『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。 -2ページ目

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

便利と危険の両刃の剣 


先頃、なりすまし広告による投資詐欺被害者が、米国のメタ社日本法人を提訴した。
投資にうまい話などはなく、SNSは危険な側面を持つと意識すべきである。

前澤友作氏や堀江貴文氏などをかたる「にせ広告」により金銭をだまし取られた事件で、弁護士は「詐欺加害者の手助けをしている」と主張している。
そして堀江氏や前澤氏側も大変な迷惑を被っており、前澤氏自身も提訴したようである。

昨年12月には、SNS型投資詐欺の認知件数は350件を超え、被害額は60億円に近付いているという。
茨城県の高齢女性が7億円を詐欺で失ったそうだか、ああいうものにお金を使うという神経が、どうにも理解できない。
彼女は会社役員で、騙し取られた金は全て貯金だったと記事にあった。

そんな大金を出す前に、どれほどの規模の会社か判らぬが役員として第一線の経済人なら、これほど世間を騒がしているのに「想像力」が働かなかったのだろうか。
それにしてもよくも7億もの大金を動かせるなんて、凄いお金持ちなのだろう。
こんな大きな損失をして、お節介だがこの後の生活をどうするのだろう?

SNS型投資詐欺で使われた当初接触ツールは男性被害者の1位はフェイスブックで、女性被害者の1位はインスタグラムで、どちらもメタのものだという。
あとはLINEやマッチングアプリ、ウェブサイトなどがあるが、私はこれらSNSツールについてはどれも使っていないし、全く痛痒を感じない。
知らないメールアドレスから「○○銀行が提唱します」「○○のVISAどうのこうの」などといったメールが届いても全て削除している。
アドレスのアットマークの後ろにある文字を見れば、おかしいものは大体分かる。

総務省 「国民のためのサイバーセキュリテイサイト」には「一般利用者の対策」が懇切丁寧に載っているので勉強するのも良いだろう。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/cybersecurity/kokumin/enduser/enduser_security02_05.html

 


 


 大江戸講談『助六』の一席


 吉原ぞめき

 


 吉原は見るも法楽、してみて極楽。
なにをするのかよく判りませんが、大変結構な所だったそうで、大門[おおもん]を入りますと左右に綺麗なお店が並び、着飾った天女みたいな女の人が口を揃え、
たとえ見ず知らずでも親しそうに、
「ちょっと、ねえってば、いらっしゃいましな」「よっておくんなまし‥‥」
と声をかけてよんでくれます。だから俗に「ぞめき」とか「ひやかし」と申すてあいは、別に登楼する気はなくてもご婦人からこう呼ばれたいばっかりに、なか(仲之町‥‥吉原)へくりこんだそうでございます。

さて普通は、「ちょっと姿のいい方」とか、「ねぇ旦那」ぐらいのものですが、突如としてパトカーの集まってきてサイレンのごとく、「‥‥スケさん」「スケさまえ‥‥」と、けたたましい呼声。
 と申しましてもスケといってスケベェというのではありません。なにしろこういう所へお越しになる殿方で、そうでない方はあまり居らっしゃいません。

だから助は助でもそうではなく、呼ばれたのは花川戸の助六。
「人間手を真っ黒にして働かなくちゃいけねぇよ」と、つね日頃、馬方やその取締りにあたる子分衆にも口癖に言っていましたから、人よんで黒手組ともいわれるシンジケートのボスなのです。

背に尺八をさし子分を従えて入ってくるのを見かけると、オイラン達は失神しそうにシビれてしまって、「スケさん」「スケソウダラ」などと感激の言葉を投げかけ手にしている長煙管(ながきせる)を、
みな連子(れんじ)窓からさしだし、「ぬしさん一服つけていってくんなまし」と、しきりと間接キッスを求める有様。

 これはフロイトさんとおっしゃる方の学説によりますと、女性がロングなものを異性の肉体の一部へ挿入させたがるのは、自分自身がそうして欲しい願望の現れだそうでございますが、
これが一本や二本ではない。長煙管の雨がふるようだというんですから、相当やにくさかったことでございましょう。

 しかし助六は、そうした女達には目もくれず三浦屋めざして一直線。すると若衆がとんで出迎えるようにして、
「これは親分さん、いらっしゃいまし、揚巻さんえ」と声をかけますと、やりて婆とよばれるのが、「おいらんがお待ちかねですよ」いそいそ迎える。

