大小捨て槍一筋に 武士は一本差し | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


大小捨て槍一筋に



 天保五年版芝神明前和泉屋吉兵衛刊行の「武道初心集」の、従僕着具の部に、「小身の武士は不慮の変の時といえど、家来を沢山つれて行けるわけではないから、槍一本の他は持ってはならない。
だが多少でも供を連れてゆける者ならば、持槍が折れ損した時の用心に、槍の身の予備を袋に入れて持ってゆけば、いざという時は竹の先に縛りつけても使える。
なお刀というのは相手が甲冑をつけていると、殆んど打ち折れてしまうものゆえ、これを持ってゆく者は差しかえを若党に持たせ、若党の刀は草履とりや馬の口取り仲間に、移動刀掛けのごとく差させてゆくべし」とでている。

つまり従来のように武士というのは必ず戦国期でも大小を腰にさして歩くというのは、あれは絵空事でしかない。
 いざという時、腰に軽いジュラルミン製ならぬ鉄製の本身の大小などさしていては、重いし邪魔で走れもしない。だから武士というのが、「槍一筋」といわれるのはこれによる。
 では大小は差さなかったかというと、礼装用には用いていた。大刀を預けねばならぬ場所では換って小刀を腰にさしたのだが、幕末は物騒になったので一遍に二本ともぶちこむようになったのである。

斎藤竹基の著では、「嘉永三年」つまり国定忠治が死刑にされた年あたりからだという。なのに一般に、「武士は二本差し」という観念を、何故与え始めたかというと、これは村方の八部衆の風俗によったものらしい。
 というのは、「俘囚の裔」で武士になった者の他に、捕方や牢役人になった連中は、代官が年貢米算定の田畑見廻りをする時や、神輿が出るとき、今でいえばガードマンとして先導役にたったが、
差換えを持たせる若党や仲間を伴っていないから、重いのを二本さした上に六尺棒まで手にした。
 
 そこで、「え」とよぶ連中の多い江戸以東ではそうでもなかったろうが、京阪以西の百姓は、中国語からとって、「両個(リャンコ)」と蔑み、また二は、三と一の中間ゆえ、これをサンピンとよんだ。
さて、「江戸時代の武士の扶持の最低は三両一分だったから、それからとってサンピンという」などと説明する「武家事典」もあるが、

「江戸時代の士分の最低は、一人扶持、つまり玄米一日五合」これは年にして一石八斗の扶持勘定で、「何両」というのは士分ではなく仲間小者の計算である。
 そして云わずもがなかも知れないが、箱根の関をもって東は金本位で西は銀本位制ゆえ、江戸時代は一両といっても、小田原以西は(銀目一両)で、これは(金一両)に対して六掛か五掛だった。
 
 つまり三両一分といっても、箱根の向こうでは一両二分か、一両二分一朱の勘定で、今でもこの為に間違わぬように領収書には、金か銀を上につけ、
「一金何円」と書く習慣が残っている。だから武家事典はこじつけにすぎず間違いである。しかし、

「さんぴん(三一)とよばれた八部衆の連中(岡山から福山方面では三八とよぶ)は刀を二本もさして威張っていたが、明治七年に警察権を薩長閥に奪われると大変なことになった。
彼らはお上御威光をかさにきて、一切の労働はせず、村方から強制的に食料を巻き上げていた一種の「遊民」的存在だった。
だから、「よくも今迄は威張りくさったな」と百姓から苛められ、積年の恨みを爆発させ、つまはじきにされてしまった。
これが、「村八部」今の「村八分」の起りになるのである。


 だから、こうした匿された史実をおってゆくと、いまテレビや三文小説で、「刀は武士の魂」などといわせているのも、あれは廃刀令で刀の売物の山を抱えた刀剣商が、明治から大正にかけて、
なんとか売ろうとして考えついたCMではなかろうかといった疑さえもてる。
このせいか、何しろ日本人は刀が好きである。懐古趣味と言ってしまえばそれまでだが、武士の末裔が多く過去の血が成せるのかもしれぬ。
 

 というのは、刀は公刀とよばれ扶持を与える主人から、その防衛用にと腰に差すことを義務づけられているもので、時には折れたり曲がりやすい日本刀の性質上、
スペアが必要だったから江戸中期の大道寺友山の説くように、
「士は自分の主人の替え差料を、生きた刀架けとしておびて供をしていた」という実際談からすると、主人は刀のことを武士の魂といってもよかろうが、家臣にとっては、
「刀は武士の腰にさし運ぶもの」にすぎなくなる。
 
 つまり一人一人の侍が自分の刀を己が腰にさしていたというのは嘘ということになる。友山の「岩淵夜話」にはさる大身の旗本が、刀自慢でいつも十握り程の刀を、
自分は重たいから無刀だが、供の者に一本ずつささせて引きつれて歩いていた話がでている。

 明治初年の「廃刀令」というのも、武士の扶持がなくなったので、もう公刀を重い思いをして差して歩かなくともよいというのであって、やくざのような私刀を差して歩き廻る連中には無関係だったのもこのためである。
 では、武士の魂とは何かといえば、これは槍の穂先だったらしく、心得のある武士は己れの頭上の長押(なげし)に槍を掲げておき、これを日課に砥ぎ磨いたものだと、
「武道用心集」には明白にでている。