『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。 -3ページ目

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

漢(おとこ)の少なくなった日本
リーダーの条件



「女日照り」という言葉が在る。女が少なくなって男が困るという意味だが、近頃の政界を見ると「漢(おとこ)日照り」で腹の座った覚悟を持った国会議員が皆無。
国会で、記者会見で、知らぬ、存ぜぬ、覚えがない・・・これでは全く自民党議員は「ボケ老人集団無責任政党」でしかない。

そして岸田首相を筆頭にリーダーが居ない。
安部派の大幹部だとか、二階派の幹部で「将来の総理候補」と、提灯持ちマスコミに持ち上げられた面々は、一皮むけば情けない無責任男の集団だった。
さらに、河野、小泉、石破などの総理候補は、無関係を装いノンポリを決め込み全く見苦しい。
自民党の窮地に対し、「自民党のためだ。俺が責任を一身に背負い政界を去る」こうした覚悟の人間が何故出ない。

例えばリーダーの資質として往々にいかなる理想を抱いているかが問われたり評価もされるが、岸田首相にもその他の総理候補にも、全くそれが見られない。
リーダーは組織の先頭を切って目の前の現実と闘わなければならないのであって、その闘いに勝つためには何よりも冷厳な現実家でなくてはならない。
岸田首相の今回(5月31日)公明党、維新との譲歩にしても、これは決断と云わず「妥協」でしかない。

そして、TPOに応じて求められるリーダーとしての要件はさまざまあろうが、何よりもまず大局を見通すという眼力。
そしてそれに応じての判断力、決断力、さらには未曽有の試みであろうとそれを思いつく想像力、創造力。

 今直面している問題、あるいは危機の背景にある大局とは何なのかという判断認識なしに物事への的確な対処は出来るはずがない。毛沢東の方法論の『実践論・矛盾論』の中に実に的確簡潔な叙述がある。彼は共産党政権を盗るため、中国史上始まって以来、自国民数千万人の虐殺をしたが、目的達成のため実に的確な事を言っている。

 彼は目の前にある解決をせまられている厄介な問題を「従属矛盾」と呼び、さらにそれをもたらしたその問題の背景にある大きな矛盾を「主要矛盾」として、その主要矛盾への認識とその是正への試みなしには本当の問題解決はあり得ないとしている。

 これはしごく当たり前の論のようで実はなかなか心得られない認識である。大方の人間は目の前の問題解決に腐心はするが、その背景を把握しないと本当の解決の術に必要な有効な試みも実践もままならない。
 それを獲得するために必要なものは所詮人間の感性であって、勘の悪い人間に何を期待してもどうにもならない。
その勘の養成には頭の自由な回転が必要で、頭を自由に回転させるために何か必要かといえば、それは仕事以外のことに興味を持って頭を使うことだろう。つまり何か自分の専門以外に趣味を持つことだ。

政治家が趣味を持つことは、外国の首脳との対話において有益な要素となることがある。
何故なら、かって小泉総理がアメリカのブッシュ大統領と会談した時、「ラブミーテンダー(優しく愛して)」と馬鹿な歌を披露し、属国日本を世界に晒した、屈辱外交を展開するような「愚行」を避けられるから。
注・前提条件は流暢な英語力が絶対必要。
先ず、趣味は人々をつなげる力を持っているから、外国の首脳と会った際、趣味の話題はアイスブレイクとして役立つ。
共通の趣味を持つことで、お互いに興味を持ち、自然な会話が生まれやすくなり、これは対人関係を構築する上で重要な要素である。例えば、音楽が趣味の政治家が、外国の首脳と音楽の話題で盛り上がることで、信頼関係を築きやすくなる。

さらに、趣味は文化的背景や価値観を理解する手段となり、外国の首脳との対話において、相手の趣味を知ることは相互理解を深める一助にもなる。
相手の国や文化に対する理解を深め、協力の機会を見つけることができ、問題解決に向けた協力がスムーズに進むこともある。
相手の人間性や個性を知ることができ、冷静な判断や柔軟性を持つことで、これは問題解決において重要です。
総括すると、政治家が趣味を持つことは、外交的な対話において相互理解や信頼を築り、問題解決に向けた協力を促進する一助となる。

