『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。 -4ページ目

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


終活を愁活に変えて生きる老後

  老生、男の終い支度として、身の回りの不要な物をほとんど捨てた。
月日が流れ、やがてそれは何年もの歳月になり、人並みに様々な喜びとドラマと落胆と希望からなる人生が過ぎていった。そして、今、人生の頽齢期を迎えて、なんの恩寵あってか、数々の愚行を重ねてそれでもなおかなり恵まれたものだったと自嘲しつつ過ごす日々である。

  先日、テレビで毒蝮三太夫氏が良いことを言っていた。それは「終活」では命の終わりを意味し、寂しい言葉だと。
年をとってもいじけない、意固地にならない、素直で色気のあるジジ、ババでいたいという意味で「愁活」を提案すると。
含蓄のある言葉で、老生もこれに加え「人に迷惑を掛けない」を実践している。

   さて、そこで捨てた物は洋服、靴、腕時計、カメラ、猟銃、ライフル銃、車、アクセサリー、蔵書、刀剣、釣り道具、絵画、レコード、ゲーム、モデルガン等々。
こうして見返せば、無くとも実生活には何ら痛痒を感じないものばかりである。
その中に趣味で作ったプラモデルや各種模型が数百点在る。
多くの作品は「暇つぶし」の要素が強いが、ジャンルは纏まりがなく目につくもの、興味がわいたもの手あたり次第作った。
プラモデラーの世界では有名な俳優の石坂浩二氏は、同じものを二つ作ると述べていたが、老生は数にこだわらず気が向けば何点でも作った。

 そして、図面通りや自由気ままに感性のおもむくまま、塗装や大きさの異なる物も多く作った。中でもやはり艦船、航空機、戦車などが多い。それは、武器の歴史的背景と戦史への興味と好奇心を満たす部分も在ったからである。

   飛行機模型の醍醐味は何といっても「エンジン製作」と「コックピット製作」にある。
普段は見えない場所に、複雑精緻な機構をチマチマと作り、悦に入っているのだから、自己満足の最たるものだろう。
さらに、方向舵や昇降舵を可動させると、一層リアル感が出る。
ゼロ戦などのプロペラを回すため、図面に無いエンジンに極小モーターを取り付け、燃料増槽には電池を組み込み配線するなどした。 時を忘れエモーショナルな空間で製作に取り組んでいた濃密な時間が今は懐かしい。
  その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
その量はトラック一台分もあり、業者はYAHOOやメルカリに出品し、後日聞いたところではよく売れていると報告が在った。
帆船やポケール製作には、特殊な工具や、数千点の部品仕分け用装置も必要で、値段も張る。
「高価だから」「思い入れがあるから」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。


プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
 ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
 これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求するシャビーや「汚れ技法」はできるだけ使わない。
武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。

 


大小捨て槍一筋に



 天保五年版芝神明前和泉屋吉兵衛刊行の「武道初心集」の、従僕着具の部に、「小身の武士は不慮の変の時といえど、家来を沢山つれて行けるわけではないから、槍一本の他は持ってはならない。
だが多少でも供を連れてゆける者ならば、持槍が折れ損した時の用心に、槍の身の予備を袋に入れて持ってゆけば、いざという時は竹の先に縛りつけても使える。
なお刀というのは相手が甲冑をつけていると、殆んど打ち折れてしまうものゆえ、これを持ってゆく者は差しかえを若党に持たせ、若党の刀は草履とりや馬の口取り仲間に、移動刀掛けのごとく差させてゆくべし」とでている。

つまり従来のように武士というのは必ず戦国期でも大小を腰にさして歩くというのは、あれは絵空事でしかない。
 いざという時、腰に軽いジュラルミン製ならぬ鉄製の本身の大小などさしていては、重いし邪魔で走れもしない。だから武士というのが、「槍一筋」といわれるのはこれによる。
 では大小は差さなかったかというと、礼装用には用いていた。大刀を預けねばならぬ場所では換って小刀を腰にさしたのだが、幕末は物騒になったので一遍に二本ともぶちこむようになったのである。

斎藤竹基の著では、「嘉永三年」つまり国定忠治が死刑にされた年あたりからだという。なのに一般に、「武士は二本差し」という観念を、何故与え始めたかというと、これは村方の八部衆の風俗によったものらしい。
 というのは、「俘囚の裔」で武士になった者の他に、捕方や牢役人になった連中は、代官が年貢米算定の田畑見廻りをする時や、神輿が出るとき、今でいえばガードマンとして先導役にたったが、
差換えを持たせる若党や仲間を伴っていないから、重いのを二本さした上に六尺棒まで手にした。
 
 そこで、「え」とよぶ連中の多い江戸以東ではそうでもなかったろうが、京阪以西の百姓は、中国語からとって、「両個(リャンコ)」と蔑み、また二は、三と一の中間ゆえ、これをサンピンとよんだ。
さて、「江戸時代の武士の扶持の最低は三両一分だったから、それからとってサンピンという」などと説明する「武家事典」もあるが、

「江戸時代の士分の最低は、一人扶持、つまり玄米一日五合」これは年にして一石八斗の扶持勘定で、「何両」というのは士分ではなく仲間小者の計算である。
 そして云わずもがなかも知れないが、箱根の関をもって東は金本位で西は銀本位制ゆえ、江戸時代は一両といっても、小田原以西は(銀目一両)で、これは(金一両)に対して六掛か五掛だった。
 
 つまり三両一分といっても、箱根の向こうでは一両二分か、一両二分一朱の勘定で、今でもこの為に間違わぬように領収書には、金か銀を上につけ、
「一金何円」と書く習慣が残っている。だから武家事典はこじつけにすぎず間違いである。しかし、

「さんぴん(三一)とよばれた八部衆の連中(岡山から福山方面では三八とよぶ)は刀を二本もさして威張っていたが、明治七年に警察権を薩長閥に奪われると大変なことになった。
彼らはお上御威光をかさにきて、一切の労働はせず、村方から強制的に食料を巻き上げていた一種の「遊民」的存在だった。
だから、「よくも今迄は威張りくさったな」と百姓から苛められ、積年の恨みを爆発させ、つまはじきにされてしまった。
これが、「村八部」今の「村八分」の起りになるのである。


