『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。 -3ページ目

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

      豪傑新田義貞の謎

  徳川家康の先祖は新田義貞

 かって、青空高く舞い上がる凧の武者絵は、みなこれ「新田義貞」の髭もじゃの顔に統一されていた。
 私が子供の頃のメンコ遊びの、丸形のボール紙にはりついていた髭もじゃの武者の顔にも、「新田よしさだ」と書いてあった。
 だから『三国志』の張飛や諸葛亮、関羽、樊噲にも匹敵する吾国の大豪傑は、「新田義貞そのひとなり」と思いこんでいたが、さて調べてみると、鎌倉攻めのとき稲村が崎で、
「波が逆まき荒れ狂うは海神の祟りならん。わが宝剣をもって神慮を慰め奉らん。もしこの剣を水中へ投じ、波が鎮まれば海神の御意に、この義貞がそうた事になるゆえ‥‥一気に波打ち際まで突っ走り、鎌倉の北条御所へ討ちこまんず、如何」
 と、海上を伏し拝み、おびたる佩刀を水中へ投じ、見る間に波のひくのを眺め、おおいに勇みたつと、左右の者をかえりみて、
「神意は吾らにあり、今ぞ北条一族をば誅殺の時なり。われと共にいざ進み候え」とばかり馬に鞭打ち突入し、高時の首をとった。だから、海神より見こまれた豪傑というので、新田義貞は英雄なのだろうか、どうだろう‥‥彼に従ってきた上州新田別所の者達は、生れて初めてみる太平洋に、びっくりしてしまい、
「海は広いな、大きいな」と面喰ったかも知れぬが、(潮の干満、その日は何時頃に引き潮になるか)位は、近くの猟師に聞いてもすぐ判る事ではなかったろうか、と思えるのだが‥‥


 つまり、それ位の知識で佩刀を投げこむトリック程度で、彼が幕末まで、「豪傑」として特別扱いされていたのは、常識的には納得できぬし、明治になって俄かに声価が、どすんとがた落ちしてしまったのも怪しい。
「雨あられと飛びくる矢は防ぎきれず、さながら全身針鼠のごとき有様となり、もはやこれまでなりと、馬が深田にはまりこみ転げ落ちたるを潮に、潔くその身に刃を突きさして、かねて覚悟の最期をばとげにけり」
 といわれた新田義貞の霊を慰めんと、万治三年(1660)に福井藩主松平光通は、その討死したあたりに建碑したが、やがて明治三年になるとそこに小社が建立され九年には別格官弊社となる。
明治十五年には正一位が贈られたのであるが、地名をとって「藤島神社」と呼ばれて新田神社といわなくなる。しかしそれ以前の徳川時代にあっては、
(コレラやチフスといった伝染病や厄病よけの呪祷(まじない)絵にも画像が刷りこまれ、新田義貞の一と睨みで、いかなる悪鬼羅刹も退散するもの)
 とされていたのだが、位階だけは正一位に昇進したものの、いつの間にか楠木正成にその王座を奪われた形で、皇居前の銅像にも義貞は洩れ、しがないメンコ絵や凧の武者絵にと転落してしまったのである。
 もちろん新田義貞は豪傑といっても、それは容貌が、それらしいというだけであって、確定史料には誰と組打ちしたとか、何某を押さえつけて首をとったとかいった話は伝わっていない。
 初めは元弘の役に際し、鎌倉幕府の命令で西上軍の中へ徴発編入され、河内へ進軍していった。
 そして、
「あれなる千早城を陥しそうらえ」と命ぜられ、
「かしこまって」と攻めてはいったが、新田義貞より楠木正成の方が強かったのかどうかは判らぬが、何度も攻撃したが向こうがそれに応じてこないので一度も勝てずじまいだった。
 もたもたしている内にそのうち嫌気がさしてきて、義貞は東国へ引きあげてしまった。すると後醍醐帝よりの綸旨が、「汝義貞も、北条高時の追討をなせ」と、秘かに届けられた。
 天皇さまのご命令であるからには、日本人としてそれに否応のあるはずがない。そこで義貞も、
「はあッ」とばかり、昨日の友は今日の敵と北条高時の軍勢を討たんと進発しかけた処、遥々陸奥の国から石川義光、武蔵からは熊谷直実の子孫の直経、遠江からは天野経頭。
 そして、今は茶の産地で知られている狭山は、昔からの別所ゆえ、そこの武蔵七党の連中が、常陸の塙政茂に従って参陣してきた。
そして、「北条というは、われら源氏の者共を殺掠したり、別所へ押しこめ差別待遇をなせし不届きな輩‥‥いざこの時ぞ昔の仇討ちをなさん」「さん候、今や復仇の時にてござそうろ」
「戦わんかな時きたる‥‥高鳴る胸の陣太鼓」といった具合で新田義貞の軍勢は見る間に二千近くにふくれ上り、上州新田の庄から世良田へでて、そこから利根川を渡り、
やがて一行は、「利根の川風」を背中の母衣に入れてふくらませ武蔵の比企郡高見から入間川を突破、小手指原から府中へでた。
 すると、鎌倉から廻されてきた北条泰家の軍勢が、
「来らば来れ、別所のやつばら」と待ち構えていたが、思いがけぬ新田義貞の軍勢の多さに愕き、「戦は兵の多寡によって決まる」とばかりに退却してしまい、
「それ追っかけろ」と分配河原から関戸河原へでた新田軍は、多摩川を渡って鶴間原から世谷原へでて、そこから、「本隊は片瀬腰越から極楽寺口の大手門へ」
「陸奥隊は村岡、州崎から鎌倉小袋坂口へ」「武蔵隊は梶原の山越えに化粧(けはい)坂の裏手へ」と三方から突入。
このとき義貞が稲村が崎で潮の干満を計って、佩刀を投じたのだが、さて五月十八日から五日間にわたる大激戦で、とうとう北条高時以下の一族一門を、葛西谷の東勝寺へ追い詰めてしまい、そこで彼らを全滅させてしまった。
 しかし、これは義貞個人が強かったというより、つき従う武蔵狭山の別所の連中や源氏崩れの連中にしてれみれば、「失地回復」の戦いだったから勇戦したのだろう。
 というのも、カマクラというのは朝鮮語では、「家居」の意味だが、古代ツングース語では、それは「首都」をさしているからである。