日本の政治家の多くは、世界歴史、文化史、芸術などの分野に弱く「(玉っ転がしの)ゴルフが趣味」では、世界の首脳と太刀打ちはできない。
世界も語れず気前よくODN(金)をばらまくしか能のない政治家では世界の海千山千の猛者たちと太刀打ちなど到底無理。
例えば、プーチン大統領は、伝統的なロシアの歴史、ロシア正教からヨーロッパ史まで遡り勉学し理論武装していることが彼の演説や論文から窺われる。
こういう男と議論するには、ロシアの正統性に一定の理解を示しつつも、その論理矛盾を指摘し、国際法や国際連帯の重要性を地球人類平和論にまで昇華しての議論が必要になる。
北方領土返還交渉もこうした壮大な世界観からのアプローチが有効だったが、残念ながら故安部氏には無理だった。
激動する見えぬ未来を、「混沌」と「檄」の時代の政治家は「生きるも死ぬも世直しの為。なに惜しからん我が命」こうした志の人物の出現こそが待たれる。

 

ヨーロッパにおけるの歴史。

発明と初期の改良
15世紀前半にヨーロッパで火縄銃が発明さた。
最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる。
技術の進化
火縄銃は徐々に改良され、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで広く採用された。
点火方式の変遷
初期の火縄銃はマッチロック式(火縄式)で、火縄を挟んでおいて引き金を引くことで点火した。
後に鋼輪式(ホイールロック式)やフリントロック式などの点火方式が開発された。
これらの銃の火薬は黒色火薬だったがB火薬が発明され弾丸の様式にも変化がもたらされた。

B火薬(またはビエーユ火薬)は、最初の無煙火薬として知られている。この火薬は1886年にフランスの化学者ポール・ヴィエイユ(Paul Vieille)によって発明された。

 当時、ニトロセルロースは新しい火薬として期待されていたが、不安定であったため、実際の火薬として使用することはできなかった。しかし、ポール・ヴィエイユによって初めて安定化させることに成功した。
 B火薬は、ニトロセルロースにエタノールとエーテルを加えて柔らかくし、薄いシートに丸めて裁断するか、型によって押し出して形成する方法で作られた。

 当時のフランスで使用されていた黒色火薬(Poudre N)よりも強力で、煙の量が少なかったため、使用者には戦術的な利点をもたらした。フランス政府は後にB火薬を採用し、新しい8mmカートリッジとライフル(ルベルM1886ライフル)を導入した。B火薬は初速の向上、射程の増加、携行弾薬量の増加をもたらしました。
しかし、揮発性の溶媒が蒸発するとB火薬は不安定になる傾向があり、多くの事故が起き、1890年代には、より安全な無煙火薬(例:コルダイト)が登場し、B火薬は使用されなくなった。

 世界で初めてB火薬と呼ばれる無煙火薬の使用を前提として新規開発された8mm×50R ルベル弾を使用する銃として開発された。この銃が与えた影響は大きく、すぐに世界中で同様の無煙火薬を使用する銃が開発されることになり、黒色火薬を使用する銃を一気に旧式化させた。

前身であったグラース銃 (M1874) が単発銃であったのに対して、ルベルM1886小銃は当初銃身と平行して8発の弾薬を装填できる管状弾倉(チューブ型弾倉)を装備した。
この方式の弾倉は数多くの弾薬を装填できる反面、弾頭が前の実包の銃用雷管を突いて弾倉内で誘爆する事故を防ぐために、弾頭の先端を丸くするか、平たくする必要があった。
引き金の右上にカットオフレバーがあり、これを操作すると弾倉からの給弾機構を停止することができた。これにより、弾薬を毎回手で薬室へ挿入する単発と、弾倉を使った連発とを選択できた。

同時期にルベルM1886小銃を参考に開発された二十二年式村田連発銃も同じ轍を踏み、程なくして有坂銃系列の三十年式歩兵銃に置き換えられて極めて短期間のうちに姿を消していったのに対して、
ルベルM1886小銃は8mm×50R ルベル弾の弾頭を尖頭型に変更したBalle D弾に変更して命中精度を確保することになった。

このBalle D弾は雷管がやや深めに埋め込まれ、雷管カバーが肉厚になった。さらに薬莢のリムとネックの間に角度が異なる二段階のテーパーが設けられ、薬莢底部の雷管の周囲に環形の溝が刻まれるという、
製造に手間がかかったものであった。

