星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 つい昨夜のことです。

 

 ある男性がこういう風に言ったとか言わないとか。

 

 「それはね、その男がマミちゃんを拒んだこと自体が悪いのではないよ。

 

 女性の、即ちマミちゃんの心に後々まで深い傷を残すようなやり方で拒んだのが悪いんだよ」

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 「男なら負けてやれよ 女なら感じろ」

(シャ乱Q「いいわけ」)

 

 「男に強引に求める女は間違っている。しかし、それを飽くまでも拒む男はもっと間違っている」

(名倉マミ)

 

 

 言うまでもなく、一連の記事との関連性を持たせる為&語呂合わせで付けたタイトルですけど、内容的には「つんく♂に告ぐ」じゃなくて「つんく♂に告げられる」ですね(^_^;)

 シャ乱Qの音楽はあんまりいいと思ったことはないんですが、このフレーズは印象に残ってます。何となく言わんとしてることがわかって好きです。

 

 こんな歌謡曲、他愛ない恋愛ソングの歌詞まで「ジェンダー規範の押しつけだ」と槍玉に挙げられる時代になるとすると、さすがのあたしも、それも却って生き辛いなあ、と思ってしまいそうです(-_-;)

 

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前回までの概要:名倉の友人が好きでもない男性から与謝野晶子の「やは肌の熱き血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」という短歌を贈られて困惑。「こんなん、女から男に贈るからいいのであって、男から女に贈られたら気持ち悪い」と一蹴。

名倉「では男性からの女性に対するダイレクトな欲望を表現した作品はどうか?それを男性から女性に贈るのはどうか?個人的には好きだが、やはり『イケメンに限る』『相思相愛に限る』である」

 

 与謝野晶子の歌を男女逆転させるとこんな感じになるのかな(五七五七七になってないのは勘弁して)。

 

 「お高くとまって哲学風味の議論なんかぶっこいてても、所詮はおまえも女なのさ。今夜も寂しく独り寝か?一遍俺に抱かれてみないか?」

 

 クサ(^_^;)

 でも、特に80~90年代くらいのポップスによくありそうな気がしません?

 

 やはり、イケメンじゃなかったら、またある程度こっちにもその気がなかったら殴りたくなりますが(-。-)y-゜゜゜

 

 

 そうそう数ヶ月前、ある官能小説家の青年とサシ飲みしました。

 「俺はエロ作家の矜持に懸けて、『あたしはパウロなの』とか言ってる女を口説き落としてみせる」

 「君ももの書きだろう。本当に文学者として大成したいなら、古いパターンやつまらないポリシーを打ち破って、その向こうにある新しい世界を見るべきだ。つまり、俺と寝るべきだ」

 と言っていたんですが、べつに好きじゃなかったのでお断りした所、彼は怒って帰ってしまいました。

 

 バス停の前で、

 「主の平和~」

 とクリスチャン式のご挨拶をしてお見送りしました。ハレルヤ、彼の仕事が祝福されますよう。

 

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 三つ前の記事より、組合の同志がホワイトボードに書いて説明してくれた内容がとても興味深いので、もう一回引用して考察してみましょう。
 
 「名倉は『据え膳喰わぬは男の恥』という『善』とか『道徳』について言ってて、××さんは『男性も女性も等しく求めることができるし、断ることもできる』という『権利』であり『正義(正当性)』、つまり英語だと『right』と訳されるものについて言ってる。話の次元が違ってる」

 「善悪の価値観とか道徳観は個々人の感覚や感性に基づくものである。対して、それに社会的な統一性、普遍性、つまり公共性を持たせたものがrightの概念であり、更にrightの概念を制度化し、実効性を持たせたものが『法』である」

 

 

 萩尾望都の初期の短編「かわいそうなママ」を読んだことはおありでしょうか。

 去って行った昔の恋人が忘れられず、生ける屍のようになりながらいつまでもいつまでも待ち続ける母親を、幼い息子が窓から突き落として殺す話です(恐らく、周囲の人はみんな事故だと思っている)。

