オーストラリアでヨガ講師をしている

佐々木はるかです。

 

 

 

多民族国家の環境の中で

ハタヨーガを指導しながら、

 

 

インドの学校を通して

 

クリシュナマチャリア伝統における

哲学を学んでいます。

 

 

 

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私が教えている講座の中から、

今日はちょっと面白い小話をシェアです。

 

 

 

 

 

ウパニシャッドの中に出てくる、

 

21,600回 という数字を聞いたことがありますか?

 

 

 

これは、

 

私たちの1日の呼吸の数なのだそう。

 

 

もとい、

 

私たちの一日の『呼吸数の上限』なのだそう。

 

 

 

 

つまり、

 

浅く速い呼吸をして21,600呼吸を

その日に使ってしまえば、

 

 

次の日分を前借りしてこなければならず、

 

 

 

また、

 

ゆったりと呼吸をしていれば、

 

その日の余り分を次の日にくりこせる、という仕組み。

 

 

 

 

 

これが、私たちの寿命を決める。

 

 

 

 

 

 

 

 

健康に寿命を全うするとき、

 

私たちにはみんな同じだけの呼吸数が

 

割り当てられている、ということだそう。

 

 

 

 

つまり、

 

一生で出来る呼吸数は決まっている。

 

 

 

違うのは、

 

 

その同じだけ割り当てられたものを、

 

個々がどれだけの時間をかけて消費していくのか、

 

ということ。

 

 

 

つまり、私たち含め西洋の社会が、

 

『何年生きたか』という見方で寿命を捉える一方で、

 

 

ヨーガの古典においては、

 

『自分の手持ちの呼吸数をどれくらいの時間をかけて使い切ったか』

 

という見方なのです。

 

 

 

このへんのお話、

 

本当に面白くて大好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラーナは、

 

『動き』の性質を持っています。

 

 

 

思考を巡らせるのも、

 

身体を動かすのも、

 

五感で情報を取り込むのも、

 

 

 

その動きの裏にはプラーナがあるからこそ。

 

 

 

海が波打ち、

月は沈み、

太陽は輝いて、

小鳥がさえずる。

 

 

 

そんな自然界の『動き』も全て、

 

プラーナの存在が根底にあります。

 

 

 

 

私たち個人においては、

 

生命を生かしている『呼吸』という動きも、

 

プラーナの動性と強く結びついたものと言えます。

 

 

 

宇宙のありとあらゆる全ての裏に、

 

目には見えないプラーナの存在を知る時、

 

目の前の世界が全く違うものに見えてくる。

 

 

 

 

この宇宙の法則も、

 

目の前の小さな暮らしにおいても、

 

 

プラーナというフィルターを通して物事を見る時、

 

世界の神秘性はますます光り輝きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

21,600回の呼吸、
これを分かりやすい時間で
置き換えると、

15呼吸/分

となります。





呼吸の質が
今この瞬間にも、

私たちの寿命に
影響を与えている、
ということ。





そして、
この一見ランダムな数字に見える、
21,600呼吸。




私たちの呼吸は
生理学的に、

右の鼻の穴と左の鼻の穴、
交互に優位になるのを
繰り返しています。



ヨガで言うならば、
イダとピンガラ。





と言うことは、

21,600呼吸を二分して、
それぞれ10,800呼吸が、

太陽のピンガラ(右)と
月のイダ(左)、

となります。




お気づきだろうか、、、
108という数字が
ここに浮かび上がっているのを。



何でヨガは
こんなにも、
とんでもないんだろう。笑



そのとんでもない
全貌の全く見えない
プラーナの世界を、

一緒に
覗いてみませんか。




これまで、
イントロクラスと
第1&2期合わせて、
30名以上の修了生の中から、

今回第2期の
あやかさん @its_ayaca を
アシスタントに迎え、

来月から第3期を
スタートします。

 

(カリキュラムはこちらから。)






最後に、
私の大好きなアラスカの写真家、

星野道夫さんの言葉を
紹介します。




『目に見えるものに
価値を置く社会と、

目に見えないものに
価値を置くことができる
社会の違いを僕は思った。

そしてたまらなく
後者の思想に
惹かれるのだった。』




私も、同じ。

 

 

 

 

 

画像バナーよりカリキュラムに飛べます▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オーストラリアでヨガ講師をしている

佐々木はるかです。

 

 

 

多民族国家の環境の中で

ハタヨーガを指導しながら、

 

 

インドの学校を通して

 

クリシュナマチャリア伝統における

哲学を学んでいます。

 

 

 

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クリスマスロスについて

考える。

 

 

 

というテーマで数年前に書いた言葉があります。

 

 

それを振り返りながら、

 

 

今の自分はどう感じるか、加筆修正してみたいとおもいます。

 

 

 

 

 

 

    

オーストラリアでは・・・

 

◆クリスマスに地球4周分の包装紙を使う

◆毎年20,000,000個の”欲しくない”

プレゼントがやりとりされている

◆ギフト購入が経済的に痛手であると

答える人が多い

 

 

 

 

 

 

プレゼントは手作りにしてみませんか?

