悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第三部) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

悲劇の駿河大納言 松平忠長哀れ(第三部)

起請証文誓紙
(きしょうしょうもんせいし)

信長殺しはあなたなのか


 暫らくして、また盃を重ねてゆく内に、西国者は口をもごもごさせていたが、やがて、「……権現さまは、借りを、お返しなされたのでござりまするよ」と妙なことを口ばしった。
「えっ……なんで借りを返しに子をはらませたりするか」と盃を落さんばかりに忠長が驚くと、
「こりゃ失言……とんでもないことを」と自分でもしたり顔で手を振って取り消しはしたものの、もはや、のっぴきならぬとでも思ったのか、やけくそのような声をだして、

「天正十年六月二日……信長さま殺しの、本能寺の変の……借りにてござり申す」といいきった。これには忠長も二の句がつげず、ただ眼をぱちくりさせた。
 なにしろ自分が生まれるより二十四年も前の出来事である。もちろん生母の江与が、信長の姪に当っている位は知っていたが、それ以上は何んの知識もなく、唯あっけにとられていた。
 「あの年の五月の晦日(みそか)……織田信長さまが安土から京の本能寺へ出てこられると判ると、権現さまは這々のていで船便のある堺へと逃げなされ、
後のことは春日局の親爺にあたる斎藤内蔵介に『一生の恩にきよう……其方の血脈に徳川の家を継がせる』とまで云いなされたそうな。そして船を求めようにも、すでに信長さま家来の松井友閑が、堺の政所として船という船を押えていて乗組みできぬ儘に、伊賀の鹿伏兎(かぶと)越えをして万死に一生をえて三河に戻り、
すぐさま斎藤内蔵介の合力に兵を催し鳴海まで出てござったが、すでに手遅れ……よって止むなく陣払いはなされたものの、内蔵介の娘の於福を見つけ出されると、これを夫と縁切りさせて伏見城内へ匿し、
その内にお手をつけられて、いまの将軍さまがお生まれなさったのでござりまするぞ」と一気呵成に喋舌ってのけた。

 「ふうむ」忠長は唸った。だが、すぐ、
 「信長さまと権現さまは仲良しで、桶狭間合戦の後からすぐ聯合されて、生涯一度も仲違などなさらなんだという……そでれがなんて天正十年六月になって、信長さまは権現さまを追っかけ、
権現さまは窮鼠かえって猫をかむみたいに、明智の家臣の斎藤内蔵介など使嗾して本能寺を囲ませ、信長さま殺しなどしたんじゃろ」と腑に落ちぬ顔をしてみせた。
 「……仲良うみえたのは信長さまが堺を押さえ、マカオ舶来の火薬を一手じめにされ、権現さまはそれを分けて貰っていなされたゆえ、手向いなどはできなんだのでござる。

なんせ甲斐の武田勝頼でさえ山国の悲しさは海港のない憐れさで、輸入火薬が手に大らず昔ながら弓と槍では、天目山の露と消えるしかない有様を、権現さまは見て居られるによって、
信長さまを怖れられていなされたのでござりますよ」と、手短かに経緯を話してから、「まあ事の発端というのは、その桶狭間合戦の後(永禄五年正月)権現さまが清洲へ行かれた時でござりましょうのう」と、その後につけ加えた。
「なんじゃ、その話……なんて初めて逢うた時が、そもそもの二人の衝突の種になるのじゃろ」と 怪訝そうに顔をしかめ、紀伊に目顔で西国者の盃を次々とみたしてやりながら、忠長は尋ねた。
「さあ……話してよろしいものやら、どうやら」と、ここまでくると流石に西国者は囗を噤んだ。
「こらッ、申せ……」と堪りかねて忠長は額わきの青い血管をふくらませ腰を浮かすなり、「そこまで囗にしておいて、後は知らぬ顔をしようとは言語道断。ぬかせ……いわぬと成敗する」
 とまで口にした。脅しだけではないらしく、脇差の鯉口をねじるようにコキンと音させた。
 だから、その権幕に愕いたのか、すこし破れかぶれの気味で、西国者は膝の上に両手を揃え、「申し上げまする」と咬みつくように顎の古傷を突きだしっお人払いを……」とまずいい、

