更に注意すべきことは、「即心即仏」などというと、またすぐその言葉についてまわり、「即心即仏」が禅である真理てあるとして、その固定観念から一歩も抜け出せなくなるということです。
どれほどりっぱなことでも、それに執着するならば、それは一つの妄想です。
病弊です。
禅ではそれを最も警戒します。
事実、馬祖が「即心即仏」の語をもって常に説示されるや、これが一つの流行語となり、だれもかれもが「即心即仏」を口にするようになりました。
そこで馬祖は、世人が「即心即仏」に執して誤ってはならぬと心配され、後に「非心非仏」と言い直されました。
『無門関』第三十三則にも、ある僧が、
「如何なるか是れ仏」
と問うたのに対して、馬祖が、
「非心非仏」
と答えられたことが見えています。
「即心即仏」が、柳は緑、花は紅と絶対肯定の立場に立つ語ならば、「非心非仏」は鴉は白く鷺は黒しと絶対否定の立場に立つ語で、言葉の上からすればまったく正反対なことを言い出されたわけです。
これは言葉についてまわろうとする病弊を取り除かんがための、馬祖の活作略(かつさりゃく)にほかなりません。
すなわち、心のわだかまりを跡かたもなく、きれいさっぱりと取り除かれたわけです。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
絶対肯定と絶対否定の言葉が同じ意味とは面白いですね。
それぞれがあらわしているものが、けっきょくは同じものだからこそ、形の上では正反対の言葉になるのでしょう。
私もすぐに言葉にとらわれる方なので気をつけねばなりません。