ですから、この独坐は、
独坐鎮寰宇 (独坐して寰宇(かんう)を鎮(ちん)す)
というような、天地世界を圧しての独坐なのであります。(寰宇は世界、天下、天地の意)
言いかえるならば、全世界を腹に納めての独坐であり、尽乾坤森羅万象ことごとくを尻の下にひっしいての独坐なのであります。
ここのところは、理屈ではちょっとわかりかねると思いますが、ともかくこのような体験を得てこそ、はじめて自己の存在の価値、自己の人格の尊厳さ、自己の生命の貴さというものが自覚されてくるのであります。
すなわち、無限の時間、無限の空間の中の、「今」「ここ」というこの一点に、こうやって存在しているという驚異と感激に目ざめることであります。
この驚異、この感激、これ以上の奇特がありましょうか。
真の宗教というものは、こういう奇特をわたくしたちに与えてくれるものでなくてはなりません。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
難しいです。
特に私は理屈で考えようとするところが強いので、よけいに分かりにくく感じるのかも知れません。
体験の世界ですので、仕方ないかも知れませんが。