ヨーロッパでの鉄砲の発達史 ガラパゴス状態の日本の火縄銃 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ヨーロッパでの鉄砲の発達史


ガラパゴス状態の日本の火縄銃


1600年から1800年のヨーロッパで起きた主な戦争は代表的な30年戦争や100年戦争と100以上の戦争が在り、まさに「戦乱の歴史」と言っていい。
15世紀に火縄銃がヨーロッパで発明され、特にドイツで発展したが、18世紀になると雷管や施条式銃などの開発が進み、銃の性能が大幅に向上した。
其の後フランスやイギリスで軍用弾薬の高い圧力にも耐えられるセンターファイアー・カートリッジが開発され、これが弾薬の主流となった。これらの発展により、鉄砲は戦争の形態をも大きく変え、現代の銃器の原型となったのである。

 一方日本での鉄砲の発達はガラパゴス状態が300年近くも続き火縄銃から一歩も前進しなかった。
これは鎖国や幕藩体制による鉄炮鍛冶の保護と統制による影響と言われているが、西洋の集団で弾幕射撃を行う用法とは異なり、狙撃型の用法が主で命中率を重視した日本においては、引き金を引いてから弾が発射されるまでにタイムラグのある燧石式銃は好まれなかったとする説もある。また、燧石式銃に必要な良質の火打ち石が国内で採れなかったことによるという説もある。

しかし一番大きな理由は、鎖国令の後、火薬輸入を徳川幕府が一手に握り、大名の反乱ができなかったため、国内に戦争が起きなかったからである。
島原の乱を「切支丹の反乱」と政治的発表した徳川幕府は、伊達藩の倒幕運動も「伊達騒動」として国内の反体制運動を収めた。
その後、由井正雪、別木庄左衛門事変も倒幕運動で、大阪天満と、江戸城西丸の火薬貯蔵庫の掌握に失敗し、密告を受け倒幕戦争には至らなかった。

「武器の発展は戦争需要による」というが、日本はまさに銃の冬眠状態だったのである。
戦がないため、刀、槍、傷、銃弾による銃創の治療法も全く発展しなかった事実もむべなるかなである。ヨーロッパでは、戦禍の巷からの負傷者が猖獗を極め、壊疽を防ぐため手足の切断手術、弾丸摘出手術、消毒技術など外科医学が大いに発達した。
現在のウクライナ戦争でも兵士の最大の死亡原因は失血死が全てとして、携帯式輸血装置まで開発して兵の命を救っている。

日本では、公儀語御典医で明治になって初代軍医総監になった松本良順の日記でも、江戸で脈を取る「本道」とよぶ内科医は、将軍から扶持を頂く御典医4名だけとある。江戸八百八町といっても、脈を取る本道は、御典医の他は居なくて、
後はサカキに白い紙片をぶら下げた拝み屋さんだけで、江戸二百万人の病気は彼らの加持祈祷だけだった。
大麻の粉末を燃やして煙を吸わせ、痛みを忘れさせて礼金を取るのだから自分の方へ煙が来て、それを吸っては商売が出来ない。
そのため己の方へ煙が流れてこないように、白紙をぶら下げた榊の枝を懸命に振っていたのにすぎない。外科、つまり「外道」と呼ばれるのはいなかったのが実態。
 
  
 江戸以東でも同じで「金創」つまり刀傷の手当てなどが判る医者は一人も居なく維新後軍医総監になった松本良順は、
「ある土地では傷口を温め、別の土地では逆に冷やして、消毒薬も無く、維新戦争の戦死者は大半が手当ての判らぬ為の失血死」であったとも、書き残している。
ここから見える歴史の真実は、武士は全員刀を差していて、やくざや町人でも私刀は持てたとはいえ「需要が供給を惹起する」というごとく、江戸時代は斬り合いが無く、従って斬り傷治療の外科的医療が発達しなかったのである。

ヨーロッパの鉄砲発達史

ヨーロッパでは16世紀になると、騎兵向けの軽量銃器として拳銃(ピストレット)や騎兵銃(カービン銃)など用途に適した形式の銃も出現するようになった。
しかしマッチロックは火のついた火縄を持ち歩く必要があり、火縄の臭いで敵に気づかれたり、雨や雪で火が消えるなど欠点が多かった。これらの欠点の克服のため、
1525年頃にドイツもしくはオランダで誕生したスナップハンス式に代表される火打石と鋼のやすりを擦り合わせて発火させる方式が開発されるようになった。