すると助六は懐から金を出し、ついてきた子分達にも気前よく、「おめぇらも何処かでしっぽり濡れてきな」と渡します。
 しかし、子分達には煙管の雨もふってきませんから、なかなか濡れよう筈はありません。しかしそういっても場所が場所です。
「どうせ遊ぶんなら気に入ったのを、選ぼうじゃないか」ぞろぞろと連れ立って、ひやかして歩きますが、なかなか眼うつりして、さてどの女ともきめかね、やれ丸顔がいいの長いのが好きだのと、
みんなで御託を並べるもんですからきまりません。
 そこで行きつ戻りつ、戻りつ行きつして居りますと、「みて見ねぇ。まるで野良犬みたいにほっつき廻っているのは花川戸の助六の所の子分どもじゃねぇか。
助六が三浦屋へあがって温っていやがるってぇのに、あいつらめきょろきょろ何か落っこっちゃあいねぇかと、ほっつき廻っていやぁがる」と、聞こえよがしに悪口をつかれ、「なにをいってやぁがんでぇ。てめぇらみたいに女ならどんなんでも結構だと、股倉急ぎしゃあがる唐変木とは、こっちとらは違うんだ。

まず顔を吟味、下の具合もとっくり観相の上であがろうと、それで悠々としてるんだぁ」とやり返しますと、先方の一団は、
「きいた風なことを抜かしゃがるな。われら神田紺屋町で刀術を教えていなさる鳥居忠左衛門先生の高弟で、人にも知られた狐の勘次」「おりゃあ、一刀流免許の狸の太郎」それぞれ口々に喚きまして、
「おれたちに楯をつきゃあがると、どんな目にあうか、てめぇらだって知っていようが」と、くってかかる有様。そうしておいて、「やい、申し訳ありません、済んませんと土下座してあやまりゃあがれ」と言いたい放題。
「ううん‥‥」と、これには助六の子分一同、相手が悪いと互いに顔を見合わせました。
 

 と申しますのは、幕末まで町道場などが、さもあちらこちらに有ったように伝わっていますが、あれはみな作り話で、そうしたものは小唄や踊りの稽古場みたいに、やたら有った、というものではございません。
 なにしろ、お上が十手に六尺棒だけで治安を取締まろうというのに、民間の者がヤアヤアお面小手などという斬り合いの物騒な稽古など、お膝元の江戸では許される筈などありません。

これは当今でも何処かでゲバ棒道場や、火焔瓶投擲(とうてき)練習場など民間人の手で作れないのと同じことでございましょう。つまり道場と名のれるのは、地方では、御関所や代官所の御用を託されているのか、
ご府内にあっては南北町奉行の御用をうけたまわって捕方に棒術を教えるところと決っていました。
 それゆえ、そこの門弟といがみあっては、
(背後には町奉行所の目があるから、どんな仕返しをされるか判らない)
後の祟りがうるさかろうと、ふだんは喧嘩っ早い花川戸の子分たちも、うんうん困って居りますと、このとき天の助けか、
「尺八を背にさしたあんしゃんたち‥‥この前、おまえたちを尺八してあげんしたは、わちきたちでありんせんかえ。
店を忘れなんして、まごまごしていなしたのかえ」と、てまえの店から女郎たちがとんで出てきて引っ張りこんだ。これにはあっけにとられ、狐の勘次も、
「まんまと、とんびに油あげをさらわれた」「これを汐に花川戸の一家を叩き潰そうと思うたに、とんだところへ邪魔が入った」
と鳥居忠左衛門の他の門弟共は口惜しがりました。
はい。江戸の侠客花川戸助六の一席でございました。お後がよろしいようで。

神君徳川家康

私は「天皇教」


 徳川三百年の間に、家康は「神君」扱いされてしまったが、伝説のように、「松平蔵人元康」が改姓名して「徳川家康」になったのではない。
 築山御前とよぶ今川の一門瀬名氏の娘をめとり、阿亀、阿鶴の姫たちや岡崎三郎信康をつくった蔵人元康と家康とは全くの別人なのである。
 もし家康が彼らの父だったら、まだ十九歳で、すでに三人の子持ちになっていたことになる。長女の阿亀は十三歳の時の子だから、十二歳で作ったことになるが、それではいくら早熟でも早すぎる。
 また徳川の発祥の地が三河岡崎だったら、明治維新のときに、新政府から命は助けられ(汝、祖先の地へ戻るべし)と戻される際も、三河へやられるべきなのに、駿府へと十六代家達公は戻されている。

その証拠に、将軍家光の頃の寛永年間に鋳造された駿州府城時鐘銘には、これまたはっきりと、
「駿河遠江は、東照大権現の生れさせ給うた地にして」とでているし、現在の静岡市伝馬町に今もある華陽院には、

