ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド    -3ページ目

『土佐国風土記』 6 高鴨神はアジスキタカヒコネ命 八咫烏とも呼ばれる   川崎一水 

 『土佐国風土記』  土佐神社の神  高鴨神はアジスキタカヒコネ命 八咫烏とも呼ばれる   川崎一水

 

 土佐国の一宮である土佐神社は志那禰様という。志那に禰を持つという意味である。これは秦氏のことを言うのかもしれないが、秦氏が渡来したのは紀元後三世紀であり、この神社が祀る神はもっと古い。

 

 土佐神社の神は高鴨神とも一言主神ともいわれる。高鴨神は加茂族の祖神である。奈良の御所市にある高鴨神社に祀られるアジスキタカヒコネ命である。アジスキタカヒコネ命はアジスキタカヒコであり、アジスキタカヒコを禰とするというふうにもとれる。アジスキタカヒコは色が黒く八咫烏とも呼ばれたという。神武天皇が熊野で道に迷った時に吉野へ先導し助けたという八咫烏である。

 

 熊野とは奈良の南の紀伊半島の山奥深くで熊野本宮大社がある。その南には熊野那智大社と熊野速玉大社がある。熊野三山と呼ばれ修験道の聖地でもある。平安以降天皇や太上天皇の行幸が多く行われ有名になり、多くの一般庶民の熊野詣も行われたことから「蟻の熊野詣」と表現されるほど流行っていたといわれる。

 

 熊野三山の各社いついては別に「ヨツバの神社参拝日記」で紹介するが、古事記には次のように書かれる。神武東征のおり長男五瀬命を今の和歌山市である紀伊国名草郡に亡くした佐野命は、南紀を東へと迂回し那智の錦浦に着いたのち北へと進軍したという。しかし、実際のところは道に迷い困り果てていたところに八咫烏が現れ吉野への道を先導したという。

 

 

 しかしこのときの"神武東征”はウマシマジによってのものであった。ウマシマジは北に進軍するための道案内を八咫烏に頼んだ。ここにいう本当の八咫烏とは鳥ではなく先に述べたアジスキタカヒコのことである。アジスキタカヒコは色が黒く八咫烏というあだ名を持っていたといわれる。そして、実際にはもうすでにいないという意味のアジスキタカヒコネ命となり、アジスキタカヒコの子孫である葛城の加茂族つまり登美家がウマシマジに協力したのであった。登美家は出雲の富家の分家筋であり大和を支配していた。しかし、孝元天皇ではウマシマジに対抗できないと思い、孝元天皇の皇子である大彦と敵対するウマシマジの側に着いたといわれる。

 

 大彦は五瀬命の攻撃から大和を防いだが、さらにつぎの攻撃には耐えられないと考えていたという。その頃、その状況もあってフト二こと孝霊天皇は大和から吉備に移動したという。孝霊天皇の皇子で後に孝元天皇と呼ばれるクニクルがその跡を取った形になった。孝霊天皇はその後吉備国を支配し、さらには同祖である北の出雲を攻撃したことから、出雲も大彦を援助できない状態であったという。このときに吉備国で活躍したのが桃太郎こと大吉備津彦であり、吉備津神社に祀られる孝霊天皇の皇子ヒコイサセリである。その裏山である茶臼山古墳に陵墓がある。出雲では親戚筋の裏切りに最も警戒するように言われるようになったのはこの孝霊天皇と大吉備津彦の"温羅切り”からであるともいわれる。

 

 そして、ウマシマジに着いたのが、八咫烏ことアジスキタカヒコネ命の子孫である登美家であったことから、ウマシマジから"とび”と呼ばれたという。これが後に金の鳶である"金鵄”となったといわれる。出雲では神のことを"かも”と発音していたといわれる。もともと加茂族は出雲王家の出自であった。つまり、加茂族は神族であり、鴨川は神川であった。

 

