『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。 -5ページ目

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

考察・日本書紀
桃太郎伝説から読み解く
天智天皇と天武天皇の謎


以下が、「日本書紀」と「古事記」を金科玉条とする歴史屋と一線を画し、「日本書紀」の記述に疑問を呈した飛騨高山のK氏の一文である。
常識も思考力も失った歴史屋よりよほど勉強されている。先日ノーベル物理学賞受賞の真鍋淑朗氏も言われているように、「何故」「何故」という飽くなき疑問と「好奇心」こそ学問の基本だからである。

先ず、「日本書紀」の編纂者は誰か不明である。そして書紀には「天皇家の祖先や祖神が、日本列島においては遅れて来た者達であり、神武(イワレヒコ)が大和盆地に侵入して」その地において新たに王朝を建てたという立場をとっている。
神武の即位を辛酉の年においた、識緯説の辛酉革命論は、神武の大和侵入及び征服は前王朝(考古学的には「銅鐸国家」の顛覆)が前提となっている。
中国古代史を通読してみれば王朝の交替は明記されている。前王統に連なる者であるとか五世の孫であるとかの記述はない。その中国文化を範とした大和政権が、何故王朝交替を隠匿したのかの疑問がある。
日本にのみ固有のこの血統の継ぎはぎ現象の動機が不可解なのである。


次に、日本列島の三韓分有説については、それが事実であったなら『好太王碑』に倭の出自について、百済や新羅に対すると同様、「もと高句麗(扶余)から分かれた」との文字が当然あるべき筈である。
それを書いて不利な理由がない。もちろん明治十六年に中国東北部にある輯安の好太王碑を訪れ、その拓本(写し)を持ち帰った酒匂大尉が削除したというの説もある。
 白村江以降の唐占領説についても、唐側の史書にその旨の記載をしても唐にとって国威発揚になるし、宣伝により威信を高める効果ならば考えられるが、書いたことによるデメリットは無いのになぜ書かなかったかのか? 
血統信仰に関連するのが、奈良の百済政権は当時の日本と比べて文化的・技術的に先進国であり、貴種でもある自らの血統を、日本先住民に対して優位に立っているのになぜ匿さねばならなかったのか。
唐は倭国と日本国を何故に並記しているのか?西暦8世紀迄は、日本列島は唐によって二分されていたのではなかろうか?海洋渡来系先住民である八ッ族の額田王に関連するのだろうか。
次の二点が大変明確に読み取れます。

①天智紀七年の条「是歳、沙門道行草薙剣を盗み新羅に逃ぐ。風雨にあひて、荒迷ひて帰る。
②天武紀朱鳥元年六月「……戊寅に、天皇の病をとふに、草薙剣が祟れり、即日、尾張国の熱田社に送り置く」と言う具合に、剣の有難さというか後に「三種の神器」となる尊さをとく。


また、景行紀のヤマトタケルの東国平定説話のエピソードの一つとして、草薙剣を神体とする熱田神宮の起源潭について、中村幸雄氏は『市民の古代研究』というパソフレッ卜に、前紀①、②の記事を考察している。
結論を言うと、草薙剣は天智の時に初めて近畿にもたらされた(もちろん唐側から見た倭国で盗まれた)もので、この剣は、天智には祟らなかったけれど、天武には祟って天武は結局この病で死亡した。
熱田神宮に剣が合祀されたのはこの時だ、というものである。私はこれに加えて、何故尾張なのかという疑問を感じていたのですが、徳川時代の尾張がアマ族の国であったという説と関連するのだと思います。
何故なら徳川時代の尾張が海洋渡来先住民であるアマの民(アマ族)の国であったとという説と関連するからです。


