豪傑新田義貞の謎   徳川家康の先祖は新田義貞 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

      豪傑新田義貞の謎

  徳川家康の先祖は新田義貞

 かって、青空高く舞い上がる凧の武者絵は、みなこれ「新田義貞」の髭もじゃの顔に統一されていた。
 私が子供の頃のメンコ遊びの、丸形のボール紙にはりついていた髭もじゃの武者の顔にも、「新田よしさだ」と書いてあった。
 だから『三国志』の張飛や諸葛亮、関羽、樊噲にも匹敵する吾国の大豪傑は、「新田義貞そのひとなり」と思いこんでいたが、さて調べてみると、鎌倉攻めのとき稲村が崎で、
「波が逆まき荒れ狂うは海神の祟りならん。わが宝剣をもって神慮を慰め奉らん。もしこの剣を水中へ投じ、波が鎮まれば海神の御意に、この義貞がそうた事になるゆえ‥‥一気に波打ち際まで突っ走り、鎌倉の北条御所へ討ちこまんず、如何」
 と、海上を伏し拝み、おびたる佩刀を水中へ投じ、見る間に波のひくのを眺め、おおいに勇みたつと、左右の者をかえりみて、
「神意は吾らにあり、今ぞ北条一族をば誅殺の時なり。われと共にいざ進み候え」とばかり馬に鞭打ち突入し、高時の首をとった。だから、海神より見こまれた豪傑というので、新田義貞は英雄なのだろうか、どうだろう‥‥彼に従ってきた上州新田別所の者達は、生れて初めてみる太平洋に、びっくりしてしまい、
「海は広いな、大きいな」と面喰ったかも知れぬが、(潮の干満、その日は何時頃に引き潮になるか)位は、近くの猟師に聞いてもすぐ判る事ではなかったろうか、と思えるのだが‥‥


 つまり、それ位の知識で佩刀を投げこむトリック程度で、彼が幕末まで、「豪傑」として特別扱いされていたのは、常識的には納得できぬし、明治になって俄かに声価が、どすんとがた落ちしてしまったのも怪しい。
「雨あられと飛びくる矢は防ぎきれず、さながら全身針鼠のごとき有様となり、もはやこれまでなりと、馬が深田にはまりこみ転げ落ちたるを潮に、潔くその身に刃を突きさして、かねて覚悟の最期をばとげにけり」
 といわれた新田義貞の霊を慰めんと、万治三年(1660)に福井藩主松平光通は、その討死したあたりに建碑したが、やがて明治三年になるとそこに小社が建立され九年には別格官弊社となる。
明治十五年には正一位が贈られたのであるが、地名をとって「藤島神社」と呼ばれて新田神社といわなくなる。しかしそれ以前の徳川時代にあっては、
(コレラやチフスといった伝染病や厄病よけの呪祷(まじない)絵にも画像が刷りこまれ、新田義貞の一と睨みで、いかなる悪鬼羅刹も退散するもの)
 とされていたのだが、位階だけは正一位に昇進したものの、いつの間にか楠木正成にその王座を奪われた形で、皇居前の銅像にも義貞は洩れ、しがないメンコ絵や凧の武者絵にと転落してしまったのである。
 もちろん新田義貞は豪傑といっても、それは容貌が、それらしいというだけであって、確定史料には誰と組打ちしたとか、何某を押さえつけて首をとったとかいった話は伝わっていない。
 初めは元弘の役に際し、鎌倉幕府の命令で西上軍の中へ徴発編入され、河内へ進軍していった。
 そして、
「あれなる千早城を陥しそうらえ」と命ぜられ、
「かしこまって」と攻めてはいったが、新田義貞より楠木正成の方が強かったのかどうかは判らぬが、何度も攻撃したが向こうがそれに応じてこないので一度も勝てずじまいだった。
 もたもたしている内にそのうち嫌気がさしてきて、義貞は東国へ引きあげてしまった。すると後醍醐帝よりの綸旨が、「汝義貞も、北条高時の追討をなせ」と、秘かに届けられた。
 天皇さまのご命令であるからには、日本人としてそれに否応のあるはずがない。そこで義貞も、
「はあッ」とばかり、昨日の友は今日の敵と北条高時の軍勢を討たんと進発しかけた処、遥々陸奥の国から石川義光、武蔵からは熊谷直実の子孫の直経、遠江からは天野経頭。
 そして、今は茶の産地で知られている狭山は、昔からの別所ゆえ、そこの武蔵七党の連中が、常陸の塙政茂に従って参陣してきた。
そして、「北条というは、われら源氏の者共を殺掠したり、別所へ押しこめ差別待遇をなせし不届きな輩‥‥いざこの時ぞ昔の仇討ちをなさん」「さん候、今や復仇の時にてござそうろ」
「戦わんかな時きたる‥‥高鳴る胸の陣太鼓」といった具合で新田義貞の軍勢は見る間に二千近くにふくれ上り、上州新田の庄から世良田へでて、そこから利根川を渡り、
やがて一行は、「利根の川風」を背中の母衣に入れてふくらませ武蔵の比企郡高見から入間川を突破、小手指原から府中へでた。
 すると、鎌倉から廻されてきた北条泰家の軍勢が、
「来らば来れ、別所のやつばら」と待ち構えていたが、思いがけぬ新田義貞の軍勢の多さに愕き、「戦は兵の多寡によって決まる」とばかりに退却してしまい、
「それ追っかけろ」と分配河原から関戸河原へでた新田軍は、多摩川を渡って鶴間原から世谷原へでて、そこから、「本隊は片瀬腰越から極楽寺口の大手門へ」
「陸奥隊は村岡、州崎から鎌倉小袋坂口へ」「武蔵隊は梶原の山越えに化粧(けはい)坂の裏手へ」と三方から突入。
このとき義貞が稲村が崎で潮の干満を計って、佩刀を投じたのだが、さて五月十八日から五日間にわたる大激戦で、とうとう北条高時以下の一族一門を、葛西谷の東勝寺へ追い詰めてしまい、そこで彼らを全滅させてしまった。
 しかし、これは義貞個人が強かったというより、つき従う武蔵狭山の別所の連中や源氏崩れの連中にしてれみれば、「失地回復」の戦いだったから勇戦したのだろう。
 というのも、カマクラというのは朝鮮語では、「家居」の意味だが、古代ツングース語では、それは「首都」をさしているからである。