 ウマシマジは物部と呼ばれた。武の種族であった。加茂族は戦いを好まなかった。祭祀と事向けで支配した。そのことから富家は向家とも呼ばれるようになったという。のちに関東東北まで富家は広がっていったという。中臣である仲の富もそうであった。その祖は天女の羽衣伝説として語られる『近江国風土記』逸文に出てくる御食津臣命である。近江はアジスキタカヒコネ命である加茂族の支配したところでもある。

 

 

 熊野大社には神武天皇を助けた八咫烏も祀られる。三本足の八咫烏は足が一本多いことからか足技のスポーツである蹴球の象徴となっている。サッカーやラグビーの神社にも祀られる。サッカー日本代表のエンブレムにもこの八咫烏が用いられている。初代監督が加茂監督だったという落ちまでついている。

 

 

 ウマシマジは物部の祖となった。

 

 

『土佐国風土記』 5 土佐神社の神は高鴨神と一言主神         川崎一水

 『土佐国風土記』  土佐神社の神           川崎一水

 

 土佐国の一宮である土佐神社は志那禰様という。志那に禰を持つという意味である。これは秦氏のことを言うのかもしれないが、秦氏が渡来したのは紀元後三世紀であり、この神社が祀る神はもっと古い。

 

 土佐神社の神は高鴨神とも一言主神ともいわれる。高鴨神はアジスキタカヒコネ命であるから神武天皇の時代の神である。一言主神は葛城一言主であり、雄略天皇と“瓜二つ”であったとされる。雄略天皇が鷹狩りに出かけたときに出会い、天皇の方が馬を降りたという話がある。雄略天皇の時代と考えれば四世紀になるが、実際にはもっと古い神である。

 

 高鴨神は賀茂氏の祖神であり、奈良の御所市の高鴨神社に祀られる。アジスキタカヒコネ命であり、京都の下鴨神社である賀茂御祖神社にも祀られる。タケツノミとも呼ばれる。

 

 高鴨神社は加茂社の総本宮であり、鴨族発祥の地であり、弥生中期より祭祀を行っているとある。高鴨神社ではアジスキタカヒコネ命(迦毛之大御神)とあり、京都の上賀茂神社にも祀られる迦毛之大御神としている。迦毛之大御神は賀茂別雷命である。

 

 そうであるならば、賀茂別雷命は“賀茂氏から分かれた賀茂別”ではなく、“別かれた賀茂氏”であるということになる。何から分かれたのかは明らかで、天皇家から分かれたのである。護王神社に祀られる和気清麻呂は垂仁天皇の皇子であった沼帯別命を祖とする“和気”であった。賀茂氏は別雷命を祖とする“別”であったことになる。別雷命は誰の皇子だったのか?

 

 アジスキタカヒコはアメノワカヒコと双子であったといわれる。大国主が宗像の奥津宮のタギリヒメを娶って生んだ子がアジスキタカヒコとタカヒメ(シタテルヒメ)あり、彼らは国津神である。アメノワカヒコは天孫族天津神である。にもかかわらずアメノワカヒコとアジスキタカヒコが似ていたのは、天皇家の皇子として生まれた双子の片方を賀茂氏に養子に出したからであるといわれる。そして、アジスキタカヒコは賀茂族の長として天孫族アメノワカヒコを支えたという。そのためアジスキタカヒコは迦毛之大御神を呼ばれる。“大御神”と呼ばれるのは天照大御神との二神のみといわれる。

 

 古事記のなかでは、大国主の娘シタテルヒメと結ばれたアメノワカヒコは高天原に八年帰らず、天照大御神と高御産巣日神の意向に逆らってしまった。そのため天原から雉のナキメが派遣された。しかし、アメノワカヒコはその雉のナキメを天羽羽矢で射たのであった。そのナキメを射た矢は高天原まで届き、高御産巣日神によって言あげしてから射返された。そしてアメノワカヒコはその矢で亡くなってしまったということになっている。

 

