ハッピーファミリー 子育て『僕たちが忘れてはいけない事と子供たちを巻き込んではいけない事』 | 四人の男の子のパパが、サッカーや勉強を通してどんな事を伝えているか?子供や家族の将来の不安にどう対処してるか?を書いたブログ

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月〜木曜日は、子育て・勉強について、金曜日は、家族を守るための投資について書いています。
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『早く大きくなーれ 子供たち』4人の男の子に日々教え込む、やーとやっとです。

(戦争を表現するために、悲惨な表現を使用しています。ショックを受ける可能性がある方は読まれないで下さい

8月15日は、終戦の日です。

2017年に87歳で亡くなったぼくの父は、78年前、その日を満洲吉林省延吉で迎えました。

東側をロシア、南側は北朝鮮と接したその地域は、現在では中国の延辺朝鮮族自治州と呼ばれ、そのほぼ中央に位置する延吉は州都となっています。

当時、祖父は関東軍から車の修理を請け負う会社を経営していました。軍から仕事を請け負っていた会社は軍属と総称されていました。

祖父は、満州で生まれた一番下の女の子を含め、女の子3人、男の子2人と妻の合計7人で暮らしていました。そこの長男がぼくの父でした。

8月15日より前から、ロシアが攻めてきたそうです。東側をロシアと接するこの地域は真っ先に混乱を極めました。

そして、ぼくの父は学校のお手洗いで祖父と偶然遭ったのが最期となりました。ロシア兵に拉致されたのです。

何故学校のお手洗いに来たのか、その時、元気でいろよという事を何で言ったのか、あまりにも普段と変わらない様子で話をしたので当時は、こんな所で何でそんな話をしたのか不思議に思ったそうです。

晩年話してくれたところによると、もう会えなくなる事を悟ったのか、誰かに促されたのか、子供に今生の別れを言いに来てくれたのだろうと語ってくれました。

そこから母親と5人の子供の逃避行が始まります。この話しは、ぼくの父親が若い頃は酔うと必ず聞かされました。

収容所での食料は、1日にコップ一杯の水でふやかしたコーリャン(トウモロコシ)の配給で、最初は水とコーリャンの割合が3:1ぐらいだったが最後の方はほとんどコーリャンが入っていなかった話。

収容所と外を区切るバラ線(有刺鉄線)に逃げようとして撃たれた遺体を埋めさせて欲しいとお願いした話しや、栄養失調や発疹チフスで亡くなった遺体を冬は凍土のため埋められなかった話。

これは、手記に書かれていて後から知ったのですが、収容所内での両親の居ない子供が誰にも保護されずいじめられ最後には栄養失調で亡くなった話。

引き揚げ船に乗る前に発疹チフスに罹り熱にうなされ最期となってしまった祖母の話。

その引き揚げ船の中も混乱を極めました。骨壷の管理は杜撰で、祖母の骨壷も誰のだかわからなくなり、そこらにあるのを持っていってくれと言われた話。

誰も守ってくれない引き揚げ船の中で、兄弟姉妹で助け合い、必死に日本に帰還しようとしたこの子達の事を誰も責められません。

戦争で犠牲になるのは生活している場所が戦場になり、そこに取り残され、普段の生活が出来なくなった子供や女性や老人や病人といった最も弱い立場の市民です。

この話しは1945年。今から78年前の出来事です。ぼくの父が、そして父の兄弟姉妹が、祖父、祖母が実際に経験した事です。

『戦争は始めたら、終わらせる事が出来ない』

『悲惨な犠牲を強いられるのは、最も弱い子供、女性、老人、病人である』

ということが去年(2022年)ロシアが侵攻して始まったウクライナの戦争で、78年前と何も変わらない事が良く判りました。

そして、

『戦争を誰も終わらせられない』

その事も、このウクライナの戦争ではっきりしました。

僕たちは戦争を始めてはいけません。

終わらせられないものは、始めさせてはいけないのです。ぼくは、それを言い続ける必要があります。

僕たちの子供たちに経験させる訳にはいかないのです。

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戦争推進と闘え 戦争反対
FIGHT WAR NOT WARS
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[死亡者] 総数20万名に達すると推定 (厚生省-『続々・引揚と援護の記録』[S38]-P268)

(日ソ戦闘期間中-軍人軍属2万6千名以上、邦人3万名以上。 終戦後-軍人軍属、邦人約14万名)

(国境の戦闘-軍人・軍属約2万5千、邦人約1万。 各地の混乱、疫病、食糧難-軍人軍属・邦人17~8万) 


[行方不明] 3万余名も大部分死亡か (厚生省-『同』-P187~189)


(「戦闘直前から終戦1、2年後までの期間中に消息を絶った3万余名のいわゆる状況不明者」 の大部分が、今日においては死亡につながる ものと考えざるをえない・・・)


[国際結婚者・孤児=<消息のある者>] 約2.100名(S30・7調)


(旧中国帰国者定着促進センター(現東京都台東区 中国帰国者支援・交流センター)の情報より転記)



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追伸
満州で亡くなった祖母の命日は、1946年9月21日です。その約50年以上経った同じ日にぼくの長男くんが生まれました。当時、元気だった父が祖母の命日をぼくに教えてくれました。

やーとやっと でした。
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