法常は馬祖に「即心即仏」と言われて言下に大悟するや、ただちに大梅山に隠棲し、終生ついに世に出ませんでした。
後に馬祖はひとりの僧を大梅山に遣わして、探りを入れさせました。
僧「あなたは馬祖のところで、なんの得るところがあって、師の下を離れ、この山に隠棲されたのですか」
法「馬祖は即心即仏と言われたから、わたしはすぐここへ来たのです」
僧「馬祖は、このごろは前とちがった説き方をされていますよ」
法「どうちがうのですか」
僧「このごろは非心非仏と教えておられます」
法「あの老人はどこまで人をまどわす気だろう。たとえ馬祖が非心非仏と言われようとも、わたしはどこまでも即心即仏だ」
僧が帰って、馬祖にこのことを話しますと、馬祖は、
「梅の実は熟したようだ」
といって、法常の真に大悟したことを認められた、ということです。
この話をよくよく味わってみるべきです。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて
いただきました。
師匠が説き方を変えようと、その奥にあるものは変わらないということを法常は分かっていたということでしょう。
馬祖はそういうことで弟子の法常が真に大悟したかどうか試されたということですね。
法常にとって即心即仏であろうが、非心非仏であろうが、どちらでもいいことだけども、即心即仏の教えで大悟したのだから、最後まで即心即仏を大切にしたかったのでしょう。たぶん。