 ところが実際にはこのときアメノワカヒコは死んではいないといわれる。そのためアジスキタカヒコはアメノワカヒコの葬儀の喪屋を壊したのであった。実在の人としての天照大御神は女性ではない。三輪の大神である天照国照彦天火明櫛魂ニギハヤヒである。そのため古事記には神武天皇とニギハヤヒとナガスネヒコとのやり取りがその象徴として記述されている。八咫烏であるアジスキタカヒコが神武天皇を助けたと。そして古事記のなかのニギハヤヒとナガスネヒコは亡くなる。

 

 つまり、迦毛大御神であるアジスキタカヒコが天照大御神としての神武天皇を助けたのである。そしてアメノワカヒコは亡くなる。しかし、実際のニギハヤヒはアマテラスであり、ナガスネヒコは大彦である。ニギハヤヒとアメノワカヒコが入れ替わっており、大彦は崇神天皇の時代の人である。古事記は稗田阿礼の名を借りた藤原史による創作であるといわれる。

 

 

『土佐国風土記』 4 物部と"神武東征”と徐福伝説             川崎一水

 

『土佐国風土記』 4 物部と"神武東征”           川崎一水

 

 

 石上神宮はもとは物部氏の神社ではあったが、物部氏に勝った蘇我氏の神社でもある。そして天皇家の武器庫でもある。その創建は崇神天皇の時代にである崇神天皇七年である。

 

 ここには物部の神である「布留の神」が祀られる。そしてのちに述べるが蘇我氏が物部氏を破り、政権を取って以降は「フツの御霊」も祀られるようになったという。「フツの御霊」を祀るのは蘇我氏である。「フツ」は布津主の「布津」でもあり、「芾」でもあった。

 

 このように奈良の地にやって来たウマシマジはどのようにして九州からやって来たのか。彼は瀬戸内を通ってはいなかった。それには徐福伝説が関わる。

 

 徐福は徐芾とも呼ばれる。紀元前3世紀に秦の始皇帝の支援によって日本にやって来たといわれる徐福は、九州の佐賀の浮杯にたどり着き、その後その子孫である福永・福萬・福壽は太平洋沿岸を東進し、東海から関東や東北までたどり着いたといわれる。ウマシマジの時代にはそのことは九州の地ではすでに周知のことであったと思われる。また、漁業を生業にしているものにとって黒潮の流れは知っていて当然のことであった。

 

 徐福の子孫もウマシマジの子孫も黒潮に乗って東進した。四国の南岸には当時、人はあまりいなかった。土佐国の一宮である土佐神社の由緒に見える「志那禰神」は、当初は今の高知県高岡郡宇佐の西にある自然の良港である横浪三里の浦ノ内に居たという。そしてここはよくないといって今の土佐神社のある地に鎮座したという。浦ノ内には人が今でもあまりいない。

 

 人のいない四国の南岸は容易に東進できた。瀬戸内を東征した“神武天皇”のように何年もかからなかった。敵となる人がいなかったのである。徐福の子孫もウマシマジも容易にに土佐の沿岸を東進した。土佐の西は幡多の地である。もともと徐福または秦氏の影響を強く受けた地域である。そしてその後の武内宿禰が神功皇后と応神天皇と共に(弓月の君と共に)東征したのは四世紀のことであった。

 

 大月、土佐佐賀、久礼、須崎(浦ノ内)、宇佐、高知を経て物部川に到る。これらの地名にあるように月や佐賀や宇佐のように九州にちなんだ地名が多い。九州の宇佐は月信仰であり、出雲は太陽信仰であったといわれる。蘇我氏が物部氏を滅ぼした6世紀にはすでに物部と出雲は一体となっていた。

 

 宇佐神宮の創建が571年であり、石上神宮の創建が崇神七年で、鹿島神宮が神武天皇元年、香取神宮が神武天皇十八年といわれる。つまり、瀬戸内を通った実際の"神武東征”は三世紀の崇神天皇の時代であった。そしてそれは卑弥呼の時代でもあった。

 

 ウマシマジによる東征は崇神天皇の時代より前の時代であり、神武天皇の時代である西暦50年代以降のことである。

 