「この事かまえて、ご他言は無用に願い上げまする」と紀伊の細っそりした後姿が見えなくなってから、西国者は困惑しきったような歪んだ表情を引きつらせた。だから忠長も聞きだしたい一心で、
「うん。誓って、この場で聞き流そうぞ。心配すな」と懇願する相手に安心させてやった。

「なら申し上げまする………水禄五年の成年に松平元康として清洲へ赴かれ、そこで津島の熊野明神や白鳥神社の牛頭明王の起請誓紙を互いに血判して交し合わされたる御方は、
何を隠そう今は亡き権現さまにて、元康さまではござり申さなんだ……と申しますると面喰われましょうが、松平元康さまは信光入道さま後裔にて、根っからの一向宗。それが清洲城へ赴いて棄仏の誠を示され、
数珠を切ってまで見せられたので疑い深い信長さまも、やっと胸襟をひらいて互いに神信心の同志として提携の約を結ばれましたなれど……実は、このとき本物の元康さまは家臣の安部弥七郎という者に誤って斬殺され、

すでにこの世の者ではなく……当時その元康さまの跡目の後の岡崎三郎信康どのが、まだ幼少の身を熱田の加藤図書の許に拐かされ、その頃は清洲城内へ移っていましたによって、
何んとか乗込んで取り戻そうと松平党の者は難渋……そこを見込んで権現さまが、あまり面体を知られていぬを幸いに、まんまと死んだ元康さまになり済して奪い返しにゆかれましたのでござります」と、ひと息いれた。
 
「ふうむ……権現さまなら、仏というても一向宗ではのうて鳳来寺の薬師派の東光系……念仏宗の数珠をひきちぎる位はたやすいこと……そこで、どうした」
 「はい、当時の信長さまは二年前の桶狭問合戦では勝たれたものの、その前年五月の美濃合戦では斎藤竜興に大敗……よって権現さまも、その場逃れの便法で、まあ一時しのぎに起請を取り交し
人質の三郎信康どのを連れて戻られ吻っとなされたと思いますが、さて信長さまは、その年また五月に軽海ヶ原(各務原)へ出兵して負けなされても、又も翌年も美濃攻め。
ついでまたぞろ永禄七年の八月には、とうとう四年目の正直で勝ってしまわれ美濃を占領すると岐阜城を作られるという豪勢さでした。
こうなると三州岡崎の松平党も『まさか、いっそや清洲へ行って誓紙を取りかわしましたる元康の殿は判こは本物でござりますが、人間の方は代理人ともいいかね、そこで権現さまをば松平元康の殿の代りに、

織田方への恰好上で岡崎城主になって頂き、権現さまも、まさか死人の『松平元康』の襲名は困るからと、先に『家康』と改名されていたが、もはやこの時よりは姓も本当のものにされ『徳川家康』と名のられたのでござります……まあ、
この時は姓も名も変えたことゆえ、思いきって起請誓紙の書き直しをしてしまえば、それでよろしゅうござったが……なんせ云い出し難くて、そのまま二十年近くずるずるべったりになったのでござりまする`
家康の正体ばれる
「ほう……するとだな、それが露見したら、まんまと信長を権現さまは二十年近くも瞞していられたことになるから、こりゃ詐欺じゃが、だいたい死人の名で取り交した起請証文など、何枚かいて取りかわしたとても、そりゃ無効じゃろう」
と忠長も目の色をかえた。

「……はあ。仰せの通り。そこで……天正八年三月に信長さまは一向宗の本山の石山本願寺をかたづけ一服されるやいなや、二十年近くも前の古い事をもちだし、林佐渡や佐久間信盛らを領地召し上げ追放なされるのを見てとるや、
古傷をもつ権現さまも心配なされ、天正十年五月に、詫び金三千両をもって僅か百名の家来と共に安土城へ行かれたのでござる……ところが訪れて初めの両三日はよかったらしゅうござるが、
備中高松から救援の使者がくるや「出陣して中国征伐しにゆく前に、一掃せにゃならんもんがある]と洩らされたというのが、権現さまの耳に人つたから、
(こりゃ昔、信長様が可愛がって居られた岡崎三郎信康を殺しているゆえ……その嫁だった五徳が安土へ戻って口惜しさのあまり、もう此方の正体をばらしてしまい……それですべて信長さまは知ってござってか)
と、権現さまは周章狼狽。とるものも取りあえず京へ逃げられると、それを追かけるようにした信長さまも本能寺へでてござっだのでござる……」