 だから、こうした匿された史実をおってゆくと、いまテレビや三文小説で、「刀は武士の魂」などといわせているのも、あれは廃刀令で刀の売物の山を抱えた刀剣商が、明治から大正にかけて、
なんとか売ろうとして考えついたCMではなかろうかといった疑さえもてる。
このせいか、何しろ日本人は刀が好きである。懐古趣味と言ってしまえばそれまでだが、武士の末裔が多く過去の血が成せるのかもしれぬ。
 

 というのは、刀は公刀とよばれ扶持を与える主人から、その防衛用にと腰に差すことを義務づけられているもので、時には折れたり曲がりやすい日本刀の性質上、
スペアが必要だったから江戸中期の大道寺友山の説くように、
「士は自分の主人の替え差料を、生きた刀架けとしておびて供をしていた」という実際談からすると、主人は刀のことを武士の魂といってもよかろうが、家臣にとっては、
「刀は武士の腰にさし運ぶもの」にすぎなくなる。
 
 つまり一人一人の侍が自分の刀を己が腰にさしていたというのは嘘ということになる。友山の「岩淵夜話」にはさる大身の旗本が、刀自慢でいつも十握り程の刀を、
自分は重たいから無刀だが、供の者に一本ずつささせて引きつれて歩いていた話がでている。

 明治初年の「廃刀令」というのも、武士の扶持がなくなったので、もう公刀を重い思いをして差して歩かなくともよいというのであって、やくざのような私刀を差して歩き廻る連中には無関係だったのもこのためである。
 では、武士の魂とは何かといえば、これは槍の穂先だったらしく、心得のある武士は己れの頭上の長押(なげし)に槍を掲げておき、これを日課に砥ぎ磨いたものだと、
「武道用心集」には明白にでている。

悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第三部)

起請証文誓紙
(きしょうしょうもんせいし)

信長殺しはあなたなのか


 暫らくして、また盃を重ねてゆく内に、西国者は口をもごもごさせていたが、やがて、「……権現さまは、借りを、お返しなされたのでござりまするよ」と妙なことを口ばしった。
「えっ……なんで借りを返しに子をはらませたりするか」と盃を落さんばかりに忠長が驚くと、
「こりゃ失言……とんでもないことを」と自分でもしたり顔で手を振って取り消しはしたものの、もはや、のっぴきならぬとでも思ったのか、やけくそのような声をだして、

「天正十年六月二日……信長さま殺しの、本能寺の変の……借りにてござり申す」といいきった。これには忠長も二の句がつげず、ただ眼をぱちくりさせた。
 なにしろ自分が生まれるより二十四年も前の出来事である。もちろん生母の江与が、信長の姪に当っている位は知っていたが、それ以上は何んの知識もなく、唯あっけにとられていた。
 「あの年の五月の晦日(みそか)……織田信長さまが安土から京の本能寺へ出てこられると判ると、権現さまは這々のていで船便のある堺へと逃げなされ、
後のことは春日局の親爺にあたる斎藤内蔵介に『一生の恩にきよう……其方の血脈に徳川の家を継がせる』とまで云いなされたそうな。そして船を求めようにも、すでに信長さま家来の松井友閑が、堺の政所として船という船を押えていて乗組みできぬ儘に、伊賀の鹿伏兎(かぶと)越えをして万死に一生をえて三河に戻り、
すぐさま斎藤内蔵介の合力に兵を催し鳴海まで出てござったが、すでに手遅れ……よって止むなく陣払いはなされたものの、内蔵介の娘の於福を見つけ出されると、これを夫と縁切りさせて伏見城内へ匿し、
その内にお手をつけられて、いまの将軍さまがお生まれなさったのでござりまするぞ」と一気呵成に喋舌ってのけた。

 「ふうむ」忠長は唸った。だが、すぐ、
 「信長さまと権現さまは仲良しで、桶狭間合戦の後からすぐ聯合されて、生涯一度も仲違などなさらなんだという……そでれがなんて天正十年六月になって、信長さまは権現さまを追っかけ、
権現さまは窮鼠かえって猫をかむみたいに、明智の家臣の斎藤内蔵介など使嗾して本能寺を囲ませ、信長さま殺しなどしたんじゃろ」と腑に落ちぬ顔をしてみせた。
 「……仲良うみえたのは信長さまが堺を押さえ、マカオ舶来の火薬を一手じめにされ、権現さまはそれを分けて貰っていなされたゆえ、手向いなどはできなんだのでござる。

なんせ甲斐の武田勝頼でさえ山国の悲しさは海港のない憐れさで、輸入火薬が手に大らず昔ながら弓と槍では、天目山の露と消えるしかない有様を、権現さまは見て居られるによって、
信長さまを怖れられていなされたのでござりますよ」と、手短かに経緯を話してから、「まあ事の発端というのは、その桶狭間合戦の後(永禄五年正月)権現さまが清洲へ行かれた時でござりましょうのう」と、その後につけ加えた。
「なんじゃ、その話……なんて初めて逢うた時が、そもそもの二人の衝突の種になるのじゃろ」と 怪訝そうに顔をしかめ、紀伊に目顔で西国者の盃を次々とみたしてやりながら、忠長は尋ねた。
「さあ……話してよろしいものやら、どうやら」と、ここまでくると流石に西国者は囗を噤んだ。
「こらッ、申せ……」と堪りかねて忠長は額わきの青い血管をふくらませ腰を浮かすなり、「そこまで囗にしておいて、後は知らぬ顔をしようとは言語道断。ぬかせ……いわぬと成敗する」
 とまで口にした。脅しだけではないらしく、脇差の鯉口をねじるようにコキンと音させた。
 だから、その権幕に愕いたのか、すこし破れかぶれの気味で、西国者は膝の上に両手を揃え、「申し上げまする」と咬みつくように顎の古傷を突きだしっお人払いを……」とまずいい、

