対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

私は対人恐怖で、緊張すると手が震える小心者の治療師ですが、
それでも30年余、延べ10万人も施術してくることが出来ました。

その経験から、対人恐怖でお悩みの治療師のみなさんに、
メンタルや施術方法についてお話したいと思います。


ですから、この独坐は、

独坐鎮寰宇 (独坐して寰宇(かんう)を鎮(ちん)す)

というような、天地世界を圧しての独坐なのであります。(寰宇は世界、天下、天地の意)


言いかえるならば、全世界を腹に納めての独坐であり、尽乾坤森羅万象ことごとくを尻の下にひっしいての独坐なのであります。


ここのところは、理屈ではちょっとわかりかねると思いますが、ともかくこのような体験を得てこそ、はじめて自己の存在の価値、自己の人格の尊厳さ、自己の生命の貴さというものが自覚されてくるのであります。


すなわち、無限の時間、無限の空間の中の、「今」「ここ」というこの一点に、こうやって存在しているという驚異と感激に目ざめることであります。


この驚異、この感激、これ以上の奇特がありましょうか。


真の宗教というものは、こういう奇特をわたくしたちに与えてくれるものでなくてはなりません。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 
















難しいです。

特に私は理屈で考えようとするところが強いので、よけいに分かりにくく感じるのかも知れません。

体験の世界ですので、仕方ないかも知れませんが。









こういう僧の問いに対して百丈は、

「独坐大雄峰」(わしは、今、ただひとり、この大雄峰でどん坐っているよ) (大雄峰は禅師が住しておられた百丈山の別名、江西省洪州南昌府にある)

と答えられました。


これは百丈が大雄峰におられたからこう言われるのであって、なにも大雄峰に限ったことではありません。


今、ここで、こうして坐っているということ、これ以上の霊験奇瑞があろうか、これ以上尊いこと、すばらしいことがあろうか、といわれるのです。


もちろんこの独坐というのは、ただひとり、ぼんやりと坐っていることではありません。


この「独」の一字が大切で、これは「天上天下唯我独尊」の独であり、「万象之中独露身」の独であり更に親鸞上人が「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」といっておられる「一人」であります。


すなわちこの独は、多に対する一というような相対的な独ではありません。


絶対の独、自他の相対を絶して天地と一枚になった境地をいうのであります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 
















絶対の独というのは、話を聞けば、そういうものかなと思いますが、その実、まったく分かりません。

AかBかと聞かれて、Cだと答えるような話が禅にはよくあると思いますが、このCはAでもなく、BでもないCということではなく、AもBも含んでいるCということなのでしょうか。

難しいです。









独坐大雄峰(どくざだいゆうほう) (碧巌録第二十六則)



一人の僧が百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師のところへ来て、

「如何なるか是れ奇特(きどく)の事(じ)」

と問いかけました。


ところで、この奇特ということですが、これには、おおよそ二通りの意味があると思います。


まず、霊験奇瑞というような不思議なしるしを意味します。


およそ世の人々が宗教を求め、信仰する場合には、病気平癒のためとか、商売繁盛のためとか、家内安全のためとか、いろいろと霊験ごりやくを目あてにしていることが多いようです。


そして、そういう願い事をかなえてくださるのが、ありがたい宗教であり、霊験あらたかな神さま仏さまであるかのように思っています。


また、予言をしたり病気を治したりする者が、神通力のある偉い宗教家だと考えている人もいるようです。


そういう世間の人たちの考えを代表して、「百丈禅師のところ、すなわち禅には、どんな霊験奇瑞があるのですか」と問うたのかもしれません。


また奇特には、すぐれたこと、尊いこと、すばらしいことという意味もあります。


ですから、この僧は「この世の中でいちばん尊いことすばらしいことはなんでしょうか」と問うているのかもしれません。


いったいそれはなんでしょうか。


金か、名誉か、命か、悟りか、仏か、神か。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















考えてみると、私も宗教家に対して、霊能力や神通力を求めているところがあります。

純粋に教えを求めているところもありますが、もし、同じくらい素晴らしいことを説いている二人の僧がいて、片方は霊能力も神通力はまったく無く、もう片方はものすごい霊能力や神通力を持っていたら、そちらの方に教えを求めるかも知れません。。。