「自分は十五歳まで当地にいたが永禄三年の桶狭間合戦によって、遠州浜松で義軍の旗上げをして成功し、今日の徳川家康になることができた」といった意味の自筆の額が戦前までは、堂々と掛けられていた。
これでは松平元康が家康ではないことになる。
 つまり家康が、築山御前や岡崎三郎信康を、あっさり信長の命令として殺してしまえたのも、肉親でもなんでもないからであり、またそうすることによって三州岡崎の領地が、そっくり己が物になって儲かるからの処分らしい。
 なにしろ、家康に一番こき使われた三河武士が、江戸時代になってから、大名は一人も居なく、みな旗本や下っ端のミー御家人にしかして貰えなかったのも、謀叛を用心してのせいだろう。
 つまり講談のようなものでは、判りやすく家康個人のバイタリティで天下をとったように説明するが、実際はそうではなく、今の選挙と同じで組織票をつかむつかまぬかの問題があったらしい。
仏法僧で有名な蓬莱寺にいたサルメとよばれる歩きミコの集団が、「家康は薬師如来十二神将の生れ変りだ」と口コミで薬師信者の許を宣伝して廻ったのは有名な話である。

戦国時代はこの神徒系と仏教系の争いが激しく、上杉謙信とされる長尾阿虎の父の長尾為景の頃までは、越中の一向宗道場は勢力が強かった。
だから「続群書類従」の合戦部の「加越争乱記」には、「それ仏法は、武士の怨念の仇敵なり」とあるが、謙信は越中の一向宗の寺を片っ端しから毀しにかかった。
そこで一向宗本願寺の本山は、上杉勢を食いとめるために漣如上人の義妹を武田信玄へ嫁にやり、持参金の恰好で次々と軍費を送りんだ。
長尾の勢力を怖れ阻止する為に、仏教側での高僧の位「大僧正」の次の「権大僧正」の位まで送った。
だから本願寺の説教僧は「武田のゴンソジョ鬼より怖い、とどっと来ればどどっと斬る」と近隣に触れ回り、武田軍の宣伝をしたため、武田軍団は大いに恐れられた。
これが転化され、江戸期になると、ヤクザの親分、武井のドモ安が旅人を捕まえては殺すため、「武井のドモ安鬼より怖い。とどっとどもれば人を斬る」と唄われたほどである。

酒井雅楽頭の先祖である酒井浄賢坊も、駿府の(鐘打ち七変化)とよばれる部落の出身で、家康創業の功臣なのである。
 さて、この七変化という村里は、修験者が鉦を叩いて銭貰いをしたり、鋳かけ直し、茶の湯の茶筅売り、履物直しといった職業を部落ごとで変化して営む集団だった。
つまり原住系のかたまって住んでいた部落である。
 家康もこうした所の出身なので、のち掃部頭を代々名乗る井伊とか、伊勢白子浦出身の榊原、伊賀者の服部半蔵たちが協力して原住系の総力をあげ、ついに天下をとったのである。
 中でも酒井浄賢坊は家康にとっては無二の親友であり随一の功臣なので、三州吉田(いまの豊橋)をとった時も、まっ先に彼を城主にした程である。
しかし徳川の世も三代家光の頃から変ってきて、修験や薬師系に代って次第に仏教の勢力が、またもり返してきた。
 酒井や水戸光圀が、綱吉の四代将軍に反対したのはその生母側室「お玉の方」が朝鮮済州島だったせいなのである。
家康、秀忠、家光と原住民の血が続いた徳川家に、外来の血が混じることに危機感を覚えたのである。
だが、酒井と光圀を粛清し、邪魔者がいなくなると将軍はまず音羽の護国寺を建立している。
「江戸の名物、三河屋、稲荷に犬の糞」といわれるほどだった。

家康は荒川の三河島から多く同族を旗本や御家人に取りたてたが、武士になれなかった者は商人になり、三河屋の「屋号」をつけた。太古には異也、即ち仏教と異なる原住民信仰を区別して称したが江戸期になると「稲荷」と変え字して江戸の庶民の大半が海洋渡来系は赤色、騎馬系は白(無色)の鳥居の社だらけで、現在も多い。
野犬が多く、道路、空き地は糞だらけだったが、この野犬を捕殺して皮剥ぎをしていたのが酒井一族だった。
あまり知られていないが、家康が江戸入部の頃は寺が一軒も無かったのである。

無宗教の多い日本

 さて酒井一族のような原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰えなかった。そこで、動物の皮はぎの仕事を奪ってしまうということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、「生類憐れみの令」というのを発布した。
 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他はない。このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人に侮られるような極貧階級に転落してしまった。

 が、それでも追求の手は休められず、これまで茶筅や竹柄杓などを作っていたササラ衆をも圧迫するため、千宗易直系のいわゆる表千家の統率力を弱めようと、
「千宗室」をもって今日の裏千家を、公儀が後押しして始めさせたのも、この時点にあたる。現在も裏千家の方が隆盛なのは、この時権力が保護した名残である。
さて元禄十一年の大火の折の大虐殺に端を発したのが、三年後の松の廊下事件であり、翌年は赤穂浪士のゲバ騒ぎにまで発展した。
塩田というのはアマとよばれる原住系の限定職業だったのを、吉良家が手をのばし、反発されたのが事の起こりというのは合っているが、通説の忠臣蔵はあれは芝居であり、浪花節でしかない。
本当は柳沢大老の贋金造りに加担した吉良の裏切りに、口封じに田舎大名の浅野を騙し、刃傷事件を起こし吉良を「抜刀罪」で処分しようとしたのが真相。
 当ブログには、家光、綱吉、柳沢吉保、吉良上野、浅野内匠頭、の詳細が在るので、興味のある方は検索して読んで貰いたい。