 「判った」そこまで聞くと、忠長も、きっと眼の色をすえた。
 つまり権現さまは二十年前の偽りの誓紙で信長さまを瞞していたのが発覚したのかと愕かれ、攻め殺されてはと背に腹はかえられず京に近い丹波亀山の城代の斎藤内蔵介や、京の入口の船津桑田をもつ細川幽斎忠興の父子などを、
利をもって調略……自身は必死猛死に兵を集めに本国へ戻ったところ、機敏な秀吉は、本能寺を囲む二日前位あたりから早耳で情勢を探りあて、権現さまより一足早く山崎へでてきて明智勢を破り…まんまと鳶に油揚げを攫われてしまった結果になった。
 
「……信長殺しは、この徳川家康である」とも権現さまは、まさか、いいかねて隠忍自重の年月を送った。
 やがて天下を横から奪っていった豊臣政権を、根気よく潰し肩の荷をおろされると、権現さまは、「今は亡き斎藤内蔵介と、男と男との約束ではある。反古にはできぬ」と、そこは武士らしく信義を守って春日局の子の家光に、徳川の跡目をつがせに老?をいとわず駿府から出てきて、その翌年に死亡した。

 「ふうむ。この忠長の五十五万石を取り上げ、場所こそ違え熊本でそっくり、その五十五万石そのものを、細川へ払ってやられたのも、信長さま殺しの時の約束ごとじゃろ……なにしろ、よく話の辻つまが合うわ。
では、おりや、本能寺の犠牲になって……ここへ押しこめられとるんじやな」
 と、そこで忠長は天を仰いで酸っぱい顔をして、しばし嘆息をしたものである。
 
 その後、忠長は、(権現さまが倡長殺しなら、その信長の姪にあたる母の産んだおれなど嫌っていなされたも当然じゃ。父の秀忠にしろ、その問の事情を知って居ればこそ、
やむなく、おれを遠ざけて居られたのじゃなあ)と諦観にも似た心情で、じっと日を送っていた。
家光は誰の子か
忠長自害す

 ところがその内にいろいろ考えこんでいると、はっとして、
「はたして家光というは……あの権現さまの子じゃろうか」と疑惑をもちだした。
 というのは、いま江戸城で、家光が春日局に母のごとく仕えているのは当然だが、天海僧正という得体のはっきりしない坊主を、まるで父のごとく扱っている。と聞いたからである。
 もちろん初めは(そんな莫迦げた事はあろう筈もない)と自分でもうち消していた。
 しかし十一月に入って雪のふった日。

 夜半に冷えて小用を催した忠長が、脇に添寝している筈の紀伊がいないから、仕方なく自分で起き出し火打石をとって紙燭をともした。そして厠へ行って戻ってくると濡れ縁の板戸がすこし開いていた。
はてと近よって外を覗くと、雪明りに足駄の跡がつながっていた。「はて」と忠長は、紙燭を手にしたまま、凍りつくように剌してくる夜風に身をさらし、その足の跡をついてゆくと、忠長を警備する侍詰所の小屋の前で止っていた。
板戸は雪でしめって重かったが、直ぐあいた。屈みこんで紙燭で照らしてみると、足駄は紀伊のものであった。そこで忠長は、
 (こない冷える晩なのに、可哀そうに此方まで厠を使いにきているのか……連れ戻ってやろうか)と、そんな気持をだして板廊下へあがった。
だが、突き当りの帽までゆく前に、右手の宿直部屋の板戸ごしに、紀伊の声と若い家中の侍らしい男の声をきいた。睦語というのか忍びあうような囁きだった。
忠長はびっくりし、また雪の道を戻ってくるなり、がたがた震えて、もう冷たくなった夜具の中へ潜りこんだ。ぐうっと咽喉をならして眼をむいた。
 なにしろ、これまで忠長は、自分が次々と女に手を出すのは何とも思っていなかったが、自分の女が、他の男と寝るなどとは、夢にも想っていなかっただけに、まったく驚かされてしまったのである。


 考えてみれば紀伊はこの家中の娘なので、前から云いかわしていた男がいたかも知れぬとは納得もしたが、男の立場からすれば(女が浮気を自分からしに行く)などとは法外のようにも想えた。
 (どんな具合に二人は寝ていくさるのか)と忠長は、かっかとしてきたものの、まさか(間男された)とも騒げぬ自分の立場にげんなりして、(女ごとは案外なしろものよ)と、ぶつぶつ呟やいた。
 すると自分でも、はっとしたことではあるが、突然ひらめくように頭が冴えてきて、
 