フリントロック式の拳銃
17世紀初頭にはフランスでスナップハンス式を改良したフリントロック式が開発されて、やすりの下端が点火孔の外側に装填された補助点火火薬を保護する蓋を兼用するようになった。
これによりもはや火縄を持ち歩く必要は無くなり、天候に左右されにくくなった。ヨーロッパ各国は競ってフリントロック銃を軍用銃とした。フリントロック式は信頼性が高く、2世紀もの間使用され続け、
その間様々な改良や試作が行われた。またフリントロック式の軍用銃には、歩兵用の長いマスケット銃、それよりやや短く軽量のドラグーン、騎兵用の短いカービン銃、片手で射撃できる小型のピストルなど用途別に様々なものが使用された。


パーカッションロック式の拳銃
19世紀初頭にヨーロッパでパーカッションロック式(管打式・雷管式撃発装置)の発火方式が、フリントロックに代わるものとして開発された。これは水銀系の雷汞という火薬を発火に使用するものだった。
フリントロックと違って、補助点火火薬の装填の必要もなく、発射後再装填がすばやく行え、空気中の湿気の銃身内の火薬の保護にも優れていた。
18世紀中頃以降には、ヨーロッパ諸国は従来のフリントロックを改造した物か、パーカッションロック式を軍用銃として採用するようになった。
金属加工技術に優れるドイツでは、古くから銃身内に螺旋溝(ライフリング)を刻み、弾丸に回転を加えて命中精度を高めた「イェーガー・ブクセ(狩猟銃)」が狙撃兵に支給されていた。
他のヨーロッパ諸国もパーカッションロック銃の時代になると、銃身内に螺旋溝を刻むようになり、命中精度が向上した。英語でマスケットと呼ばれていた歩兵用小銃がライフルと呼び変えられた語源はこれである。
一方、騎兵用の短い銃は、単発銃の時代に発射後にフックで吊るして戦闘を続けたため、ドイツ語でフックを意味する「カラビナー」から英語に転化されカービンと呼ばれるようになった。

だが、19世紀以後のヨーロッパにおける雷管や施条式銃などの開発が、こうした弱点を徐々に解決しつつあり、幕末の開国以後には急速に西洋式の銃に取って代わられた。
明治維新以後は火縄銃は完全に使われなくなり、長年の保護と職人としての意識に支えられた鉄炮鍛冶の多くは新式銃への転換を拒み廃業を余儀なくされた。
89式5.56mm小銃


その後も村田銃の開発など銃の国産化への努力が図られ、三十年式歩兵銃を日露戦争の戦訓を得て改良した三八式歩兵銃で列強に互する水準に至った。
第一次世界大戦には各国で小銃の装填を自動化して連射を可能とする自動小銃の開発が行われたが、日本では高価で弾薬消費量も多いことが問題とされ進展しなかった。
太平洋戦争開戦後に米軍のM1ガーランドの威力を見て再び自動小銃の開発が図られたものの進展は遅く、1944 年には四式自動小銃が形になりつつあったが、量産の余力はなく、既存小銃の生産に全力をあげることとして実用化には至らなかった。

結果的に、太平洋戦争を通して20世紀初期に開発されたボルトアクションライフルである三八式歩兵銃とその発展型である九九式小銃が用いられた。他の列強諸国でも大戦を通して、依然として三八式歩兵銃と同世代のボルトアクションライフルが用いられた。しかし、自動小銃を開発する試みは盛んで、ソ連のSVT-40やドイツのGew43等が実用化されたが生産数は多くなく、自動小銃を満足に供給できたのは米軍くらいであった。
戦後の一時期は米国供与の米国製小銃が使用されたが、現在、自衛隊や海上保安庁等においては、国産小銃である六四式7.62mm小銃、89式5.56mm小銃が使われている。

明治維新と鉄砲の関係
 
アメリカの南北戦争が維新の引き金になった
さて、火縄銃から一歩も発展せず、戦乱の無かった日本国に、列強が開国を迫りここに最新鉄砲が輸入され日本は南北戦争へと突入した。これを「維新戦争」という。
この戦争をグローバルな視点からの明治維新を考えてみる必要が在る。
何故なら現在も「戦争をさせたい国」「武器を売りたい国(組織)」が、過去アフリカ、南米、中東の内戦、を作り出し、今のウクライナ、イスラエルガザ侵攻に繋がっている。
それが幕末この日本で起こったのである。
 まず幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の(神の民)が、その蓄積した金融資本に よって、政治体制を変革する目的で始めたものが、終局において薩長の西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。
そしてこの原因はアメリカだった。『アメリカ建国史』によると、
  