さて治安維持と仏教政策のために、神仏混合令が赤穂事件のあと断行された。
 しかし、この真相は秘密のままだから、現代でも京都市立芸大某教授のごときは、
「諏訪明神や宇佐八幡、丹生郡比売神といった神々が揃って『人間と同じ神も煩悩をもつ衆生であるから、仏法をきいて喜び、仏道に入って仏を守護したい』と神宣を出されたのが、この神仏混合の原因であった」などと説く。
まるで何も知らぬとはこれまた愉快なもので、神さまがボンノウに悩まされてなどと、あまりにも人間臭いことを平気で書いている。こんな阿保丸出しの助教授では学生も可哀想だ。
 さて、この神仏混合は、やがて明治政府が天皇さまの神権的権威の確立の目的のために、分離政策をとってしまい、いわゆる、「廃仏毀釈」の世となった。さて、ここで注釈がいるが、
歴史家とか大衆作家の書く、「神仏を念じ」といった戦国時代の武将像はみなデフォルメである。『加越闘争記』にも、「仏法は武門の敵にして、仏門はわれらの悪魔なり、うち滅しやまむ」とあるように、
信長の時代までは、坊主と武者は仇敵同士だったのが真実である。
 

中世期のヨーロッパが宗教戦争の時代だったように日本でも、御幣を振り、榊を立てる武将と、数珠をまさぐる僧兵とは戦にあけくれしていた。だから、くそとみそをごったにするような神仏を共に拝むなどというのは、創価学会の信者が教会で洗礼をうけるみたいなばかばかしいミステイクである。

また話は戻るが吉良上野の実子で上杉へ養子にいった義英が、高野山は女人禁制ゆえやむなく、今日伝わるオッサン姿の謙信像を画かせ、真言宗の高野山に納めた。
だがそれは、(元禄十五年事件のとばっちりで、先祖の百万石が米沢転封で三十万石に減ったのが、またしても十五万石になったので、なんとかして、あの世から守ってほしい)と、
家老の一色を代参させた時なのである。つまり空想の画でしかなかった。
 
 高野山の無量光院が、上杉家と縁ができたのは、この元禄癸未の年つまり討入りの翌元禄十六年からの事であり、それまでの無量光院は、三河吉良氏の代々菩提寺だったのである。
 真言宗と謙信の結びつきは、確定資料においてはその死語一世紀半後のことだったのである。
 さて、元禄時代に、強制的に神社は仏寺の下へ入れられてしまい、明治になると(正確には慶応四年三月)また分離して、神と仏は別個にされ、それまで拝んでいた仏像が薪にされてしまう有様では、日本人の信仰心も薄れてしまうのが当然である。
そこで今は、
「生れるまでの安産、そして七五三。ついでに交通安全、家内安全」までが神さまの係。
「死んで火葬になってからのアフターサービス。つまり一周忌、何年忌」がお寺さんの係と「分業宗教体制」になっていて、寺はこの他アルバイトに幼稚園や貸しガレージ、ラブホテルの経営までもしている。
これでは「あなたの宗教は」ときかれても、首をふる日本人が多いのは仕方がない。

しかし私は「神道」や「仏教」の信仰は薄れても、「天皇教」といったものは有ると信ずる。
 私のような戦中派育ちは、かつて陛下の御為に死のうと心に誓っている。男は一度こうと誓ったものを時代の流れでは変えられぬ。だから、それを宗教だと思いこみスペインへ行っていた時も、聞かれるとそう答えたから向こうの王政復古の若い連中におおいにもてたものである。
 

ヨーロッパでの鉄砲の発達史


ガラパゴス状態の日本の火縄銃


1600年から1800年のヨーロッパで起きた主な戦争は代表的な30年戦争や100年戦争と100以上の戦争が在り、まさに「戦乱の歴史」と言っていい。
15世紀に火縄銃がヨーロッパで発明され、特にドイツで発展したが、18世紀になると雷管や施条式銃などの開発が進み、銃の性能が大幅に向上した。
其の後フランスやイギリスで軍用弾薬の高い圧力にも耐えられるセンターファイアー・カートリッジが開発され、これが弾薬の主流となった。これらの発展により、鉄砲は戦争の形態をも大きく変え、現代の銃器の原型となったのである。