「この事かまえて、ご他言は無用に願い上げまする」と紀伊の細っそりした後姿が見えなくなってから、西国者は困惑しきったような歪んだ表情を引きつらせた。だから忠長も聞きだしたい一心で、
「うん。誓って、この場で聞き流そうぞ。心配すな」と懇願する相手に安心させてやった。

「なら申し上げまする………水禄五年の成年に松平元康として清洲へ赴かれ、そこで津島の熊野明神や白鳥神社の牛頭明王の起請誓紙を互いに血判して交し合わされたる御方は、
何を隠そう今は亡き権現さまにて、元康さまではござり申さなんだ……と申しますると面喰われましょうが、松平元康さまは信光入道さま後裔にて、根っからの一向宗。それが清洲城へ赴いて棄仏の誠を示され、
数珠を切ってまで見せられたので疑い深い信長さまも、やっと胸襟をひらいて互いに神信心の同志として提携の約を結ばれましたなれど……実は、このとき本物の元康さまは家臣の安部弥七郎という者に誤って斬殺され、

すでにこの世の者ではなく……当時その元康さまの跡目の後の岡崎三郎信康どのが、まだ幼少の身を熱田の加藤図書の許に拐かされ、その頃は清洲城内へ移っていましたによって、
何んとか乗込んで取り戻そうと松平党の者は難渋……そこを見込んで権現さまが、あまり面体を知られていぬを幸いに、まんまと死んだ元康さまになり済して奪い返しにゆかれましたのでござります」と、ひと息いれた。
 
「ふうむ……権現さまなら、仏というても一向宗ではのうて鳳来寺の薬師派の東光系……念仏宗の数珠をひきちぎる位はたやすいこと……そこで、どうした」
 「はい、当時の信長さまは二年前の桶狭問合戦では勝たれたものの、その前年五月の美濃合戦では斎藤竜興に大敗……よって権現さまも、その場逃れの便法で、まあ一時しのぎに起請を取り交し
人質の三郎信康どのを連れて戻られ吻っとなされたと思いますが、さて信長さまは、その年また五月に軽海ヶ原(各務原)へ出兵して負けなされても、又も翌年も美濃攻め。
ついでまたぞろ永禄七年の八月には、とうとう四年目の正直で勝ってしまわれ美濃を占領すると岐阜城を作られるという豪勢さでした。
こうなると三州岡崎の松平党も『まさか、いっそや清洲へ行って誓紙を取りかわしましたる元康の殿は判こは本物でござりますが、人間の方は代理人ともいいかね、そこで権現さまをば松平元康の殿の代りに、

織田方への恰好上で岡崎城主になって頂き、権現さまも、まさか死人の『松平元康』の襲名は困るからと、先に『家康』と改名されていたが、もはやこの時よりは姓も本当のものにされ『徳川家康』と名のられたのでござります……まあ、
この時は姓も名も変えたことゆえ、思いきって起請誓紙の書き直しをしてしまえば、それでよろしゅうござったが……なんせ云い出し難くて、そのまま二十年近くずるずるべったりになったのでござりまする`
家康の正体ばれる
「ほう……するとだな、それが露見したら、まんまと信長を権現さまは二十年近くも瞞していられたことになるから、こりゃ詐欺じゃが、だいたい死人の名で取り交した起請証文など、何枚かいて取りかわしたとても、そりゃ無効じゃろう」
と忠長も目の色をかえた。

「……はあ。仰せの通り。そこで……天正八年三月に信長さまは一向宗の本山の石山本願寺をかたづけ一服されるやいなや、二十年近くも前の古い事をもちだし、林佐渡や佐久間信盛らを領地召し上げ追放なされるのを見てとるや、
古傷をもつ権現さまも心配なされ、天正十年五月に、詫び金三千両をもって僅か百名の家来と共に安土城へ行かれたのでござる……ところが訪れて初めの両三日はよかったらしゅうござるが、
備中高松から救援の使者がくるや「出陣して中国征伐しにゆく前に、一掃せにゃならんもんがある]と洩らされたというのが、権現さまの耳に人つたから、
(こりゃ昔、信長様が可愛がって居られた岡崎三郎信康を殺しているゆえ……その嫁だった五徳が安土へ戻って口惜しさのあまり、もう此方の正体をばらしてしまい……それですべて信長さまは知ってござってか)
と、権現さまは周章狼狽。とるものも取りあえず京へ逃げられると、それを追かけるようにした信長さまも本能寺へでてござっだのでござる……」


 「判った」そこまで聞くと、忠長も、きっと眼の色をすえた。
 つまり権現さまは二十年前の偽りの誓紙で信長さまを瞞していたのが発覚したのかと愕かれ、攻め殺されてはと背に腹はかえられず京に近い丹波亀山の城代の斎藤内蔵介や、京の入口の船津桑田をもつ細川幽斎忠興の父子などを、
利をもって調略……自身は必死猛死に兵を集めに本国へ戻ったところ、機敏な秀吉は、本能寺を囲む二日前位あたりから早耳で情勢を探りあて、権現さまより一足早く山崎へでてきて明智勢を破り…まんまと鳶に油揚げを攫われてしまった結果になった。
 
「……信長殺しは、この徳川家康である」とも権現さまは、まさか、いいかねて隠忍自重の年月を送った。
 やがて天下を横から奪っていった豊臣政権を、根気よく潰し肩の荷をおろされると、権現さまは、「今は亡き斎藤内蔵介と、男と男との約束ではある。反古にはできぬ」と、そこは武士らしく信義を守って春日局の子の家光に、徳川の跡目をつがせに老?をいとわず駿府から出てきて、その翌年に死亡した。

