DV・モラハラ被害者はなぜ逃げられないのか(トラウマ性の結び付き traumatic bonding) - 歪んだ心理空間における精神的被害 (hatenablog.com)
-------(以下、リンク先から本文転載)
「トラウマ性の結び付き(traumatic bonding)」という、一般の人々には理解され難い被害者心理があります。トラウマになるような被害を受けている者が、加害者から離れられなくなる心理ですが、これはしばしば指摘されがちな「共依存」とは全く性質が異なるものです。もちろん、「マゾ趣味」などでもありません。
DVやモラハラの加害者に暴力のサイクルがあると、それが関係して、被害者が逃げられなくなることもあります。そのサイクルとは、加害者がストレスを溜め込む時期と、怒りを爆発させる時期と、暴力を反省し、優しくなる「ハネムーン期」とを繰り返すというものです(ランディ・バンクロフト『DV・虐待加害者の実体を知る―あなた自身の人生を取り戻すためのガイド』, 2008, pp. 185-188)。
加害者が反省して優しくなったときに、被害者が加害者との関係を再び受け入れてしまうと、加害者は被害者を、自分の暴力を許してくれる相手だと認識してしまうようになり、結果的に、暴力をエスカレートさせることになります。被害者の方では、加害者の機嫌が良い状態を維持するために、自分はどうしたら良いのかと、考えるようになってしまいます。そのようにして、被害者は加害者の機嫌を伺うようになり、支配下に置かれるようになります。
しかし加害者と別れようとすれば、被害者は何かと多くのものを失わなくてはなりません。結婚している場合は加害者との共有財産を失いますし、子どもの養育権を失うこともあります。暴力の激しい加害者がストーカー化してくる場合、被害者は行方をくらませるために、仕事も辞めなくてはならなくなります。加害者と共通の人間関係があると、加害者との接点が残ってしまうので、そうした人間関係すべてを捨てなくてはならなくなります。その他、加害者との関係改善のために費やしてきた膨大な努力が、すべて無になります。
加害者と別れようとすると失うものが膨大にあるため、とりわけ加害者に暴力のサイクルがあって機嫌の良い時期がある場合、被害者は「何とか、この程度でやっていけないか」と思ってしまうのです。特に被害者は、毎日を無難にやり過ごすことに気力を使い果たしており、加害者と縁を切るために大ごとを起こすエネルギーをもっていません。
また、DVの暴力が最も激しくなるのは、被害者が加害者から逃げようとするときです。殺人や殺人未遂の危険が特に高いのは、被害者が加害者と別れようとするとき、あるいは別れた後です(バンクロフト, 前掲書, p. 262; マリー=フランス・イルゴイエンヌ『殴られる女たち―ドメスティック・バイオレンスの実態』, サンガ新書, 2008年, pp. 241-242)。加害者と別れようとするだけで酷い目に遭わされる被害者は、別れるためのモーションを起こすこと自体に恐怖を感じるようになるでしょう。特に、加害者に「ハネムーン期」がある場合、被害者は自分に優しくしてくる加害者を拒絶する勇気など、もつことができなくなるでしょう。
DVの場合は家族問題ですので何かと複雑な事情も生じると思われますが、全く何の用もなければ、何の情もない相手に対しても(また、そもそも男女間でなくても)、ある条件下では同じような事が起こります。
被害者を震撼させるような事をした加害者が、その後、親切そうな顔を見せて被害者の味方として振る舞うと、被害者は加害者を拒絶して再び敵に回すことに恐怖を感じるため、加害者との友好的な関係を受け入れざるを得ないという諦めの気持ちになり、加害者に気に入られた状態を維持しようと努力するようになります。何家族もの被害者を出した尼崎事件(2012年に発覚した連続殺人死体遺棄事件)の経緯を見ると、主犯の女はこのような手口を使っていました。
「被害者はなぜ逃げられないのか」という問いに簡単に答えようとすれば、それは、加害者が被害者を逃がさないための変質的な工夫を念入りに行っているからです。セクハラの事例を見ていても、被害者が肉体関係を強要され、激烈な心理的ダメージを負わされるケースにおいては、パワハラや陰湿な虐め(モラル・ハラスメント)とセクハラとの両方が同時に行われていることがあります。加害者は被害者を脅したり怒鳴りつけたり強姦したりしながら、強引に男女関係を受け入れさせてしまっています(NPO法人日本フェミニストカウンセリング学会・性犯罪の被害者心理への理解を広げるための全国調査グループ、『なぜ「逃げられない」のか―継続した性暴力の被害者心理と対処行動の実態―』、財団法人倶進会助成事業、2019年を参照)。
こうして、DV、モラハラ、悪質なセクハラ、ストーカー事件などにおいては、被害者は加害者との縁を切るために、自分が属している環境や仕事や友人関係など、多くのものを失わなくてはならなくなることがあります。つまり、被害に遭っている方が、事態を解決するために、更に多くのものを失うのです。それがあまりに理不尽に思われるので、被害者は簡単にはそうしようという気になれません。事態を修正できそうな余地があれば、必死になってそうしようとしてしまいます。
しかし、死に物狂いで努力すればするほど、自分が使った精神的エネルギーが一種の負債のようになっていってしまい、かえって加害者との葛藤に囚われることにもなります。人は自分がエネルギーを費やすことに執着してしまい、それが悪い結果に終わることに耐えられなくなるからです。