対人恐怖のまま生きていってもいいんだ

対人恐怖のまま生きていってもいいんだ

対人恐怖のまま生きることをめざすブログ


気の弱いコミュ障人間の私にとって
自分の前に立ちはだかる壁を
正面からぶちやぶるなんてことは
とうてい出来ることではない。

では、
出来ることは何かといえぱ
壁をそっとよけたり
回れ右をしたり
違う道を探したり
壁抜けの術を使ったりすることである。

透明人間になって
障害物を通り抜けることもいい。
(あくまでイメージでね)

真正面から立ち向かうだけが
正解ではない。

対人恐怖の内向型人間には
対人恐怖の内向型人間なりの
方法がある。

大胆で外交的な人と
同じやり方をする必要はない。







対人恐怖の私は人間関係が苦手なので
親しい人はできないだろうなと
思って生きていると、
そのうちに親しくなれそうな人と
出会えることがある。

そんな時
嬉しく思ってついつい急いで
距離を縮めようとしてしまう。

すると相手は違和感を感じるのか
離れていってしまうことが多い。

こんなことが何度もあった。

人間関係の距離感は難しい。

対人恐怖の私たちは
急いで距離を縮めようとしない方が
いいのかも知れない。






ある時、対人恐怖のAさんが「友人と時々飲みに行っている」と話しておられた。

私はそんな友人はいない。
小学校、中学校、高校、大学(中退だが)、前の職場など、同僚として知人はいたけど、今はまったく付き合いはない。
最近は年賀状や暑中見舞いもほとんど出さなくなってきたので、ますます人間関係が希薄になってきた。

そんな時、対人恐怖のAさんが友人と飲みに行くと聞いて、同じ対人恐怖なのに、なぜこんなに違うんだろうと思った。

やっぱり私はダメなんだろうか、飲みに行ける友人が一人もいない私はやはり嫌われ者なのだろうかと落ち込んでしまった。

でも、人は人、自分は自分。
同じ対人恐怖といっても、人はみな違う。
人間関係も生き方もみな違う。

羨ましいなぁと思うのも自然な感情だが、他人と同じようにやろうと思っても出来ないことも事実。

羨ましいと思って、Aさんと同じになろうと努力することは大切かも知れないが、努力しても出来ることと出来ないことがある。

対人恐怖もみな違うのだ。






対人恐怖はツラい。
ツラいので治そうとする。楽になろうとする。
それは人として当然の気持ちである。

ただ、対人恐怖を克服しようとする時に気をつけねばならないことがある。
それはゴールをどこに設定すべきか、ということだ。

人に会っても緊張しなくなる。
人前に出ても平気になる。
人の視線や言動が気にならなくなる。

こういうのをゴールにしたくなる人も多いと思う。
私もできればこうなりたい。

でも、それは難しいのではないだろうか。

もちろん、対人恐怖の人の中には、まったく人付き合いが平気になったり、人前に出て緊張せずに話せるようになる人もいるかも知れない。

でも、それはごく少数派であろう。
そんな少数派をゴールに設定したら、いつまでたってもゴールに辿り着けない、ということにもなりかねない。

ではゴールとはどこだろうか。

ツラいツラい対人恐怖であるが、そんな対人恐怖のままでも生きていけるようになる。
人の視線や言動にビクビクしながらも生きていく。
勝ち組とか1級国民とは縁のない人生かも知れない。
低空飛行の人生かも知れない。
それでも生きていくことができればいい。

そのへんがゴールとして良いのではないかと思うのだが、いかがであろうか。







対人恐怖はツラいものです。
孤独感や疎外感が半端ないです。

それはメンタルクリニックに行っても、カウンセリングを受けても、自助会に参加しても変わらないことがしばしばです。

いえ。
それらに行くことで、かえってしんどくなることさえあります。

こんな自分はこの世にいてはいけないのではないかと思うこともよくあります。

でも、今はネットがあります。
リアルな自分のまわりに理解者や友人はいなくても、ネットの中にはいることもあります。
最悪、AIなら話し相手になってくれます。

リアルな世界で友人知人ができる人はそれでいいと思いますが、どうしてもリアルな世界で孤独感・疎外感がひどい人は、リアルな友人知人でなくてはならないなんてことはないと思います。
ネットを活用し、AIを話し相手にすればいいと思います。