 一方日本での鉄砲の発達はガラパゴス状態が300年近くも続き火縄銃から一歩も前進しなかった。
これは鎖国や幕藩体制による鉄炮鍛冶の保護と統制による影響と言われているが、西洋の集団で弾幕射撃を行う用法とは異なり、狙撃型の用法が主で命中率を重視した日本においては、引き金を引いてから弾が発射されるまでにタイムラグのある燧石式銃は好まれなかったとする説もある。また、燧石式銃に必要な良質の火打ち石が国内で採れなかったことによるという説もある。

しかし一番大きな理由は、鎖国令の後、火薬輸入を徳川幕府が一手に握り、大名の反乱ができなかったため、国内に戦争が起きなかったからである。
島原の乱を「切支丹の反乱」と政治的発表した徳川幕府は、伊達藩の倒幕運動も「伊達騒動」として国内の反体制運動を収めた。
その後、由井正雪、別木庄左衛門事変も倒幕運動で、大阪天満と、江戸城西丸の火薬貯蔵庫の掌握に失敗し、密告を受け倒幕戦争には至らなかった。

「武器の発展は戦争需要による」というが、日本はまさに銃の冬眠状態だったのである。
戦がないため、刀、槍、傷、銃弾による銃創の治療法も全く発展しなかった事実もむべなるかなである。ヨーロッパでは、戦禍の巷からの負傷者が猖獗を極め、壊疽を防ぐため手足の切断手術、弾丸摘出手術、消毒技術など外科医学が大いに発達した。
現在のウクライナ戦争でも兵士の最大の死亡原因は失血死が全てとして、携帯式輸血装置まで開発して兵の命を救っている。

日本では、公儀語御典医で明治になって初代軍医総監になった松本良順の日記でも、江戸で脈を取る「本道」とよぶ内科医は、将軍から扶持を頂く御典医4名だけとある。江戸八百八町といっても、脈を取る本道は、御典医の他は居なくて、
後はサカキに白い紙片をぶら下げた拝み屋さんだけで、江戸二百万人の病気は彼らの加持祈祷だけだった。
大麻の粉末を燃やして煙を吸わせ、痛みを忘れさせて礼金を取るのだから自分の方へ煙が来て、それを吸っては商売が出来ない。
そのため己の方へ煙が流れてこないように、白紙をぶら下げた榊の枝を懸命に振っていたのにすぎない。外科、つまり「外道」と呼ばれるのはいなかったのが実態。
 
  
 江戸以東でも同じで「金創」つまり刀傷の手当てなどが判る医者は一人も居なく維新後軍医総監になった松本良順は、
「ある土地では傷口を温め、別の土地では逆に冷やして、消毒薬も無く、維新戦争の戦死者は大半が手当ての判らぬ為の失血死」であったとも、書き残している。
ここから見える歴史の真実は、武士は全員刀を差していて、やくざや町人でも私刀は持てたとはいえ「需要が供給を惹起する」というごとく、江戸時代は斬り合いが無く、従って斬り傷治療の外科的医療が発達しなかったのである。

ヨーロッパの鉄砲発達史

ヨーロッパでは16世紀になると、騎兵向けの軽量銃器として拳銃(ピストレット)や騎兵銃(カービン銃)など用途に適した形式の銃も出現するようになった。
しかしマッチロックは火のついた火縄を持ち歩く必要があり、火縄の臭いで敵に気づかれたり、雨や雪で火が消えるなど欠点が多かった。これらの欠点の克服のため、
1525年頃にドイツもしくはオランダで誕生したスナップハンス式に代表される火打石と鋼のやすりを擦り合わせて発火させる方式が開発されるようになった。


フリントロック式の拳銃
17世紀初頭にはフランスでスナップハンス式を改良したフリントロック式が開発されて、やすりの下端が点火孔の外側に装填された補助点火火薬を保護する蓋を兼用するようになった。
これによりもはや火縄を持ち歩く必要は無くなり、天候に左右されにくくなった。ヨーロッパ各国は競ってフリントロック銃を軍用銃とした。フリントロック式は信頼性が高く、2世紀もの間使用され続け、
その間様々な改良や試作が行われた。またフリントロック式の軍用銃には、歩兵用の長いマスケット銃、それよりやや短く軽量のドラグーン、騎兵用の短いカービン銃、片手で射撃できる小型のピストルなど用途別に様々なものが使用された。