 

 「ぼくのやったことが間違っているというのなら、誰か教えて下さい。この冷たい手をしたかわいそうな人の幸せが他にどこにあったのかを」

 という少年の独白と共に、母親の葬式の場面から始まります。

(間違っている=悪、反道徳)
 

 昔の恋人は彼女の葬式が終わってからやっとやって来て、息子の口から真相を聞いて驚き、

 「君はエスタを殺したんだ」

 と非難します。

(エスタを殺した=殺人=法律上の犯罪)

 

息子の反論「ぼくはママにとって何が一番幸せか真剣に考えた結果、こうした。あなたはママの幸せの為に一体何を考え、何をしたんだ?」

(彼なりの「善」であり「道徳」の主張。それと共に、恋人の「不善(=悪)」「反道徳」に対する厳しい指摘)

 

 

 もう一つ、最近ある絵描きさんが教えてくれたヒトラーの言葉を紹介したいと思います。
 
 「Ich liege falsch」「Aber die Welt ist mehr faisch」 
 「私は間違っている」「しかし世界はもっと間違っている」
 
 あたしも初めて知りましたが、なかなかインパクト強いですよね。
 
 して、冷静に考えてみると、幾ら世界が夥しく間違っているからって自分も間違ってたらやっぱりいけないと思います(-.-;)
 「間違っている」と自覚しながら行動するのと、間違っているのに「正しい」と確信して行動するのとではどっちがタチ悪いでしょう?そもそもヒトラー君は「間違っている」という自覚があったのか?と疑問は尽きず、興味深いです。
 
 それを発言したのがアイツだから「いや、それダメだろ」となるんであって、ガンジーとかマンデラとかキング牧師とかマザー・テレサが言ってたら意外と「名言だ」とかなったりして。
 キリストも結構、「いや、それどうなのよ」「おまえヤバイやつやな」という発言を度々してますしね。

 

 大切なことは、

 「『間違っている』というのは誰(何)に対して、どういう意味で間違っているのか?」

 「『正しい』というのは誰(何)に対して、どういう意味で正しいのか?」

 をしっかり定義した上で考えたり議論したり行動したりすることだと思われます。

 

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 前項のタイトルに付けたのは刑法性犯罪改正キャンペーンのキャッチコピーでして、今時の若い人は知らないかも知れませんが、「イヤよイヤよも好きの内」という慣用句をもじったものです。

 まあこれは意地の悪い冗談ですけども、「据え膳喰わぬも男の勝手」というコピーを掲げて、女性からの男性に対する性暴力反対を訴えるキャンペーンを展開してみてもいいかも知れません、果たしてどの程度の訴求力があり、どの程度の共感を呼ぶでしょうか?(^皿^)

 

 勿論、「女性からの男性に対する性暴力」というのもあると思いますし、問題であり、なくさないといけないものだと思っていますし、「据え膳喰わぬは男の恥」という道徳観念やその押しつけ自体が男性に対するジェンダーバイアスであり、人権侵害なんだ、という見方も可能、というか恐らくそれが正しいだろうと思われます。

 しかしあたしは感情的に肩入れしたくねえ、ってだけだ。

 

 

 そのお話はここまでにしておきまして、晩唐の詩人・李商隠の作品に題名の付いていない恋愛詩が沢山あります。

 その「無題」の内、あたしの好きな作品に「相見る時は難く別るるもまた難し」という一節で始まるのがあります。

 

 作者の李商隠から彼女に贈った詩ですが、しかし、相思相愛ぽいからいいので、男の片思いだったらちょっと気持ち悪いというか怖いよな、と昔から思います。

 

春蚕死に至って糸方(まさ)に尽き

蝋炬灰と成って涙始めて乾く

(蚕は死ぬまで糸を吐き続け、蝋燭は燃え尽きるまで蝋涙を流し続ける。私のあなたに対する愛も然りだ)