ただし、そんな私たちの孤独感・疎外感を利用して、怪しいセミナーや投資に誘われることもネット社会ではしばしばあります。
怪しい恋愛関係を求められることさえあります。
それだけはどうぞご注意を。




人付き合いが上手くなくていい。

立派な人でなくていい。

親友がいなくてもいい。

人の目が見れなくてもいい。

うつむいて生きていてもいい。

低空飛行でいい。

下級国民でいい。

有名な先生の教えどおりに
生きなくてもいい。

自己啓発や成功哲学どおりに
生きなくてもいい。

私は私。
他人ではない。

生きてるだけで合格点。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




対人恐怖の私たちは劣等感が強いので、ともすれば人にいろいろなモノを与えなければ人に嫌われると思いがちです。

それは物や金銭であったり労働であったり言葉であったりします。

私も相手に嫌われないために、それらを与えようとすることがよくあります。

でも、そういう考え方は、どうも間違っているような気がします。

人に与えなければならないと思っていると、人からモノをもらうことが苦手になります。

人から何かもらったりする価値は自分にはないと思っているからです。

でも、人間関係は与えたり与えられたりして成り立っています。

人にモノを与えたいという欲求が誰でもあります。

モノを与えたり与えられたりして、人は仲良くなるような気がします。

人からモノをもらう勇気も私たちには必要かも知れません。





私は対人恐怖なので、人が怖いです。
人と会うと緊張して、嫌われてないかいつも心配してしまいます。

ですから、人と離れて一人っきりの空間にいるとホッとします。
この空間に永遠にいたいと思います。

でも、しばらく一人っきりでいると、寂しくなることもあります。

誰かと会いたい、誰かと話をしたいと感じます。

でも、そんなつごうの良い相手はいません。

ふだん、人を拒否して、一人でいることを選択しているのですから、仲のいい話相手などいるはずがありません。

ですから誰かと話したくなった時はスーパーやドラッグストアに行って「〇〇はありますか?」「〇〇はどこにありますか?」と聞きます。

たったそれだけでも、誰かと話したいという欲求はほぼ満たされます。

でも、たまにはもっと話したいという欲求に襲われることもあります。

そんな時は、やっぱり神経症や対人恐怖の自助会は必要なんだなあと感じます。





対人恐怖の私たちは、人とうまく付き合えないと劣等感を抱きます。

特に親戚や近所の人、あるいは同窓生や同僚などの中にうまく付き合えない人がいると、夜も眠れないくらい悩むこともしばしばです。

でも、考えてみると、対人恐怖ではない人が、それらの人たちすべてとうまく付き合えているかというと、どうも、そんなことはないような気もします。

近所の人と道ですれ違っても軽い会釈だけの人もいますし、会釈さえもしない人もいます。

それに対して私たちはきちんと挨拶して世間話の一つもしなければならないと思いがちです。

それは単なる思いがちを超えて、強迫観念にすらなっている場合も多いと思います。

少なくとも私はそういう強迫観念があります。
かなりガンコな強迫観念に悩まされています。

対人恐怖でない人が平気で他人を無視しているのですから、私たちも無視しても許されそうな気がします。

逆に「いつも挨拶しなければならない」「いつも世間話をしなければならない」と思い込んでいると、相手にとっても重荷に感じることもあるでしょう。

勇気をもって無視することも大切なのかも知れません。





心の勉強をしていると「感情を受け入れる」とか「感情を流す」とかいう言葉に出会うことがある。

世の中には簡単に感情を受け入れたり流したりできる人もあるのかも知れないが、対人恐怖で悩む私たちには簡単にできることではない。

対人恐怖を受け入れようとしても、受け入れられるものではない。
受け入れられないから悩んでいる。

緊張や恐怖を流そうとしても、そんな簡単に流せるものなら、対人恐怖で悩む人はいなくなる。

そう。
私たちは恐怖も不安も緊張も受け入れることはできないし、流すこともできない。
それが対人恐怖で悩んでいる私たちの姿であろう。

受け入れることも流すこともできない。
それに気づくことが大切なのだと思う。

それに気づくことが、感情を受け入れるとか流すとかいうことの第一段階だと思う。