パーカッションロック式の拳銃
19世紀初頭にヨーロッパでパーカッションロック式(管打式・雷管式撃発装置)の発火方式が、フリントロックに代わるものとして開発された。これは水銀系の雷汞という火薬を発火に使用するものだった。
フリントロックと違って、補助点火火薬の装填の必要もなく、発射後再装填がすばやく行え、空気中の湿気の銃身内の火薬の保護にも優れていた。
18世紀中頃以降には、ヨーロッパ諸国は従来のフリントロックを改造した物か、パーカッションロック式を軍用銃として採用するようになった。
金属加工技術に優れるドイツでは、古くから銃身内に螺旋溝(ライフリング)を刻み、弾丸に回転を加えて命中精度を高めた「イェーガー・ブクセ(狩猟銃)」が狙撃兵に支給されていた。
他のヨーロッパ諸国もパーカッションロック銃の時代になると、銃身内に螺旋溝を刻むようになり、命中精度が向上した。英語でマスケットと呼ばれていた歩兵用小銃がライフルと呼び変えられた語源はこれである。
一方、騎兵用の短い銃は、単発銃の時代に発射後にフックで吊るして戦闘を続けたため、ドイツ語でフックを意味する「カラビナー」から英語に転化されカービンと呼ばれるようになった。

だが、19世紀以後のヨーロッパにおける雷管や施条式銃などの開発が、こうした弱点を徐々に解決しつつあり、幕末の開国以後には急速に西洋式の銃に取って代わられた。
明治維新以後は火縄銃は完全に使われなくなり、長年の保護と職人としての意識に支えられた鉄炮鍛冶の多くは新式銃への転換を拒み廃業を余儀なくされた。
89式5.56mm小銃


その後も村田銃の開発など銃の国産化への努力が図られ、三十年式歩兵銃を日露戦争の戦訓を得て改良した三八式歩兵銃で列強に互する水準に至った。
第一次世界大戦には各国で小銃の装填を自動化して連射を可能とする自動小銃の開発が行われたが、日本では高価で弾薬消費量も多いことが問題とされ進展しなかった。
太平洋戦争開戦後に米軍のM1ガーランドの威力を見て再び自動小銃の開発が図られたものの進展は遅く、1944 年には四式自動小銃が形になりつつあったが、量産の余力はなく、既存小銃の生産に全力をあげることとして実用化には至らなかった。

結果的に、太平洋戦争を通して20世紀初期に開発されたボルトアクションライフルである三八式歩兵銃とその発展型である九九式小銃が用いられた。他の列強諸国でも大戦を通して、依然として三八式歩兵銃と同世代のボルトアクションライフルが用いられた。しかし、自動小銃を開発する試みは盛んで、ソ連のSVT-40やドイツのGew43等が実用化されたが生産数は多くなく、自動小銃を満足に供給できたのは米軍くらいであった。
戦後の一時期は米国供与の米国製小銃が使用されたが、現在、自衛隊や海上保安庁等においては、国産小銃である六四式7.62mm小銃、89式5.56mm小銃が使われている。

明治維新と鉄砲の関係
 
アメリカの南北戦争が維新の引き金になった
さて、火縄銃から一歩も発展せず、戦乱の無かった日本国に、列強が開国を迫りここに最新鉄砲が輸入され日本は南北戦争へと突入した。これを「維新戦争」という。
この戦争をグローバルな視点からの明治維新を考えてみる必要が在る。
何故なら現在も「戦争をさせたい国」「武器を売りたい国(組織)」が、過去アフリカ、南米、中東の内戦、を作り出し、今のウクライナ、イスラエルガザ侵攻に繋がっている。
それが幕末この日本で起こったのである。
 まず幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の(神の民)が、その蓄積した金融資本に よって、政治体制を変革する目的で始めたものが、終局において薩長の西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。
そしてこの原因はアメリカだった。『アメリカ建国史』によると、
  

「一八六五年、つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終結すると北軍は押収した南軍の武器弾薬が、密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、
アパッチ族を始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルドジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ、輸出する断固たる政策をとった。
 そこで この夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天積み同様に山積される状況を呈した」
  長崎へ行くと「歌劇お蝶婦人の遺跡」だと、尤もらしく案内されるグラバー邸があるが、この英人グラバーこそ、米国払い下げの上海の南軍の銃を、薩長に売りつけて大儲けした元凶なのである。
  さて、その英国が一八一五年のウィーン会議で占領したケープ地帯から追われ、 トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男がいた。
  当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、
 

反英精神にこり固まったスネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであった米国南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。
  大倉喜八郎が神田和泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。
  やがてスネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器輸送をした。
双方にアメリカ南軍の廃銃がゆき渡り、それまで徳川家だけが独占輸入していた火薬も、グラバーやスネルによって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めたのである。
  
 だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍の方が勝利を得た。
この結果、スネルは当時のアメリカ大統領グラントにこの責任をとり、 カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送りこんだのが「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まであった。
  しかしアメリカさえ南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることなく、従って幕末戦争の惨禍は無かったのである。
  勿論歴史にIFはないが、想えばまこと、怨めしい話しである。