 「ふうむ。この忠長の五十五万石を取り上げ、場所こそ違え熊本でそっくり、その五十五万石そのものを、細川へ払ってやられたのも、信長さま殺しの時の約束ごとじゃろ……なにしろ、よく話の辻つまが合うわ。
では、おりや、本能寺の犠牲になって……ここへ押しこめられとるんじやな」
 と、そこで忠長は天を仰いで酸っぱい顔をして、しばし嘆息をしたものである。
 
 その後、忠長は、(権現さまが倡長殺しなら、その信長の姪にあたる母の産んだおれなど嫌っていなされたも当然じゃ。父の秀忠にしろ、その問の事情を知って居ればこそ、
やむなく、おれを遠ざけて居られたのじゃなあ)と諦観にも似た心情で、じっと日を送っていた。
家光は誰の子か
忠長自害す

 ところがその内にいろいろ考えこんでいると、はっとして、
「はたして家光というは……あの権現さまの子じゃろうか」と疑惑をもちだした。
 というのは、いま江戸城で、家光が春日局に母のごとく仕えているのは当然だが、天海僧正という得体のはっきりしない坊主を、まるで父のごとく扱っている。と聞いたからである。
 もちろん初めは(そんな莫迦げた事はあろう筈もない)と自分でもうち消していた。
 しかし十一月に入って雪のふった日。

 夜半に冷えて小用を催した忠長が、脇に添寝している筈の紀伊がいないから、仕方なく自分で起き出し火打石をとって紙燭をともした。そして厠へ行って戻ってくると濡れ縁の板戸がすこし開いていた。
はてと近よって外を覗くと、雪明りに足駄の跡がつながっていた。「はて」と忠長は、紙燭を手にしたまま、凍りつくように剌してくる夜風に身をさらし、その足の跡をついてゆくと、忠長を警備する侍詰所の小屋の前で止っていた。
板戸は雪でしめって重かったが、直ぐあいた。屈みこんで紙燭で照らしてみると、足駄は紀伊のものであった。そこで忠長は、
 (こない冷える晩なのに、可哀そうに此方まで厠を使いにきているのか……連れ戻ってやろうか)と、そんな気持をだして板廊下へあがった。
だが、突き当りの帽までゆく前に、右手の宿直部屋の板戸ごしに、紀伊の声と若い家中の侍らしい男の声をきいた。睦語というのか忍びあうような囁きだった。
忠長はびっくりし、また雪の道を戻ってくるなり、がたがた震えて、もう冷たくなった夜具の中へ潜りこんだ。ぐうっと咽喉をならして眼をむいた。
 なにしろ、これまで忠長は、自分が次々と女に手を出すのは何とも思っていなかったが、自分の女が、他の男と寝るなどとは、夢にも想っていなかっただけに、まったく驚かされてしまったのである。


 考えてみれば紀伊はこの家中の娘なので、前から云いかわしていた男がいたかも知れぬとは納得もしたが、男の立場からすれば(女が浮気を自分からしに行く)などとは法外のようにも想えた。
 (どんな具合に二人は寝ていくさるのか)と忠長は、かっかとしてきたものの、まさか(間男された)とも騒げぬ自分の立場にげんなりして、(女ごとは案外なしろものよ)と、ぶつぶつ呟やいた。
 すると自分でも、はっとしたことではあるが、突然ひらめくように頭が冴えてきて、
 
(この俺が権現さまで、紀伊が春日局なら、いま密通しおる奴は天海僧正ではないか)とも考えた。
 「……これは天ドの大事である」と忠長は自分で想いついて、自分でびっくり仰天した。
 「権現さまのお胤ならば、徳川の血脈はそのまま神徒系として後世に続くが、もし叡山の修行僧上がりだという坊主の種ならば、徳川の家は家光の代から、仏徒系に変ってしまうではないか……」
 と忠長は、まさか当人の家光や、春日局には出せないから、老中筆頭の土井甚三郎利勝に対し、

 「善処するよう」と詳しく自分が耳にしたことや気づいたことを手紙にしたため江戸城へ送らせた。
 なかなか返事がこないので十二月六日、いらいらしながら床を離れた忠長が、
 「やっと雪があがったらしいぞ」と侍女に濡れ縁の板戸をあけさせると、安藤の家来共が雪の中に入ってきて、新しい矢来を青竹で結びつけだしているところだった。
 「如何したのか」と城主の安藤重長をよぶと、
 [恐れながら……と重長は「老中の土井利勝さまより『善処あそばされますよう』とのお沙汰にござりました」と、いいにくそうに平伏したまま、むずむず震え声でそれに答えた。
「……そうか」と忠長はうなずくと「善処するのは、此方のほうでありしか」と苦笑いをして、
「これ、紀伊」と近頃はあまり側へよんでいない女を、わざわざ手招きして側へ呼びよせると、

「この女はようしてくれたによって、余の納戸銀の残りをそっくり下げ渡してつかわせ……家中にて親しき者あらば、城主の其方が仲人となって、生涯仕合せになれるよう、これも善処してやれよ」
 と重長に向っていいつけると、重長と紀伊の二人に、座をたてと顎でしゃくった。
 思いがけぬことを云われて紀伊は、その場では恭しく、「はあっ」と有難くお受けして、城主の重長の後から引き退りはしたものの、(あの晩のこと、もしや見破られたのであるまいか)と心が疼いた。そこで、どうしても気になって紀伊が暫らくして居間へ覗きにくると、白小袖の上に、三ッ葉葵の黒紋付の羽織をかぶって、忠長はまるまっていた。
 そっとめくってみると、脇差で襟首から咽喉をかき切り、白い骨が見えるまで見事に忠長はもう自分で斬首をしていた。

