ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  8 諏訪大社 その1  出雲から諏訪へ      川崎一水 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  8 諏訪大社 その1  出雲から諏訪へ      川崎一水

 

 「諏訪大社」 

 

 諏訪大社本宮には本殿がない。諏訪の神は人であるといわれる。諏訪の大祝家は諏訪氏とも呼ばれるが、大祝そのものが御神体であるということになるらしい。そして、諏訪の大祝は出雲のスサノヲ命の子であるタケミナカタ命の子孫であるといわれる。出雲の国譲りの際に、武御雷命と戦い敗れ、諏訪国に逃げ延び、諏訪から出ないことを誓って許されたということになっている。

 

 当時の出雲は今の島根県だけではなく、九州以外の西日本全域を支配していた。神無月のあったところはすべて出雲であった。今の奈良も京都も出雲であった。出雲の一宮である熊野神社の主祭神加夫呂伎熊野大神櫛御気野命はスサノヲ命の尊称である。しかし本来、出雲の王は代々大名持と呼ばれ、副王は少名彦と呼ばれていたはず。それが古事記ではスサノヲという名になっている。出雲族はインドのドラビダ族であるクナト王国を起源とするといわれる。

 

 卑弥呼の邪馬台国に対抗していた国が狗奴国であった。卑弥呼の邪馬台国が九州北部にあって、仮に大和族の国であったとすれば、出雲のクナト国が狗奴国であったもおかしくはないが、邪馬台国の南にあった狗奴国は大和族の出自である宮崎よりも南の熊襲である熊本薩摩であった可能性の方がわかりやすい。隼人族が従ったというヤマト王家は山幸彦であり、敗れた海幸彦は熊襲となった。

 

 出雲族はむしろ邪馬台国を取り込んだと思われる。なぜなら、スサノヲとアマテラスは子供を生んでいるからである。そしてスサノヲが勝ったことになっている。そのことは記紀が認めているから、大和族もそういう認識であったと思われる。

 

 

 つまり、出雲族と大和族は武御雷命による国譲りよりもずっと前の時期に融合していた。なぜなら、出雲族であるスサノヲと大和族であるアマテラスははじめは戦っていたがその後八人の子をなした。八人の子とは東京の八王子のことである。大和族である宗像家と出雲族である神門臣家が婚姻を結び、宗像三女神を生み、その宗像三女神がさらに出雲族と婚姻を結んだ。出雲の神様は縁結びの神といわれるのは、このように出雲族と大和族の婚姻を取り決めたからであった。

 

 その後、スサノヲは自分が勝ったとおごり高ぶり乱暴狼藉を働いたが、それでもアマテラスが怒らずに我慢していた時期があったのは出雲が強かった時期があったという史実のようである。さらにその後は、大和族であるアマテラス側が我慢しきれずに天岩戸に隠れてしまったが、ここでも大和族は出雲族であるスサノヲに戦いを挑んではいない。堪忍袋が裂けても引きこもっただけであった。

 

 そのさらに後には、徐々に力を付けた大和族が出雲から国を譲らせたのが国譲り神話である。しかし、実際には武御雷命がタケミナカタ命と戦ったのではなく、大和族が徐々に勢力を広げていったようである。出雲の伝承によれば、五瀬命とウマシマジによる東征では大和族は出雲族に取り込まれてしまった。そして、ウマシマジは四国南岸を通り、直接紀伊半島に上陸したため、それまでは戦いがなく、さらに熊野を通り吉野に直接入ったので五瀬による紀伊での戦いしかなかった。その後の大和族であるウマシマジは物部となり、ニギハヤヒとなった。そして出雲族と一体化していった。

 

 また後に崇神天皇であるミマキイリヒコイニエと垂仁天皇であるイクメイリヒコイサチによる二度目の東征と、神功皇后であるオキナガタラシヒメと武内宿禰による三度目ともいえる東征があったが、古事記の中で神武天皇(崇神天皇)の東征が困難で何年もかかったと描かれるように、出雲族と大和族の戦いは熾烈であったといわれる。実際には神武天皇による東征でも、崇神天皇による東征でもなかったがそれは後に紹介する。

 

 古事記のなかではスサノヲの子であるスセリヒメの夫大国主とスセリヒメの子である事代主とタケミナカタが武御雷命に国譲りを迫られ、大国主は出雲の国を譲るかわりに自分を大きな社に祀れといい、さらに事代主を出雲族をまとめる王とするよう大和族に迫った。そしてそれは神と神の契約となった。そして大国主を祀る大きな社として杵築大社が建てられ、事代主は神武天皇の義理の父となった。事代主の娘であるヒメタタライスズヒメと婚姻を結んだ神武天皇(崇神天皇)は出雲国の王となったのである。それは大国主がスセリヒメと婚姻を結び、出雲国の王となったのと同様であった。

 

 

 そして、タケミナカタは大和族との和議に応じず、徹底抗戦の立場を取ったといわれる。そして、諏訪へ。