【アテラ】 3 漢と魏と呉と日本(倭)               川崎一水

 「アテラ」 3 漢と魏と呉と日本(倭)               川崎一水

 

 中国と日本

  

 後漢の混乱により董卓が献帝を擁して都を長安に移した。これに乗じて遼東太守であった公孫度が高句麗や烏丸を討伐し、山東半島も支配下とした。公孫度の子公孫康は三世紀初めには楽浪郡の南に帯方郡を新設した。韓や濊を攻略し、韓や倭は帯方郡に属した。そのころの帯方郡や楽浪郡は公孫氏によって支配されていたため、倭の魏への朝貢は公孫氏に対してであった可能性も高いといわれる。その後の後漢の衰退期には高句麗が侵攻した。125年から168年の順帝桓帝のころといわれる。
 
 その後の後漢の滅亡後には、魏の曹操、呉の孫堅、蜀の劉備が頭角を現すが、漢の血筋を継承していたのは蜀の劉備であった。劉備が西暦221年巴蜀に建国した蜀漢と、曹操の子曹丕が西暦220年後漢から禅譲を受けた魏と、西暦222年孫権が建国した呉とがその覇を争った。三国鼎立時代である。その後は、漢の継承を自認していた蜀漢は西暦263年魏によって滅ぼされ、その魏も同年、司馬懿の孫司馬炎が禅譲を受け晋に代わる。そして呉は晋によって西暦280年に滅ぼされることとなる。

 

 「親魏倭王」が魏に朝見したのは238年とも239年ともいわれる。それは魏の司馬懿が遼東の公孫淵を滅ぼした年かその翌年であったという。公孫淵は燕の王となり、朝鮮半島に帯方郡を設置し、呉と通行し、魏と敵対していたという。遼東の東に位置していた倭は魏にとって地政学上重要な国であったとも考えられる。そのために「親魏倭王」の金印を与えたのではないかと考えられている。

 

 しかし、魏から倭の「卑弥呼」が「親魏倭王」の金印を下賜されるよりも前に、漢によって「漢委奴国王」の金印が「委奴国王」に下賜されていた。その場合の意味を考えてみる。まず「委奴国」は「わのなこく」ではない。それは明らかである。漢でも魏でも、文字は一文字一音である。文字が違っても音が同じなら書き換えられることがある。まして「わ」などという訓読みは使われるはずもない。かりに倭が「倭」と書いても「イ」と読まれたはずである。「倭」は「委」と発音が同じであるとしても。「奴」は「ナ」ではない。「奴」は「ド」である。「ナ」なら現在の福岡の「那の津」の「那」を書いたはず。

 

 どうしてこんなことになったのかは当時の権威に尋ねてみないと分からないが、明治時代は天皇が万世一系であり、すべてが天皇につながっていなければならなかったようである。最近メディアでよく見かける竹田宮恒久王のひ孫である竹田恒泰氏は、「卑弥呼」は天皇家の歴史にはいないので、天皇家が九州に居た「卑弥呼」とつがっていなくて当然であるといっているが、そもそも「卑弥呼」は人の名なのだろうか。なお、彼は「卑弥呼」は九州に居たと思っているようである。現代的である。

 

 いま一般にいわれているのは、「卑弥呼」は「姫巫女」であり「巫女」ことであり人の名ではないといわれ、祭祀を行った巫女とされているが、そうであろうか。「卑弥呼」は女王である。単なる巫女ではない。その考え方でいけば「斎王」が近い。未婚の女性であり、神宮において「巫女」として「アマテラス」の魂を鎮魂する。加茂神社にも「斎王」がいる。しかし、「斎王」は女王ではない。神宮最初の斎王は「トヨキイリヒメ」であるが、女王ではない。

 

 ここに謎がある。

  

【アテラ】 2 殷と秦と日本(倭)  殷周革命と徐福伝説                川崎一水

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 中国と日本

 

