ブログを始めた理由は
自分が歩いてきた道のりでの気づきが、
誰かの気づきになればいいな、と思ったからだ。
たくさんの気づきが自分を幸せに導いてくれたから。
でも今は、それぞれが、それぞれの歩み方でいい
そう思えるようになった。
世の中には、
一見「悪い人」に見える人もいる。
けれど、その人にはその人の役割がある。
それは善悪の判断では測れない、魂の役割なのかもしれない。
誰かを裁くより、それぞれがそれぞれの経験を通して学んでいる途中なのだと、今はそう思うようになった。
最近、政治の選挙演説を聞いていて、少し気になることがある。
他の政治家への不満や悪口。
それを切り取って煽るメディア。
誰が一番正しいか、誰が一番悪いか。
その構図は分かりやすいけれど、
どこか人を幼くする力を持っているように感じる。
そして、その続きが
YouTubeやXのコメント欄に現れている。
怒り、否定、嘲笑
相手を下げることで自分の立ち位置を確かめる言葉
それを見ると、政治の問題というよりも、国民の成熟度が映し出されているそんな気がしてしまう。
満たされない心、そして自分の正義を振りかざす。
国が何でもしてくれる。
誰かが正解を示してくれる。
その前提に慣れてしまうと、人は考えなくなり、うまくいかないことを誰かのせいにしたくなる。
大勢の前で誰かの欠点を指摘する声や罵倒する言葉
誰かを悪者にして、 自分の立ち位置をはっきりさせる言葉
それは分かりやすくて、 一時的にはスッとするのかもしれない。
でも、 それは本当に 前に進む力になっているのだろうか?
人が集まる場所では、 どうしても対立が生まれやすい。 それは小さな集落でも、 家族でも、 もっと大きな世界でも、 同じなのかもしれない。
誰かを下げることで 安心する空気は、 どこか幼さを含んでいるように感じる。
成熟とは「正しさを主張すること」ではなく、 自分の足で立つことなのではないか?
誰かに決めてもらわず、 誰かの怒りに乗らず、 自分の人生や生活を、自分で引き受けることなのでは?
大人でも未成熟な人はいるし、子どもでも成熟した子はいる。
成熟とは、年齢でも立場でもなく自分の人生を自分で選んでいる感覚なのだと思う。
それは教え込まれるものではなく、子どもの頃から「選んでいい」と許されてきた結果として育つもの。
「親」という字は、木の上に立って見る、と書く。
口を出さず、先回りせず、ただ見守る。
これは親子関係だけでなく、人間関係でも、社会でも、国と国民の関係でも、同じなのかもしれない。
管理しすぎれば依存が生まれ、煽れば対立が生まれる。
その間にあるのが、信頼という距離。
私はそれらを息子や自分の人間関係から学んだ。
心配でも、黙って見守る。
相談された時だけ、話を聞く。
そこにたどり着くまではかなりの時間を要した。
経験することを阻害する権利は、たとえ親でも持つべきではない今はそう思っている。
人生も、社会も、政治も、それぞれが経験し、考え、少しずつ成熟していくもの。
誰かを叩いても、代わりに歩いてあげても、本当の意味では何も変わらない。
だから私は、木の上に立って、静かに見守る側でいたい。
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これまでお読みくださった皆様へ
私のような田舎ものの変人ブログをお読みくださり、また嬉しいコメントをたくさんくださりとても感謝しております。ありがとうございました🤗
ブログを一旦終了します。
これから私は静かに、そして自然と共に、大自然に助けてもらいながら人生を笑って謳歌して生きます。
皆様も、そして、この地球上の全ての尊い生命が、幸せと喜びで満たされますように🥰
毎晩、眠りに着く前に祈っています✌🏾
テン🌱





































































