ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  6 熊野大社と熊野神社 | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

ヨツバの古代史探訪と神社参拝ガイド  6 熊野大社と熊野神社

 

 「熊野大社」と「熊野神社」 

 

 

 ◯ 熊野本宮大社(新宮)       熊野坐神社(旧宮大斎原) 

   祭神 - 家都美御子(スサノヲ)夫須美(事解之男)  速玉之男

   創建 - 崇神六十五年

 

   ◯ 熊野速玉大社(新宮)       神倉神社(旧宮)

   祭神 - 速玉之男           高倉下(ゴトビキ磐)

   創建 - 景行五十八年               128年

 

   ◯ 熊野那智大社(新宮)       飛瀧神社(旧宮)

   祭神 - 大巳貴  夫須美       那智の滝

   創建 - 仁徳五年

 

 熊野大社とは熊野三山とも呼ばれるが、熊野本宮大社と熊野那智大社と熊野速玉大社の三社のことをいう。仏教伝来以降早くに神仏習合し、役行者として有名な加茂役小角により修験道の聖地となった。一方、全国に多くある熊野神社は、幻冬舎ゴールドオンラインによれば、"穂を積んだ”ものを"すすき”と呼ぶことから熊野速玉大社の宮司であった穂積氏から鈴木氏が出て、後に鈴木氏が海南市の藤白神社の神主となり、さらにその一族から源平合戦(治承の内乱、1180~85)のころ源義経の家臣となった鈴木三郎重家が現れ、重家の末裔が東北から関東・東海地方にかけて広がったことによるといわれる。また、十世紀から十三世紀にかけて天皇や貴族の熊野詣が盛んになり、十四世紀には修験道の広まりと武士の信仰が広まったことから、また十五世紀には一般民衆にも熊野信仰が広まったことにより、各地に熊野神社が勧請されたといわれる。熊野神あるいは熊野権現を勧請した熊野神社は、熊野神あるいは熊野権現が12柱の祭神から構成されていることから十二所神社または十二社神社と呼ばれることもあるという。

 

 

 熊野大社は自然信仰から始まったとされるが、熊野神社は熊野速玉大社の神主である穂積氏が中世以降に御師として熊野信仰を広めたためであるといわれる。『姓氏家系大辞典』(太田亮著、角川書店)によれば、穂積姓や鈴木姓は物部氏と同族であるという。穂積氏は大和国山辺郡穂積邑より起こり、天武朝期の684年に八色の姓のひとつとして穂積姓が定められたという。またその後裔鈴木氏は穂積基行から始まっているが、その鈴木基行の二十五代前はウマシマジであるという。鈴木基行は9世紀後半から十世紀初めの人であるから、一代を15年から20年とすればウマシマジは四世紀ころの人となる。

 

 

 ウマシマジが四世紀の人であれば崇神天皇より新しく話が合わないが、いずれにしても熊野大社は物部の神社であることには変わりない。熊野本宮大社のホームページによれば、熊野本宮大社はもとは熊野坐神社といい崇神六十五年に創建されたという。ちなみに、京都の上賀茂である賀茂別雷神社は天武六年667年、奈良の宇陀の八咫烏神社は705年に創建されている。また、熊野那智大社は孝昭朝期とも仁徳朝期ともいわれ、もとは飛瀧神社に社殿があったといわれる。また、熊野速玉大社は景行五十八年に創建されたといわれ、新宮である熊野速玉大社になる前の旧宮である神倉神社が128年創建といわれ最も古いことになっている。

 

    

 

 熊野本宮大社のホームページによれば、速玉之男は熊野国造の祖であり、高倉下は天火明の息子とある。神武東征のときにフツの御魂の剣を献じたとある。そうであるなら、高倉下は武内宿禰の祖であるから、天火明が武内宿禰の祖ということにもなる。

 

 また熊野速玉神社の旧宮である神倉神社の岩倉は火山によるものであり、磐坐信仰が基にはなっているが、ゴトビキとはヒキガエルのことであり、古事記でいうタニググのことでもある。案山子であるクエビコもカエルであるタニグクも大巳貴を支えたのであった。クエビコは狭井神社にタニグクは神倉神社に。

 

 そして、家都美御子は都美御子(登美御子)でもある。登美家は富家であり出雲の東王家でもある。登美家の御子ということになるのではないだろうか。出雲の富家第八代当主大名持八千矛はスサノヲでもあった。そのスサノヲである家都美御子の母は夫須美であり父は速玉之男であるという。

 

 

 しかし、もう一つの熊野神社が、、、。