「日本書紀」考察
ここから「日本書紀」に絞ってK氏の疑問点と合わせて考察をしてみたい。
さて、「日本書紀」では、落下傘もなしに天孫民族が降臨し、金色のトビをガイドに遠征し、大和地域を平定して、辛酉の世変りの年に、鉄剣で日本先住民を征服し、建国したとしているけれど、
今では歴史屋でも、さすがにこの説はとっていない。前王朝の銅鐸国家というのは、高麗系が建てた出雲王朝の事である。
武内宿弥の昔から、朝鮮半島人の勢力と中国本土より渡来勢力は、日本列島を舞台にして何度となく、代理戦争で仁義なき戦いをくり返していたのが実態。そして、そのたびに鉄砲玉として先住民で
ある吾々の先祖が、消耗品とし双方に使われ殺されてきた、使い棄ての歴史そのものなのである。

 従来の史観は、朝鮮の銅剣が中国本土よりの、鋼鉄製の鋭利な刃物のホコや青竜刀によって叩き折られて征服されたのを数度くらいにみている。
しかしこれは大きな間違いで、実態はあけくれ西暦六六三年の白村江の敗戦後のあとまで続いている。ずっと後になっての南北朝合戦にしても同じことである。
(南朝は朝鮮高麗系で、水軍として河野氏、土居氏、宋氏、対馬水軍、菊池氏にど。北朝は明国系の足利氏)

 新興明国の後押しをうけた足利方の北朝と、兵庫三の宮から湊川にかけての勢力で最後の戦いをしたのが南朝側である。が、当時は従来の高麗体制が崩れ「李氏朝鮮」に換わった時点だったのである。
だから朝鮮から日本列島への援助どころではなく、後楯として武器輸送ができず足利方が勝って勝敗が付いてしまった。

 が歴史屋さんたちの最大の誤りは、大東亜戦争中の軍部の誇大宣伝のごとく、日本列島に、昔から「日本帝国」のような壮厳で、かつ立派な国が、朝鮮半や中国大陸と、さも対峙し存在していたかのような、
夢というか幻を蜃気楼の如く妄想を抱きすぎていることである。
正直いって、昭和の至尊が、韓国全大統領に仰せられたごとく、我が国の建国は六世紀七世紀なのである。
以前の日本列島は、前方後円墳を今に残す地方豪族というのが、潮流で日本各地に渡ってきて住み着いていた。
彼らは武器などという物はなく、裸足で喰いつき合うような原始的な状態だった。だから苦も無く彼らを奴隷化して、地方別に小さな勢力を維持していた、纏まりのない、いわば無法地帯だった。
だから「豊葦原瑞穂の国」というのは「農耕もする海洋渡来の先住民は、太平洋岸の各地に住み着いて、彼らは後の平氏となる、赤を民族色とした部族で稲穂の地区。一方寒流で日本海を渡ってきた
遊牧民族が、馬に食わせる豊かな牧草が茂る葦の原っぱ」という意味なのである。
中国や朝鮮と比べて、日本は未開発途上国だったゆえ、散々苛められ、次々と彼らに君臨されて「奴隷」とされていた。庶子の民から生まれたから「庶民」とされ、これが「我々庶民の生活は・・・・」と今でも使われる。
 

「任那の日本府」の間違い


 明治軍部は大陸進出の為中国人を「チャンコロ」とか「ヨボ」と戦意高揚のために学校教育で蔑称を与えた。
これはかって太古の時代日本先住民が差別され苛められた仕返しとみれば非難の対象にはなるまい。
かつては、「満州国」の名称で敗戦まで中国東北部にあった。その当時の入植した日本人は、
 「相手は日系か、じゃ心配いらん」 「えっ朝鮮系か、用心せんといかん。彼奴らは油断ならん」
 「えっ満州系。そりゃ念を入れて掛らんと向うは頭がよく廻る、コスッカラクひどい目にあう」と現地の日本人は、五族協和の国というのに韓国系に用心し中国人は賢いと敬遠していたのである。