 

 さっきも言いました通り、個人的には好きなんですけどね。

 

 女性から男性に贈るんだったら一途だし、情熱的だし、かわいいよな、とも思いますが、やはり相思相愛じゃなかったら却って重苦しいと思われて敬遠されるかも知れません(-.-;)

 

 実際、複数回贈ったことがありますが全部振られました。

 「これはどうやら、この詩を贈った相手からは振られることになっているんだな」と思ったので、贈らなかったらやっぱり振られました。

 

 それはともかく、もしかしたら今時の人って、男女問わず、「相思相愛でも、ここまで言われたら重いし、何だか怖いよ」とかいう感覚なのかも知れんなあ。

 

 前項の与謝野晶子の歌にまつわるエピソードなんですが、「では、男性からの女性に対するダイレクトな欲望を表現した作品はどうなのか」「それを男性から女性に贈るのはどうか」という問いについて考えてみたいと思います。

 

 個人的には好きですが、「イケメンに限る」「相思相愛に限る」だよなあ、と思います(^_^;)

 

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過去記事と重複する所が多いのですが、マメに読んでいる人の方が少ないだろうからもう一回書いておきます。

 

 夕べ、望年会にてある男性が、「女性と二人きりでクリスマスイヴに東京ディズニーリゾートにお泊まりしたのに何もしなかった理解し難い男友だち」の話をしたのをきっかけに、このブログで数ヶ月前にテーマにしていた「男女の性(道徳)の違い」について侃々諤々の議論になり、結構辛辣にやりこめられてしまったでござる(_^;)

 

 ご存じのように、「相手から強く迫られた場合、『据え膳喰わぬは男の恥』だが、『女は拒否権を発動してもよい』」というのがあたしの基本的スタンスなのですが、その思想を展開した所、とてつもなく評判が悪く、「名倉は実は全然ジェンダー平等論者なんかではない」とまで言われてしまいましたf_^;

 (女性を食べものに譬えるのがそもそも問題だ、とかそういうのはとりあえず置いといて下さい)

 

 ジェンダー平等論者であるからこそ、オスとメスとの大元の差異に目を瞑らず、忌憚のない議論をするべきだと思っているんですが。

 成程、「性行為=生殖行動」ではありません。ヒトの場合、純粋に生殖の為にする性行為などほんの一部です。

 それはそうなんですが、実際にそうであるかどうかを議論してるんじゃないんです。「元々はそういう風にできているからこうだ」ということを言っているんです。

 

 「女と男では一回のセックスに懸ける重みが違う、女は一回のセックスにいのちが懸かっているだって!アホか、避妊すればいいことだ」

 「オスは繁殖戦略として、一匹でも多くのメスと交尾するようにできてるだって!アホか、俺はそんなことしていないぞ」

 という多くの反論が予想されるんですが、だから、そうじゃなくて、「元々そういう風にできてるだろ」って話をしてるんです。

 

 前にご紹介した「火の鳥 太陽編」の犬上と十市媛の話も持ち出したんですが、「それは極論だ」とも言われました。

https://ameblo.jp/xingling7/entry-12307981751.html

 

 確かに極論かも知れませんが、でもあたしの言いたいことは何となくわかって頂けますよね?

 逆にこれぐらいの例を持ち出さないとあたしの言いたいことは伝わらないし、この例を持ち出してもまだ伝わらないならどうしたらいいんだろう、って感じなんですが。

 

 この間、友人が、「好きでもない男性から与謝野晶子の『やは肌の熱き血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君』という歌を贈られてぞっとした。こんなん、女性から男性に贈るからいいのであって、逆だったら気持ち悪い」と訴えていて、深く共感しました。

 「やは肌」って表現は女性にしか使いませんし、「男性に置き換えたらどうなるか?」なんて考えただけでもおぞましい。完全なセクハラです。

 しかし女性→男性の場合、必ずしもセクハラになると思いますか?

