悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第二部) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第二部)


安藤家徒士頭・和田五平聞き書き
忠長転落の人生


 世問では、いまだに「駿河大納言さま」などというが、それは今となっては昔のことである。母の江与の方が生きていた頃には、まず甲府三十万石を授けられ、信州の小諸城も貰っていた。
そして寛永元年には、亡き大御所のいた駿府城にかえられ、駿河と遠江の五十五万石の太守となって、大納言の官位にも昇った。が、江与の方が、寛永三年の九月に亡くなってしまってからは転落の石である。
 寛永七年の十一月になると「御素行よろしからざるをもって、きっと御謹慎、なされ申さるるのこと」というので、以前は城主でもあった甲府城へおしこめられてしまった。
 「莫迦々々しや」と、日夜酒で憂さをまぎらわせていると、又しても翌年の寛永八年の九月になって、今度は、
 「その後、おみもちを慎しめなされざるは、懈怠至極につき」という名目で、次は、上州高崎五万六千六百石の、吹けばとぶような安藤重長の小さな城へと移されてしまった。
 
もはや駿河大納言さまどころの話ではない。国松の昔に戻ったようなものである。
 いや、それより、もっと待遇は悪いかも知れない。なにしろ国松とよばれていた頃は、附け人というのが十四人から十六人はいたが、今となっては女共は四人。男のごときは、いくら家来どもが願っても許されていないのである。
だから安藤の家臣で、つき添いというか見張り番のかたちの者だけが、忠長には酒の呑み相手なのである。

 もともと、この安藤の家というのは先代の重信の代はまだ馬にも乗れぬ端武者だった。それが長久手の合戦で兜首をひとつとったのが出世の始まりで、それでやっと「馬のり五百貫」とよばれる騎馬武者になれ、慶長九年に千石どり。
同十五年に上野の多胡で五千石。
 その後、秀忠の側衆に召されたのが開運のもとで、慶長十七年には下総の小見川と下野の結城を貰って一万六千石の大名になり上り、大坂冬の陣に従軍したとき、軍さ目付となって、
糒庫に隠れていた秀頼母子が助命を求めるのも聞かず、
発砲させて始末したのが大手柄ということになって、一足とびに五万六千石に加増され、先代は感激のあまり元和七年に死んでしまって今は伜の重長の代になっている。
だから家来といっても代々奉公しているようなのはいない。みな変名したり身許を匿して新参奉公にきているような素性の判らぬ手合いが多い。だから、酒の相手などさせて酔わしてやると、
いろいろ喋舌りだして、まことに面白い。だから今の忠長にとっては、これが唯一の憂さばらしなのである。


 今日の相手というのは、西国者だという男で、千軍万馬の古強者のなれのはてらしく、手首にも頸すじにも槍の突き傷、それ傷が白っぽく引きつりになって残っていて、それが酒が廻るにつれて、
「もういけませぬ。頂けませぬ」と手をふり、首をふるたびに、白っぽい傷痕が薄桃色になる。「遠慮すんな。この忠長めに、今のところ自由がきくのは、この酒だけじゃ。ぐんぐん呷れや」
嬉しそうに酒をぐいぐい遣りながら、それでは拙者の聞き知ったことをお話し申しましょう。

「・・・・・・先ず、悪いやつは、春日の局めにござりまするよ」と言い出し、「あの女めが稲葉一鉄の孫養子の正成の後妻となって、正勝、正定、岩松、正利の四人の子をなしてから、去り状をとって、
こちらの将軍家へ奉公しくさったのを、ご存じでいらせられまするか」
 と藪から棒のようなことを、だし抜けに口にした。忠長にしてみれば、白壁の土蔵のように厚塗りした春日局なら、国松の頃からよく見馴れて知ってはいる。だが四人も子供をぞろぞろ連れて歩いているところなど、まだ見かけたこともない。
「ええい・・・・・かくなる上は思いきって、お教え仕りまするが・・・・・おてまえさまには、いまだに春日の局めは、ご当代将軍家の乳母と思召あってか」
さて、ここからは俗説の春日局像を「講談調」で綴ってみよう。
江戸の講談・乳母を探すことの一席