注・満州は元々女真族の土地で、そこから中国に侵攻して清国を建てたのである。今日、当時の日本政府が女真族の愛新覚羅溥儀を擁立して満州国を建てたことを非難するが、
  領土的には正当性がある。余談として記すが、現在の習近平共産党政権は「漢民族の国」というがこれは怪しい。
  中華人民共和国の「中華」とは漢民族が世界の中心に居ると、誇大傲慢な思想だが、信じてはいけない。
  何故なら前漢、後漢は漢民族だが、漢の次の三国時代(魏、呉、蜀)から五胡十六国時代は、北方民族の匈奴、鮮卑、羯(け つ)、西方の氐(てい)、羌(きょう)は、
  全て周辺の騎馬民族で、漢民族は少数民族だった。この後南北朝時代を経て「隋」になるが、隋の初代皇帝、楊堅(ようけん)は北方騎馬民族の鮮卑である。
  次の唐を建てた李淵(りえん)も鮮卑と云われている。
  唐の滅亡後、五代十国を経て「宋」が建国されるが、宋を建てた趙匡胤(ちょうきょういん)は遊牧民の契丹である。
  元も勿論北方騎馬民族のモンゴル族。その後の明も清も女真族で、こうして見返せば漢民族の中国は嘘だと解る。


 威張っていたのは関東軍の連中だけで、現地の日本人は軍を背景にせねばかなわなかったのである。処が日本内地では、かつて苛酷に扱われ散々に苛め殺されたミジメたらしいことへの裏返しなのか、
日本歴史をロマン化し美化して偽造してゆくため、日韓合併後は堂々と朝鮮半島の新羅、百済、高句麗は日本へ貢進してたような嘘を書く。半島三国が、それぞれに、「ムネとする城」の意味の胸蔵(ムネサシ)の今の東京都。「ムと主を現す城」の武蔵の今の埼玉県。「中核を意味するサネを上につけたサネサシ」の相模の今の神奈川県と、
関東だけでも三つ巴になって狭い日本列島の中で相争っていたのが実相なのである。
 従って現地解決はむりなので、朝鮮半島に「任那」とよぶ三国合同の協議会議所、今の38度線の南北管理会談所みたいなものを作った。
これを「任那の日本府」と歴史では言うが、これは三国の協力統治が目的のためだったものにすぎなかったのに、これをさも往古より巨大な日本国が存在していた如く学校歴史で教育されている。
だから先日もテレビ番組で櫻井よしこ氏が「あの時日本が朝鮮を助けたのです・・・」と話していた。
日本で最も注目される論客で、碩学の一人でもある櫻井氏でさえこうして間違いをしてしまうのだから、あとは悲しいかな推して知るべしである。
 ここの間違えは、植民地占領側の支配の「好太王碑」の文面に、「もと高句麗(扶余)から分かれた(人種)」などとは、未開発の野蛮人視していた倭人のことを書く筈などありえない。
                    

 白村江で勝ったのは「唐」

朝鮮半島の百済が唐に侵略され、母国滅亡の危機を救うため、日本に君臨していて、奈良朝の百済人が日本先住民をかき集め(二万三千~三万人説)本国救済に白村江へ送った。
しかし将校や指揮官は百済人だが、多くの日本先住民は当たり前の話だが百済に散々苛められてきて、真面目に戦うはずはない。それに武器も圧倒的に劣悪だった。
だから鎧袖一触敗戦となる。
勝った唐の将軍劉仁軌は部下の郭将軍に、降伏した百済人朴将軍以下将校共に道案内をさせ、日本に上陸し、倭国の御所を占領した。この事実は西暦六六九年の唐の高宗総章二年に、倭の完全制圧に必要な兵員は要求通り送らず、僅か二千余人を冷ややかに形ばかりに派遣した事実。
これを日本では白村村の戦いというが、奈良王朝の人間は少なく、指揮官だけだから唐の軍勢に一敗地にまみれ、指揮官達は捕虜となった。そして百済を占領した唐軍は、唐の将軍鎮将劉仁軌は部下の郭将軍に降参した奈良王朝人たちを道先案内にして、日本へ進駐してきたのである。

この証拠が次の有名な歌である。いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

この歌を綺麗な桜の情景と誤解しているが、とんでもない間違いでその意味は。 これを現代語訳にしてみると。
「いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ美しく咲き誇っております」となっていて良く知られている。だが果たしてそうだろうか?

