戦国ウーマンリブ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

戦国ウーマンリブ

「江戸時代の司法が女性を避けるような傾向があったのは、これは戦国時代に女武者が陣頭に現われると、勇士とか大将といわれた者は、相手にするのを恥じたものであるから、その名残りで女子供は相手にせずといった心持ちが、江戸の法律にも有ったようである」という説がある。
 
 だから戦国時代の女は哀れだったなどと、臆面もなく書く歴史屋が多くて困ったものである。
 元禄以降(一六八八)は儒教隆昌とあいまって女は哀れな存在となったがそれ以前はそうでもない。
 なにしろ徳川家康の四天王の一人で、天文十七年(一五四八)から慶長十五年(一六一〇)まで生きていた、その当時の人間である本多平八郎忠勝は、
 
 「わしの若い頃は、まだ人手不足で共に戦にでていた戦国の名残りで、武家の女房は、みな、いざという時に顔を強くみせるよう太い描き眉をつける関係上、眉はすり落し、
口中も敵を威嚇するため、人間をくらってきたようにおはぐろというもので歯を染めていた。もちろん今でも武家の女房は古式を守って眉を落し口を染めているが、近頃は美布や化粧品などが弘まり軟弱化してきたから、
昔程かどうか判らん……しかし戦国時の女武者の働きというは、今どきの男共など足許へもよれぬ程のものがあったのだ」

 という回想談をかき残している。これが徳川中期に見つかり、原文は内閣総理府図書館に保存されているが、明治時代には、

 「稀有な戦国史料」として活字本にもなっている。非売品だったし数も僅かなので初めにその説を引用させて貰った故三田村鳶魚は見ていなかったらしい模様だが、こんなに両極端に意見が違うと、
どちらが真実か迷わざるをえない。しかし世のおおかたの女性は、
 「強かった」といわれるよりは、「哀れであった」と伝えられる方が、被害者意識的でお涙頂戴と思うのか、あまりこれに意見はのべず、今の時代の方が増しなんだろうと満足しているのか、
「涙にあけくれした戦国女性」といったのが、どうもよく読まれているらしい。
 もちろん男のひとも、女が強かったなどというのは聞く耳持たぬ、といった風潮が残っているせいなのか、

「戦後の女性は強くなった。されど昔の女性は清く優しく、それなのに哀れでありしか」
 といった感慨のもとに、そうしたでたらめなものに眼をそむけようともしないのである。
 とはいえアメリカ模倣の男女同権、女性差別反対の現代では、
「はたして昔は弱く悲しく哀れだったか、どうか」を解明する必要もあるのではなかろうか。
 

 なにしろ真実というものは一つである。楯の両面みたいに極端に分かれていてはいけないのである。
 さて、「講釈師みてきたような嘘をいい」というが、明治大正の頃の人間の書いたものより、その当時の天文生まれの本多平八郎の方が正しいのではなかろうか。
 三田村鳶魚は江戸の刑法が、女人を避けるような設定の仕方がされているからと、その点から遡って、そうした舞文曲筆をしたものらしいが、江戸の法律の根本をなす処の、
 「武家法度」の改正から諸制令が一斉に発布されたのは、寛永六年(一六二九)から十年の間で将軍家光の時に当たる。そして、その時代というのは、
 
「寛永通宝の鋳造を下命された鳴海屋平蔵が、ときの老中筆頭の大老職土井甚三郎利勝をさして〈春日御局ご家老土井大炊頭〉と、その鋳銭受け書の公文書にかいているような世の中」なのである。
 この春日局が何故それ程までに権勢をふるっていたかは、後述するが、寛永六年からは恐れ多くも主上も女帝の明正さまであらせられる。

だから東西ともに女上位の時代だったのだから、その間に制定公布された法律で女人を敬遠し、なるべく処罰の対象から外したのは、これまた当然なことである。
 なにしろ一口に、江戸時代といっても三百年にわたっているのである。
 元禄期以降からの、「女は三界に家なし」とか「女三従の教え」といった、女権が落ちてしまった男尊時代の考えで、戦国から江戸初期を判断するのは三田村鳶魚の誤りであろう。
 『フロイス日本史』をみても、「城主の夫に金を貸し高利をつけ、支払い不能とみるや己れの家臣をもって、強制執行してその城や領地をとりあげ女城主になる例」
 も当時は珍しくなかったと、青い目の彼がもの珍しげに、日本における女上位を、他にも例をあげ本国へ報告している程である。フロイスといえばイエズス派の彼の先輩の修道士らが、「上杉謙信」と今日、その死後の戒名で名を伝えられている政虎が、
 「勇猛なる女城主であったこと」を報告しているし、それを裏書する当時の舟乗りの書簡も残されている。