  新井白石の〈藩翰譜〉の「土井利勝伝」にいう。
大相国台徳院さま(秀忠)かくれさせ給いし時、土井利勝ひとり謀をもって天下を泰山の安きにおく。もとより、それ秘事なり。よって世人は、その詳細を知らずというと。
 そして貝原益軒の門人樫原重軒の「養生訓読解例纈」にも、
 「寛永十年十二月十三日。上州高崎城にて御預かりの駿河大納言忠長さま御乱心にて自尽なされし、その初七日の夜。旧御庭所お庭先松の古木の根方にて安藤重長家来徒士頭にて加田五平なるもの腹を割る。
 同人生前は『西国者』と自称し居たるも、実は権現さま天正十年五月に安土城へ訪ねられし時にもお伴せし程の三河武者なれど、生来酒好きにて身を誤り立身することもなく、忠長さま生前は、
その振舞いに預るべく御座所近くを徘徊し御憐慈を忝(かたじけの)うす。よって大納言さま御他界後は、飲酒にことかき苦しまぎれに生害せしものと噂あり。
あにおそるべきは酒に溺れる事にてあらめやと、ひとのいう」と、この時の西国者の名前や来歴も瞭(あきらか)かにされている。



 さてシェイクスピアは徳川家康と同じ元和二年に亡くなっているが、同劇団のジョン・ヘミングとヘンリー・コンデルの二人が、スコットランドとイングランドの国王をかねるジェームズ一世陛下の庇護と援助のもとに、日本の(ムレットともいうべき徳川家光が三代将軍になった元和九年から、
そのシェイクスピア戯曲全集の編纂を始め、十年かかって寛永十年十二月十三日。つまり駿河大納言忠長の初七日に当る日、奇しくも二つ折りの体裁のこれは市販されることとなった。
世にこれを、「First Folio」(ファストーフォリオ)という。


 

悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第二部)


安藤家徒士頭・和田五平聞き書き
忠長転落の人生


 世問では、いまだに「駿河大納言さま」などというが、それは今となっては昔のことである。母の江与の方が生きていた頃には、まず甲府三十万石を授けられ、信州の小諸城も貰っていた。
そして寛永元年には、亡き大御所のいた駿府城にかえられ、駿河と遠江の五十五万石の太守となって、大納言の官位にも昇った。が、江与の方が、寛永三年の九月に亡くなってしまってからは転落の石である。
 寛永七年の十一月になると「御素行よろしからざるをもって、きっと御謹慎、なされ申さるるのこと」というので、以前は城主でもあった甲府城へおしこめられてしまった。
 「莫迦々々しや」と、日夜酒で憂さをまぎらわせていると、又しても翌年の寛永八年の九月になって、今度は、
 「その後、おみもちを慎しめなされざるは、懈怠至極につき」という名目で、次は、上州高崎五万六千六百石の、吹けばとぶような安藤重長の小さな城へと移されてしまった。
 
もはや駿河大納言さまどころの話ではない。国松の昔に戻ったようなものである。
 いや、それより、もっと待遇は悪いかも知れない。なにしろ国松とよばれていた頃は、附け人というのが十四人から十六人はいたが、今となっては女共は四人。男のごときは、いくら家来どもが願っても許されていないのである。
だから安藤の家臣で、つき添いというか見張り番のかたちの者だけが、忠長には酒の呑み相手なのである。

 もともと、この安藤の家というのは先代の重信の代はまだ馬にも乗れぬ端武者だった。それが長久手の合戦で兜首をひとつとったのが出世の始まりで、それでやっと「馬のり五百貫」とよばれる騎馬武者になれ、慶長九年に千石どり。
同十五年に上野の多胡で五千石。
 その後、秀忠の側衆に召されたのが開運のもとで、慶長十七年には下総の小見川と下野の結城を貰って一万六千石の大名になり上り、大坂冬の陣に従軍したとき、軍さ目付となって、
糒庫に隠れていた秀頼母子が助命を求めるのも聞かず、
発砲させて始末したのが大手柄ということになって、一足とびに五万六千石に加増され、先代は感激のあまり元和七年に死んでしまって今は伜の重長の代になっている。
だから家来といっても代々奉公しているようなのはいない。みな変名したり身許を匿して新参奉公にきているような素性の判らぬ手合いが多い。だから、酒の相手などさせて酔わしてやると、
いろいろ喋舌りだして、まことに面白い。だから今の忠長にとっては、これが唯一の憂さばらしなのである。


 今日の相手というのは、西国者だという男で、千軍万馬の古強者のなれのはてらしく、手首にも頸すじにも槍の突き傷、それ傷が白っぽく引きつりになって残っていて、それが酒が廻るにつれて、
「もういけませぬ。頂けませぬ」と手をふり、首をふるたびに、白っぽい傷痕が薄桃色になる。「遠慮すんな。この忠長めに、今のところ自由がきくのは、この酒だけじゃ。ぐんぐん呷れや」
嬉しそうに酒をぐいぐい遣りながら、それでは拙者の聞き知ったことをお話し申しましょう。

「・・・・・・先ず、悪いやつは、春日の局めにござりまするよ」と言い出し、「あの女めが稲葉一鉄の孫養子の正成の後妻となって、正勝、正定、岩松、正利の四人の子をなしてから、去り状をとって、
こちらの将軍家へ奉公しくさったのを、ご存じでいらせられまするか」
 と藪から棒のようなことを、だし抜けに口にした。忠長にしてみれば、白壁の土蔵のように厚塗りした春日局なら、国松の頃からよく見馴れて知ってはいる。だが四人も子供をぞろぞろ連れて歩いているところなど、まだ見かけたこともない。
「ええい・・・・・かくなる上は思いきって、お教え仕りまするが・・・・・おてまえさまには、いまだに春日の局めは、ご当代将軍家の乳母と思召あってか」
さて、ここからは俗説の春日局像を「講談調」で綴ってみよう。
江戸の講談・乳母を探すことの一席