「一八六五年、つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終結すると北軍は押収した南軍の武器弾薬が、密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、
アパッチ族を始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルドジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ、輸出する断固たる政策をとった。
 そこで この夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天積み同様に山積される状況を呈した」
  長崎へ行くと「歌劇お蝶婦人の遺跡」だと、尤もらしく案内されるグラバー邸があるが、この英人グラバーこそ、米国払い下げの上海の南軍の銃を、薩長に売りつけて大儲けした元凶なのである。
  さて、その英国が一八一五年のウィーン会議で占領したケープ地帯から追われ、 トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男がいた。
  当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、
 

反英精神にこり固まったスネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであった米国南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。
  大倉喜八郎が神田和泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。
  やがてスネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器輸送をした。
双方にアメリカ南軍の廃銃がゆき渡り、それまで徳川家だけが独占輸入していた火薬も、グラバーやスネルによって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めたのである。
  
 だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍の方が勝利を得た。
この結果、スネルは当時のアメリカ大統領グラントにこの責任をとり、 カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送りこんだのが「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まであった。
  しかしアメリカさえ南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることなく、従って幕末戦争の惨禍は無かったのである。
  勿論歴史にIFはないが、想えばまこと、怨めしい話しである。

維新の動乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組、 細谷十太夫といったように、個人的武勇伝ばかりが現時点では流布されているが、この日本南北戦争の実相は、これまで公表されていないが「偽金作りの戦争」だったのである。
  何しろかってのベトナム戦争では、南ベトナム政府軍に米国が武器供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中国やソ連が兵器を送荷するのも贈与援助だったろうがこの当時は違っていた。
  照準も合わないようなシャーピス銃やミゲール銃を寄越しておいて、アメリカ人は仲買人のグラバーやスネルから、どんどん代金を巻き上げた。
(もう百五十年 遅く国内の南北戦争を始めたら、ベトナム政府軍と解放軍の戦いみたいに双方とも、新鋭兵器がロハで貰えたのに、等と考えてはいけない・・・・アメリカは
終戦後だって、無料だと家畜飼料の古いメリケン粉や脱脂乳をガリオア資金でよこしながら、後になると、当時の吉田茂首相を苛めて、その代金を日本国民の税金で徴集した。
  つまり廃物を押しつけて日本からゼニを取るのはアメリカの伝統商売らしい)

さて、この結果、正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというと先ず「会津事情」掲載の、
「会津宰相にあげたたきものは、白木三方に九寸五分」という東北地方の俚謡を紹介する。
「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」と、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが、
  『会津戊辰戦争』によって調べると、
「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延して三等分し、
  これを二分金の鋳型に入れて金めっきをなした。だから一分銀が六倍の一両二分になり、制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。
  尚私に製造したいと出願する者には、一割の運上金とって、これを公許した。
このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた」とある。東北人が殿様に責任を取って腹を切れと、激昂したのが本当の話らしい。
  これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、薩摩は堂々と偽貨をこしらえ、「官武通紀」第八巻にも、
  「薩州鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳のものを製造し、中川宮、近衛家をもって京摂の地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知恵者揃いのようである。

  つまり、この戦争の実相たるや(グレシャムの法則)により勝敗がついたのである。
というのは、南軍は(琉球通宝)どころか「維新史料」によると、三岡公正の献策とことわって(引換一切これなく候)と、堂々と明記した紙幣を、四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。
北軍の会津では、お城の櫓でトッテンカンと一分銀をたたき延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼をやくように金を被せ、これを油で揚げて固めた。
  だから明治、大正まで金めっきの事を「てんぷら」といった。しかし何しろこの「てんぷら」の方は、四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である。
  まるで偽金作りのスケールが違いすぎる。それにどっちも偽金とはいえ、銀の入っている天ぷら金のほうより紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、
  「悪貨は良貨を駆逐する」の定義により、金めっきよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。これによって国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語につきる。酷い話しである。