このサクラの語源は古代百済語の「群がり」の意味なのである。
今は居なくなったが昭和35年頃までのヤクザの香具師たちの言葉で、客寄せの意味に 使われていた。
 香具師たちは大道で店を開き、衣服や万年筆など様々な品を売っていた。
「さあこれは値打ちもんだよ、実は○○工場が倒産して社員の給料が出ない、だから安く売りに出したんだよ。はい300円でいいよ」すると何人かが近寄ってきて「ほぉーこれは安いね、俺に3個おくれ」「そんじゃ俺も社員を助けるためだ、5個おくれ」 こうなると通りすがりの一般の客も集まってきて、我も我もと買っていく。
これを<タンカバイ>というが、この客寄せ用の云わばヤラセ役がサクラというのである。
現在でも各テレビ局の放映の際、スタジオに集められてデレクターの合図で笑ったり拍手したり、驚いたりする奥さん連中もサクラなのである。

 さて、その昔はサクラとは賤の者の集まりや集団で、つまり差別され虐げられていた 日本原住民達を指す。下総の佐倉といった地名も残っている。
尚、ヤエとは女のことで、八重桜とは百済の女達をいう。これらを頭に入れてこの歌を読み解けばこうなる。

 朝鮮半島の百済人が奈良王朝を立てて日本に君臨していたが、本国の百済が大陸の強国唐に負け、
唐の勢力が奈良王朝に取って代わって奈良の御所に入ってきた際御所に居た百済の女達は、キムチの臭いか放屁の臭いか、とにかく唐の男たちには臭くて堪らなかった。という意味。桜の花なんか強烈な臭いなどしないし、綺麗な歌なら「かおる」というだろう。即ち戦勝唐勢力の百済を卑下した歌だと判る。


「魏志」には収録されている倭に対する記述を額面通り受け取ってはならないのである。
何故ならあれは書き手は魏の下っ端の役人で、稿料か褒美が欲しくて、見聞していもせず、ましてや実際に行ってもいない倭のことを、中国お得意の白髪三千丈式の誇大に書いたものである。
それでは実際の所は何処かと言えば、現在のベトナム沖の「海南島」でこれが「倭人伝」なのである。
それに書かれている倭が立派な国家なら、唐も占領しがいがあり、本腰を入れてもっと兵も送り、積極的に援助もしたろう。
そうすれば、従九位下の朝散太夫の位階しかない郭あたりではなく、従四位の劉仁軌将軍位の豪いのが代わることになる。そうなっては、折角苦労して倭へ入った郭の手柄が上司にとられてしまう。
ここが問題で大事なところである。まず倭の日本列島が、見るべき資源もなく何の価値も認められぬゆえ、唐本国ではあまり気乗りせず放任し、占領など念頭に無かったのが真相だろう。
次に郭が本国へ凱旋して二階級ぐらい昇進したとしても、到底皇帝への御目見え格には程遠い。つまり戻ってもたいした立身出世は望めない。
ならば男は度胸と居直ってしまい、さながら唐の分国「倭独立国」のような立場をとった。
そして、劉仁軌将軍の部下や本国へ戻ってもウダツの上がらぬ同僚たちを招いた。また唐本国で前途のないアブレ者やナラズ者を、新建国のため金で集めて呼んだかも知れない。
当時の倭には、何の資源もなかったが、山金だけは東北や新潟にゴロゴロ在ったからである。
 日本歴史年表では「舒明二年八月五日に犬上御田鍬、薬師恵日を唐に遣わす」と、これが遣唐使の始まりなりとする。だが、それは唐の太宗の貞観四年で西暦六三〇年のことである。次は、
西暦六五三年五月十二日に吉土長丹、道厳らを第二回の「大唐遣唐使」として送る。
同年七月の遣唐使高田根麿の乗船が薩摩の曲竹島にて沈没したので、翌西暦六五四年二月には、高向玄理らを改めて遣唐使として送る。と、24年間に四回も唐へ船を出し、帰りに人材を迎えている。