 

 男が女に強引に迫るのは暴力的、というか暴力だと思います。

 でも、女が男に強引に迫るのは一概に暴力と言えるでしょうか?

 厳密に言えば暴力()かも知れませんが、それって男女同レベルで斟酌されることなんでしょうか?

 

 寧ろ男の側が、真摯に求愛してきたかわいい女性(顔がとかじゃなく、気持ちとか心とかそういうこと)を手荒く拒む方がよほど暴力的であり、反道徳的ではないでしょうか?

 

 「女をレイプするような奴は勿論だが、そんな奴も俺は許さねえぞ」

 「俺なら、よっぽど生理的に無理な容姿レベルか、一緒にいてよっぽどイライラさせられる相手じゃない限り、抱くよ」

 

 とあたしのアニムス(内なる男性性・男性意識・男性人格のことです)もゆーてます(*_*)

 

 

 そんなわけで、だいぶ議論が混乱してきた所で、

 

 「名倉は『善』とか『道徳』について言ってて、××さんは『権利』であり『正義(正当性)』、つまり英語だと『right』と訳されるものについて言ってる。話の次元が違ってる」

 「善悪の価値観とか道徳観は個々人の感覚や感性に基づくものである。対して、それに社会的な統一性、普遍性、つまり公共性を持たせたものがrightの概念であり、更にrightの概念を制度化し、実効性を持たせたものが『法』である」

 

 と、他の人がホワイトボードに書き出してまで分析、解説してくれました(_^;)お見事。

 

 

 お話を変えますが、「性は愛を育む温かなものです」とか言われると余計なお世話だ、と思う人もいそうです。

 

 (今の)私には必要ないとか、寧ろしたくないという人だってごまんといるし、「子どもを作る為なら(仕方なく)するが、子ども要らないからしたくない」と明言する人も知っています。つまり生殖行動以外の性行為はし(たく)ないって人です。子作り以外の性行為は罪深い行為だという信念を持っているからとかじゃなく、ただ単に行為が嫌いなのだと思われます。

 恋愛であれそれ以外の愛の形態であれ、愛情や信頼を育むのに肉体の接触なんか要らない、という人や状況は幾らでもありますよね?

 そっちの方が崇高だとかそんなことを言いたいのではありませんが、あんまし「今時の人にお互いの心と体を尊重しあう正しいセックスのやり方を教えるべきだ」ってそればっかり聞かされると、「みんなが(愛を育む為、楽しむ為の)セックスをしないといけないのか」「そうしたくても相手が見つからない人は?」って言いたくもなるなあ。

 

 ちなみにカトリックは信徒にも子作り以外の目的でのセックスは認めておりません(飽くまで建前は、ですが)

 あたしが二言目には「セックス(性別、性交)というのは元々、子どもを作る為にあるものなのである」と言うから、「宗教的信念の関係なんですか?」と誤解を与えてしまったくらいです(_^;)

 

 あたしは(一応)プロテスタントであり、いずれにせよ宗教的信念は関係ありません。

 

 そうじゃなくて、常に、「セックス(性別、性交)というのは元々、何の為にあるのか」「オスとメスというのは元々どのように違っているのか」という生物学的観点から問題を見る癖がついているだけです。

 他の人も、時々は原点に還るのが大事ですよ、って思いませんか?