 さて義貞は船上山行在所におわした後醍醐帝のおん許へ、「鎌倉占領、北条全滅」の報を急ぎお知らせ申しあげると、「よくぞ致した」と御嘉賞を賜り、「左馬助(さまのすけ)」に任ぜられ、
建武の中興の論功行賞では「従四位ノ上、左兵衛督(さひょうのすけ)」として、越後守に任官した。
 やがて上野、播磨二カ国の介(すけ)も兼任したが、中興の政(まつり)が破れ足利高(尊)氏と戦うことになって、箱根宮の下の戦で義貞は敗走した。
 そして、翌延元元年(1336)、京に迫る足利軍を防いだ大渡合戦でまたしても負けた。しかし源顕家の援軍でようやく京を回復したものの、またしても攻められ摂津和田岬に陣をはったが、
義貞は足利高氏に背後をつかれるのを恐れて退却し、このため湊川の楠木正成は放っておかれた格好となって、敵に包囲され、全滅してしまった。
 その後、義貞は北陸におもむき敦賀の金ガ崎城によったが、翌年ここも足利高経に攻め落された。
 その次の延元三年には平原寺の僧兵に包囲され、ついに藤島で最期をとげたのである。

 勤皇の至誠もよく判るし、転戦して苦労したのも充分に納得できる。が、だからといって、大豪傑だったような面影はないのである。
 なのに明治になってからは、すっかり影が薄くなったが、徳川三百年の間は、さも豪傑中の豪傑といわんばかりに、もてはやされていたその謎たるや、何かというと、
平凡社版『大百科事典』第二十巻五十四頁の、新田氏系図を引用してみると、これは一目瞭然たるものがある。

源義重___義兼___政兼___朝氏___(新田)義貞_____義顕
    |                   |__義興
       |                                    |__義宗__岩松満次郎__新田男爵
       |
       |__義秀___(世良田)頼氏___教氏___満義___有親___親氏___徳川家康

 俗に徳川家康は三河の松平元康が名を変えた同一人物で、先祖伝来の三河の地を守ったとされている。が平凡社の事典では、
「家康は上州新田から出た世良田二郎三郎で、松平元康とは別人である」ことが、これでもはっきり示されている。
江戸時代においては今と違って(権現さまは世良田)と知られていたからして、「新田義貞は神君家康公の御先祖さまに当たる」というのでハクがつき、代表的な豪傑と奉られたが、さて明治になると、
今度は話が変わってきて、明治新政府の連中に、「新田義貞は徳川の祖ゆえ怪しからん」とされて、楠木正成の方が株が上がったのである。
 なお新田男爵となった本家の岩松の方は、「御系図お貸し」の代償として、江戸時代は交代寄合組お旗本として百二十石の捨て扶持を、代々徳川家から給されていたともいうが、
何処の国にしろ決まったような運命ではあるが、英雄は政権が交代すると、昨日までのヒーローが途端に卑怯者や悪党にされてしまう。
 しかし豪傑までが、歌は世につれ、世は歌につれといった具合に、その価値転換をしてしまう例は珍しい。ヨーロッパでも例がない。

 恐らくこれは、絵草子屋ともよばれた江戸時代の出版業者が、命令もされないのに、体制である徳川家へのおもねりに、「武者絵は、権現さま御先祖の新田義貞」
 と決めてしまって余りにも媚びすぎた結果、それが薩長の憎むところとなって、その豪傑の地位から足を引っぱられ、今では忘れられてしまった存在になったのであろう。
 が、彼も天子さまに命を賭してお尽し申し上げた一人である。またいつの日にか見直され、豪傑でなくとも、かつてこの国にいた一人の忠臣として再評価される時はきっとあるであろう。

 

戦国ウーマンリブ

「江戸時代の司法が女性を避けるような傾向があったのは、これは戦国時代に女武者が陣頭に現われると、勇士とか大将といわれた者は、相手にするのを恥じたものであるから、その名残りで女子供は相手にせずといった心持ちが、江戸の法律にも有ったようである」という説がある。
 
 だから戦国時代の女は哀れだったなどと、臆面もなく書く歴史屋が多くて困ったものである。
 元禄以降(一六八八)は儒教隆昌とあいまって女は哀れな存在となったがそれ以前はそうでもない。
 なにしろ徳川家康の四天王の一人で、天文十七年(一五四八)から慶長十五年(一六一〇)まで生きていた、その当時の人間である本多平八郎忠勝は、
 
 「わしの若い頃は、まだ人手不足で共に戦にでていた戦国の名残りで、武家の女房は、みな、いざという時に顔を強くみせるよう太い描き眉をつける関係上、眉はすり落し、
口中も敵を威嚇するため、人間をくらってきたようにおはぐろというもので歯を染めていた。もちろん今でも武家の女房は古式を守って眉を落し口を染めているが、近頃は美布や化粧品などが弘まり軟弱化してきたから、
昔程かどうか判らん……しかし戦国時の女武者の働きというは、今どきの男共など足許へもよれぬ程のものがあったのだ」

