神君徳川家康 私は「天皇教」 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

神君徳川家康

私は「天皇教」


 徳川三百年の間に、家康は「神君」扱いされてしまったが、伝説のように、「松平蔵人元康」が改姓名して「徳川家康」になったのではない。
 築山御前とよぶ今川の一門瀬名氏の娘をめとり、阿亀、阿鶴の姫たちや岡崎三郎信康をつくった蔵人元康と家康とは全くの別人なのである。
 もし家康が彼らの父だったら、まだ十九歳で、すでに三人の子持ちになっていたことになる。長女の阿亀は十三歳の時の子だから、十二歳で作ったことになるが、それではいくら早熟でも早すぎる。
 また徳川の発祥の地が三河岡崎だったら、明治維新のときに、新政府から命は助けられ(汝、祖先の地へ戻るべし)と戻される際も、三河へやられるべきなのに、駿府へと十六代家達公は戻されている。

その証拠に、将軍家光の頃の寛永年間に鋳造された駿州府城時鐘銘には、これまたはっきりと、
「駿河遠江は、東照大権現の生れさせ給うた地にして」とでているし、現在の静岡市伝馬町に今もある華陽院には、

「自分は十五歳まで当地にいたが永禄三年の桶狭間合戦によって、遠州浜松で義軍の旗上げをして成功し、今日の徳川家康になることができた」といった意味の自筆の額が戦前までは、堂々と掛けられていた。
これでは松平元康が家康ではないことになる。
 つまり家康が、築山御前や岡崎三郎信康を、あっさり信長の命令として殺してしまえたのも、肉親でもなんでもないからであり、またそうすることによって三州岡崎の領地が、そっくり己が物になって儲かるからの処分らしい。
 なにしろ、家康に一番こき使われた三河武士が、江戸時代になってから、大名は一人も居なく、みな旗本や下っ端のミー御家人にしかして貰えなかったのも、謀叛を用心してのせいだろう。
 つまり講談のようなものでは、判りやすく家康個人のバイタリティで天下をとったように説明するが、実際はそうではなく、今の選挙と同じで組織票をつかむつかまぬかの問題があったらしい。
仏法僧で有名な蓬莱寺にいたサルメとよばれる歩きミコの集団が、「家康は薬師如来十二神将の生れ変りだ」と口コミで薬師信者の許を宣伝して廻ったのは有名な話である。

戦国時代はこの神徒系と仏教系の争いが激しく、上杉謙信とされる長尾阿虎の父の長尾為景の頃までは、越中の一向宗道場は勢力が強かった。
だから「続群書類従」の合戦部の「加越争乱記」には、「それ仏法は、武士の怨念の仇敵なり」とあるが、謙信は越中の一向宗の寺を片っ端しから毀しにかかった。
そこで一向宗本願寺の本山は、上杉勢を食いとめるために漣如上人の義妹を武田信玄へ嫁にやり、持参金の恰好で次々と軍費を送りんだ。
長尾の勢力を怖れ阻止する為に、仏教側での高僧の位「大僧正」の次の「権大僧正」の位まで送った。
だから本願寺の説教僧は「武田のゴンソジョ鬼より怖い、とどっと来ればどどっと斬る」と近隣に触れ回り、武田軍の宣伝をしたため、武田軍団は大いに恐れられた。
これが転化され、江戸期になると、ヤクザの親分、武井のドモ安が旅人を捕まえては殺すため、「武井のドモ安鬼より怖い。とどっとどもれば人を斬る」と唄われたほどである。

酒井雅楽頭の先祖である酒井浄賢坊も、駿府の(鐘打ち七変化)とよばれる部落の出身で、家康創業の功臣なのである。
 さて、この七変化という村里は、修験者が鉦を叩いて銭貰いをしたり、鋳かけ直し、茶の湯の茶筅売り、履物直しといった職業を部落ごとで変化して営む集団だった。
つまり原住系のかたまって住んでいた部落である。
 家康もこうした所の出身なので、のち掃部頭を代々名乗る井伊とか、伊勢白子浦出身の榊原、伊賀者の服部半蔵たちが協力して原住系の総力をあげ、ついに天下をとったのである。
 中でも酒井浄賢坊は家康にとっては無二の親友であり随一の功臣なので、三州吉田(いまの豊橋)をとった時も、まっ先に彼を城主にした程である。
しかし徳川の世も三代家光の頃から変ってきて、修験や薬師系に代って次第に仏教の勢力が、またもり返してきた。
 酒井や水戸光圀が、綱吉の四代将軍に反対したのはその生母側室「お玉の方」が朝鮮済州島だったせいなのである。
家康、秀忠、家光と原住民の血が続いた徳川家に、外来の血が混じることに危機感を覚えたのである。
だが、酒井と光圀を粛清し、邪魔者がいなくなると将軍はまず音羽の護国寺を建立している。
「江戸の名物、三河屋、稲荷に犬の糞」といわれるほどだった。

