悲劇の駿河大納言・松平忠長 哀れ(第一話)   | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

悲劇の駿河大納言・松平忠長 哀れ(第一話)  
序に変えて
 徳川家康がまだ世良田二郎三郎と名乗り、世に出る前、最初の妻は鍛冶屋服部平太の出戻り娘おあいだった。
二人の間に生まれたのが後の二代将軍秀忠である。
そして秀忠と信長の異母妹「江与」の間に生まれたのが幼名を国松、後の松平忠長なのである。
世が世であれば家康直系の孫として三代将軍の地位は約束されていた。
それが運命の皮肉といえばあまりにも残酷な生涯を余儀なくされたのは、これ全て信長殺しに繋がる。
本編も長文である。三部に分けたが世上流布されている徳川史観による「家康像」とはまるで違う。
どちらを信じるかは読者の自由であるが、既存の説に少しでも疑問を持たれたなら感幸である。


国松妄想
山田長政の贈り物
山田長政は元駕籠かき人足


  元和五年。時は豊臣が大坂夏の陣で滅び、徳川の世は二代目将軍秀忠の時代だった。
この当時三代将軍の跡目は竹千代(家光)に決まっており、国松は十六歳になり無位無官だった。
(秀忠の正室江与の方<御台所>の腹である国松が何故に三代将軍になれなかったのかには深い闇が在るのだが、この後の国松の転落の予感はしていた)
そんな矢先だった。シャモロ国(現在のタイ)から海を渡って千代田城に国使が遥々訪れてきた。
 ナプラという名前の向うの大王からだという。だが、それよりも。もっと評判になったのは、通弁として随行してきた者が日本人で、作州牢人伊藤久太夫と自分で名のり、その伊藤の主人というのが、
向うで六昆国王をしている山田仁左衛門長政という、やはり日本人だということであった。
 公儀あてに山田長政からの進物も持ってきた。それは、刀の鞘を包むのに珍重されていた鮫皮で、しかも日本では見られぬような、畳をたてに二枚つないだ程もある立派な大きな物だった。
 それに硝石を一粒も生産しない日本では噂だけで、まだ誰も実物を見た事もない新開発のチリー硝石による新黒色火薬の、煙硝二百斤がそれには添えられていた。

注・現在の換算では百キロに相当する大層な量である。何故なら織田信長が本能寺で爆殺されたのもこの新硝石で、この秘密を隠すため、スペインのフェリッペ二世が輸出禁止にしていたものなのである。
  後に城内の吹上御殿で試射した処、その威力の凄まじさに驚嘆した幕府は、鎖国政策を取り、江戸から遠い長崎の出島でオランダだけに通商を許可し、徳川だけが硝石の独占をし、三百年の太平を保ったのである。
  俗説では信長は寺に火を放ち、切腹したというがこれはありえない。
 何故なら信長の死体は結局見つからずになっている史実。当日京は前日の夜からの大雨で本能寺は勿論ぐっしょり濡れていた。それが隣のさいかちの森にまで飛び火して燃えたという史実は、現代の消防法では「特殊火災」の
 「爆発火災」しかあり得なく、そんな火災を起こさせえる物は強力火薬の「爆裂弾」しかない。


(かほど高価な貴重な物を贈ってくるからには、山田長政というのは、向うの国王に立身している話も間違いあるまい)と、すっかり城内でも大評判になった。
 これは定めし、すぐる年の大坂御陣で戦に利なく、海外へ姿を匿した名のある武将の変名でもあろうと、老中の土井甚三郎利勝が、その伊藤久太夫に聞きだしたところ、そのような著名な武将ではない、とのことで、ただ、
「もと三河西尾の本多家へ奉公した事がある」ということだけが判明した。そこで老中から、すぐさま本多家へ問合せを出したところ、なかなか身許が判明せず、国表まで早打ちをだして照会してから、やっとの事で、
「・・・・・その者は、大坂御陣の前に新規召抱えの駕担ぎの小者にて、合戦後消息知れず、よって流れ玉にでも当たりて死亡と存じより、駿河藁科の在所の親許へはその旨を沙汰ずみにて候」
 と回答がきた。念のために駿河奉行にも、土井甚三郎が早馬で、その真偽を確かめさせたところ、
「仁左衛門紺屋というのが生家にて、当地出身に間違いこれなく」と返事がもたらされた。     