 という回想談をかき残している。これが徳川中期に見つかり、原文は内閣総理府図書館に保存されているが、明治時代には、

 「稀有な戦国史料」として活字本にもなっている。非売品だったし数も僅かなので初めにその説を引用させて貰った故三田村鳶魚は見ていなかったらしい模様だが、こんなに両極端に意見が違うと、
どちらが真実か迷わざるをえない。しかし世のおおかたの女性は、
 「強かった」といわれるよりは、「哀れであった」と伝えられる方が、被害者意識的でお涙頂戴と思うのか、あまりこれに意見はのべず、今の時代の方が増しなんだろうと満足しているのか、
「涙にあけくれした戦国女性」といったのが、どうもよく読まれているらしい。
 もちろん男のひとも、女が強かったなどというのは聞く耳持たぬ、といった風潮が残っているせいなのか、

「戦後の女性は強くなった。されど昔の女性は清く優しく、それなのに哀れでありしか」
 といった感慨のもとに、そうしたでたらめなものに眼をそむけようともしないのである。
 とはいえアメリカ模倣の男女同権、女性差別反対の現代では、
「はたして昔は弱く悲しく哀れだったか、どうか」を解明する必要もあるのではなかろうか。
 

 なにしろ真実というものは一つである。楯の両面みたいに極端に分かれていてはいけないのである。
 さて、「講釈師みてきたような嘘をいい」というが、明治大正の頃の人間の書いたものより、その当時の天文生まれの本多平八郎の方が正しいのではなかろうか。
 三田村鳶魚は江戸の刑法が、女人を避けるような設定の仕方がされているからと、その点から遡って、そうした舞文曲筆をしたものらしいが、江戸の法律の根本をなす処の、
 「武家法度」の改正から諸制令が一斉に発布されたのは、寛永六年(一六二九)から十年の間で将軍家光の時に当たる。そして、その時代というのは、
 
「寛永通宝の鋳造を下命された鳴海屋平蔵が、ときの老中筆頭の大老職土井甚三郎利勝をさして〈春日御局ご家老土井大炊頭〉と、その鋳銭受け書の公文書にかいているような世の中」なのである。
 この春日局が何故それ程までに権勢をふるっていたかは、後述するが、寛永六年からは恐れ多くも主上も女帝の明正さまであらせられる。

だから東西ともに女上位の時代だったのだから、その間に制定公布された法律で女人を敬遠し、なるべく処罰の対象から外したのは、これまた当然なことである。
 なにしろ一口に、江戸時代といっても三百年にわたっているのである。
 元禄期以降からの、「女は三界に家なし」とか「女三従の教え」といった、女権が落ちてしまった男尊時代の考えで、戦国から江戸初期を判断するのは三田村鳶魚の誤りであろう。
 『フロイス日本史』をみても、「城主の夫に金を貸し高利をつけ、支払い不能とみるや己れの家臣をもって、強制執行してその城や領地をとりあげ女城主になる例」
 も当時は珍しくなかったと、青い目の彼がもの珍しげに、日本における女上位を、他にも例をあげ本国へ報告している程である。フロイスといえばイエズス派の彼の先輩の修道士らが、「上杉謙信」と今日、その死後の戒名で名を伝えられている政虎が、
 「勇猛なる女城主であったこと」を報告しているし、それを裏書する当時の舟乗りの書簡も残されている。

 それはスペインのトレドの司書館に一五七一~八〇年の報告書として保管されている。日本でも、
『豊薩軍記』にでてくる高尾城の十七歳の女城主の勇戦敢闘ぶり。
『当代記』にある、信州高遠城の祝女の大奮戦記。
『備中兵乱記』の、常山城主三村高徳の妻の激闘。
『今川家記』の、引馬城主飯尾豊前の妻が、米ぬかで血止めした大薙刀で敵二十余騎を倒し、傷ついた夫を庇って死んで行った話。数えだしたら切りがない位に、板額や巴御前以降でも、女武者の奮闘ぶりは残されている。
 
 これは白人の女などは、すぐキャアと叫んで失神するが、ヤマトナデシコは火事などの際にも、男は周章狼狽しきっても、そこは落着き払って重たい物でも、
「よいこらしよ」と抱えだして持ち出してしまう例が多いから、かつての彼女らも、夫のため吾が子のため勇ましく戦ったのだろう。
『アーニーパイル戦記』によれば、オキナワ戦では伊江島の比嘉姉妹は、十八歳と十六歳の少女二人だが火薬箱を抱き、アメリカ重戦車のキャタピラに飛びこんで玉砕しながら擱座させてしまい、
 「日本の女性は強い」と彼に書かせている。にもかかわらず、「女は哀れだった」というのは男の自己満足なのか、またはそういって欲しい女の甘えなのか、そのどちらかだろう。
 しかし近頃のように女子中学生がしごきをしたり、女の暴力団さえ現れるような世相では、とても格好が付かぬから、時代を逆行させてしまい、
 「戦国時代の女性は哀れである」といったいい方をして、「戦の時に奥方や娘が人質にとられたり、傑にかけられて殺されなどして、いたましくも不憫であった」と説明されている。
 もちろん人質にとられたり傑にされ、ブスッと槍で突かれること自体は気の毒であるが、考えてみれば、なにも女性だけがそうした目にあわされたわけではなく、男も磔にされたり首をちょん斬られ、
その頭をかち割られ脳味噌を抜かれていた時代である。
 それに今でも質屋へAB二つの物をもってゆけば、「此方のほうを預かります」と値打ちのある方を取られる。
 という事は、戦国時代にあっては、女性の方が野郎よりも値打ちがあったからこそ、それで人質にとられたのでぱあるまいか。
 それに現代のように、「女性を庇ってやるのが民主主義だ、騎士道なんだ」といった考え方をもってしては判り憎いが、もし敵も味方もフェミニスト揃いであったと仮定するならば、
「女を磔けにかけて殺すとは残酷ではないか」ということになって、そんな事をしたら向こうの敵愾心を煽ってしまい、味方からも批難抗撃を浴せられる羽目になってしまう。
 しかし戦争というものは、何をやるにしても味方の士気を高揚させ、敵の士気は沮喪させねばならぬものであるから、今と違って、恐らくその時代にあっては、
「よくぞ女を磔にかけて、ブスツと殺してくれよった」