8mm×50R ルベル弾は強くテーパーがかかった形状のため、固定弾倉へ挿入する際に弾丸の先端が頭を下げた姿勢となり、ここが一発前に装填された弾薬の薬莢底部溝にはまることで、雷管を誤って突くことなく固定された。
今日市販されている尖頭弾頭の8mm×50R ルベル弾にはこのような安全対策が施されていないため、同銃に複数発装填することは推奨されない。

このような対策を施した結果、ルベルM1886小銃の命中精度は改善され、箱形弾倉に改良された後継のベルティエ小銃が登場した後の第一次世界大戦でもフランス軍の主力小銃であり続け、
遅くは1930年代まで使用されることとなった。
後年、 日本でも帝国海軍ででB火薬が使用されたが、それは、日本海軍の戦艦「三笠」はB火薬を使用していた実態が在る。
引用参考文献「世界銃砲史」著・岩堂憲人

織田信長が目指した日本国

 戦国の世、下剋上のいわばピークに立ったのが織田信長だとみれば、かなり荒っぽく、その当時の既成の体制を破壊している。
だから、奈良、平安時代と続いてきた藤原体制即ち大陸勢力の、天皇を戴く御所の権力の側もかなり恐怖に陥ったと想われる。
足利体制というのは、大陸の明に臣従していたのだから、これも藤原体制と同じで、戦国時代というのは、
海洋渡来系、騎馬系、土着系日本原住民が各地で公家の荘園を奪い、旧体制の大名を追い出したから、
体制側の坊主が憎々しげに前述の如く「下剋上」とその日記に書き残した。
そして信長は平家を名乗るぐらいだから、天下布武を一つの旗印に海洋渡来系の富士王朝復活をイデオロギーに、近江王朝の昔に戻そうと安土城を建てたのだろう。

何も記録は残っていないが、信長は、天正五年十一月には一条内基に代って、
請われるまま右大臣になってはいるが僅か半年たらずで、翌天正六年四月初めにはやめている。そしてそれ以降は無位無官のままで御所には臣従していない。
歴史屋は信長を「前右府」などの言葉を使うが、間違っている。
『近世国民日本史』などには、織田信長は勤王だった、織田信長が従五位下の官を貰うために貢銭したのを、御所へ尽した事蹟とわざわざ一章を設けて説明しているのは、
任官していた事のあるのは御所へ臣従していた証拠とする当時の皇国史観の影響である。

だから、信長は、律令体制の根幹というか土台を引っくり返そうとする強烈な意図はあったと想像できる。
これは『フロイス日本史』にも出ているように、安土から京都までは幅四間の(十ニメートル)の軍用道路をつくって、もし藤原体制が背反すれば、武装部隊が、三時間で京都へ入れるようにしていた。
だから、山科言卿の日記をみると、天正十年五月二十九日に京都へ信長が早駈してきて本能寺へ入ってくると、真っ先に疎開したのは、誰あろう御所の女御たちだった。
大変事が御所で起きるだろうと周章狼狽したのである。女御たちが衣裳を牛車に積んで次々と逃げだしたくらいだから、至上も避難をなされる筈だったと想像できる。

また、信長は死ぬ前年、天正九年の馬くらべ、つまり今の観兵式が京で催おした際、信長は鉄砲隊三百を率いて御所の門から入り、バンバン実砲を射ちまくって、御所の建物を穴だらけにしてしまった程の示威運動をやっている。歴史屋は「天皇をお招きして閲兵式をやった」だから勤皇の志が篤かったと言うが、全く逆である。
後に幕末の蛤御門の変の際、松平容保が御所を警備するために入ろうとした。彼は孝明天皇の非常に信任が厚い守護職だった。
仙台というところは多賀城の後で中華系だから御所とは近い関係である。それでもなおかつ絶対に御所に鉄砲をもち込んじや困ると、公家衆はこぞって阻止したくらいだから、当時の信長のデモは驚天動地だったろう。

また織田家を越前織田庄出身と歴史書には書かれているが、「上織田」は斯波家に仕えていて織田は本家になる。
しかし信長の方は父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀を名乗っていて、本姓は「八田」なのである。
つまり織田姓になったのは賜姓ということになる。下織田と呼ばれた信長は近江が正しい。後にそこに安土城を築いたのもそうした訳である。八田というのは弁天涯の、あの一帯の呼称で、昭和の頃でもあのへんに住んでる人のことを土地の者たちは「ヤッタモン」と呼んでいるのでも解る。だから信長を助け、天下を取らせた彼らだったが、信長の急死で彼らは落ちぶれてしまい、追われて、「近江乞食」と呼ばれたのである。