(この俺が権現さまで、紀伊が春日局なら、いま密通しおる奴は天海僧正ではないか)とも考えた。
 「……これは天ドの大事である」と忠長は自分で想いついて、自分でびっくり仰天した。
 「権現さまのお胤ならば、徳川の血脈はそのまま神徒系として後世に続くが、もし叡山の修行僧上がりだという坊主の種ならば、徳川の家は家光の代から、仏徒系に変ってしまうではないか……」
 と忠長は、まさか当人の家光や、春日局には出せないから、老中筆頭の土井甚三郎利勝に対し、

 「善処するよう」と詳しく自分が耳にしたことや気づいたことを手紙にしたため江戸城へ送らせた。
 なかなか返事がこないので十二月六日、いらいらしながら床を離れた忠長が、
 「やっと雪があがったらしいぞ」と侍女に濡れ縁の板戸をあけさせると、安藤の家来共が雪の中に入ってきて、新しい矢来を青竹で結びつけだしているところだった。
 「如何したのか」と城主の安藤重長をよぶと、
 [恐れながら……と重長は「老中の土井利勝さまより『善処あそばされますよう』とのお沙汰にござりました」と、いいにくそうに平伏したまま、むずむず震え声でそれに答えた。
「……そうか」と忠長はうなずくと「善処するのは、此方のほうでありしか」と苦笑いをして、
「これ、紀伊」と近頃はあまり側へよんでいない女を、わざわざ手招きして側へ呼びよせると、

「この女はようしてくれたによって、余の納戸銀の残りをそっくり下げ渡してつかわせ……家中にて親しき者あらば、城主の其方が仲人となって、生涯仕合せになれるよう、これも善処してやれよ」
 と重長に向っていいつけると、重長と紀伊の二人に、座をたてと顎でしゃくった。
 思いがけぬことを云われて紀伊は、その場では恭しく、「はあっ」と有難くお受けして、城主の重長の後から引き退りはしたものの、(あの晩のこと、もしや見破られたのであるまいか)と心が疼いた。そこで、どうしても気になって紀伊が暫らくして居間へ覗きにくると、白小袖の上に、三ッ葉葵の黒紋付の羽織をかぶって、忠長はまるまっていた。
 そっとめくってみると、脇差で襟首から咽喉をかき切り、白い骨が見えるまで見事に忠長はもう自分で斬首をしていた。

  新井白石の〈藩翰譜〉の「土井利勝伝」にいう。
大相国台徳院さま(秀忠)かくれさせ給いし時、土井利勝ひとり謀をもって天下を泰山の安きにおく。もとより、それ秘事なり。よって世人は、その詳細を知らずというと。
 そして貝原益軒の門人樫原重軒の「養生訓読解例纈」にも、
 「寛永十年十二月十三日。上州高崎城にて御預かりの駿河大納言忠長さま御乱心にて自尽なされし、その初七日の夜。旧御庭所お庭先松の古木の根方にて安藤重長家来徒士頭にて加田五平なるもの腹を割る。
 同人生前は『西国者』と自称し居たるも、実は権現さま天正十年五月に安土城へ訪ねられし時にもお伴せし程の三河武者なれど、生来酒好きにて身を誤り立身することもなく、忠長さま生前は、
その振舞いに預るべく御座所近くを徘徊し御憐慈を忝(かたじけの)うす。よって大納言さま御他界後は、飲酒にことかき苦しまぎれに生害せしものと噂あり。
あにおそるべきは酒に溺れる事にてあらめやと、ひとのいう」と、この時の西国者の名前や来歴も瞭(あきらか)かにされている。



 さてシェイクスピアは徳川家康と同じ元和二年に亡くなっているが、同劇団のジョン・ヘミングとヘンリー・コンデルの二人が、スコットランドとイングランドの国王をかねるジェームズ一世陛下の庇護と援助のもとに、日本の(ムレットともいうべき徳川家光が三代将軍になった元和九年から、
そのシェイクスピア戯曲全集の編纂を始め、十年かかって寛永十年十二月十三日。つまり駿河大納言忠長の初七日に当る日、奇しくも二つ折りの体裁のこれは市販されることとなった。
世にこれを、「First Folio」(ファストーフォリオ)という。