遠狭とさ” その2           川崎一水  | ヨツバの日本の古代史と神社参拝ガイド   

遠狭とさ” その2           川崎一水 

 『土佐国風土記』 8 土佐は土左ー遠狭とさ その2           川崎一水

 

 

 『土左国風土記』(逸文)によれば、‟土左”は‟遠狭”であるという。‟土”は‟遠”であり、‟左”は‟狭”であるという。‟遠く狭い”国であるという意味であるという。

 

 しかしそれはおかしい。当時の土左国が大和国である現在の奈良から遠いのはわかるが、けして狭くはない。山が多く平野が狭いという意味らしいが、平野が狭くて山が多い国はほかにもたくさんある。また奈良から遠いのは土左国に限ったことではない。出雲国が‟雲が出る国”だからというのと同じことで理由のこじつけである。

 

 

 土左国の中央に位置する現在の高知県土佐市にははるか昔から宇佐がある。この土佐市はもとは高岡郡といわれ、はるか昔の承和8年(841年)に吾川郡の4郷をもって高岡郡となったといわれる。明治初年の高岡郡には高岡村ほか4郷70村があった。その中には牧野富太郎出生の佐川村、越智村、八幡村、加茂村、用石村、浦ノ内村、宇佐村、福島村、須崎村、久礼村、志和村、仁井田郷、窪川郷などが含まれていた。宇佐も八幡も加茂も福島もクレもあるところであった。そしてスサキ須佐来も。

 

 宇佐は‟菟沙”である。宇佐神宮の社家である宇佐家の宇佐公康による『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(1987)』によれば、菟沙族はもとは北陸に居たという。インド北部のクナト族であった出雲族は、津軽半島から日本列島に上陸した後、三内丸山を経て日本海沿岸を南下したという。そして北陸に居た宇佐族を南に追いやり、出雲族が九州北部の宗像まで南下したことによって、菟沙族は今の大分県である豊国まで追いやられたという。

 

 出雲族が経由した三内丸山遺跡の最盛期は5500年前といわれる。縄文時代は2800年前から16000年前であるから、草創期や早期ではないが古さで言えばエジプト文明やメソポタミア文明の時代のころである。そして出雲族が今の島根県である出雲国にたどり着いたのは東出雲王家である富家の伝承では紀元前8世紀頃といわれる。つまり縄文時代の終わりころである。その頃に出雲族による出雲国はできたといわれる。そして菟沙族も豊国を造った。

 

 そしてその後、紀元前三世紀に秦の始皇帝が派遣した徐芾が九州の有明海沿岸にやって来た。その頃の九州は筑紫、肥、豊、日向の4か国であり、今の佐賀は肥前であった。肥後は熊本である。つまり、‟肥”とは‟火”であったのである。阿蘇のことである。阿蘇様(浅間)であった。火山であった。ちなみに鹿児島は‟火の島”であり、‟火グ島”であった。桜島のあるところであった。

 

 東出雲王家である富家の伝承によれば、徐芾は有明海に来る前に山陰にやってきているという。山陰つまり出雲では‟火明”と呼ばれる。そして、徐芾の子は五十猛といわれる。五十猛の別名は‟火グ山”であった。‟香語山”とも‟籠山”とも書ける。そして‟香具山”とも。これらの名は山陰の出雲から丹後にかけての名であった。そして徐芾の九州での名は‟饒速日”であった。‟速須佐之男”とも呼ばれた。

 

 これらは紀元前3世紀の話である。徐芾の子である五十猛は‟籠山カゴヤマ”とも‟大年オオドシ”とも呼ばれた。彼は山陰から畿内にかけてそう呼ばれた。九州での子の名は福岡か福島であった。徐芾の子である‟芾岡”、‟芾島”であった。‟芾長”も‟芾満”や‟芾寿”もいたといわれる。九州での‟彦芾”の子は‟彦穂穂手見”とも呼ばれ、その子孫は‟彦渚武”と呼ばれ、‟彦渚武”の子には彦五瀬とウマシマジがいたのであった。

 

 

 ほんとうのスサノヲは出雲族ではない。物部族である‟饒速日”から一文字をどった‟速須佐之男”が本来のスサノヲであり、それは九州の物部族が使っている。

 

 土佐には須崎は須佐来がある。宇佐も八幡も加茂も福島もクレもある。