と、すっかり男はみな快哉を叫んで、味方は勇気百倍。敵の方も城主の妻や娘で、自分のではないから、「口うるさく、威張りくさっとる女ごを、気持ようやってくれ、これまでの溜飲が下ったわい」と、
すっかり歓び勇みたち、「男心は男でなけりや判るものか」と手をふって、「昨日の敵は今日の友」と城門を開いて、双方が仲よくバンザイをしあったものではあるまいか。
と書くと、今の観念をもってして、まさかと苦笑するむきも有るだろうが、日本の戦国時代から江戸初期にかけては、ちょうど海の彼方のヨーロパでも、
「男につべこべ文句をつける女」
「意地悪で手におえぬような女」
「怠け者で食っちゃあ寝てる女」
 といったのは、優先扱いで、「魔女」のレッテルをはられ、最低七十万人から最高七百万人の間、数ははっきりしていないが、ジェームズ一世の英国でもイサベラ女王のスペインでも、みな丸裸にむかれて丸焼きされていたのである。
 バスク人の刑吏が馬車につんできた女達を、生きた侭でローストにしたり、馬に引張らせて股裂きするのをみて、西半球の男共が、「讃えんかな神の御名を、アーメン」と、ヤンヤと喜んで見物し、口笛を吹き手を叩いていた時に、東半球の日本人の男だけが、「女を殺すは勿体ない、使えるものを惜しい、可哀想ではないか」と唯たんに好色だけで、それにあくまで反対していたとは考えられない。
 どうも質の悪い女は、中世紀の魔女狩りで子宮ごと焼かれ消滅しているから、現代の女性は、みなセレクトされた残りの後裔ゆえ屑はいなくてみな素晴しいのばかりだろう。
 が、その当時の玉石混淆の女人は、ヨーロッパでも日本でも、男の立場からすれば手のつけられぬような悪いのが多かったからなのだろう。
 
『加越闘諍記』という前述した天文元亀頃の古史料によれば、一向門徒が越中越後の反仏的な城をみな押えたとき、まずまっ先にしたことは、
 「広大無遠の御仏の慈悲をもってしても、何々御前さまとか、北の方とよばれて、これまで城にふんぞり返って、男の武者どもを顎の先で使い威張りくさっていた女ごだけは、衆生済度の枠には、
なんとしても入れようがない」と、みな縫針を束にしたので眼をつぶし、無明地獄におとしこれを放逐したというのである。
だから彼女らのことを、「盲女」とか「瞽女」とかいて、「ごぜ」とよむのは、御前さまとよばれていた名残りから、反仏の者らが悼んでのせいである。だから一向宗の顕如上人の義妹を妻にもち、権大僧正だった武田信玄に対し、敢然と迎え討った上杉景虎をたたえる瞽女唄には、
 
「とら年とら月とらの日、生まれ給いしまんとらさまは、白山さまおん為に赤槍立てての御出陣、男もおよばぬ強力無双」という歌詞があり、
『越後瞽女屋敷、世襲山本ごい名』の唄本の中に、総平仮名で入っていたのが今は点字で伝わっているのである。
(上杉謙信という名は死後の戒名だが、あくまでも男だと信じたい「頭の硬い」人は、どうぞ前記の史料で調べてもらいたい)
つまり今は上杉謙信と男のごとく誤られている彼女も、かつては、
「捕えられて盲にされたらかなわん」と気張って、川中島で戦ったのだろう。しかし、こうしたガムシャラ女武者が多くて、寺側は困ったらしく、高野山のごときは、つい最近まで「女人禁制」を厳しく励行して、
女性は絶対に山に入れぬよう、敬して遠ざけていた。
 という事は、戦国期のウーマンーリブたるや、現代のごとく延々七時間もパンや肉まんをかじって大掛りな井戸端会議をしているようなものではなく、
「不言実行」というか、しきりに武闘をもって、「戦う女の集団」の実存をしめしていたことになる。


『本多平八郎遺文』に、女は優しくみえる眉毛をすり落し口中を染めて敵を脅したとあるが、「女は三界に家なし」といわれたように圧迫されていた江戸時代でも、武家の女房は、眉を落し口を
お歯黒で染めて、一旦緩急あれば夫と共に共闘する体勢をとっていた。
忠臣蔵で有名な吉良上野介が、赤穂浪士に首を取られたと聞くや、上野介の妻が「おのれッ。仇をとってくれんずッ」と薙刀抱え侍女を従え屋敷から討って出ようとした。
しかし慌てた上杉の家臣が必死に諫めたため、取りやめになったという有名な逸話が残っている。
ために江戸市民は「吉良の女武者勇まし」と誉めそやしたぐらいのものである。

 なのに当今の女性は、アメリカ兵にガムやチョコレートを貰った大東亜戦争敗戦直後の時点から、すっかり堕落しきってしまった。まだ敗戦時の日本女性は、それでも精神的支柱があったからこそ、あの敗戦の苦しみにも堪えてこられたのだろうが、今度もし、ああした時代がきた時、いまの若い女の人たちはどうするのだろうか。
 余計なことかも知れないが、まったく冷や汗ものである。
 女も人間であるとばかみたいな事をいう瑕に、その怒りを胸に自分自身を振返ってほしいものである。でないと、せっかく戦国時代の女の勇猛ぶりを、四百年前に書き残しておいてくれた本多平八郎忠勝に、申訳けないことになってしまう。