さて、こうした信長の行動から、後の秀吉のように御所の最高位「関白」にもなるつもりはなかっただろう。
さらに、怖れ多くも秀吉は居もしない人をデッチ上げ「我は、持萩中納言の忘れ形見」だと天皇にさえなろうとした。
だから信長は武家の最高位「征夷大将軍」が考えられるがどうだろう。

同じ平家である北条政権は京を避け、出身地の伊豆に近い鎌倉に幕府を置いた。
そして、北条政子は、天照女神のお告げであると、甥の泰時に三十万余の軍勢を授けて京を討ち、天皇や上皇を隠岐の島や佐渡島に流罪にしてのけている(承久の乱)。

そもそも、富士王朝の残党ともいうべき北条政子の同族は、夷頭(伊東)に逃げ、海水を汲んで製塩漁撈をし、塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、
藤と名乗る公卿の主だった者を斬首したのも、「民族の復仇」と見れば理解できる。「後北条」と云われる北条早雲が同じ伊豆で覇を唱えたのもこうした訳があるのだ。
後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき徹底的に見張りをするため、侍所をおいた。

だから同族である信長も、公家や天皇の動向を探るため、京に所司代として村井貞勝を任命している。これは前述、北条幕府の六波羅探題の真似である。
 「公家」とよばれる藤原体制と結びつき、御所を利用する政権でなくては日本統治は不可能とは考えず、己が祇を信じる原住民の「祇府(岐阜)幕府」として統治しようと考えていたとも推理できる。
公家や天皇の権威など意に介さず、何時でも不穏な動きが在れば彼らを武力制圧できるよう、前述のように、安土から京まで馬五頭が並列で駆けられる、いわば御所襲撃部隊専用道路も作っていた。

余談だが実は、明智光秀も信長が本能寺で爆殺された後、京は暴徒の略奪や打ち壊しが激しく、御所の警護と治安回復の為、光秀は「大詔(おおみことのり)」を受けている。
それは秀吉に討たれるまでの一週間だが「征夷大将軍」に就任している史実がある。これを「明智の三日天下」という。(後、秀吉が御所の役職である関白になるのも、光秀の後塵を拝するのをきらったため)
これを証明できる証拠は、秀吉と戦った山崎合戦で、伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の重だった面々が、一人残らず光秀の側にたって敢闘し討死していることが、
〈蓮成院記録〉〈言経卿記〉〈多聞院日記〉に出ているが、これとても、光秀が、征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死をとげたのである。
信長の一武将の地位では、信長が死に、天下人の空白時には考えられぬ行動である。

余談ついでに書いておくが、信長が本能寺に入った頃、住吉浦(大阪湾)には四国遠征軍が集結していた。
歴史屋は、長曾我部元親に四国全土平定のお墨付きを与えたのに、それを反古にしたのは「長男信忠に与えるため惜しくなった」と説くが、違う。
そもそも四国は三好長慶や、チャンスガメ(長宗我部)というように半島朝鮮系の土地柄だから、同族同士を争わせ平定させたのは、信長の深謀遠慮であり、
平定後に取り上げるのは信長の優れた戦略である。

・このイキシチ系の戦国大名には、三好、長曾我部、千葉国胤、千村良重、長重連ぐらいしか居らず、江戸時代には一人も残らず粛清されている。だから、部落(原住民)出身の徳川家康も江戸時代になると、土佐は山内一豊、阿波は蜂須賀小六、高松は松平、大洲は加藤家と四国は全て原住系で固めている。
しかし、日本中の銀を押さえている京の蜷川財閥を「……用心せねば」の気構えがたらず、自己過信がすぎて油断し、本能寺で髪の毛一本残さず吹っ飛ばされて殺されてしまう羽目になった。
 
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12790002629.html 一年前の記事(もし信長が生きていたら)を参照されたい。