 そこで「・・・・この日本にいた時は駕かき人足でも、異国へ渡れば、王俟になれる」と、すっかり大評判をとった。大奥の女たちの間でも、山田長政の話はもちきりになった。だから国松の母である御台所が、
「是非とも、異国の話など説聞したし」と申し出られたところ、「ご退屈しのぎに、では伊藤久太夫めをおよび仕りましょう」と、土井甚三郎利勝が取持役となって、これまでは男子禁制の大奥ではあるが、
今回に限って特例というお沙汰になった。そこで「御広敷御門」から、丸腰のまま久太夫が招き入れられ、特に「御客座敷」の八間続きの襖紙がはずされ、そこで話が始まることになった。
 御上段に簾を吊しその中へ御台所も出られたから、国松も随行して、その側に坐った。この時、もの珍しさに家光も来たかったであろうが、何分とも御台所の催しにつき、春日局が止めさせたのか、姿を見せなかった。

 伊藤久太夫は、畳一枚ほどの大きな絵図面をひろげて、まず説明にかかった。
 「当シャモロ国は、いまはアユタヤに都があり、総国王のナプラ陛下が統治され、カンボジア、ラオス、安南も、その藩屏にござりまする」と、大きな国を指さして話しだした。
 なんでも海南島に面した海岸沿いの安南の細長い地域なので、流れついた日本の落武者が、各地に住みついて部落をつくり、傭われて外人部隊をこしらえているという事だった。
注・大阪陣後、豊臣家臣や小西浪人など、激しい残党狩りを逃れ「もう日本にゃ住む場所とてなくなった・・・・・」と多くの者が東南アジアへ脱出した史実が在る。 

山間地区のラオスから、ラオコー山をこえて攻めこんでくる北部の来襲を防いだ手柄をかわれ、山田長政は牢人衆を率いて、ダナンからショロン代官になり、ついに国の大王の姫を貰って妃となし、
今はリゴールの王にもなっていると、まず、己れの主人の山田長政のことを説明してから、
「この自分とても家老職ではありまするが、十五万石ほどの領主にして頂いて居りまする。と、久太夫は己れの知行の事を話してから、「当地であぶれて居りまする者を、このたびの帰国では、ぜひとも召抱えて行きたい所存でありまする」と、
そんな抱負も洩らしたりした。そして、
 「向うの若い者らは、やはり此方の色の白い嫁ごを欲しがって居りまするゆえ、海原をこえ向うへ渡りたいお女中衆がござれば、てまえが一緒にお連れ申しまする」とも侍女たちを笑わせた。
 
 なにしろ生まれて初めて聴いた珍奇な異国の話である。十六歳の少年は、すっかりもう昂奮した。
 (駕かき風情の下賤の者でも一国の王になれるなら、この自分ならば総国王になれるかも知れん)と、それでなくても妄想癖のある国松は夢中になった。
 だが江与には、「将軍家御世子の選にはもれたとて、家光になにかあれば、代って徳川将軍家の職をつぎ武門の棟梁ともならねばならぬ身である。はしたなき流れ者が落ちてゆく異国へなど出向したいとは何んたる言い草、
冗談とは申せ許しませぬぞ・・・・・情けない愚けたことなど申すものではないわえ」と叱られた。
 しかし、この事が契機になって江与が秀忠をせめたのか、京から火急に位記が少年にも伝達されてきた。それは、

「従四位下参議兼右近衛権中将」という官位であった。そして日付は一年前に朔って、家光が従二位(正三位という記載もある)に叙せられたのと同じ日付けにしてあった。
そしてすぐ元服の儀式をもうけられ、国松という名は改められ「松平忠長」といういかめしいものに変えられた。
だがこれは秀忠の命名なのである。我が子を徳川姓を名乗らせず、その属性の松平にするということは国松にとっても江与にとっても残酷な仕打ちである。
しかしこれが国松にとって転落の始まりになり、暗い未来が来るとは、神ならぬ身の知るよしもなく、少年はまだ夢をあきらめきれないでいた。

第二話に続く