 

 

◎アイディア◎

 

−キャンドル

−石けん

−ヨガマットお掃除スプレー

−ミツロウラップ

−バスソルト

 

もしくはマッサージバウチャーなど。

 

 

 

 

今年は、ロールオンアロマを作りました。

(※一昨年の話です)


元々人ごみの中で買い物をするのが苦手で、


チマチマと何か作るのが好きなので、


クリスマスも誕生日も、

誰かへのプレゼントはもっぱら手作り。

 





既存の商品を買うよりも、

こだわれるし、


しかもめっちゃ経済的。

 




私自身、

お店の商品よりも手作りのものをもらう方が嬉しいです。

 

 




毎年、ミツロウラップや染物などに挑戦してきましたが、


今年は、

クリスタルを入れて

 

エッセンシャルオイルをハンドブレンドした

 

ロールオンアロマに。





ハートチャクラとクラウンチャクラの2種類。


スタジオチームのメンバーや

 

お世話になっている人たちへ。





使い回しの簡易包装か、

 

裸のまま渡しちゃいます。




自分にも相手にも地球にも、


良いことしかないから最強では、と思ってる。

 

 



 

 

上記を書いたのは、多分2019年の年末なんだけれど、

 

 

今年は何を作ろうかなあと。

 

 

 

 

 

当時、

 

ものを買わない、ということに

とても執着していた気がします。

 

 

もちろんそれはとても良いことだと

今でも思っているし、

 

 

今もそうありたいと感じています。

 

 

 

でも、昔よりも、

 

意地でも買いたくない!という意識ではなく、

 

買ってもいいかなっていう

 

もう少しやんわりした気持ちで

 

ギフトも受け取るし、周りの人が何をもらったら嬉しいのかとか

 

考えている気がする。

 

 

 

こだわりと執着の線引きは、

一体どこにあるのでしょう。

 

 

こだわり、信念、執着、どこからどこまでが。

 

 

 

毎年クリスマスの助走が長いオーストラリアでは、

 

今年もすでにサンタクロースの置物などが

 

店頭に並び始めています。

 

 

 

 

今年はどんな風に、

 

私は年末を迎えるのかな。

 

 

 

 

 

 

オーストラリアでヨガ講師をしている

佐々木はるかです。

 

 

 

多民族国家の環境の中で

ハタヨーガを指導しながら、

 

 

インドの学校を通して

 

クリシュナマチャリア伝統における

哲学を学んでいます。

 

 

 

 

ブルーハーツの曲の中で、

 

昔からずっと好きな歌詞があります。

 

 

 

 

 

見てきたものや聞いたこと、

今まで覚えた全部、デタラメだったら面白い。

 

そんな気持ち分かるでしょ。

 

ー情熱の薔薇より

 

 

 


現実を疑ってみる、


そして
分析してみる。


ヨガの真髄だなあ
と思います。


学校で習ったこと。

OL時代の経験と記憶も。

バリ島で
働いたときに見たこと聞いたこと。

 

 

 

自分の五感が目の前で捉えたことも、

全てを鵜呑みにしない。

 

五感は間違えるし、

記憶は歪むので。

 

 

 

今ちょうど学校で、

 

パンチャヴリッティ(5つの心の作用)について

勉強しているんだけど、

 

 

Pramana(プラマーナ・正しい理解)とViparyaya(ヴィパリヤーヤ・間違った理解)の部分、

 

物事間違って理解したいとは誰しも思ってないのに、

間違ってしまうんだから、

 

 

間違っているときは

それが正しいと思い込んでいて、

 

間違っていることに気がつかない、という、

 

 

いわば当たり前の話なんだけど、

 

 

そうだよなあと最近改めて考えていました。

 

 

 

 

ヴィパリヤーヤがヴィパリヤーヤだったと認識できるのは、

それを抜けてプラマーナに到達して初めてそう分かる。

 

 

 

ということは、

 

 

今持っている自分の理解や知識全て、

 

そもそも間違っているかもしれないという可能性前提で

世界を見ていった方が、

 

暮らしが圧倒的に楽になるのではないかと

思ったりします。

 

 

 

俯瞰。内観。

 

 

 

 


ほんとにそれって
正しいの??


自分の記憶も
5感も疑って、
考えて、

真実に少しずつ
近いていく。

 

 

このヨガのシステムは、なんてよくできてるんだろう!と、

改めて思うなど。

 

 

そしてそのヨガに対しても、

古典に対しても、

先生に対しても、

 

 

疑い、

自ら考えるようなスペースを少しはキープしておくこと。

 

 

 

それが今の私自身の学びを

格段に有意義に実りあるものに

してくれている気がします。