家康は荒川の三河島から多く同族を旗本や御家人に取りたてたが、武士になれなかった者は商人になり、三河屋の「屋号」をつけた。太古には異也、即ち仏教と異なる原住民信仰を区別して称したが江戸期になると「稲荷」と変え字して江戸の庶民の大半が海洋渡来系は赤色、騎馬系は白(無色)の鳥居の社だらけで、現在も多い。
野犬が多く、道路、空き地は糞だらけだったが、この野犬を捕殺して皮剥ぎをしていたのが酒井一族だった。
あまり知られていないが、家康が江戸入部の頃は寺が一軒も無かったのである。

無宗教の多い日本

 さて酒井一族のような原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰えなかった。そこで、動物の皮はぎの仕事を奪ってしまうということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、「生類憐れみの令」というのを発布した。
 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他はない。このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人に侮られるような極貧階級に転落してしまった。

 が、それでも追求の手は休められず、これまで茶筅や竹柄杓などを作っていたササラ衆をも圧迫するため、千宗易直系のいわゆる表千家の統率力を弱めようと、
「千宗室」をもって今日の裏千家を、公儀が後押しして始めさせたのも、この時点にあたる。現在も裏千家の方が隆盛なのは、この時権力が保護した名残である。
さて元禄十一年の大火の折の大虐殺に端を発したのが、三年後の松の廊下事件であり、翌年は赤穂浪士のゲバ騒ぎにまで発展した。
塩田というのはアマとよばれる原住系の限定職業だったのを、吉良家が手をのばし、反発されたのが事の起こりというのは合っているが、通説の忠臣蔵はあれは芝居であり、浪花節でしかない。
本当は柳沢大老の贋金造りに加担した吉良の裏切りに、口封じに田舎大名の浅野を騙し、刃傷事件を起こし吉良を「抜刀罪」で処分しようとしたのが真相。
 当ブログには、家光、綱吉、柳沢吉保、吉良上野、浅野内匠頭、の詳細が在るので、興味のある方は検索して読んで貰いたい。

さて治安維持と仏教政策のために、神仏混合令が赤穂事件のあと断行された。
 しかし、この真相は秘密のままだから、現代でも京都市立芸大某教授のごときは、
「諏訪明神や宇佐八幡、丹生郡比売神といった神々が揃って『人間と同じ神も煩悩をもつ衆生であるから、仏法をきいて喜び、仏道に入って仏を守護したい』と神宣を出されたのが、この神仏混合の原因であった」などと説く。
まるで何も知らぬとはこれまた愉快なもので、神さまがボンノウに悩まされてなどと、あまりにも人間臭いことを平気で書いている。こんな阿保丸出しの助教授では学生も可哀想だ。
 さて、この神仏混合は、やがて明治政府が天皇さまの神権的権威の確立の目的のために、分離政策をとってしまい、いわゆる、「廃仏毀釈」の世となった。さて、ここで注釈がいるが、
歴史家とか大衆作家の書く、「神仏を念じ」といった戦国時代の武将像はみなデフォルメである。『加越闘争記』にも、「仏法は武門の敵にして、仏門はわれらの悪魔なり、うち滅しやまむ」とあるように、
信長の時代までは、坊主と武者は仇敵同士だったのが真実である。
 

中世期のヨーロッパが宗教戦争の時代だったように日本でも、御幣を振り、榊を立てる武将と、数珠をまさぐる僧兵とは戦にあけくれしていた。だから、くそとみそをごったにするような神仏を共に拝むなどというのは、創価学会の信者が教会で洗礼をうけるみたいなばかばかしいミステイクである。

また話は戻るが吉良上野の実子で上杉へ養子にいった義英が、高野山は女人禁制ゆえやむなく、今日伝わるオッサン姿の謙信像を画かせ、真言宗の高野山に納めた。
だがそれは、(元禄十五年事件のとばっちりで、先祖の百万石が米沢転封で三十万石に減ったのが、またしても十五万石になったので、なんとかして、あの世から守ってほしい)と、
家老の一色を代参させた時なのである。つまり空想の画でしかなかった。
 
 高野山の無量光院が、上杉家と縁ができたのは、この元禄癸未の年つまり討入りの翌元禄十六年からの事であり、それまでの無量光院は、三河吉良氏の代々菩提寺だったのである。
 真言宗と謙信の結びつきは、確定資料においてはその死語一世紀半後のことだったのである。
 さて、元禄時代に、強制的に神社は仏寺の下へ入れられてしまい、明治になると(正確には慶応四年三月)また分離して、神と仏は別個にされ、それまで拝んでいた仏像が薪にされてしまう有様では、日本人の信仰心も薄れてしまうのが当然である。
そこで今は、
「生れるまでの安産、そして七五三。ついでに交通安全、家内安全」までが神さまの係。
「死んで火葬になってからのアフターサービス。つまり一周忌、何年忌」がお寺さんの係と「分業宗教体制」になっていて、寺はこの他アルバイトに幼稚園や貸しガレージ、ラブホテルの経営までもしている。
これでは「あなたの宗教は」ときかれても、首をふる日本人が多いのは仕方がない。

しかし私は「神道」や「仏教」の信仰は薄れても、「天皇教」といったものは有ると信ずる。
 私のような戦中派育ちは、かつて陛下の御為に死のうと心に誓っている。男は一度こうと誓ったものを時代の流れでは変えられぬ。だから、それを宗教だと思いこみスペインへ行っていた時も、聞かれるとそう答えたから向こうの王政復古の若い連中におおいにもてたものである。