1 すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず彼のところに集めた。

2 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。それで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた

3 それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。

4 それから、王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行った。

5 彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者ども取り除いた

6 彼は、アシェラ像を主の宮から、エルサレムの郊外、キデロン川に運び出し、それをキデロン川で焼いた。彼はそれを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。

7 さらに、彼は主の宮の中にあった神殿男娼の家をこわした。そこでは、女たちがアシェラ像のための蔽いを織っていたからである。

8 彼はユダの町々から祭司たちを全部連れて来て、ゲバからベエル・シェバに至るまでの、祭司たちが香をたいていた高き所を汚し、門にあった高き所をこわした。それは町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門に入る人の左側にあった。

9 高き所の祭司たちは、エルサレムの主の祭壇に上ることはできなかったが、その同輩たちの間で種を入れないパンを食べた。

 

これまでこの列王記は何度か読んでいるのですが、今回、QTで結構深く思いを巡らしながら読んできた中で、ヨシヤ王の時代に「律法の書が見つかった」ということは私にとっては改めてショッキングな事であって、昨日は一日中そのことについて考えながら過ごしました。

 

というのは、当時イスラエルがどれほど荒廃していたのかがわかってきますし、その根本原因とも言えます。あのイスラエルが、神と言えば偶像、という状況にまで落ちぶれていたということ、ヨシヤ王までもが律法については知らなかったのですからね。

 

この思いは言い尽くすことが出来ませんが、聖書に向かうことの重要性を突き付けられています。

現代は日本語や英語に翻訳されて、神がどのようなお方を知ることについて、とても開かれた時代と言えます。「めぐみの時代」ですよ本当に。

 

北朝鮮の地下教会に聖書が届けられた時の映像を見たことがあります。10年程前の事でしょうか。

彼らは、聖書を待ちに待っていたのです。そして、箱から聖書が出されて手渡されると、聖書に頬ずりして喜んでいました。この信仰、この渇き。

律法の書が見つかった話から、チャレンジを与えらています。

 

ヨシヤ王は王でありますが、霊的リーダーですね。

率先して神との関係のやり直しを進めて契約を結び、民がそれに追随しています。

特筆すべきは、全ての民に律法を読み聞かせていることです。

非常にシンプルな行動ですが、これこそ重要です。

 

聞いた民は、罪過の重さに苦しみを覚えたでしょうが、救いとはそのようにしてもたらされるものです。

救われない理由、つまり滅び行くことの理由が明確にされてから、滅ばずに生かされる道を求めること、そして与えられることです。

 

現代教会は大丈夫でしょうか。

なぜ全ての人は罪人であるのか、どうしてその罪から救われる必要があるのか、ちゃんと教えているでしょうか。

私には教会のことをあれこれ言う資格はありませんが、心配になりますし、思い当たることもあるのです。

 

そしてその後のヨシヤ王率いるイスラエルの行動は、「取り除き」が徹底されています。

何かを付け加えるのではなく、取り除くことであるところが私にはポイントです。

 

アシェラ象や神殿男娼の小屋などは、取り除かれるものとして当然ですが、またもや登場している「高き所」については、土着習慣とも言えるものですから簡単ではなかった気もします。

これもちょっと懸念させられることがありますね。

 

パンデミックによって、会堂での礼拝ではなく、インターネットを介したオンライン礼拝はいっきに広まりました。

私はこのこと自体は、福音の広まりという点や、物理的に教会を足を運ぶことが出来ない人たちも共に礼拝式に参加出来るということで物凄く良いイノベーションだと思っています。

 

しかし、その良い本質が失われて、会堂に集わなくてもよい、という考えになってしまったり、家でねそべりながらメッセージを聞くことが当たり前になってしまったら、それはもう南ユダの高き所と同じになると思います。

神に対するおそれから遠ざかることになりかねない、ということです。

 

神は利便性も提供してくださるお方ですが、原理的には、信じる者が払う犠牲によって信仰を見られるお方でもあると思います。

それは、わかりやすくは献金ということもありますが、主には自発的な忍耐、わざわざ教会まで出向くということも犠牲でしょうし、兄弟たちの交わりは時には犠牲でありますし、そのための食事を作ったりとか、やはりお金も時間も犠牲になります。

これは救いの条件ではなく、神への近づきについてです。

 

もちろん、捕囚前のイスラエルの時代と現代とでは全く違う契約がありますから、現代クリスチャンが「教会堂に神がおられるからそこに近づくべきだ」ということではありません。

自宅のソファからでもベッドからでも、イエスに近づくことは出来ます。

 

しかし、霊は燃えていても肉は弱い、のではありませんでしょうか。

そのインターネット、ソファ、ベッドは、神に近づくためにきよめられた道具でも場所でもありません。

イエスが言われる、神の国とその義を第一に求める、ということが難しい場所になるのではないでしょうか。

いつしか、神に近づくことが”ついで”の行事となってしまうのではないでしょうか。

つまり、高き所になるということです。

 

そういう意味では、犠牲を払って教会堂に出向いて兄弟姉妹と交わり神に近づくことは、長期的に霊的健全性を保つという点では勧められることであると思います。

このことは、どうして救われるのかという福音そのものとはあまり関係の無いことながら、実践的には大きく関係するものだと思います。

ただ信じることによって救われます。しかし、信じなくなった人も結構見てきましたから。

 

聖書は、教会時代の信徒に対して「集うことをやめてはいけません」とも言っています。

これは、イエスが復活されてから時間がまだあまり経っていない時代ならではの勧めであるようには思いますが、現代においても神への近づきに関して合理的な指導であると思います。

 

今日のみことばからは、神との遮蔽物を取り除くこと、が示されました。

それは罪のことですが、他にも、物的何かがあると思います。

罪を起こさせる何か、を、毎日取り除くようにしていけば、日々神に近づくということになるのでは、と思いました。幼稚ですが。

めぐみの時代に生かされることを感謝して、応えていく者であるように、聖霊に満たされたいと思います。