 でないと、「ジェンダー平等」という理念ばかりに振り回されて、逆に正しくものごとが見られなくなる場合もあると思います。

 

 男女のカップルだけとは限らん、ということが視野に入ってきた時代になったので、ますますややこしくなりますが(_^;)

 

 「子どもを作る為」「愛を育む為」ともう一つ、「快楽を得る為」っていうのがあるんですが、これだけは唯一、一人でもできますね。寧ろ、一人の方が何かと都合がよかったりします。

 

 まあそんなのは余談なんですが、「お互いの心と体を大切にするセックス」というのが結構曲者だと思ってます。

半年前の刑法改正の国会審議の時にちらっと耳にしたんですが、今時の保体?道徳?の教科書にはそのように書いてあるというんです。

 

 真理だと思いますか?、いえ、わたくしは少し、じゃない、すっごい違和を感じます。

 あたしが子どもの頃の教材には、「お互いの体を大切にするのではありません。男性は女性の体を、女性は自分の体を大切にするのです」と明記してありましたし、そう信じて生きてきたものですから。

 

 「心」については難しい所ですが、「女性の(体に付随するものとしての)心が優先されるべきだ」っていうのは理屈に合っていると思います。

 何かあった時、より傷つくのは女性の側であることの方が多いですよね?

 

 最近は「対等なセックス」「対等なパートナーシップ」と言いすぎて、またくどいようですが必ずしも男女のカップルばかりではない、ということも視野に入ってきたので、セックス(性別、性交)というのは元々、子どもを作る為にあるものなのだということが忘れられがちであるように思います。

 

 またくどいようですが、確かに、「性行為」=「生殖行動」ではない。ヒトの場合、純粋に生殖の為にする性行為などほんの一部である。

 

 その理屈は正しいのですが、あたしが議論の俎上に載せたい問題の本質はそこじゃないんだよなあ(--)

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 新約聖書「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」の一章、榎本保郎牧師の注釈です。

 テサロニケの教会は激しい迫害の中にありました。

 

 「パウロは最初に、いつものように挨拶を以て始める。『あなた方の信仰の働きと、愛の労苦と、私たちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、私たちの父なる神の御前に、絶えず思い起こしている』」

 「戦時中、ドイツの教会は、ヒトラーと調子を合わせたドイツ教会と、それに対して反対した告白教会との二つに分かれた。私たちがよく耳にするボンヘッファー牧師も告白教会の人であり、大勢の仲間と共に投獄され、ついには殉教していった。パウル・シュナイダーもそうであったが、彼の獄中からの手紙には、六人の子どもの父親としての苦しみや、夫としての妻に対する愛というものが、実に美しく出ている。

 彼は希望を持っていた。神は、御心に従っていく者には、必ず解決の道、勝利の道を与えて下さるという希望であった。どんなに今権力が無茶なことをしていても、最後には神が勝利されるという確信を持っていた。それが、やがて神の前に立った時、嘉せられるという信仰となっていたのである」

 

 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」

(コリントの信徒への手紙Ⅰ1313)

 

 クローバーの三つの葉はパウロが説いたこの三美徳を表しています。

 四枚目の葉が「幸福」です。

 

「信仰」という言葉が嫌な人は「信頼」「信念」「確信」等と言い換えてもいいのだと思います。英語だと同じ「faith」ですし。

 

次にご紹介しますのは、エラ・ヒギンソンの詩の邦訳です。

ルドルフ・エルネスト・ロイテルという人がメロディを付けているそうですが、そちらは生憎わかりません。

「うららに照る 日影に 百千(ももち)の花 ほほえむ
人知らぬ 里に生ふる 四つ葉の クローバ
三つの葉は 希望 信仰 愛情のしるし

残る一葉は 幸福(さち) もとめよ 疾(と)くその葉
希望深く 信仰固く 愛情厚くあれ
やがて汝(なれ)も 摘みてとらん 四葉の クローバ」

 「希望高く」じゃなく「希望深く」と表す所が心憎いなあ、と思います。
 ヒギンソンの原文はわからないのですが。

 今年、宗教改革五百周年に当たっていまして、教会ではいろんな催しをしました。去る十月二十九日が宗教改革記念礼拝でした。
 聖歌隊でルター作詞・作曲の讃美歌を歌おうとリーダーが張りきっていたんですが、「ドイツ語を日本語に訳してるからやっぱり巧く言葉が乗らない」とよく愚痴っておられます。