 だから郭務ソウも新しく国をおこすぐらいの有能な人材は、どうにか当時の倭には、もう揃っていたのかも知れない。さて自村江の戦いのあった西暦六六三年の前の九年間には遣唐使の記録はまったくない。
戦後の六六五年九月二十三日だけ唐より近州司馬、馬上柱国、劉抬高がきて、潮流が唐へ流れる十二月に彼らが帰る際に、郭は何んの報告をさせるつもりか、弁口のうまい小錦守君大石らをつけて戻している。
これが功を奏したのか、、倭の地は野蛮な地にて、なんら利あらざる土地と吹きこませたせいか、白村江敗戦から実に60年後の西暦七一六年になって初めて、第五回目の遣唐使が、
八月廿日に多洽比懸守によって、郭将軍の死後らしく送られている。
 ということは半世紀の余にわたって、唐の方も倭の方も互いに知らぬふりで放っておかれたのであるから、「唐書」に「倭を唐が占領した」となっていないのが当然のことと言える。

 なにしろ当時の日本列島は半世紀以上もたって、久しぶりに遣唐使を送った8世紀にあっては、唐に滅ぼされて取って換わられた隋の時代に渡った人々が、日本書紀でいう「中ツ国」と称し今も中国地方と呼ばれる岡山に集団結束していて、
この一大勢力を、郭務ソウは、トウはトウの発音でも「桃」の字をあて、己れらはトウはトウでも「藤」の当て字をもってして、同じ中国人どうしでも張りあっていたのだから、唐側で倭と日本と二分したのも有りうる事である。
 唐の鑑真和尚来日のとき「桃輩(原)」として彼らを通訳に使ったのである。江戸期まで「隋隋ずっころばしゴマ味噌ズイ」の蔭口は童唄として残されている程である。
これは唐が隋を滅ぼしたことへの優越感と、馬鹿にした伝承童謡なのである。最後に、この考察を補強する意味で「桃太郎伝説」の真実を以下に記しておく。
桃太郎伝説 御伽噺から見える日本史の真実  


 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。
 おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
「おや、これは良いおみやげになるわ」
 おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと、
中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。
 桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
 そしてある日、桃太郎が言いました。
「ぼく、鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、わるい鬼を退治します」
 そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。
 旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
 そして、こんどはサルに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 そしてこんどは、キジに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。
鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。
「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」
 イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。
 そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。
 とうとう鬼の親分が、
「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」
と、手をついてあやまりました。
 桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。
 おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。
 そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。お終い。
 これが、一般的な物語の筋書きである。
桃太郎は善で、悪いやつは鬼と言うことになっている。
だがこれは善玉と悪玉が完全に逆になっている。
 
 さて、ここからこの面妖な昔話を解剖すると、日本で「中ッ国」と呼ばれるのは現在の中国地方の岡山。
中国大陸で隋を滅ぼした唐が朝鮮半島の百済も滅ぼした。

 この当時の日本は百済人が立てた奈良王朝時代である。百済人たちは「朝鮮半島本国の一大事」とばかりに、
二万七千とも三万人とも言われる日本原住民をかり集め、派遣軍を半島へ送り込んだが白村江の戦いで大敗する。
これは学校でも教えている有名な史実である。
が、此処からが日本史では隠されているが、真実は以下のようになったのである。
 勢いに乗って唐の軍勢は、九州から本州へと進軍した。
そして唐を「籐」と替字し「藤原氏」と称した。この時代を平安時代という。そして当時から「ズイズイズッコロバシゴマ味噌ズイ」と今も童歌に残るように、日本にも唐が滅ぼした隋の人間は沢山来ていたので、彼らには同じトウでも「桃」の字を充てて区別していた。
(昔の日本は気候温暖で四季のはっきりとした、公害も無く、まして岡山地方は美しく住みやすく、黄塵の吹き荒れる大陸人にとってはこの世のパラダイスとも写ったろう。だからこれを「桃源郷」という)