 さて義貞は船上山行在所におわした後醍醐帝のおん許へ、「鎌倉占領、北条全滅」の報を急ぎお知らせ申しあげると、「よくぞ致した」と御嘉賞を賜り、「左馬助(さまのすけ)」に任ぜられ、
建武の中興の論功行賞では「従四位ノ上、左兵衛督(さひょうのすけ)」として、越後守に任官した。
 やがて上野、播磨二カ国の介(すけ)も兼任したが、中興の政(まつり)が破れ足利高(尊)氏と戦うことになって、箱根宮の下の戦で義貞は敗走した。
 そして、翌延元元年(1336)、京に迫る足利軍を防いだ大渡合戦でまたしても負けた。しかし源顕家の援軍でようやく京を回復したものの、またしても攻められ摂津和田岬に陣をはったが、
義貞は足利高氏に背後をつかれるのを恐れて退却し、このため湊川の楠木正成は放っておかれた格好となって、敵に包囲され、全滅してしまった。
 その後、義貞は北陸におもむき敦賀の金ガ崎城によったが、翌年ここも足利高経に攻め落された。
 その次の延元三年には平原寺の僧兵に包囲され、ついに藤島で最期をとげたのである。

 勤皇の至誠もよく判るし、転戦して苦労したのも充分に納得できる。が、だからといって、大豪傑だったような面影はないのである。
 なのに明治になってからは、すっかり影が薄くなったが、徳川三百年の間は、さも豪傑中の豪傑といわんばかりに、もてはやされていたその謎たるや、何かというと、
平凡社版『大百科事典』第二十巻五十四頁の、新田氏系図を引用してみると、これは一目瞭然たるものがある。

源義重___義兼___政兼___朝氏___(新田)義貞_____義顕
    |                   |__義興
       |                                    |__義宗__岩松満次郎__新田男爵
       |
       |__義秀___(世良田)頼氏___教氏___満義___有親___親氏___徳川家康

 俗に徳川家康は三河の松平元康が名を変えた同一人物で、先祖伝来の三河の地を守ったとされている。が平凡社の事典では、
「家康は上州新田から出た世良田二郎三郎で、松平元康とは別人である」ことが、これでもはっきり示されている。
江戸時代においては今と違って(権現さまは世良田)と知られていたからして、「新田義貞は神君家康公の御先祖さまに当たる」というのでハクがつき、代表的な豪傑と奉られたが、さて明治になると、
今度は話が変わってきて、明治新政府の連中に、「新田義貞は徳川の祖ゆえ怪しからん」とされて、楠木正成の方が株が上がったのである。
 なお新田男爵となった本家の岩松の方は、「御系図お貸し」の代償として、江戸時代は交代寄合組お旗本として百二十石の捨て扶持を、代々徳川家から給されていたともいうが、
何処の国にしろ決まったような運命ではあるが、英雄は政権が交代すると、昨日までのヒーローが途端に卑怯者や悪党にされてしまう。
 しかし豪傑までが、歌は世につれ、世は歌につれといった具合に、その価値転換をしてしまう例は珍しい。ヨーロッパでも例がない。

 恐らくこれは、絵草子屋ともよばれた江戸時代の出版業者が、命令もされないのに、体制である徳川家へのおもねりに、「武者絵は、権現さま御先祖の新田義貞」
 と決めてしまって余りにも媚びすぎた結果、それが薩長の憎むところとなって、その豪傑の地位から足を引っぱられ、今では忘れられてしまった存在になったのであろう。
 が、彼も天子さまに命を賭してお尽し申し上げた一人である。またいつの日にか見直され、豪傑でなくとも、かつてこの国にいた一人の忠臣として再評価される時はきっとあるであろう。