 中国最古の王朝は夏とも殷ともいわれるが、「中原に鹿を追う」という言葉にもある中国の中心 -中原- には殷の都があった。今は殷墟とよばれ河南省安陽市にある。隣の新郷市は紀元前1046年に殷の紂王と周の武王が戦った「牧野の戦い」があった地といわれる。「殷周易姓革命」といわれるが、中国では「商亡周興」ともいうらしい。河南省には関羽の墓や諸葛亮ゆかりの地もある。

 

 殷は「商」ともいう。殷の人は「商人」と呼ばれた。『封神演義』に描かれた太公望(姜子牙・姜尚)と女媧と蘇妲己との物語はこの時代を描いている。日本の漫画の封神演義には別の登場人物もいる。


 殷王朝の滅亡は紂王が周の武王に滅ぼされた紀元前1046年とされる。殷は本来都城の名前であり甲骨文では「商」と自称している。今の日本でいう“商人”と同じで、後に西洋からシルクロードと呼ばれたように東西交通の起点となる地をおさえ、通商を行っていたといわれる。

 

 封神演義にも描かれる女媧と伏羲は足がなく蛇のように描かれ、それぞれの手にはカギ尺とコンパスを持つ。20世紀初めにシルクロードを探検した本願寺の橘瑞超もその壁画を発掘している。後に契丹が中国北部を治める時代が来るが、契丹の古伝には「殷は古の倭なり」という記述があるといわれ、日本のルーツにもかかわっている可能性があるともいわれる。カギ尺とコンパスはフリーメーソンのトレードマークでもあり、フリーメーソンは正式には"経済人会議”というらしいので、"商人”というのも日本的ではある。

 

 周は「礼」を規範とした。中原諸国は「礼」を共有し、「諸夏」と称したという。この時代に禹を夏王朝の開祖とする「中原の夏」、いわゆる「中華」の思想がこのころ出来たといわれる。

 

 その後は“キングダム”でも描かれた秦の時代には強力な中央集権体制が確立された。紀元前247年に即位した秦王嬴政は紀元前238年に親政を開始した。その翌年に斉と趙の王が秦に来朝したが、他国を臣従させることはできないと悟り、武力統一の道に進んでいくことになったといわれる。秦による武力による中国全土の統一がこの嬴政によりなされた。紀元前221年に天下統一を果たした秦王政は、命を「制」、令を「詔」、天子の自称を「朕」とし、諡法を廃止し、死後は「始皇帝」と呼ぶことにするよう定めた。

 

 秦は「制」と「詔」による法治政治を目指し、始皇帝による中央集権体制がとられた。また、車軸を同じ長さに統一し、文字も同じくし、度量衡や貨幣も統一した。帝国各地を巡行するために、北は燕、東は斉、南は呉・楚に至る皇帝専用の幅50歩の馳道を建設させた。また匈奴を攻め、華南から華北の地も獲得し、元あった長城を整備し4000㎞にも及ぶ「万里の長城」を整備した。

 

 秦王嬴政に対して「東方の三神山に長生不老の霊薬」を手に入れるために支援を願い出た徐福(徐芾)は斉の琅邪の方士であった。三神山とは渤海の東にある「蓬莱・方丈・瀛州」のことで、日本を瀛州と呼んだらしい。そして紀元前219年には少数で、210年には数千人の大船団で出港したといわれる。そして一説には彼らは日本の有明海浮杯にたどり着いたといわれる。徐福は斉の人であり、始皇帝嬴政の子孫ではないが、徐福の話を聞き入れたのはなにかの血族的かかわりがあったのではないかとの憶測もある。応神天皇の時代に渡来した秦氏よりももっと以前に、日本列島に渡来した者たちは多かったのである。出雲族ははるか以前にインドから、徐福らは秦の時代に、呉の人たちは三国志の時代に。

 

 

 最近、DNA解析により古代人は弥生人と縄文人の二系統だけではなく、もう一つの出雲東北を加えた三系統に分かれるという新説が報告されたといわれる。科学が伝承に追い付いてきたようである。