これは『南蛮寺興廃記』に載せられている話ですが、もちろん史実のほどはあきらかではありません。
ともかく、この黙然と坐したところ、一喝したところ、これが「即心即仏」の活潑々地なはたらきであることが納得できなければ、真に「即心即仏」がわかったとはいえないのです。
頭ばかり、口先ばかりでは、なんにもなりません。
最後に、次の話を加えておきましょう。
宋の仁宋帝が大覚璉(だいがくれん)禅師に、
才去竪払 才去って払を竪つ
人立難当 人立って当たり難し
という謎語を与えたところ、禅師は直ちにそれが「仏」という字であることを判じ、そして同じように謎語をもって、しかも五言絶句でこれに答えました。
有節非于竹 節あれども竹にあらず (即)
三星繞月宮 三星、月宮を繞る (心)
一人居日下 一人、日下に居す (是)
与衆人弗同 衆人と同じからず (仏)
つまり「仏」とは「即心是仏」であると答えられたわけであります。
(了)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
「即心即仏」という言葉はなんとなく理解できたような気がしていても、黙然と坐したところや、一喝したところが「即心即仏」だと言われると、もう何がなんだか分からなくなります。
体験として分からなければ、本当に分かったことにはならないのですね。