 「さて慶長九年七月のこと、月にみちて丸々と太った和子さまが誕生遊ばされるとなると、これは、しかるべき京のご婦人がよろしかろうという事になり、そこで江戸城から民部喞の局という御中蒻さまが遥々と京へまで出かけ、
さまざまと物色しましたが、なんせ乳母というのは、これはお乳が出ていなくてはいけません。と申しましても当今のように便利な瞬間湯沸器みたいにヒネればお乳がシャアーという訳には参りません。
どの御婦人も、たいてい胸のあたりに二つずつはお持ちの様ではありまするが、これは有るから出るとは限りません。なにしろ、そのご婦人自身がお産を遊ばされて授乳中という期間でないと、
ひねっても押してもジャーとは出ないとか申しますですから遥々と江戸から出て参った民部喞の局という豪い奥女中さまも、出るか出ないか覗いて歩くわけにもゆきませんから『目下のところ乳がすぐ間に合う女ごというは、
どうしても、いま子もちのもの・・・・これが目と鼻の所なら吾が子と御若君さまへの掛けもちもできようが、
江戸へ東下りとなると、まさか己が子を背負って乳母にも行けず、さりとて自分の産んだ子を放りっぱなして出かけようという、無情な母もいまい、そりゃ授乳中にその子をなくしたというて、乳が余っているという女はいるか、
そのような女は不吉と申すか、その乳の中に毒があって赤子があたって死んだものやも知れず・・・・・さてさて思案に困るわいな』と京所司代の板倉勝重の許へ相談に参りますると、当今ならさしずめ、
『求む乳母。当方将軍家につき高給採用』などと新聞の募集広告にでも出すところでは、ござりましょうが何分時は慶長年間、まこと遺憾に存じまするがニュース・ペーパーもなければ、テレビやラジオのスボッ卜広告なぞもありません。
そこで智慧者の勝重も、はたと当惑して、『うむ』と腕ぐみして考えこんでしまいました。なにしろ将軍家の大事。うかうかしていますと江戸で生まれた若君は、まだ赤ちゃんゆえとても、
まだ『腹がへっても、ひもじゅうない』などとは仰っしゃれず、おっぱいなしでは飢え死をなさろうやも知れずと考えられ、色々と勘考されたあげく、
『では、よしなに、求人広告などをすぐにも仕ろう』と、街道すじの粟田口に、ずらりと高札をたてさせ、それに乳母至急に求めたしとの一般広告をしましたところ、早速にも、
『お乳がなくては、わこさまがお可哀そうゆえ、この身が応募しまする』といって現れてきたのが、これがのちの春日局。
 
 男の勝重は遠慮したが女の民部卿の局がテストしましたところ湧出量は申分なく、温度もよろしく、分析してみましてもカルシュウム分何パアセント脂肪分はどれだけと、決して、蛋白質がたりないよ、
と云うようなことも別になく、まあ申分のない検査結果。それで、『まあ正式採用は江戸へついてから』ということにし、命短かし恋せよ乙女、せめてオッパイかれぬ間にと、東海道五十三次を、まるで駈けるように走るように、
二本の脚を交互に動かして江戸城へは到着。すぐさま大奥へと伴われ、ひもじさにアンアン泣いて居られた赤ん坊の竹千代君に、『さあ、お呑みあそばせ』とお乳をさしあげたので、むさぼるように息もつかずにしゃぶられ、それからおもむろに、
『ああ、余は満足である。この恩は一生とても忘れられるものではない』と心に固く思召されてか、
やがてこの竹千代君がのち三代将車家光公になられると、三つ子の魂は百までの譬通りに、この春日局を大切になさったという『情けは、ひとの為ならず』まじめに働けという報恩美談の読みきりの一席」ということになる。
 しかし異説によると(春日局は夫の正成が下女とか妾に手を出していたのを知って、その女を剌殺した為に夫と別れ、末子を抱えて京へでていたから、生計に困って応募した)といううがった話もある。
 (本採用されるか、どうかも判らぬのに、てくてく京から江戸まで面接に歩いて出てくるのは可笑しい)というのであろうか、また、別口のものになると、
(追手におわれていて、京所司代板倉勝重の許へ逃げこみ、それで勝重が身許を調べてから、京では人気のある斎藤内蔵介の娘と判ったから「その生家といい養家といい、夫といい、はたまた自身もヽズバり人殺しできるという武勇すぐれた女人は、
めったに他にはない。これぞ将軍家の乳人としては申分なし」と推奨した)という類の話も伝わっている。
 
春日局は誰の子を産んだのか

なお春日局の産んだ末子の正利が慶長七年で、家光と二歳違いというのは、
 「春日局を葬った江戸湯島の天祥院や彼女がやはり生前に作った京の麟祥寺では、毎年正月十六日と十月十六日の年二回に〈春日局御供養〉という施餓鬼を行い、当日に限り御影堂にその頌徳額をかかげる。
その額というのは春日局の末子の稲葉内記正利の書いたもので『貞享三年(一六八六)丙寅九月十四日、老叟八十五翁』と最後についてる」と幕末の〈天保見聞記〉にも残っている。
 つまり、この年号から逆算していっても、内記正利の正しい生年は一六〇二年つまり慶長七年壬寅ということになる。すると春日局は、末子が三歳にもなっているのに、まだ乳が出ていて、それから一年の余も家光に哺乳したということになる。
但し、現在の粉末ミルクが発明され製品化され確入りで普及したのは、オランダのゴーダミルク会社のパンフレットによると、同礼が世界で嚆矢で一八九一年のことだという。よって春日局の頃にはドライミルクはまだなかった。
さて、乳が出ない女が一つだけ乳を出すことができるのは、また妊娠することである。

 そこで訝しいのは、何故、駿府から翌年はぽっくり死んでしまう家康が牛にひかれて善光寺参りならぬ江戸城へ、のこのこと春日局につれられてきたのであろうか。
そしてその行動は家光(竹千代)を三代将軍にせよと命令して帰っている。さて、このところの母親が誰だったかの確定史料は、現在内閣図書館に秘蔵されている〈内閣蔵本〉の〈慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文〉というのがある。
これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに〈当代記〉〈駿府記〉といった徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。つまり、その末尾に、
 
 「右は神君大御所駿府御城御安坐之砌(みぎり)、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書 拝写之 忝可奉拝誦之者也
 秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局  三世将軍家光公也  左大臣
 同  御二男 国松君  御腹 御台所  駿河大納言忠長公也 従二位