これは『南蛮寺興廃記』に載せられている話ですが、もちろん史実のほどはあきらかではありません。


ともかく、この黙然と坐したところ、一喝したところ、これが「即心即仏」の活潑々地なはたらきであることが納得できなければ、真に「即心即仏」がわかったとはいえないのです。


頭ばかり、口先ばかりでは、なんにもなりません。


最後に、次の話を加えておきましょう。


宋の仁宋帝が大覚璉(だいがくれん)禅師に、


才去竪払  才去って払を竪つ

人立難当  人立って当たり難し


という謎語を与えたところ、禅師は直ちにそれが「仏」という字であることを判じ、そして同じように謎語をもって、しかも五言絶句でこれに答えました。


有節非于竹  節あれども竹にあらず (即)

三星繞月宮  三星、月宮を繞る (心)

一人居日下  一人、日下に居す (是)

与衆人弗同  衆人と同じからず (仏)


つまり「仏」とは「即心是仏」であると答えられたわけであります。



(了)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















「即心即仏」という言葉はなんとなく理解できたような気がしていても、黙然と坐したところや、一喝したところが「即心即仏」だと言われると、もう何がなんだか分からなくなります。

体験として分からなければ、本当に分かったことにはならないのですね。









やがて論戦が開かれることになり、まず南禅寺の印長老とフルコムが対座しました。


フ「如何なるか是れ仏法」


印「即心即仏」


フ「即心即仏の奥義如何」


印「即心即仏」


フルコムの鋭いほこ先を平然と受けて、印長老は同じことを繰り返しました。


気負い立ったフルコムは、やにわに長老の胸をつかみ、剣を突きつけて、再び、

「即心即仏の奥義如何」

と迫りました。


すると長老はジーッと目を閉じたまま一言も発しません。


この黙然として坐してしるところに、実は「即心即仏の奥義」を看てとらねばならないのですが、フルコムはもちろんのこと、だれもそれを看破するだけの力がありません。


理道和尚は長老の敗北と思い、自ら代わってこれに対抗しようとしました。


そのときです。


長老はクワッと目を開くや、

「カアーッ」

と大喝一声。


この一喝をあびせられて、フルコムは思わず卒倒したという。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















質問されても答えずに黙っていたら、答えに窮したと考えるのが普通でしょう。

剣を突きつけて答えを迫るのも、禅らしいような気がします。

フルコムは禅の勉強もしっかりして来たのだと思います。

そのフルコムでさえ、黙坐していることそのものが「即心即仏」だということが分からず、理道和尚さえ分からなかったということは、とても深い内容だということなのでしょうね。

私も答えに窮している人をみたら敗北したと思ってしまいます。








なお「即心即仏」について思い出すのは、次のような物語です。


天正五年(1577)十月、織田信長が安土の城中において、そのころようやく盛んになってきたキリシタンと、仏教徒とを対論せしめたことがありました。


仏教側からは、南禅寺の院長老、浄華院の理道和尚、永観堂の深海律師をはじめ、諸宗の碩学が出席し、キリシタン側からは、南蛮寺の監督のフルコムをはじめ、イルマンらが参りました。


このフルコムというのは、長崎へ渡来後、仏教を研究し、一切経を通覧すること二回、というほど頭のよい人で、この日、蜀江錦の衣に二尺余の剣を帯びて出ました。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