 それはスペインのトレドの司書館に一五七一~八〇年の報告書として保管されている。日本でも、
『豊薩軍記』にでてくる高尾城の十七歳の女城主の勇戦敢闘ぶり。
『当代記』にある、信州高遠城の祝女の大奮戦記。
『備中兵乱記』の、常山城主三村高徳の妻の激闘。
『今川家記』の、引馬城主飯尾豊前の妻が、米ぬかで血止めした大薙刀で敵二十余騎を倒し、傷ついた夫を庇って死んで行った話。数えだしたら切りがない位に、板額や巴御前以降でも、女武者の奮闘ぶりは残されている。
 
 これは白人の女などは、すぐキャアと叫んで失神するが、ヤマトナデシコは火事などの際にも、男は周章狼狽しきっても、そこは落着き払って重たい物でも、
「よいこらしよ」と抱えだして持ち出してしまう例が多いから、かつての彼女らも、夫のため吾が子のため勇ましく戦ったのだろう。
『アーニーパイル戦記』によれば、オキナワ戦では伊江島の比嘉姉妹は、十八歳と十六歳の少女二人だが火薬箱を抱き、アメリカ重戦車のキャタピラに飛びこんで玉砕しながら擱座させてしまい、
 「日本の女性は強い」と彼に書かせている。にもかかわらず、「女は哀れだった」というのは男の自己満足なのか、またはそういって欲しい女の甘えなのか、そのどちらかだろう。
 しかし近頃のように女子中学生がしごきをしたり、女の暴力団さえ現れるような世相では、とても格好が付かぬから、時代を逆行させてしまい、
 「戦国時代の女性は哀れである」といったいい方をして、「戦の時に奥方や娘が人質にとられたり、傑にかけられて殺されなどして、いたましくも不憫であった」と説明されている。
 もちろん人質にとられたり傑にされ、ブスッと槍で突かれること自体は気の毒であるが、考えてみれば、なにも女性だけがそうした目にあわされたわけではなく、男も磔にされたり首をちょん斬られ、
その頭をかち割られ脳味噌を抜かれていた時代である。
 それに今でも質屋へAB二つの物をもってゆけば、「此方のほうを預かります」と値打ちのある方を取られる。
 という事は、戦国時代にあっては、女性の方が野郎よりも値打ちがあったからこそ、それで人質にとられたのでぱあるまいか。
 それに現代のように、「女性を庇ってやるのが民主主義だ、騎士道なんだ」といった考え方をもってしては判り憎いが、もし敵も味方もフェミニスト揃いであったと仮定するならば、
「女を磔けにかけて殺すとは残酷ではないか」ということになって、そんな事をしたら向こうの敵愾心を煽ってしまい、味方からも批難抗撃を浴せられる羽目になってしまう。
 しかし戦争というものは、何をやるにしても味方の士気を高揚させ、敵の士気は沮喪させねばならぬものであるから、今と違って、恐らくその時代にあっては、
「よくぞ女を磔にかけて、ブスツと殺してくれよった」

と、すっかり男はみな快哉を叫んで、味方は勇気百倍。敵の方も城主の妻や娘で、自分のではないから、「口うるさく、威張りくさっとる女ごを、気持ようやってくれ、これまでの溜飲が下ったわい」と、
すっかり歓び勇みたち、「男心は男でなけりや判るものか」と手をふって、「昨日の敵は今日の友」と城門を開いて、双方が仲よくバンザイをしあったものではあるまいか。
と書くと、今の観念をもってして、まさかと苦笑するむきも有るだろうが、日本の戦国時代から江戸初期にかけては、ちょうど海の彼方のヨーロパでも、
「男につべこべ文句をつける女」
「意地悪で手におえぬような女」
「怠け者で食っちゃあ寝てる女」
 といったのは、優先扱いで、「魔女」のレッテルをはられ、最低七十万人から最高七百万人の間、数ははっきりしていないが、ジェームズ一世の英国でもイサベラ女王のスペインでも、みな丸裸にむかれて丸焼きされていたのである。
 バスク人の刑吏が馬車につんできた女達を、生きた侭でローストにしたり、馬に引張らせて股裂きするのをみて、西半球の男共が、「讃えんかな神の御名を、アーメン」と、ヤンヤと喜んで見物し、口笛を吹き手を叩いていた時に、東半球の日本人の男だけが、「女を殺すは勿体ない、使えるものを惜しい、可哀想ではないか」と唯たんに好色だけで、それにあくまで反対していたとは考えられない。
 どうも質の悪い女は、中世紀の魔女狩りで子宮ごと焼かれ消滅しているから、現代の女性は、みなセレクトされた残りの後裔ゆえ屑はいなくてみな素晴しいのばかりだろう。
 が、その当時の玉石混淆の女人は、ヨーロッパでも日本でも、男の立場からすれば手のつけられぬような悪いのが多かったからなのだろう。
 