 

本稿も長文である。日本史の欺瞞を提示しそれを広く知ってもらう事であり、歴史辞典を目指したわけではない。
日本史の謎を探り、記録に残すこと、そして、人々に基本的知識を提供し、未来の愛国者に託すものである。
古代史から読み解く未来日本の進むべき道

  古代史は越多非人の創世記



 (注)赤字( )で囲まれた部分は喜田貞吉博士の説

一、皮田の奴隷どもは近年まこと風儀良しからず、間々不らちの儀もこれ有り候間
  、同奴隷共へ別紙箇条の通り、かたく触れさせ候事。
一、市中は勿論居付地に在りたりといえども、通行の節は片寄り候て、往来の人へ
  いささかたりとも無礼がましきことは致すまじく。
一、朝の日出よりその日没まで之外は、市中は勿論、町はずれとても徘徊は絶対に
  禁止。居付地の垣内にても夜分みだりに往来相い成らざる事。
   但し節分の日は夜五時迄、大晦日だけは夜九時迄、に限って徘徊を差し許さ
   れ候事。
一、町内にては一切の飲食致し候儀は相成らざること。
一、雨天之外は笠かぶりものは絶対に相成らざる事、
一、履物は草履の外は総て相成らざる事。

上記は江戸時代か幕末までの居付部落に対する取締りの古い書付きの現存するものであるが、「除地」と江戸初期は部落の弾正や長吏に年貢を免除し、代りに人頭税をとらせ保護したのは、
今は松平元康の改名とごま化されている家康が、実は部落出の世良田の二郎三郎だった為である。
なにしろ荒川の中川の三河島に足利時代の散所奉行によって、収容されていたのを救出した。そして旗本や御家人にした同系統の家康ゆえ、居付き部落も生存中は庇護した。
だが徳川の世も五代将軍の綱吉の皮革業の大弾圧の、獣の皮を剥ぐなと、「生類憐れみの令」の発布から、柳沢吉保が吉良上野介に堺の中村内蔵助へ銅を半分近く混ぜた元禄小判製造で、インフレ化すると違ってきた。
しわよせは弱い立場の居付き部落に押し寄せた。従来は部落の頭に人頭税を納入の他には、これという課税はなかったのに、各大名や天領の代官が、川銭とか雨ふりにきる蓑にも課税したり、掃除や埋めたてにかりだし彼等を酷使した。

土を耕す百姓ならヒエやアワを、漁をする部落ならアー元、地曳網もなかった昔なのに間違って現代は網元というが、納入の魚介の他に、若干の鰯や小魚は塩にしたり乾かして、すこしは余裕もあったが、
漁も農も許されぬ居付き部落には何の余裕もないゆえ、貧窮が目にみえて厳しくなった。


(キヨメ或は河原の者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘・駕篭丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職業上、世間から幾分賎視されて居たであらうが、決して彼等のみが特別に汚れたものとし疎外されるというような事はなかつたに相違ない。
ことにその賎視されたのは、必ずしも彼等ばかりではなかつた。古代の雑戸時代・傀儡子時代から大多数の工業者・遊芸者等は皆賎しいものとされて居たのである。
ことにもと家人・侍などと呼ばれた賎者も、時を得ては武士となつて社会を睥睨するようになる世の中となっては、昔は「大みたから」と呼ばれた農民までが、同じように賎者として、奴隷百姓とし見下されて居たのである。
「三十二番職人歌合」には、
 千秋万歳法師 絵解き 獅子舞い 猿 鴬引飼 鳥さし 鋸挽き 石切り 桂女
 髪捻り 算置易者 薦置 薦僧(虚無僧) 高野聖 巡礼 鐘叩 胸叩
 へうぼう絵師 張殿 渡守 興舁農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売
 糖粽(ちまき)売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売

らの三十二者の名を並べて「ここに我等三十余人、賎しき身にて、品同じもの」と云つている。この中にも、興舁き・庭掃きなどの或る者は、エタの源流の一をもなしたものであるが、
その庭掃き、即ち掃除夫が、歌合せに於て耕作課役の奴隷の農人と合合せられて居るがごときは、もって当時の状勢を見るべきものであらう。
つまり、「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠のようなる言いかいなき者」と云い、「当道要集」に、「舞廻・猿楽等のしき筋目の者」というかごとき、ともかくこれらの徒が賎者と見られて居た事は疑ない。
それらの中に於て、ひとりキヨメ・河原の者等のみが、特別に賎しかったとは思われぬ。むしりエタの方が慶長以前に於て既に、「音楽のやからは青屋・墨焼・筆結らの上だ」と言われて居た)

  中国人(当時の唐からきた人間)を良として、日本原住民を賤とした

歌舞音曲のミュージシャンは貴人の慰みものとして、召されることもあるから、その方が刀鍛冶たちより身分が上だというのであると、喜田貞吉説は続けられている。つまりである。
 今では京五山の住持は日本人かと誤られているが、鎌倉五山とは違い対明の黄金積みだしの立会いで御所を五方から囲んで監視していた。京五山の漢詩集をみれば日本人でない事が判る。何故なら当時の日本人にあんな難しい漢文をとても書けることなどできないからである。
つまり京の五山は、唐につぐ明僧のせいもあるが、反仏派である彼等を忌み嫌っていたから、「臥雲日件録」の、文安三年十二月二十一日の条に、原文は明国の漢文であるが、

