大江戸講談『花川戸助六』の一席  吉原ぞめき | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


 大江戸講談『助六』の一席


 吉原ぞめき

 


 吉原は見るも法楽、してみて極楽。
なにをするのかよく判りませんが、大変結構な所だったそうで、大門[おおもん]を入りますと左右に綺麗なお店が並び、着飾った天女みたいな女の人が口を揃え、
たとえ見ず知らずでも親しそうに、
「ちょっと、ねえってば、いらっしゃいましな」「よっておくんなまし‥‥」
と声をかけてよんでくれます。だから俗に「ぞめき」とか「ひやかし」と申すてあいは、別に登楼する気はなくてもご婦人からこう呼ばれたいばっかりに、なか(仲之町‥‥吉原)へくりこんだそうでございます。

さて普通は、「ちょっと姿のいい方」とか、「ねぇ旦那」ぐらいのものですが、突如としてパトカーの集まってきてサイレンのごとく、「‥‥スケさん」「スケさまえ‥‥」と、けたたましい呼声。
 と申しましてもスケといってスケベェというのではありません。なにしろこういう所へお越しになる殿方で、そうでない方はあまり居らっしゃいません。

だから助は助でもそうではなく、呼ばれたのは花川戸の助六。
「人間手を真っ黒にして働かなくちゃいけねぇよ」と、つね日頃、馬方やその取締りにあたる子分衆にも口癖に言っていましたから、人よんで黒手組ともいわれるシンジケートのボスなのです。

背に尺八をさし子分を従えて入ってくるのを見かけると、オイラン達は失神しそうにシビれてしまって、「スケさん」「スケソウダラ」などと感激の言葉を投げかけ手にしている長煙管(ながきせる)を、
みな連子(れんじ)窓からさしだし、「ぬしさん一服つけていってくんなまし」と、しきりと間接キッスを求める有様。

 これはフロイトさんとおっしゃる方の学説によりますと、女性がロングなものを異性の肉体の一部へ挿入させたがるのは、自分自身がそうして欲しい願望の現れだそうでございますが、
これが一本や二本ではない。長煙管の雨がふるようだというんですから、相当やにくさかったことでございましょう。

 しかし助六は、そうした女達には目もくれず三浦屋めざして一直線。すると若衆がとんで出迎えるようにして、
「これは親分さん、いらっしゃいまし、揚巻さんえ」と声をかけますと、やりて婆とよばれるのが、「おいらんがお待ちかねですよ」いそいそ迎える。

すると助六は懐から金を出し、ついてきた子分達にも気前よく、「おめぇらも何処かでしっぽり濡れてきな」と渡します。
 しかし、子分達には煙管の雨もふってきませんから、なかなか濡れよう筈はありません。しかしそういっても場所が場所です。
「どうせ遊ぶんなら気に入ったのを、選ぼうじゃないか」ぞろぞろと連れ立って、ひやかして歩きますが、なかなか眼うつりして、さてどの女ともきめかね、やれ丸顔がいいの長いのが好きだのと、
みんなで御託を並べるもんですからきまりません。
 そこで行きつ戻りつ、戻りつ行きつして居りますと、「みて見ねぇ。まるで野良犬みたいにほっつき廻っているのは花川戸の助六の所の子分どもじゃねぇか。
助六が三浦屋へあがって温っていやがるってぇのに、あいつらめきょろきょろ何か落っこっちゃあいねぇかと、ほっつき廻っていやぁがる」と、聞こえよがしに悪口をつかれ、「なにをいってやぁがんでぇ。てめぇらみたいに女ならどんなんでも結構だと、股倉急ぎしゃあがる唐変木とは、こっちとらは違うんだ。

まず顔を吟味、下の具合もとっくり観相の上であがろうと、それで悠々としてるんだぁ」とやり返しますと、先方の一団は、
「きいた風なことを抜かしゃがるな。われら神田紺屋町で刀術を教えていなさる鳥居忠左衛門先生の高弟で、人にも知られた狐の勘次」「おりゃあ、一刀流免許の狸の太郎」それぞれ口々に喚きまして、
「おれたちに楯をつきゃあがると、どんな目にあうか、てめぇらだって知っていようが」と、くってかかる有様。そうしておいて、「やい、申し訳ありません、済んませんと土下座してあやまりゃあがれ」と言いたい放題。
「ううん‥‥」と、これには助六の子分一同、相手が悪いと互いに顔を見合わせました。
 

 と申しますのは、幕末まで町道場などが、さもあちらこちらに有ったように伝わっていますが、あれはみな作り話で、そうしたものは小唄や踊りの稽古場みたいに、やたら有った、というものではございません。
 なにしろ、お上が十手に六尺棒だけで治安を取締まろうというのに、民間の者がヤアヤアお面小手などという斬り合いの物騒な稽古など、お膝元の江戸では許される筈などありません。

これは当今でも何処かでゲバ棒道場や、火焔瓶投擲(とうてき)練習場など民間人の手で作れないのと同じことでございましょう。つまり道場と名のれるのは、地方では、御関所や代官所の御用を託されているのか、
ご府内にあっては南北町奉行の御用をうけたまわって捕方に棒術を教えるところと決っていました。
 それゆえ、そこの門弟といがみあっては、
(背後には町奉行所の目があるから、どんな仕返しをされるか判らない)
後の祟りがうるさかろうと、ふだんは喧嘩っ早い花川戸の子分たちも、うんうん困って居りますと、このとき天の助けか、
「尺八を背にさしたあんしゃんたち‥‥この前、おまえたちを尺八してあげんしたは、わちきたちでありんせんかえ。
店を忘れなんして、まごまごしていなしたのかえ」と、てまえの店から女郎たちがとんで出てきて引っ張りこんだ。これにはあっけにとられ、狐の勘次も、
「まんまと、とんびに油あげをさらわれた」「これを汐に花川戸の一家を叩き潰そうと思うたに、とんだところへ邪魔が入った」
と鳥居忠左衛門の他の門弟共は口惜しがりました。
はい。江戸の侠客花川戸助六の一席でございました。お後がよろしいようで。