 だから占領軍である桃(唐)から生まれた桃太郎は凛々しい貴公子で、偉い様なのである。
当時のことゆえ、吉備で獲れたキビを与えたとも考えられるが、おそらくはコウリャンだったろう。

新羅系の猿(サルリ、サルメ)、高麗の犬(コマイヌ)、百済の偵察を意味する雉、キージーに食料を配給して、
隠忍(オニ、鬼)と呼ばれていた、我ら御先祖の日本原住民(唐体制に従わぬ民)を討伐し、彼らが生産していた穀物や干魚、荒塩などを、宝物として略奪してきた、という話なのである。
こうした真実を教えないで、幼児時代から一般庶民の洗脳教育に童話の絵本が広まってる。
原住民の内でも、どんな体制にも従わず、河川、海浜や山奥に家族と一緒に逃げ回っていたサンカ族は、この国には多くいて、
サンカ(先住民)が特に多く住むと言う東海地方は太平洋戦争後、昭和40年代でも大人は、桃太郎の絵本などは絶対自分の子供に見せないし「わしらの頭に、角が生えているか・・・・・」と、本当の意味は判っていたらしい。

 

受難の日本書紀
焚書に次ぐ焚書



 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。
という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。

「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。
 それまで幕末までは各地方ごとに、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、
他の国ではディスカッションして覚えさせているものを、暗記物にしてしまった。
  だから学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。
 近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。
それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」「古事記」を信用してしまい、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。
 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているものだから、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、
その考えは間違いである。
なにしろ、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウ(唐)の人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。

「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」
とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた天孫民族)とした方が恰好がよいから、
おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。
 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。
 
 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、日本原住民を撃退したこの時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、
「クダラ人にあらざれば人にあらず、日本原住民は非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人の振る舞いをしていた。しかし驕る何とか久しからずである。
 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さま、つまり百済人の血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、
シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが次の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。
金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放で済んでいる。
 
 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけと理解すべきである。
民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。
ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力で、今もガザでイスラエルが虐殺を繰り返しているのでも解ろう。
 
 さて延暦二十年になると、西南に向けて潮流が変り、中国本土から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、
やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。
今もねぶた祭りとして、「ハネコ」が踊っているが、先祖が虐殺された歴史を知らぬから田村麻呂の山車をワッショイワッショイやっているのは「悲しきかな」の一語に尽きる。
 
 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、影武者の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、
せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した坊主や学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。
しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、
百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、
当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。
 
 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのったのである。「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。
 が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、
新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で安徳帝と共に水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。

頼朝を落馬死という事にし暗殺し、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。
「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せる計画だったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。
 
 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得度は受けられなかった。
平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主にはなれず、後年吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。だから政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。

 富士王朝の残党ともいうべき北条政子の同族は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、
藤と名乗る公卿の主だった者を斬首した。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき徹底的に見張りをするため、侍所をおいた。

政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。しかし北条時宗の時に、元軍来襲と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。
注・この元軍来襲の意味は、民族の復仇戦である。何故なら、
かつて沿海州から佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから同じ騎馬民族として元は北条を倒し、又源氏の世にしようと執拗に来寇を繰り返したのである。

元寇の真実

 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。
なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。
だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。
通交の為にきた国使のすることではない。これはもう挑戦でしかありえない。

やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕した。
少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底に。
時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。
 
 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。
それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし)
 

 間注所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、
万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、その証拠に今もロシアのハバロフスク民族博物館の正面入口の扉の上には、沿海州人(騎馬民族)の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。

つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。
明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。
だが、旧ソ連時代、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。また、世界で一番パンダ好きな日本は、騎馬民族の血を引く人間がそれだけ多い証拠でもある。

復活日本書紀の捨て石
突如として出現した日本書紀


 古代史の範囲に入る平政子の時代の改訂第五次日本書紀は、元寇で上陸された時の用心に、北条時宗によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然、似ても似つかぬものとはいえ、
日本書紀らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。

「南朝こそ正しい皇統である。北朝とよばれる足利体制は、昔の耶馬台国と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか」と厳しく論評した北畠親房にしても「神皇正統記」は残しえたが、
桓武焚書によって当初の日本書紀は燃されてしまった事実を述べてはいるが、第三次、第四次、第五次の日本書紀にふれていない処をみると、どうも、

(A) 第二次桓武製オンモン日本書紀は長岡京から、中国人が坊都とし造営した平安京つまり今の京都へ移る時に、写しはもっていったが原文は匿し長岡京の何処かに埋めてきたらしいこと。

(B) 勧学院の第三次漢字版日本書紀は高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛の時に、熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる。

(C) その第四次日本書紀は、清盛の歿後に福原で消滅したか、安徳帝と共に海底へ沈んだもので、その写しだけは鎌倉へ届けられたとみられる。
     でないと大江広元の記録所の書役で、平政子の第五次反藤日本書紀が、そう易々と、平氏側日本書紀に書き直されたものとは想えぬからである。

(D) この政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、これは反藤思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、
   北条時宗の時に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、
   惜しくも北条時宗に燃されてしまっている。つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、
   滅ぼしたのを蘇られてきたのが日本書紀なのである。だが国難の元寇による焚書の時は、もしもの時は殺されるとそれぞれみんな探し、写しさえも残されていない。


 江戸時代に伊勢の古い神官に保管されていた第四次のものらしい日本書紀を、珍稀本として刊行されたのが公儀の摘発する処となって、版元手錠で絶版にされ、関係したイザナギの神官はみな流罪処分にされた事件があった。この事は戦前の三省堂の「日本歴史年表」には三行程だがでている。

 まったく消え去ってなくなってしまった筈の日本書紀が、昭和の初めになると、皇国史観の黒板勝美博士によって、突如として蘇ってきて、活字本となって、
大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。
この売行の凄まじさに吉川弘文館が目をつけ版権の譲渡をうけ、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。
出版制限の戦争中でさえも国民精神作興教育のため次々と刊行された。そして、「神典」として、おおいに一般には、かつての教育勅語のごとくに普及した。
今も、吾々が手にとってみられる印刷された日本書紀の本はこれである。魔術のように、ない筈のものが、突如として、「神は蘇りたまえり」と、前半は神話で後半が史書という奇妙な体裁だが、
現実に皇国史観黒板勝美のものとして、堂々というか、出廻っていて、今では唯一確定的なものとして拝読されている。
 という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、それぞれ地方の伝承や古記録によって、己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、
国の正しい歴史が形成されてゆく‥‥といった積木細工式だから、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で真実はかなり明白になるうる。

 処が日本ではそうではない。今ある日本書紀が元本となり、金科玉条のごとく、動かし難いものとされているから、郷土史家のものも、その地方の伝承や古記録を、いかにして今の日本書紀に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、
まったく他をかえりみようとはしていない。
「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでんばらばらに皆ひっぱられ舟の上へ戻され、頚をつかまれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。
どの地方の古記録も、みな今の日本書紀の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに、官学の東大閥に認められ、他は黙殺されているのである。
 

 だから日本の郷土史家は零から出発するのが歴史の解明なのに、今の日本書紀を原点とし、それを一としニ、三と研究の展開をしてゆく。
しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするから、今の日本書紀では「大化の改新の舞台であった板葺宮は、その後火災にて忘失」とあるのに、さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の日本書紀は怪しまれる。すると築地へ新築移転前の朝日新聞が稲荷山古墳で十余年目に121個の文字が発見。これをもってしても、今の日本書紀はまったく正しいものであるとマスコミが証明する。
 それでも効果があまりないとみると、手を代え品をかえて、大安万侶の木牌が炭やきがまの奥から見つかったから、西暦712年に完成された古事記も正しいものだと大新聞が連日発表。