 「さて慶長九年七月のこと、月にみちて丸々と太った和子さまが誕生遊ばされるとなると、これは、しかるべき京のご婦人がよろしかろうという事になり、そこで江戸城から民部喞の局という御中蒻さまが遥々と京へまで出かけ、
さまざまと物色しましたが、なんせ乳母というのは、これはお乳が出ていなくてはいけません。と申しましても当今のように便利な瞬間湯沸器みたいにヒネればお乳がシャアーという訳には参りません。
どの御婦人も、たいてい胸のあたりに二つずつはお持ちの様ではありまするが、これは有るから出るとは限りません。なにしろ、そのご婦人自身がお産を遊ばされて授乳中という期間でないと、
ひねっても押してもジャーとは出ないとか申しますですから遥々と江戸から出て参った民部喞の局という豪い奥女中さまも、出るか出ないか覗いて歩くわけにもゆきませんから『目下のところ乳がすぐ間に合う女ごというは、
どうしても、いま子もちのもの・・・・これが目と鼻の所なら吾が子と御若君さまへの掛けもちもできようが、
江戸へ東下りとなると、まさか己が子を背負って乳母にも行けず、さりとて自分の産んだ子を放りっぱなして出かけようという、無情な母もいまい、そりゃ授乳中にその子をなくしたというて、乳が余っているという女はいるか、
そのような女は不吉と申すか、その乳の中に毒があって赤子があたって死んだものやも知れず・・・・・さてさて思案に困るわいな』と京所司代の板倉勝重の許へ相談に参りますると、当今ならさしずめ、
『求む乳母。当方将軍家につき高給採用』などと新聞の募集広告にでも出すところでは、ござりましょうが何分時は慶長年間、まこと遺憾に存じまするがニュース・ペーパーもなければ、テレビやラジオのスボッ卜広告なぞもありません。
そこで智慧者の勝重も、はたと当惑して、『うむ』と腕ぐみして考えこんでしまいました。なにしろ将軍家の大事。うかうかしていますと江戸で生まれた若君は、まだ赤ちゃんゆえとても、
まだ『腹がへっても、ひもじゅうない』などとは仰っしゃれず、おっぱいなしでは飢え死をなさろうやも知れずと考えられ、色々と勘考されたあげく、
『では、よしなに、求人広告などをすぐにも仕ろう』と、街道すじの粟田口に、ずらりと高札をたてさせ、それに乳母至急に求めたしとの一般広告をしましたところ、早速にも、
『お乳がなくては、わこさまがお可哀そうゆえ、この身が応募しまする』といって現れてきたのが、これがのちの春日局。
 
 男の勝重は遠慮したが女の民部卿の局がテストしましたところ湧出量は申分なく、温度もよろしく、分析してみましてもカルシュウム分何パアセント脂肪分はどれだけと、決して、蛋白質がたりないよ、
と云うようなことも別になく、まあ申分のない検査結果。それで、『まあ正式採用は江戸へついてから』ということにし、命短かし恋せよ乙女、せめてオッパイかれぬ間にと、東海道五十三次を、まるで駈けるように走るように、
二本の脚を交互に動かして江戸城へは到着。すぐさま大奥へと伴われ、ひもじさにアンアン泣いて居られた赤ん坊の竹千代君に、『さあ、お呑みあそばせ』とお乳をさしあげたので、むさぼるように息もつかずにしゃぶられ、それからおもむろに、
『ああ、余は満足である。この恩は一生とても忘れられるものではない』と心に固く思召されてか、
やがてこの竹千代君がのち三代将車家光公になられると、三つ子の魂は百までの譬通りに、この春日局を大切になさったという『情けは、ひとの為ならず』まじめに働けという報恩美談の読みきりの一席」ということになる。
 しかし異説によると(春日局は夫の正成が下女とか妾に手を出していたのを知って、その女を剌殺した為に夫と別れ、末子を抱えて京へでていたから、生計に困って応募した)といううがった話もある。
 (本採用されるか、どうかも判らぬのに、てくてく京から江戸まで面接に歩いて出てくるのは可笑しい)というのであろうか、また、別口のものになると、
(追手におわれていて、京所司代板倉勝重の許へ逃げこみ、それで勝重が身許を調べてから、京では人気のある斎藤内蔵介の娘と判ったから「その生家といい養家といい、夫といい、はたまた自身もヽズバり人殺しできるという武勇すぐれた女人は、
めったに他にはない。これぞ将軍家の乳人としては申分なし」と推奨した)という類の話も伝わっている。
 
春日局は誰の子を産んだのか

なお春日局の産んだ末子の正利が慶長七年で、家光と二歳違いというのは、
 「春日局を葬った江戸湯島の天祥院や彼女がやはり生前に作った京の麟祥寺では、毎年正月十六日と十月十六日の年二回に〈春日局御供養〉という施餓鬼を行い、当日に限り御影堂にその頌徳額をかかげる。
その額というのは春日局の末子の稲葉内記正利の書いたもので『貞享三年(一六八六)丙寅九月十四日、老叟八十五翁』と最後についてる」と幕末の〈天保見聞記〉にも残っている。
 つまり、この年号から逆算していっても、内記正利の正しい生年は一六〇二年つまり慶長七年壬寅ということになる。すると春日局は、末子が三歳にもなっているのに、まだ乳が出ていて、それから一年の余も家光に哺乳したということになる。
但し、現在の粉末ミルクが発明され製品化され確入りで普及したのは、オランダのゴーダミルク会社のパンフレットによると、同礼が世界で嚆矢で一八九一年のことだという。よって春日局の頃にはドライミルクはまだなかった。
さて、乳が出ない女が一つだけ乳を出すことができるのは、また妊娠することである。