「宮に仕える役人が馬にのって、犬を射るのは、噛む犬だと、わざわいをもたらすからであるが、野犬は群がると逆襲してくる。よって一匹を捕らえたものに銭を十枚やってもよい。けだし人間の中でも、犬なみなのは最低であって、死んだ牛馬を食する輩こそそれで、とても人間といえぬ」
とまで中国的に言い切っている。つまり騎馬系のカラ神や、祇とよぶ宮の信者、七福神信仰で絶対に中国大陸よりの仏教を忌み嫌う連中は、寺へ銭を納めぬからして坊主はみな厭がった。
江戸時代の「神仏混合令」から、仏を信仰するのが国教と定められたので、それでも白山さま始め神祇への信仰をやめぬ反仏派の居付き部落の者は、今で言えば、非国民として扱われだしたのである。
 それゆえ、「生類憐れみの令」発布後の元禄十二年から転向せぬ者らへは、次々と課役を増やし、「身居り(居付き)棟付け帳」なる宗門帳が、寺の奴隷人別帳とは別に元禄十二年より十四年後に各国に反仏帳とて付けられだした。
歴史屋さんの中には、「宗門調べ帳」を幕末になっても切支丹伴天連の調べと誤っているが、島原の乱を宗教一揆として公表したからであって、いつまでもキリシタンなどオカミは怖れていた訳ではない。

拝仏できない者を苛酷に扱う為の記録簿が人別帳なのである。
「居付き」のことを「棟付き」といったのは、風祭の部落の者が明治時代、人力鉄道に使われ、逃亡せぬよう棟柱に八人ずつ鎖につながれ「タコ部屋」とよばれた語源にもなるのである。
亨保二年に八代将軍に吉宗がなり、大岡忠相を登用すると、彼は江戸では新地の弾左衛門に由緒書提出を命じ、京では水上のオンボ頭を始め、アマベ、六条、北小路、山科、桂ら各地の部落に、
「棟付き由来書」を京の町奉行所へ提出させた。仏教が国教ゆえ彼らは反体制集団とされていた。
 テレビの大岡越前守は水戸黄門と共に、ええ恰好しで、きわめて美化されすぎているけれど、「髪はマゲなどゆわず断髪のザンバラ髪にして、冠り物は雨天にても許さず、一見してすぐ判別できるよう致すべきこと」と、
今でいうなら人権無視の法令を亨保八年に大岡は出している。

  スリは立派な職業だった  

定廻り同心がたったの八人で江戸の朱引内を見張らせていたので手が廻りかね、大岡越前はスリには、「判別できるよう常人のごとく白元結にて髪を結ばず、スリ常習犯は黒元結をば用いるべし。
さすれば一見して、それと判るゆえ、盗む者より、すり取られる方が粗相となって罪なしである」
と定め、大岡裁きといわれ、以降明治三十八年に仕立屋銀次が陸軍大将児玉源太郎の金時計をすって軍部よりの強硬談判で犯罪とされる迄は、スリは泥棒ではなくて、手職人とよばれたものである。
 スリは仕事をする時だけ黒元結とつけかえれば罪にならずで良かったが、強制断髪で頬かむりしても捕えられる棟付き者は災難だった。松平定信が老中筆頭となった天明七年からの、

「寛政の改革」では、徳川家の財政難を打破するために、百姓は搾りすぎれば一揆を起すが、彼らはいくら苛酷に扱っても各棟付地に分散居付きで、騒乱はできぬし皆殺しにしても御定法には反せぬからと、
搾取の限りをつくした。英国船渡来の頃ゆえ、部落圧迫は十八世紀からである。
 福沢諭吉が明治になって「天は人の上に人を作らず」と叫んで大衆に随喜の涙を流させたのは、日本の人口の殆ど大半を実質上しめている彼らが、徳川の御政道では「人の下に人を作っていた」せいである。

人間は他人の不遇や不幸をみれば微かでも自己満足をするというが、
「わしらは、あいつらよりは増しだべさ」と、寺の奴百姓や私有民として、税金をかける対象としてしかみない領主や代官の横暴に対しても、今の庶民の御先祖さまは歯をくいしばって堪えた。

幕末になると「四つの騎馬民族系」も「八つの海洋渡来系」も生活難に喘いで世直しを求めたが、彼らの大衆動員にお陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西郷や大久保、海江田が世直しをし、
のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落出身の益満休之助や自決した田中新兵衛らは邪魔者として殺された。

土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられると、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首にされている。
 大戦中に玉砕ときまっていたテニアンへ送りこまれた混合師団は、大阪の住吉もんや河内もんを主にする彼らだけだったから、今でもテニアンには住吉神社の移された跡が残っている。
 つまり昭和になっても藤原体制のオカミは、彼らは反体制的存在という考え方を変えていないのである。
さて、喜田貞吉博士は、契丹系で頭のよい人ゆえ、そうしたオカミの意向を旨としているが、「壬申戸籍」つまり明治五年の第一回国勢調査を、もってきて、

(明治五年初めに約三千三百十一万と言われて居った内地人の数が、大正五年末には約五千五百六十四万となつて居る。近年の増加の数は、一年に約七十万乃至八十万であるから、
大正九年初の数は恐らく約五千七百二十万にも達して居る事であろうと思う。その毎年増加の率は、年と共に増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に於て千人につき八人乃至十五人という事になって居る。大変な人口の増え方である。
かくも盛な増殖率を有するをみると特殊部落民の増加率はきわめて旺盛である。
 明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに「棟上げ宗門人別帳」ではエタ二十八万と三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千と九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。
この中非人と言われた方のものは、其後大抵解放されて、もはや今は、特殊部落の待遇を受けて居ないのが多い。又右の雑種ものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮にエタ及び
皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の特殊部落のもとをなした、として見ても、明治四年の称号廃止当時の数は三十五万九千四百と六人である。
されば明治五年正月二十九日調査の内地人口三千三百十一万と七百九十六人という統計にあらわれた数を以て、その五ヶ月前に遡って、仮に三千三百と五万から六万の人口があつたとすれば、こうした特殊部落民の増加は、まこと愕くべきである)