『加越闘諍記』という前述した天文元亀頃の古史料によれば、一向門徒が越中越後の反仏的な城をみな押えたとき、まずまっ先にしたことは、
 「広大無遠の御仏の慈悲をもってしても、何々御前さまとか、北の方とよばれて、これまで城にふんぞり返って、男の武者どもを顎の先で使い威張りくさっていた女ごだけは、衆生済度の枠には、
なんとしても入れようがない」と、みな縫針を束にしたので眼をつぶし、無明地獄におとしこれを放逐したというのである。
だから彼女らのことを、「盲女」とか「瞽女」とかいて、「ごぜ」とよむのは、御前さまとよばれていた名残りから、反仏の者らが悼んでのせいである。だから一向宗の顕如上人の義妹を妻にもち、権大僧正だった武田信玄に対し、敢然と迎え討った上杉景虎をたたえる瞽女唄には、
 
「とら年とら月とらの日、生まれ給いしまんとらさまは、白山さまおん為に赤槍立てての御出陣、男もおよばぬ強力無双」という歌詞があり、
『越後瞽女屋敷、世襲山本ごい名』の唄本の中に、総平仮名で入っていたのが今は点字で伝わっているのである。
(上杉謙信という名は死後の戒名だが、あくまでも男だと信じたい「頭の硬い」人は、どうぞ前記の史料で調べてもらいたい)
つまり今は上杉謙信と男のごとく誤られている彼女も、かつては、
「捕えられて盲にされたらかなわん」と気張って、川中島で戦ったのだろう。しかし、こうしたガムシャラ女武者が多くて、寺側は困ったらしく、高野山のごときは、つい最近まで「女人禁制」を厳しく励行して、
女性は絶対に山に入れぬよう、敬して遠ざけていた。
 という事は、戦国期のウーマンーリブたるや、現代のごとく延々七時間もパンや肉まんをかじって大掛りな井戸端会議をしているようなものではなく、
「不言実行」というか、しきりに武闘をもって、「戦う女の集団」の実存をしめしていたことになる。


『本多平八郎遺文』に、女は優しくみえる眉毛をすり落し口中を染めて敵を脅したとあるが、「女は三界に家なし」といわれたように圧迫されていた江戸時代でも、武家の女房は、眉を落し口を
お歯黒で染めて、一旦緩急あれば夫と共に共闘する体勢をとっていた。
忠臣蔵で有名な吉良上野介が、赤穂浪士に首を取られたと聞くや、上野介の妻が「おのれッ。仇をとってくれんずッ」と薙刀抱え侍女を従え屋敷から討って出ようとした。
しかし慌てた上杉の家臣が必死に諫めたため、取りやめになったという有名な逸話が残っている。
ために江戸市民は「吉良の女武者勇まし」と誉めそやしたぐらいのものである。

 なのに当今の女性は、アメリカ兵にガムやチョコレートを貰った大東亜戦争敗戦直後の時点から、すっかり堕落しきってしまった。まだ敗戦時の日本女性は、それでも精神的支柱があったからこそ、あの敗戦の苦しみにも堪えてこられたのだろうが、今度もし、ああした時代がきた時、いまの若い女の人たちはどうするのだろうか。
 余計なことかも知れないが、まったく冷や汗ものである。
 女も人間であるとばかみたいな事をいう瑕に、その怒りを胸に自分自身を振返ってほしいものである。でないと、せっかく戦国時代の女の勇猛ぶりを、四百年前に書き残しておいてくれた本多平八郎忠勝に、申訳けないことになってしまう。