今でも、織田信長に非常に人気があるのは、罰するにしても男女を同権に扱ったからである。
 というと、いささか不思議に思われるかもしれないが、通俗歴史家が、戦国時代の女は、とても哀れだったなどと書くから感違いされるのであって、今とはまったく男女の価値感が根本的に当時は違っていたのである。
 ということは、その時代の女性たるや、今では想像がつかぬくらい強かったのである。なのに信長は遠慮容赦なく女を差別せずに叩っ斬ったりして、処分している点が、当時も高くかわれて男どもに好かれていたらしい。
 竹生島へ行った時に無断で抜けだした腰元の女が連れだって寺へお詣りに行ったというだけで、六人ともぶち殺し、神徒側男性の立場を明確にしている。
 つまり斬殺でなく撲殺させているぐらい露骨に示している。もちろん人的資源が大切な戦国時代のことゆえ、やむなく出産経験のある女たちを選んで、次々と産ませた子供が十何人いるけれども、
これとて彼としては、いうなれば武将としてやむなく作ったみたいなものである。

さらに当時、坊主どもを纏めて何千人も殺しているのを庶民たちは「信長様は豪気なお方」と賛美している。
これは「南蛮人に奴隷として売れば大儲けできるのに、それを殺してしまうとは勿体ない」という意味なのである。
 日本史では隠されているが、当時は火薬原料である硝石入手の為、日本原住民を奴隷としての輸出が慣例化されていて、信長はそれをしなかったからである。九州の大名たちは己の妻や娘までも奴隷として南蛮坊主どもに売り渡していた史実が在るほど、奴隷輸出は激しかった実態である。


終活を愁活に変えて生きる老後

  老生、男の終い支度として、身の回りの不要な物をほとんど捨てた。
月日が流れ、やがてそれは何年もの歳月になり、人並みに様々な喜びとドラマと落胆と希望からなる人生が過ぎていった。そして、今、人生の頽齢期を迎えて、なんの恩寵あってか、数々の愚行を重ねてそれでもなおかなり恵まれたものだったと自嘲しつつ過ごす日々である。

  先日、テレビで毒蝮三太夫氏が良いことを言っていた。それは「終活」では命の終わりを意味し、寂しい言葉だと。
年をとってもいじけない、意固地にならない、素直で色気のあるジジ、ババでいたいという意味で「愁活」を提案すると。
含蓄のある言葉で、老生もこれに加え「人に迷惑を掛けない」を実践している。

   さて、そこで捨てた物は洋服、靴、腕時計、カメラ、猟銃、ライフル銃、車、アクセサリー、蔵書、刀剣、釣り道具、絵画、レコード、ゲーム、モデルガン等々。
こうして見返せば、無くとも実生活には何ら痛痒を感じないものばかりである。
その中に趣味で作ったプラモデルや各種模型が数百点在る。
多くの作品は「暇つぶし」の要素が強いが、ジャンルは纏まりがなく目につくもの、興味がわいたもの手あたり次第作った。
プラモデラーの世界では有名な俳優の石坂浩二氏は、同じものを二つ作ると述べていたが、老生は数にこだわらず気が向けば何点でも作った。

 そして、図面通りや自由気ままに感性のおもむくまま、塗装や大きさの異なる物も多く作った。中でもやはり艦船、航空機、戦車などが多い。それは、武器の歴史的背景と戦史への興味と好奇心を満たす部分も在ったからである。

   飛行機模型の醍醐味は何といっても「エンジン製作」と「コックピット製作」にある。
普段は見えない場所に、複雑精緻な機構をチマチマと作り、悦に入っているのだから、自己満足の最たるものだろう。
さらに、方向舵や昇降舵を可動させると、一層リアル感が出る。
ゼロ戦などのプロペラを回すため、図面に無いエンジンに極小モーターを取り付け、燃料増槽には電池を組み込み配線するなどした。 時を忘れエモーショナルな空間で製作に取り組んでいた濃密な時間が今は懐かしい。
  その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。
その量はトラック一台分もあり、業者はYAHOOやメルカリに出品し、後日聞いたところではよく売れていると報告が在った。
帆船やポケール製作には、特殊な工具や、数千点の部品仕分け用装置も必要で、値段も張る。
「高価だから」「思い入れがあるから」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。


プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。
 ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。
 これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。
武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美しさが一致した究極の造形美は事実であり、なんとも不思議で皮肉な人間の性(さが)である。
なお、作品のほとんどはリアルさを追求するシャビーや「汚れ技法」はできるだけ使わない。
武器が綺麗だということは、戦争がないということだから。