 とあるごとく、生母が春日局と御台所(江与の方)との相違は、はっきり出している。が、父の方は、「忠長の方は明白に御二男」としてあるが「家光の方は御長男」とはせずに「御嫡男」の文字を当てている。
現在では「嫡出」といった用語もあるが、この時代は、「猶子」といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決ると「嫡男」とか「嫡子」とか書かれたものであって、「一男」とか「長子」という文字がない限りは、
その長男とは認められないことになっている。
これは当時の〈蔭涼軒日録〉や〈御湯殿之日記〉にも、「嫡男と長男は違い、他から入って嫡男となり、そこの伜共と争う事など」と残されている。

安藤家家臣・徒士頭『加田五平』独白

「恐れながら、この手前どもが拝しまするのには・・・・・・三代将軍家さまは先代台徳院さまのお種ではのうて、大御所さまの落し胤ではござりませぬかな。
なんせ下々の噂では、すこし猫背のところも吃られるところも、権現さまに生き写しの由、そない申すものも有るやと聞き及びまする」
 と声がした。振り迎ると、いつか酒の相手をさせたら食べ酔って喚いた西国者の家臣が、今日は素面のせいなのか、生垣の向うに畏ってそっと噺やくように、忠長の方を見上げていた。
振りむくと桓根ごしに視線があった。
 「うん」うなずいてから、それ位の事はもう承知して居るといわんばかりの顔をして忠長は、「また振舞おう。遠慮せいでもよい。上へあかって参れ」と、山茶花に眼を移しながらいった。
 「いや、今日はもう粗相があってはなりませぬゆえ、ひらに御容赦を、とは口にしたものの、立ち去るわけでもなく、うずくまって自分も紺菊の咲き乱れている叢などに目をやっていた。だから
「構わぬ。上ってこい。この忠長の下知ぞ。わりゃあ違背くのか」と忠長が睨みつけると、「これは難儀な」と口ごもりながら「うへえツ」と畏ってみせ、庭先の踏み石からでは恐れ多いというのか、生垣の外で平伏してから、
枝折戸をあけ脇の耳門の方の板縁へ廻ってくるなり、「はあツ」と蛙のように這いつくばって頭を下げた。
そこで忠長は苦笑しつつ、「酒などもて」とつき従ってきた紀伊とよぶ女に仕度を命じた。


 なにしろ甲府から此方へ廻されるとき、身の廻りの女どもとて、一切召し連れてはならぬという沙汰で、この紀伊にしろ後の三人の娘達も、この安藤の家から、ここへ付けられた女どもではある。
なんせ廻されてきてから、これで一年。他にする事もない退屈しのぎに、いつとはなしに順ぐりに四人とも手をつけてしまったものの、身体が合うというのか、忠長は、この紀伊だけを他よりも寵愛し、いつも側をはなさず召し使っていた。
まあ容姿も細っそりとして、すこし愁いを含んだ眼ざしも、寂莫をかこつ忠長にはうってつけの好ましい相手だったとも云えた。


 「何故に権現さまは、春日局なぞに子種を入れてやりなされたかにござりまするか」
 と、たて続けに呷ったので、もう酔いが発したのか。妙な質問をしてきた。云われてみると、皺かくしに厚く白塗りしている春日局は、その若い頃でも、まるでどう見ても余りよい顔ではない。
 それだからこそ国松の頃から、この問まで、まさかと、春日局を乳母ぐらいにしか、忠長とても考えていなかったのである。そこで首を傾げてしまい思わず、
「たで喰う虫も好き好き……とは申すが、権現さまの頃には、あない鬼瓦のような女ごが美人じゃったのじゃろかのう」と盃を宙にかまえたまま、忠長もきょとんとした表情をしてしまった。

第三部へ続く



 

悲劇の駿河大納言・松平忠長 哀れ(第一話)  
序に変えて
 徳川家康がまだ世良田二郎三郎と名乗り、世に出る前、最初の妻は鍛冶屋服部平太の出戻り娘おあいだった。
二人の間に生まれたのが後の二代将軍秀忠である。
そして秀忠と信長の異母妹「江与」の間に生まれたのが幼名を国松、後の松平忠長なのである。
世が世であれば家康直系の孫として三代将軍の地位は約束されていた。
それが運命の皮肉といえばあまりにも残酷な生涯を余儀なくされたのは、これ全て信長殺しに繋がる。
本編も長文である。三部に分けたが世上流布されている徳川史観による「家康像」とはまるで違う。
どちらを信じるかは読者の自由であるが、既存の説に少しでも疑問を持たれたなら感幸である。


国松妄想
山田長政の贈り物
山田長政は元駕籠かき人足


  元和五年。時は豊臣が大坂夏の陣で滅び、徳川の世は二代目将軍秀忠の時代だった。
この当時三代将軍の跡目は竹千代(家光)に決まっており、国松は十六歳になり無位無官だった。
(秀忠の正室江与の方<御台所>の腹である国松が何故に三代将軍になれなかったのかには深い闇が在るのだが、この後の国松の転落の予感はしていた)
そんな矢先だった。シャモロ国(現在のタイ)から海を渡って千代田城に国使が遥々訪れてきた。
 ナプラという名前の向うの大王からだという。だが、それよりも。もっと評判になったのは、通弁として随行してきた者が日本人で、作州牢人伊藤久太夫と自分で名のり、その伊藤の主人というのが、
向うで六昆国王をしている山田仁左衛門長政という、やはり日本人だということであった。
 公儀あてに山田長政からの進物も持ってきた。それは、刀の鞘を包むのに珍重されていた鮫皮で、しかも日本では見られぬような、畳をたてに二枚つないだ程もある立派な大きな物だった。
 それに硝石を一粒も生産しない日本では噂だけで、まだ誰も実物を見た事もない新開発のチリー硝石による新黒色火薬の、煙硝二百斤がそれには添えられていた。