維新の動乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組、 細谷十太夫といったように、個人的武勇伝ばかりが現時点では流布されているが、この日本南北戦争の実相は、これまで公表されていないが「偽金作りの戦争」だったのである。
  何しろかってのベトナム戦争では、南ベトナム政府軍に米国が武器供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中国やソ連が兵器を送荷するのも贈与援助だったろうがこの当時は違っていた。
  照準も合わないようなシャーピス銃やミゲール銃を寄越しておいて、アメリカ人は仲買人のグラバーやスネルから、どんどん代金を巻き上げた。
(もう百五十年 遅く国内の南北戦争を始めたら、ベトナム政府軍と解放軍の戦いみたいに双方とも、新鋭兵器がロハで貰えたのに、等と考えてはいけない・・・・アメリカは
終戦後だって、無料だと家畜飼料の古いメリケン粉や脱脂乳をガリオア資金でよこしながら、後になると、当時の吉田茂首相を苛めて、その代金を日本国民の税金で徴集した。
  つまり廃物を押しつけて日本からゼニを取るのはアメリカの伝統商売らしい)

さて、この結果、正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというと先ず「会津事情」掲載の、
「会津宰相にあげたたきものは、白木三方に九寸五分」という東北地方の俚謡を紹介する。
「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」と、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが、
  『会津戊辰戦争』によって調べると、
「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延して三等分し、
  これを二分金の鋳型に入れて金めっきをなした。だから一分銀が六倍の一両二分になり、制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。
  尚私に製造したいと出願する者には、一割の運上金とって、これを公許した。
このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた」とある。東北人が殿様に責任を取って腹を切れと、激昂したのが本当の話らしい。
  これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、薩摩は堂々と偽貨をこしらえ、「官武通紀」第八巻にも、
  「薩州鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳のものを製造し、中川宮、近衛家をもって京摂の地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知恵者揃いのようである。

  つまり、この戦争の実相たるや(グレシャムの法則)により勝敗がついたのである。
というのは、南軍は(琉球通宝)どころか「維新史料」によると、三岡公正の献策とことわって(引換一切これなく候)と、堂々と明記した紙幣を、四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。
北軍の会津では、お城の櫓でトッテンカンと一分銀をたたき延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼をやくように金を被せ、これを油で揚げて固めた。
  だから明治、大正まで金めっきの事を「てんぷら」といった。しかし何しろこの「てんぷら」の方は、四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である。
  まるで偽金作りのスケールが違いすぎる。それにどっちも偽金とはいえ、銀の入っている天ぷら金のほうより紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、
  「悪貨は良貨を駆逐する」の定義により、金めっきよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。これによって国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語につきる。酷い話しである。
 

役立たずの『地方議員』は廃止せよ!!(再掲載)

下の表は私の住む北海道の地方議員の給料一覧である。上位から二十位までを抜き出してみた。ろくな仕事もしてないのに、この高額なのである。

この他に、使い放題の「文書交際費」が国会議員の真似をして月額数十万も入る。

「上のなすこと下も真似る」で全くろくなことを真似ない輩である。これでは全く美味しい仕事で辞められない。
さらに道議会議員はさらに高額で、選挙の際「道議会議員庁舎を新設します」と公約を掲げたものは一人もいなかった。
にもかかわらず当選したらシレッとして、二百億円もする議会新庁舎を作っている。


そして自民党のジジイ議員は「喫煙室を造れ」と、このご時世に勝手な熱を吹いている。議会と対立を恐れる弱腰の鈴木知事は反対のポーズだけは示したが、結局室内喫煙所設置を容認した。

私も煙草は吸うが、外で「携帯灰皿」持参で人中では吸わない。爺さん連中、吸いたければ「外で吸え」と知事が言えばよい。
こういう道義や市議の特権を取り上げ、その予算を福祉政策や住民サービスに回すべきではないか。全国規模で断行すれば十兆単位の金が浮く。
これは国会議員にも当てはまり、二院制を廃止し、議員は200人で沢山。
選挙制度も改革し、質の悪い議員や、世襲議員の廃止も視野に、大改革を断行すべきである。
さて、いま地方議員のなり手不足が深刻化しているという。総務省「地方議会・議員に関する研究会」の報告書によると、前回(2015年)の統一地方選における無投票当選者数の割合は、都道府県議選が21.9%で過去最高となり、町村議選が21.8%で過去2番目に高かった。

 朝日新聞のアンケートでは、全国の都道府県・市区町村1788議会のうち、議員のなり手不足が「課題」と答えた議会は38%の678議会に上った。
また、日本経済新聞(1月28日付)は、過疎化や高齢化に直面する小規模自治体の議会選挙では立候補者が定数に届かない定数割れが頻発し、補選でも立候補者がゼロという事態が出始めた、と報じている。