一切経は膨大な巻数があると聞きます。

キリスト教布教のために渡来したフルコムという人が、その一切経を二回も読んだとは驚きました。

日本語を勉強したのでしょうか。

中国語も勉強したのでしょうか。

一切経ですから、仏教の専門の言葉で書かれていますから、日本人でも読める人はごくわずかだと思います。

日本まで布教に来る人は生半可な気持ちでは来れないということがよく分かります。








法常は馬祖に「即心即仏」と言われて言下に大悟するや、ただちに大梅山に隠棲し、終生ついに世に出ませんでした。


後に馬祖はひとりの僧を大梅山に遣わして、探りを入れさせました。


僧「あなたは馬祖のところで、なんの得るところがあって、師の下を離れ、この山に隠棲されたのですか」


法「馬祖は即心即仏と言われたから、わたしはすぐここへ来たのです」


僧「馬祖は、このごろは前とちがった説き方をされていますよ」


法「どうちがうのですか」


僧「このごろは非心非仏と教えておられます」


法「あの老人はどこまで人をまどわす気だろう。たとえ馬祖が非心非仏と言われようとも、わたしはどこまでも即心即仏だ」


僧が帰って、馬祖にこのことを話しますと、馬祖は、

「梅の実は熟したようだ」

といって、法常の真に大悟したことを認められた、ということです。


この話をよくよく味わってみるべきです。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















師匠が説き方を変えようと、その奥にあるものは変わらないということを法常は分かっていたということでしょう。

馬祖はそういうことで弟子の法常が真に大悟したかどうか試されたということですね。

法常にとって即心即仏であろうが、非心非仏であろうが、どちらでもいいことだけども、即心即仏の教えで大悟したのだから、最後まで即心即仏を大切にしたかったのでしょう。たぶん。









ところが、さて「非心非仏」などと言われると、またその「非心非仏」にとらわれて、ああだこうだと、迷いたがろうとするのですから、人間というものはまことに厄介なものです。


もともと禅の言葉というものは、一定の固定した思想概念を表現するものではないのですから、そんな言葉についてまわっていては、その真意を領得することはできません。


絶対肯定的に「即心即仏」と言われようが、絶対否定的に「非心非仏」と言われようが、それは表から言われたか裏から言われたかで、実は「仏」は「即心即仏」でも「非心非仏」でも、肯定でも否定でもないのです。


そこのところをよく注意して、なによりもまず、そういう言葉を吐かれた馬祖の境地、宗教体験というものをしっかりと徹見し、自己の上に証得することが大切であります。


証得しさえすれば、なんと言われようがビクともしないし、また、なんと表現しようが自由自在であります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















肯定とか否定とかを超越したものを禅では教えて体得させるということは、この本を読んでいるとよく分かります。

といっても、頭で分かっているだけで、体験として分かっているわけではないので、本当に分かったとは言えないのですが。









更に注意すべきことは、「即心即仏」などというと、またすぐその言葉についてまわり、「即心即仏」が禅である真理てあるとして、その固定観念から一歩も抜け出せなくなるということです。


どれほどりっぱなことでも、それに執着するならば、それは一つの妄想です。


病弊です。


禅ではそれを最も警戒します。


事実、馬祖が「即心即仏」の語をもって常に説示されるや、これが一つの流行語となり、だれもかれもが「即心即仏」を口にするようになりました。


そこで馬祖は、世人が「即心即仏」に執して誤ってはならぬと心配され、後に「非心非仏」と言い直されました。


『無門関』第三十三則にも、ある僧が、

「如何なるか是れ仏」

と問うたのに対して、馬祖が、

「非心非仏」

と答えられたことが見えています。


「即心即仏」が、柳は緑、花は紅と絶対肯定の立場に立つ語ならば、「非心非仏」は鴉は白く鷺は黒しと絶対否定の立場に立つ語で、言葉の上からすればまったく正反対なことを言い出されたわけです。


これは言葉についてまわろうとする病弊を取り除かんがための、馬祖の活作略(かつさりゃく)にほかなりません。


すなわち、心のわだかまりを跡かたもなく、きれいさっぱりと取り除かれたわけです。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















絶対肯定と絶対否定の言葉が同じ意味とは面白いですね。

それぞれがあらわしているものが、けっきょくは同じものだからこそ、形の上では正反対の言葉になるのでしょう。

私もすぐに言葉にとらわれる方なので気をつけねばなりません。








しかし、シブ即甘味だ、凡心即仏心だといっても、それを安易に平面的に受け取ってはなりません。


シブ即甘味だからといって、シブ柿をかじるバカもおりますまい。


シブはシブであって甘味ではありません。


同様に、このおそまつ千万な自己、煩悩妄想でいっぱいになっている心が仏であるというのではありません。


そこにシブを転じて甘味となし、凡心を転じて仏心となすという、一つの転換がなければならないのです。


すなわち、「即」とか「そのまま」ということは、一つの転換を経た高次元においてのことなのであります。


そこを取り違えてはなりません。


「即」とか、「そのまま」と言いながら、きびしい修行が要請されるゆえんであります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 

















森田療法でも「あるがまま」ということをよく言われますが、この「あるがまま」というのがとてつもなく難しいことであります。

何か別の状態になる方が「あるがまま」より簡単なのではないかとも思ってしまうくらい難しいです。

おそらくそれ以上に難しいのが、禅における「即」「そのまま」ということなのでしょう。