注・現在の換算では百キロに相当する大層な量である。何故なら織田信長が本能寺で爆殺されたのもこの新硝石で、この秘密を隠すため、スペインのフェリッペ二世が輸出禁止にしていたものなのである。
  後に城内の吹上御殿で試射した処、その威力の凄まじさに驚嘆した幕府は、鎖国政策を取り、江戸から遠い長崎の出島でオランダだけに通商を許可し、徳川だけが硝石の独占をし、三百年の太平を保ったのである。
  俗説では信長は寺に火を放ち、切腹したというがこれはありえない。
 何故なら信長の死体は結局見つからずになっている史実。当日京は前日の夜からの大雨で本能寺は勿論ぐっしょり濡れていた。それが隣のさいかちの森にまで飛び火して燃えたという史実は、現代の消防法では「特殊火災」の
 「爆発火災」しかあり得なく、そんな火災を起こさせえる物は強力火薬の「爆裂弾」しかない。


(かほど高価な貴重な物を贈ってくるからには、山田長政というのは、向うの国王に立身している話も間違いあるまい)と、すっかり城内でも大評判になった。
 これは定めし、すぐる年の大坂御陣で戦に利なく、海外へ姿を匿した名のある武将の変名でもあろうと、老中の土井甚三郎利勝が、その伊藤久太夫に聞きだしたところ、そのような著名な武将ではない、とのことで、ただ、
「もと三河西尾の本多家へ奉公した事がある」ということだけが判明した。そこで老中から、すぐさま本多家へ問合せを出したところ、なかなか身許が判明せず、国表まで早打ちをだして照会してから、やっとの事で、
「・・・・・その者は、大坂御陣の前に新規召抱えの駕担ぎの小者にて、合戦後消息知れず、よって流れ玉にでも当たりて死亡と存じより、駿河藁科の在所の親許へはその旨を沙汰ずみにて候」
 と回答がきた。念のために駿河奉行にも、土井甚三郎が早馬で、その真偽を確かめさせたところ、
「仁左衛門紺屋というのが生家にて、当地出身に間違いこれなく」と返事がもたらされた。     

 そこで「・・・・この日本にいた時は駕かき人足でも、異国へ渡れば、王俟になれる」と、すっかり大評判をとった。大奥の女たちの間でも、山田長政の話はもちきりになった。だから国松の母である御台所が、
「是非とも、異国の話など説聞したし」と申し出られたところ、「ご退屈しのぎに、では伊藤久太夫めをおよび仕りましょう」と、土井甚三郎利勝が取持役となって、これまでは男子禁制の大奥ではあるが、
今回に限って特例というお沙汰になった。そこで「御広敷御門」から、丸腰のまま久太夫が招き入れられ、特に「御客座敷」の八間続きの襖紙がはずされ、そこで話が始まることになった。
 御上段に簾を吊しその中へ御台所も出られたから、国松も随行して、その側に坐った。この時、もの珍しさに家光も来たかったであろうが、何分とも御台所の催しにつき、春日局が止めさせたのか、姿を見せなかった。

 伊藤久太夫は、畳一枚ほどの大きな絵図面をひろげて、まず説明にかかった。
 「当シャモロ国は、いまはアユタヤに都があり、総国王のナプラ陛下が統治され、カンボジア、ラオス、安南も、その藩屏にござりまする」と、大きな国を指さして話しだした。
 なんでも海南島に面した海岸沿いの安南の細長い地域なので、流れついた日本の落武者が、各地に住みついて部落をつくり、傭われて外人部隊をこしらえているという事だった。
注・大阪陣後、豊臣家臣や小西浪人など、激しい残党狩りを逃れ「もう日本にゃ住む場所とてなくなった・・・・・」と多くの者が東南アジアへ脱出した史実が在る。 

山間地区のラオスから、ラオコー山をこえて攻めこんでくる北部の来襲を防いだ手柄をかわれ、山田長政は牢人衆を率いて、ダナンからショロン代官になり、ついに国の大王の姫を貰って妃となし、
今はリゴールの王にもなっていると、まず、己れの主人の山田長政のことを説明してから、
「この自分とても家老職ではありまするが、十五万石ほどの領主にして頂いて居りまする。と、久太夫は己れの知行の事を話してから、「当地であぶれて居りまする者を、このたびの帰国では、ぜひとも召抱えて行きたい所存でありまする」と、
そんな抱負も洩らしたりした。そして、
 「向うの若い者らは、やはり此方の色の白い嫁ごを欲しがって居りまするゆえ、海原をこえ向うへ渡りたいお女中衆がござれば、てまえが一緒にお連れ申しまする」とも侍女たちを笑わせた。
 
 なにしろ生まれて初めて聴いた珍奇な異国の話である。十六歳の少年は、すっかりもう昂奮した。
 (駕かき風情の下賤の者でも一国の王になれるなら、この自分ならば総国王になれるかも知れん)と、それでなくても妄想癖のある国松は夢中になった。
 だが江与には、「将軍家御世子の選にはもれたとて、家光になにかあれば、代って徳川将軍家の職をつぎ武門の棟梁ともならねばならぬ身である。はしたなき流れ者が落ちてゆく異国へなど出向したいとは何んたる言い草、
冗談とは申せ許しませぬぞ・・・・・情けない愚けたことなど申すものではないわえ」と叱られた。
 しかし、この事が契機になって江与が秀忠をせめたのか、京から火急に位記が少年にも伝達されてきた。それは、

「従四位下参議兼右近衛権中将」という官位であった。そして日付は一年前に朔って、家光が従二位(正三位という記載もある)に叙せられたのと同じ日付けにしてあった。
そしてすぐ元服の儀式をもうけられ、国松という名は改められ「松平忠長」といういかめしいものに変えられた。
だがこれは秀忠の命名なのである。我が子を徳川姓を名乗らせず、その属性の松平にするということは国松にとっても江与にとっても残酷な仕打ちである。
しかしこれが国松にとって転落の始まりになり、暗い未来が来るとは、神ならぬ身の知るよしもなく、少年はまだ夢をあきらめきれないでいた。

第二話に続く