 古事記については別項で解明してあるが、今の日本書紀が大新聞の権威によって、戦後も、「高千穂峯に天孫降臨」と、よし外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の、「聖典」というか「神典」とあがめられて、
日本歴史の聖なる原典とされているのだが、なにも720年当時のものが、今までそっくり、ゼロックスでとられ、伝わってきている訳ではない。
 前にも述べたように、第一次から第五次まで。その時々の体制によって都合よく作り変えられて、北条時宗の時までは実存した。だが元寇の騒ぎで第五次のものは完全に燃やされた。
「黒板勝美日本書紀」は「国史体系」として、編修された第一巻であるが、その序言にまず、


「旧国史大系の時は寛文十三年に木版刷りで出版された松下見林のものを原底本となして、それに伴信友のものを参考にして編修をなして完成した」が、
そののち大正三年に到りては、『国史大系六国史』の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗が元文元年二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた「類聚国史」をも入手しえたので、
これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり」
と、徳川時代の原本なりとある。
 つまりこれをみると、第六次日本書紀は北条時宗の時に消滅したのが、南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって、西暦1673年の寛文十三年九月より延宝元年にかけて、
大阪人の松下見林によって、ようやく再生された事があきらかになる。
 
 彼は、日本書紀を四世紀ぶりに世に出したことよりも、「異称日本伝」「公事根源集釈」「職原抄参考」の著だけが、さも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは、日本書紀のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は、故意に敬遠というか黙殺され遠ざけられて、匿されてしまっている傾きがないでもない。

 なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た故紙の中からでも底本になるものを見つけだし、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家つまりトウの堂上かたとみれば、これは桓武焚書後に、
主として勧学院で作り出された第三次の、則天(漢字版)日本書紀の反古紙で、何かの内張りになっていたものを、襖の下張りか、掛け軸の内ばりにするため京の故紙商が、かためて購入してきたものを、
よってみて大阪の松下見林の許へ、「先生は、四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」と下張りにするよりは、高値にて儲けようと、持ち込まれでもしたものらしい。
 版行に先だって大阪町奉行所は事前検問に京所司代に提出し裁断を乞うた。堂上公家の冷泉家を呼んで読ませたところ、トウ製のものゆえ別に反対や異存もなく許可がでたらしい。
 江戸表でも、だから、この第三次日本書紀は復刻なみと別にお咎めもうけずに済んだらしい。

宮本武蔵は架空の人物
二刀流は雑兵の戦法


  さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。
もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」
と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。

なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ踊りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。

昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、
「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。
 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナニー用に求めたものだ。

 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。
「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、
昭和五十年になって新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。

 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだから、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、
進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、
武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。
 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、
青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者になる。
 
 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。
講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。
吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。
 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。
 さて、芝居の両島英雄記や、黄表紙本を数多く出している彼が、本居太平の許で筆写したのを底本に書いた「日本書紀」では、いくら士分の者の筆になったものとはいえ、問題にならぬと、

「伴信友校本」は、「ねやのひめごと」の作者ゆえ、リース門下や黒板勝美にも参考にされたが、軽くみられたらしい。
後世の伴信友の三百余の著書目録にも、日本書紀の権威のために削除されて、その書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。
 江戸初期の松下見林や幕末の伴信友は、日本書紀復活に貢献して、それぞれが書いているが、黒板勝美は「国史大系」の下肥えか、縁の下の力もちにされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。
 つまり第七次第八次ともいえる江戸時代の松下や伴の日本書紀は、それぞれ木版で刊行されはしたが、明治になってすべて回収され、まったく今では跡かたもなく消滅させられているのが真実なのである。