 讃美歌ではありませんが、高校の時、音楽の教科書に「セレナード」が載っていました。日本語歌詞とドイツ語歌詞、そしてドイツ語歌詞の訳も併記されていました。
 それが実にきれいに日本語に訳されてメロディに乗っていて、子どもながらに感心してしまったのを今でもよく覚えています。これぞ文芸ってものだなあと思ってて、その話を聖歌隊のリーダーにして、「昔の人は訳が巧かったんですね」と言うと、「それって文語訳でしょ」「文語なら、例えば音符一つの『ich』を『われ』と訳せるから巧く乗せられる。でも、現代語だと『わたし』になるからどうしても字余りな感じになって原語のニュアンスが巧く表せない」と笑っておられました。

 当たり前のことなのに、これまで考えたこともなかったので、今更「そうか!」と思いました(_^;)

 べつに「最近のポップスの歌詞はあまりにひどい」とか言うつもりはないですが、古きよき日本語がどんどん消えていくのが寂しいです。

 

 というわけで、二十九日の宗教改革記念礼拝にはルター作詞作曲の讃美歌「神は我が櫓」を歌いました。

 その一節です。

 

「悪魔世に満ちて 襲い迫るとも

勝ちは我にあり などて恐るべき

この世の君 狂いたてど 何を成し得ん

主の裁きに 滅ぶる外なし」

 

 パウロの、ルターの、ナチと闘い、あたしと同い年で処刑されたボンヘッファー牧師の勇気があたしの中に湧き上がってくるようですO(`へ´)O

 

 十月三十一日の晩は、教会で講演とコンサートがあったので行ってきました♪

 コンサートの演目は「神は我が櫓」をバッハが壮大な合唱付きオーケストラにアレンジしたやつですよ♪

 

 五百年前のその日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の門扉に「九十五ヶ条の論題」を打ちつけてカトリック教会に叛旗を翻しました(o´)

 プロテスタント教会爆誕~~(≧▽≦)丿

 (「プロテスタント」の原義は「抗議する者」という意味です)

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 今日、子ども祝福礼拝󾆩󾔛󾥼で、あたしが新約の中で一番好きなエピソードの一つ「姦通の女」(「『罪なき者が石を投げよ』」)の聖書劇󾆯が上演されました。
 劇の中では献金泥棒󾓝󾌳の話に置き換えられていましたが、聖書朗読は該当箇所がそのまま読み上げられました。

 「ねえねえ、かんつうってなあに?(・o・)」
 ってちびっ子が言ったらどうするつもりだったんでしょう(-_-;)

 後で牧師が子どもたちを一人一人檀に上げて祝福󾭠されたのですが、ちびっ子の一人󾟔が祝福してもらった後、劇で使われた石(紙を丸めたボール)を牧師に投げつけておりました(^▽^)/ ⌒○ ☆(×o×)

 ずっと前にも似たようなエピソードをご紹介しましたが、子どもってスゲェ( ̄^ ̄;)

 

 

 教会から帰る途中、右翼と左翼(東京地評)の車が偶然すれ違った所に出くわしました。

 右翼がスピーカーで「何が憲法守れだ(ryとか悪態ついてましたが、左翼はスルー󾔞しよりました(・_・)

 昔、地元の共産党のおっちゃんが、
 「街宣車乗ってたら右翼が煽ってきおったから逆に追いかけ回したったわ󾌳
 と自慢したはったのを思い出しました。

 見た人はびっくりしたやろうなあ。

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 先日、視覚障害の友人が京都から東京に遊びに来ました。視覚障害者向けの製品の展示会があったのです。

 この間別の所で介護現場の報告を聞いたばかりだったので、興味があって連れて行ってもらいました。

 その時、ちょうど彼の話もしていたのでビックリしました。噂をすれば影、ですね。

 