 明治時代の壬申戸籍は間違いだった

 ‥‥明治五年の壬申戸籍は、各町村役場でも初めてのことで不馴れゆえ、各寺の奴隷人別帳と、「棟上げ居付反仏宗門帳」をもとにしたから総人口三千三百万だったが、
明治三十七年の日露戦争の時には乃木大将の機関銃への銃剣突撃で多くの兵を死なせ人手不足になり、
応仁の乱の時みたいに徹底的に人間狩りをして、捕えてきた者に居住地の名称を姓にして新しく戸籍をこしらえたのである。
 故に大正五年の国勢調査には、それが加わったから倍近い五千五百万。大正九年では五千七百万と推定しているのも比例算である。しかし間違っているのである。各寺の私有財産目録の寺人別や、何処へも出られぬ棟付き人口に、士族となった各旧大名の侍人別の合計では三千三百万が数字の上では総人口でも、戸籍に縛られず放浪したり匿れていた者は遥かに多い。

 だからシベリア出征の頃には倍近くなっただけの話である。「貧乏人の子沢山」で、彼らの子供の数が明治の聖代になって増加との考え方も違っている。
明治四年八月の称号廃止の時に計38万余だったものなら、翌年の壬申戸籍の時でも大差ない話で、比例算でゆくなら半世紀で倍近くも日本人口の住民が増えているならば、
彼らが50万から60万で残りの五千五百万は一般人口となる計算である。
それを全部そっくりと、彼らの増加にもってゆくのは可笑しい。なのに、
(単に部落民だけの其の後の人口の統計に就いて調査してみると、案外にも増加数の余りに夥しいのに驚かされる。ところが大正期に入ると、
「治世方針報告書」の東京府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、其の他に於ける部落人口の総数が八十三万四千七百四十五人。部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合計九十万四千四百十二人とある。
この以外に他へ転籍もしくは移住し普通民の中に没したり、またはもはや部落民として認められなくなつておるものの数も、まったく驚くべき増加ぶりである。過去四十余年間にわたつて少なからぬものであらうと思われる。
現に北海道へ移住したものの如きは、一般社会からも殆ど区別することなく、従って一人も右の統計には載つて居ないのである。東京のごとく雑多な地方人の混住の場所にあつても、今や殆ど忘れられ、右の統計に載つて居ないのが多い。
恐らく彼等の子孫自身も、父祖がもと、そんな筋であつた事を知らないのであらう。
 そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万乃至百三十万はあるであらうという。甚だしいのに至つては、百五十万もあらうなどという統計を見積もって居るが、今仮りにまづ最も少なく見て、
概算百十三万人としたならば、部落民の総数は内地人総数の約五十分の一、即ち五十人中にいる割合に相当することとなるのである。即ち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみの間では、
その二倍と一割強の数を増して居るのであります。その増加率に於ては、実に普通民の、二倍にも相当して居るのである)

と博士は説明する。
だがこれは喜田貞吉説の「日本にかつて存在した奴隷人口は、僅か五分なり」の自説を守るものにすぎない。
つまり古代では人口百人に五人だったのが「良」になってしまい二人にまで減少というのだが、それでは(部落民人口の総計の調査をしてみると案外にもその増加数が多い)とでは矛盾する。そもそも大宝律令の「良」のえらいさま95人を「賎」の奴隷が強制使役でも僅か五人や二人で食わせ贅沢させられる訳はない。

まるっきり反対の割合でなくては常識的にもおかしい。
 歴史家ケントは「古代ローマ帝国のローマ市民は、一人で30から50名の奴隷をもち、貴族は何百という耕作奴隷とは別に戦士奴隷を、それぞれ五百名以上はもっていた」と著に書いている。
判りやすい例では西暦663年の白村江の戦いの時に、クダラ系の官人が母国救援に将軍となり将校となって、「四つ」の防人の戦奴二万七千をかりだしているから、仮に壮丁は人口50名に一人とし、
昔は赤紙の召集令状をだす市町村の兵事課もなかったから、百名に一人とすれば日本列島の当時のクダラでない系統の原住民人口は約二百七十万人となる。

終戦後、進駐してきた郭ムソウ後の藤原軍が初めは二千、後からは倍加。軍夫軍属や一旗組を倍とみて計二万余が後の「良」で日本原住民は討伐され捕虜となったのが「賎」ゆえ、喜田試算はまったく逆であって、
古代でも部落民は、良一人に対して二百七十人以上ということになる。奴隷は5%どころか、その50倍近い数字となる。それなのに江戸時代の正徳五年の、「京役所向大概覚書」には、

百八十軒   七百八十九人   六条村
四十六軒   百二十三人    蓮台村
二十軒    百十六人     北小路村
四十四軒   二百三十三人   川崎村
百二十八軒  五百九十人    天部村
十七軒    七十一人     小島村
七軒     二十七人     龍ヶ口村
十四軒    五十八人     舁揚村
八軒     三十五人     西代村
二軒     十五人      北河原村
二軒     七人       柳内村
合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人に対比し、百九十二年後の明治四十年調査の、
千百六十九戸 五千三百九十六人 旧六条村
三百六十四戸 二千と一人    旧天部村
百六十三戸  千二百七十六人  旧蓮台野村
四十三戸   二百六十五人   旧川崎村
九十六戸   六百七十一人   旧北小路村
二百五十三戸 千五百八十七人  旧小島村
八十三戸   四百五十六人   旧龍ヶ口村
五十八戸   四百五十二人   旧舁揚村、北河原村
三十三戸   二百十六人    旧西代村
二十戸    百三十二人    旧柳内村

