『土佐国風土記』 7 土佐は‟土左”ー‟遠狭とさ”       川崎一水  | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

『土佐国風土記』 7 土佐は‟土左”ー‟遠狭とさ”       川崎一水 

 『土佐国風土記』  土佐は土左ー遠狭とさ       川崎一水

 

 土佐国は古くは土左国と書かれ、全国の風土記が編纂された八世紀には『土左国風土記』も編纂されている。しかしながら、風土記のほとんどは失われており、残っているのは『出雲国風土記』のみである。それも正本は失われており、出雲で控えとして保管されていた副本のみが残っている。風土記のほとんどが失われているのはその内容が正史といわれる古事記や日本書紀に記されていることとは異なるものであったためではないかともいわれる。『出雲国風土記』以外の他の風土記はすべて失われているが、部分的の残存しているものもありそれを「逸文」という。『土左国風土記』も若干の逸文が残っている。

 

 

 『土左国風土記』(逸文)によれば、‟土左”は‟遠狭”であるという。‟土”は‟遠”であり、‟左”は‟狭”であるという。‟遠く狭い”国であるという意味であるという。

 

 しかしそれはおかしい。当時の土左国が大和国である現在の奈良から遠いのはわかるが、けして狭くはない。山が多く平野が狭いという意味らしいが、平野が狭くて山が多い国はほかにもたくさんある。また奈良から遠いのは土左国に限ったことではない。出雲国が‟雲が出る国”だからというのと同じことで理由のこじつけである。

 

 

 土左にも出雲にも大和にも本当の意味がある。大和国の‟大和”は‟応和”であり‟大倭”であり‟大輪”でもある。出雲国の‟出雲”は‟出芽”であるという。そして土左国の‟土左”は‟遠菟沙”であり‟遠い宇佐”であった。土左国の中央に位置する現在の高知県土佐市にははるか昔から宇佐がある。この土佐市はもとは高岡郡といわれ、はるか昔の承和8年(841年)に吾川郡の4郷をもって高岡郡となったといわれる。明治初年の高岡郡には高岡村ほか4郷70村があった。その中には牧野富太郎出生の佐川村、越智村、八幡村、加茂村、用石村、浦ノ内村、宇佐村、福島村、須崎村、久礼村、志和村、仁井田郷、窪川郷などが含まれていた。宇佐も八幡も加茂も福島もクレもあるところであった。そしてスサキ須佐来も。

 

 土左国である‟遠狭国”は‟遠くて狭い国”であるという。しかし、奈良から遠い国はたくさんある。土左国は‟遠い狭い国”ではない。土左国は‟遠い宇佐”であった。

 

 ‟遠い宇佐”があるのなら‟近い宇佐”もある。近い遠いはどこからなのか?

 

 それを考えればわかることではある。