 そこで訝しいのは、何故、駿府から翌年はぽっくり死んでしまう家康が牛にひかれて善光寺参りならぬ江戸城へ、のこのこと春日局につれられてきたのであろうか。
そしてその行動は家光(竹千代)を三代将軍にせよと命令して帰っている。さて、このところの母親が誰だったかの確定史料は、現在内閣図書館に秘蔵されている〈内閣蔵本〉の〈慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文〉というのがある。
これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに〈当代記〉〈駿府記〉といった徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。つまり、その末尾に、
 
 「右は神君大御所駿府御城御安坐之砌(みぎり)、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書 拝写之 忝可奉拝誦之者也
 秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局  三世将軍家光公也  左大臣
 同  御二男 国松君  御腹 御台所  駿河大納言忠長公也 従二位


 とあるごとく、生母が春日局と御台所(江与の方)との相違は、はっきり出している。が、父の方は、「忠長の方は明白に御二男」としてあるが「家光の方は御長男」とはせずに「御嫡男」の文字を当てている。
現在では「嫡出」といった用語もあるが、この時代は、「猶子」といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決ると「嫡男」とか「嫡子」とか書かれたものであって、「一男」とか「長子」という文字がない限りは、
その長男とは認められないことになっている。
これは当時の〈蔭涼軒日録〉や〈御湯殿之日記〉にも、「嫡男と長男は違い、他から入って嫡男となり、そこの伜共と争う事など」と残されている。

安藤家家臣・徒士頭『加田五平』独白

「恐れながら、この手前どもが拝しまするのには・・・・・・三代将軍家さまは先代台徳院さまのお種ではのうて、大御所さまの落し胤ではござりませぬかな。
なんせ下々の噂では、すこし猫背のところも吃られるところも、権現さまに生き写しの由、そない申すものも有るやと聞き及びまする」
 と声がした。振り迎ると、いつか酒の相手をさせたら食べ酔って喚いた西国者の家臣が、今日は素面のせいなのか、生垣の向うに畏ってそっと噺やくように、忠長の方を見上げていた。
振りむくと桓根ごしに視線があった。
 「うん」うなずいてから、それ位の事はもう承知して居るといわんばかりの顔をして忠長は、「また振舞おう。遠慮せいでもよい。上へあかって参れ」と、山茶花に眼を移しながらいった。
 「いや、今日はもう粗相があってはなりませぬゆえ、ひらに御容赦を、とは口にしたものの、立ち去るわけでもなく、うずくまって自分も紺菊の咲き乱れている叢などに目をやっていた。だから
「構わぬ。上ってこい。この忠長の下知ぞ。わりゃあ違背くのか」と忠長が睨みつけると、「これは難儀な」と口ごもりながら「うへえツ」と畏ってみせ、庭先の踏み石からでは恐れ多いというのか、生垣の外で平伏してから、
枝折戸をあけ脇の耳門の方の板縁へ廻ってくるなり、「はあツ」と蛙のように這いつくばって頭を下げた。
そこで忠長は苦笑しつつ、「酒などもて」とつき従ってきた紀伊とよぶ女に仕度を命じた。


 なにしろ甲府から此方へ廻されるとき、身の廻りの女どもとて、一切召し連れてはならぬという沙汰で、この紀伊にしろ後の三人の娘達も、この安藤の家から、ここへ付けられた女どもではある。
なんせ廻されてきてから、これで一年。他にする事もない退屈しのぎに、いつとはなしに順ぐりに四人とも手をつけてしまったものの、身体が合うというのか、忠長は、この紀伊だけを他よりも寵愛し、いつも側をはなさず召し使っていた。
まあ容姿も細っそりとして、すこし愁いを含んだ眼ざしも、寂莫をかこつ忠長にはうってつけの好ましい相手だったとも云えた。


 「何故に権現さまは、春日局なぞに子種を入れてやりなされたかにござりまするか」
 と、たて続けに呷ったので、もう酔いが発したのか。妙な質問をしてきた。云われてみると、皺かくしに厚く白塗りしている春日局は、その若い頃でも、まるでどう見ても余りよい顔ではない。
 それだからこそ国松の頃から、この問まで、まさかと、春日局を乳母ぐらいにしか、忠長とても考えていなかったのである。そこで首を傾げてしまい思わず、
「たで喰う虫も好き好き……とは申すが、権現さまの頃には、あない鬼瓦のような女ごが美人じゃったのじゃろかのう」と盃を宙にかまえたまま、忠長もきょとんとした表情をしてしまった。

第三部へ続く