ところが、さて「非心非仏」などと言われると、またその「非心非仏」にとらわれて、ああだこうだと、迷いたがろうとするのですから、人間というものはまことに厄介なものです。
もともと禅の言葉というものは、一定の固定した思想概念を表現するものではないのですから、そんな言葉についてまわっていては、その真意を領得することはできません。
絶対肯定的に「即心即仏」と言われようが、絶対否定的に「非心非仏」と言われようが、それは表から言われたか裏から言われたかで、実は「仏」は「即心即仏」でも「非心非仏」でも、肯定でも否定でもないのです。
そこのところをよく注意して、なによりもまず、そういう言葉を吐かれた馬祖の境地、宗教体験というものをしっかりと徹見し、自己の上に証得することが大切であります。
証得しさえすれば、なんと言われようがビクともしないし、また、なんと表現しようが自由自在であります。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
肯定とか否定とかを超越したものを禅では教えて体得させるということは、この本を読んでいるとよく分かります。
といっても、頭で分かっているだけで、体験として分かっているわけではないので、本当に分かったとは言えないのですが。