この合計二千二百八十万戸にて一万二千四百五十二人と、前の約七倍となっているとする。
そして京の五条橋は昔の六条坊門で本能寺のあった処で、信長は故意に反体制の立場から後の所司代役にあたる村井道勝邸をも、此処の居付地にわざわざおいていたのである。

つまり本能寺は当時は秘密に匿されていたチリー硝石によって、せっかく戦わずに各大名の京屋敷よりの応援を待っていたのに信長も毛髪一本残さず、主従三十余名が一度に吹っ飛んだ。
そのサイカチの森から松原通りまでをば昔は六条河原とよんで、橋のない川の居付部落だった。
つまり江戸期の寛文時代までは、松原通り東洞院の東の「夷也」(今は稲荷)地だったが、承徳二年から六条河原へ移ったのを、高瀬川にまた所変えしたのが、柵原六条部落になったという。
 のち大岡越前の時に三軒七条出屋敷部落に、斬髪になれ追われて刑場や牢の番人に使われた。
 七世紀から八世紀にかけ捕虜として連行され囲地収容の日本原住民は時代により場所換え。


(明治四年以来全国人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と十割強の増加をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当たらなかった部落民は、今は五十分の一にも達して居ることの統計は、既に前に述べて置いた通りである。
この著しい増加率の相違は、更にそれ以前に於て如何なる状態であったか、普通民との増加率の比較如何であつたであらうか、となる。
 徳川治世三百年間は、太平無事であつたが故に、我が人口も必ず大いに増加したであらうとは、何人も手軽に想像し得る所であるが、事実は反して、増殖率の案外低いのには驚かざるを得ぬ。
徳川幕府の人口調査は、亨保六年以後は、六年目に実施せられて居る。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日知る事が出来るが、
その第二回目の亨保十一年の調査は二千六百五十四万八千九百九十八人。第二十二回弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅か三十五万八千参十七人の増加を見るに過ぎなかつたのである。勿論この統計は、
決して正確とは言いがたいものであらうが、当時宗門改めのやかましかつた時代であるから信用するにたるものであらう。もちろんこの中には、公家・武家、並びにその奉公人等を除外した数であるから、
実際上の臣民の数は、更にこれよりも数割を見る必要あるべく、かくて明治五年に至つて、三千三百十一万の統計を見るに至つた事であるが、徳川時代を通じて、甚しい増減のなかつたものなることだけは、承認して差支えなからうと思われるのである)
と「民族と歴史」の「特殊部落の人口増殖」の153Pから154Pにかけ喜田貞吉説は、さももっともらしく展開されている。
 徳川時代に泰平なのに人口が増えなかったのは、部落が苛酷に搾取されていて、子供が生まれても育ててゆけず、大きくなれば人買いに売られてゆくのが関の山ゆえ、水子にみなした為か。
 つまり現代のように美容上から不妊手術したり、避妊に失敗して中絶して水子にしてしまうのとは違い、殺したくないのに処分を部落ではしたのだから、いかに当時の圧迫のひどかったのも判りうる。
 それに明治四年壬申戸籍の時より居付き部落の人口が倍以上に増加したのは、日露戦争の時に消耗品として戸籍のない者まで人間狩りをし、新戸籍を作って戦死者の多い第三軍の乃木大将の指揮下へ編入した。

それと軍事的資源として、将来の兵隊にするために堕胎罪という法律で水子が禁止、生活は苦しくても御国のために、なんとか部落でも育てねばならなかった為もある。
 それゆえ部落は、新戸籍者と育児で人口が倍加したが、それでもサンカのごときは無戸籍の侭で、匿れ住んでいたし、部落からの脱出者は戸籍を作ると本籍で苗字が付けられると避けている。
つまり部落をよく知っている者は、戸籍台帳にいれられつけられると税金や徴兵だと嫌がる。
つまり古代史とは良の鉄武器人が、縄文・原住民を征服し弥生期にエタ非人とした歴史なのである。
ここの処を明確にしない事には、日本の古代史の解明などは不可能。できはしないだろう。

こうした時代錯誤だと取られようとも、執拗に古代史を深堀するのも、日本の現状を憂え、焦燥感に駆られるからである。
何故ならアメリカは日本を叩くため大東亜戦争のはるか昔から「オレンジ作戦」を確立しており、
この謀略を見抜けなかった、かっての大日本帝国は、謀略に乗せられ真珠湾攻撃でアメリカと先端を開いてしまった。そして完膚なきまでに叩かれ負けた。押しつけ憲法も変えられず、左翼の自虐史観に翻弄される日本の危機への警鐘なのである。
 

余談として追記しておくが、日本民族を「大和民族単一説」を定着させたのは、戦争目的で国民を団結させるため明治軍部である。真実の日本民族は、人種の坩堝のようなアメリカと同じ「雑種民族」で、だから遺伝学的にも優秀なのである。

だから、昔から日本は、お上は治安維持上対立政策を採っていたが、海洋渡来系は「人には添ってみろ」と云い、

騎馬民族系は「馬には乗ってみろ」と、むやみな対立を戒め合っていた。そうは言っても何と言っても同族同士の結びつきが一番だから「惚れちゃいけない他国の人に。末はカラスの泣き別れ」と他民族との婚姻を危惧しても居た。

さらに時代を遡れば、唐が隋を倒したことを唐系の者たちは「ズイズイスッコロバシ胡麻味噌ズイ」と馬鹿にしていた。

朝鮮系の百済人は、百済にあらざれば人に在らずと傲慢にも「クダラナイ」「クダラナイことをするな」と今に残す。

一方高麗系は歌舞伎の掛け声に「高麗やー」と鼓舞し、新羅系は「あーこりゃ(高麗)こりゃ(高麗)」と馬鹿にしていた。