 展示会は盛況で、彼も点字プリンター等々、色々見て買っていましたが、あたしも「サリバン先生とヘレン―ふたりの奇跡の4か月―」という絵本を買いました。著者はデボラ・ホプキンソン、作画はラウル・コローンです。

 

 以下、アマゾンに落としたレビューです~。特にネタがないからこっちにも上げとく。

 

-------

 

 「奇跡の人」っていうのはほんとはヘレンじゃなくてサリバン先生を指してるんだよ、というのは知ってる人は知ってるお話ですね。より正確に訳せば「奇跡を起こす人」ですからね。目も見えないし耳も聞こえない人に「言葉」をわからせる、人とコミュニケーションする方法を習得させるという「奇跡」を。
 その称号の元になってる同タイトルの映画は、サリバン先生役のアン・バンクロフトがアカデミー主演女優賞、ヘレン役のパティ・デュークが助演女優賞をそれぞれ受賞しています。つまりサリバン先生が主人公=The Miracle Workerです。

 「ある日のこと、サリバン先生はヘレンを井戸に連れて行きました。マグカップから溢れた水がヘレンの手にザアッとかかると、先生はもう片方の手にw-a-t-e-r(水)と綴りました。その時です。勢いよく手にかかった水の冷たさと、先生が綴ってくれた指文字の言葉が、ヘレンの頭の中で、夜空の稲妻のようにパッと閃き、しっかりと結びついたのです」

【アニー・サリバンの手紙】
 「1887年4月5日
 勢いよく手にかかる水の冷たさと、水という言葉がしっかり結びついたことに、ヘレンは、びっくりしたようでした。驚きのあまりマグカップを落としたヘレンは、その場に凍りついたように立ち竦みました。ヘレンの顔に、新しい光が差しこんだように見えました」

 以上、本文より引用しました。

 絵本ですが、文字数も多めでしっかりした内容です。今時の子どもたちには萌え萌えきゅんきゅんしたコミック調の絵の方が受けるのかも知れませんが、個人的には、こういう本は本作のような写実的で落ち着いた絵柄の方が気品や温かみを感じさせて好きです。

 引用部分は映画のクライマックスにもなっている非常に有名なエピソードです。私の高校の英語の教科書にも載っていて、「神秘」と思ったことを覚えています。
 しかし、その続きは映画でも教科書でも触れられておりませんでした。ヘレンはどのようにして、大学まで出て、執筆したり、世界中飛び回って講演したりするような第一級の知識人になり得たのか。
 「わたしの掌に滴り落ちるこの冷たくて不思議なものが『water(水)』」ということはわかった。手で触ったり、匂いを嗅いだり、舌で味わったりできるものに名前があること、それらがそれぞれ「子犬」とか「花」とか「アイスクリーム」とかいう名前だということはわかった。でも、形容詞とか副詞とか、抽象的な概念とかはどうやってわかったんだろう?サリバン先生はどうやって教えたんだろう?ということが長らく疑問でした。
 それがこの絵本には、実に興味深く、わかりやすく描かれています。
 それにしても、サリバン先生という人の賢さと忍耐強さ!ヘレンを預かった当時、まだ弱冠二十一歳ですよ!信じられん。

 こう書くと、ほんとにスゲーのはサリバン先生の方でヘレンは大したことないんだみたいな印象を与えるかも知れませんが、いや、ヘレンもすごいです。もしIQを測ることができれば、恐らく天才と呼べる域に達するほど高かったと思われます。
 私、健常児を教えたこともありますから、ヘレンの非凡さがよくわかります。大変失礼ながら、目も見えてるし耳も聞こえてるのになんでこんなことがわからないんだ!?覚えられないんだ!?私には寧ろそっちの方が不思議で不可解だ、としょっちゅう思わされるような子たちにも度々出会ってきました。いや、もう学校教育がとっくに終わった大人でもよくいますね。

 アン・サリバンとヘレン・ケラーという二人の大きな知性が巡り会ったことが一番の「奇跡」、神の奇しき御業だったのかも知れません。

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