を祀るのではなく、「家都美御子の先祖」である「スサノヲ」を主祭神とするのである。

 

 

 スサノヲは、イザナギが黄泉の国から帰り禊を行い、左目を洗ったときにアマテラスが生まれ、右目を洗ったときにツクヨミが生まれ、そして最後に口を洗ったときに生まれた三貴子の一人である。一般には鼻からといわれるが、『帝皇日嗣』にはそう書かれているという。そのことから神社の参拝の前には手水舎で左手と右手と口の順に洗うのであるという。そしてイザナギはアマテラスに天上の国をツクヨミに夜の国をそしてスサノヲに海原の国を治めるように言ったという。

 

 出雲の王は代々スサノヲであった。王である富家の御子はスサノヲである。スサノヲの母が夫須美であり父が速玉之男であるなら、速玉之男である"ハヤスサノヲ”がイザナギであり、夫須美は"イザナミ”ということになる。しかしこれは熊野大社での話であり、出雲の熊野神社の話ではない。

 

 

 

 

 出雲の熊野神社は出雲の王家の神社である。

 

 

 

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  6 熊野大社と熊野神社

 

 「熊野大社」と「熊野神社」 

 

 

 ◯ 熊野本宮大社(新宮)       熊野坐神社(旧宮大斎原) 

   祭神 - 家都美御子(スサノヲ)夫須美(事解之男)  速玉之男

   創建 - 崇神六十五年

 

   ◯ 熊野速玉大社(新宮)       神倉神社(旧宮)

   祭神 - 速玉之男           高倉下(ゴトビキ磐)

   創建 - 景行五十八年               128年

 

   ◯ 熊野那智大社(新宮)       飛瀧神社(旧宮)

   祭神 - 大巳貴  夫須美       那智の滝

   創建 - 仁徳五年

 

 熊野大社とは熊野三山とも呼ばれるが、熊野本宮大社と熊野那智大社と熊野速玉大社の三社のことをいう。仏教伝来以降早くに神仏習合し、役行者として有名な加茂役小角により修験道の聖地となった。一方、全国に多くある熊野神社は、幻冬舎ゴールドオンラインによれば、"穂を積んだ”ものを"すすき”と呼ぶことから熊野速玉大社の宮司であった穂積氏から鈴木氏が出て、後に鈴木氏が海南市の藤白神社の神主となり、さらにその一族から源平合戦(治承の内乱、1180~85)のころ源義経の家臣となった鈴木三郎重家が現れ、重家の末裔が東北から関東・東海地方にかけて広がったことによるといわれる。また、十世紀から十三世紀にかけて天皇や貴族の熊野詣が盛んになり、十四世紀には修験道の広まりと武士の信仰が広まったことから、また十五世紀には一般民衆にも熊野信仰が広まったことにより、各地に熊野神社が勧請されたといわれる。熊野神あるいは熊野権現を勧請した熊野神社は、熊野神あるいは熊野権現が12柱の祭神から構成されていることから十二所神社または十二社神社と呼ばれることもあるという。

 

 

 熊野大社は自然信仰から始まったとされるが、熊野神社は熊野速玉大社の神主である穂積氏が中世以降に御師として熊野信仰を広めたためであるといわれる。『姓氏家系大辞典』(太田亮著、角川書店)によれば、穂積姓や鈴木姓は物部氏と同族であるという。穂積氏は大和国山辺郡穂積邑より起こり、天武朝期の684年に八色の姓のひとつとして穂積姓が定められたという。またその後裔鈴木氏は穂積基行から始まっているが、その鈴木基行の二十五代前はウマシマジであるという。鈴木基行は9世紀後半から十世紀初めの人であるから、一代を15年から20年とすればウマシマジは四世紀ころの人となる。

 

 

 ウマシマジが四世紀の人であれば崇神天皇より新しく話が合わないが、いずれにしても熊野大社は物部の神社であることには変わりない。熊野本宮大社のホームページによれば、熊野本宮大社はもとは熊野坐神社といい崇神六十五年に創建されたという。ちなみに、京都の上賀茂である賀茂別雷神社は天武六年667年、奈良の宇陀の八咫烏神社は705年に創建されている。また、熊野那智大社は孝昭朝期とも仁徳朝期ともいわれ、もとは飛瀧神社に社殿があったといわれる。また、熊野速玉大社は景行五十八年に創建されたといわれ、新宮である熊野速玉大社になる前の旧宮である神倉神社が128年創建といわれ最も古いことになっている。

 

    

 

 熊野本宮大社のホームページによれば、速玉之男は熊野国造の祖であり、高倉下は天火明の息子とある。神武東征のときにフツの御魂の剣を献じたとある。そうであるなら、高倉下は武内宿禰の祖であるから、天火明が武内宿禰の祖ということにもなる。

 

 また熊野速玉神社の旧宮である神倉神社の岩倉は火山によるものであり、磐坐信仰が基にはなっているが、ゴトビキとはヒキガエルのことであり、古事記でいうタニググのことでもある。案山子であるクエビコもカエルであるタニグクも大巳貴を支えたのであった。クエビコは狭井神社にタニグクは神倉神社に。

 

 そして、家都美御子は都美御子(登美御子)でもある。登美家は富家であり出雲の東王家でもある。登美家の御子ということになるのではないだろうか。出雲の富家第八代当主大名持八千矛はスサノヲでもあった。そのスサノヲである家都美御子の母は夫須美であり父は速玉之男であるという。

 

 

 しかし、もう一つの熊野神社が、、、。