 このため、無投票や定数割れを避けようと、定数を減らす動きや議員報酬を増やす動きが出ている。
さらに、自治体との請負契約がある企業役員との兼業や公務員との兼職を禁じる地方自治法の規定が立候補を阻む一因として、緩和を求める声が高まっているという。
 だが、この問題はゼロベースで考えるべきである。すなわち、なり手不足の問題以前に「そもそも地方議会は必要なのか?」と問うべきだと思うのだ。

日本の場合、地方議会にはたいした役割がないのが現状である。
普通、議会は法律を作るところだが、日本の地方議会は法律を作れない。憲法第8章「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、
法律の範囲内で条例を制定することができる」(第94条)により、国が定めた法律の範囲内で、地域の問題や実情に沿った「条例」を作ることしかできないのだ。
つまり、立法府ではなく「条例府」なのである。


 そういう極めて限られた裁量権しかないのだから、その仕事はさほど意味がないし、面白くもない。だから過去に地方自治体で議会と行政府が対立したケースは、
首長の失言、不倫、パワハラ、セクハラ、不適切な公用車の利用や飲食費などの支出といった低俗な問題ばかりで、条例の立案や制定でもめたという話は寡聞にして知らない。
 結局、地方議会で議論されている問題の多くは、土木、建設、電気工事などをはじめとする公共事業に関するもので、平たく言えば、そこに予算をいくらつけるか、
ということである。このため、多くの議員がその利権にまみれることになり、行政府の職員は、そういう議員たちの“急所”を握って利権を配分している。
自分たちの仕事や首長が提案する予算案、条例案にいちゃもんをつけさせないためである。
 その結果、議会は行政府の意向通りに運営され、どこの地方自治体でも議員提案の条例案は極めて少なく、その一方で首長提案の議案はほとんどすべて原案通り可決されている。
 つまり、地方自治体は事実上、首長と役人が運営しているわけで、地方議会は政策提案機能はもとより、行政府に対するチェック機能さえ持ち合わせていないのだ。


以下に私の私的体験を記しておく。
数年前、北海道の中核都市の市会議員の選挙参謀を(浮世の義理で請われた)したことがある。全国的に名の知れた労組の「組織内候補」だったが、その市では400票で当選できた楽な選挙だった。
その男は当選後、何をしていたかと言えば、労組の事務所へ毎日通い、組合員の面倒を見て、市議会にはめったに出ない。
そして、市議の特権で市役所の土木課から「市内道路工事予定書」を入手し、工事場所に出向いては「市議の〇〇ですが、この区画の工事をやらせてますのでお騒がせしますがよろしく」と、あたかも、自分の力で工事をやらせている如く顔を売って歩いていた。

これは、この男と一杯飲んだ時の彼の話である。組織内候補は一期四年で、次の候補に順繰り市議の座を譲る決まりなのである。
だから彼は「こんな美味しい仕事を一期で辞めたくない」従って、組織票を頼らずとも、二期、三期と市議を続けるため、架空の実績づくりを考えたわけである。こんなパフォーマンスに騙される市民も結構いて、彼は三期も続けて市議をやり、年金資格を付けて現在は悠々自適で老後を謳歌している。
上は国会議員から、下は村会議員まで、こんな国民の生き血を吸って楽な生活をしている人間をのさばらせては国が亡ぶ。
だから、こんな地方議会は文字通り“無用の長物”であり、税金の無駄以外の何物でもない。

 地方議会に代わる仕組みを作るとすれば、住民代表によるオンブズマン(行政監察官)機関だ。地方自治体は首長と役人がいれば運営できるわけだから、行政府がきちんと仕事をしているかどうか、
“悪さ”をしていないかどうかを第三者が監視する機能さえあればよいのである。そのメンバーは、裁判員制度のように住民がランダム抽選の輪番制・日当制で務めればよい。
希望者を募ると、手を挙げるのは利権絡みの人間ばかりになってしまうからだ。
 総務省の研究会も昨年、よく似た新たな地方議会制度の仕組みを提言している。少数の専業議員と裁判員のように無作為で選ばれた住民で構成する「集中専門型議会」というもので、
そのほかに兼業・兼職議員中心の「多数参画型議会」と現行制度の三つから選択可能にする。現行制度を維持するか、新制度のいずれを選ぶかは自治体の判断に委ね、条例で定めるようにするという内容だ。
しかし、この提言が実現したとしても、地方議員が自分たちの“失業”につながる「集中専門型議会」の選択に賛成するはずがないだろう。
本来、私が提唱している道州制であれば、それぞれの道州に立法権があるから、地方に根ざした問題への対応策は独自の法律を作って自分たちで決めることができる。
各地方が中央集権の軛から脱し、世界中から人、企業、カネ、情報を呼び込んで繁栄するための仕掛けを作ることも可能になる。地方議員選挙では無投票や定員割れが起きた地方自治体は、改めて議会の存在意義を問うべきである。