空の墓は、あなたが今日受ける助けの保証であり、これから訪れる希望を与えるものです。
この堕落した世界での人生は困難です。それは、希望を打ち砕き、落胆させるものになり得ます。時には、善人が負けて悪人が勝っているように見えることもあります。不意に訪れる者たちが、様々な種類の喪失という痛みをもたらすこともあります。信頼できると思っていたものが裏切り、頼りにしていた人々の約束が破られることもあります。今、この瞬間の私たちの人生は、喜びと悲しみが入り混じったものです。物事がどれほど複雑になりうるかということは、実に歯がゆいものです。悲しみはあまりにもしばしば訪れ、怒りが私たちの内に湧き上がることもあります。
聖書は、私たちが経験する人生の困難について、瞬間的な苛立ちであれ、長引く痛みと喪失の季節であれ、それに対して三つの理由を与えています。
1.この世界
聖書は私たち皆が住んでいるこの世界について多くを語っていますが、私たちの今の住所であるこの場所が、著しく壊れており、創造主の意図された通りには機能していないと警告しています。ローマ人への手紙8章で、パウロは私たちの世界が贖いを待ち望んで「うめいている」と言います(ローマ8:22)。人は痛みの中で、苛立ちの中で、落胆の中でうめきます。私たちの周りにあるすべてのものは、本来あるべき姿ではありません。あなたの周囲の世界は、A地点からB地点へとあなたを運ぶために必要な車のようなものでありながら、機械的な不具合を抱えているようなものです。それは、本来果たすべき機能をうまく果たせず、そのためあなたは「次に何が起こるのか」という日々の苛立ちに直面するのです。あなたがする旅の一つ一つには多少の不安がつきまとい、しばしばその旅は、また別の機械的な故障によって中断されます。これが、私たちが住むこの世界なのです。
2.肉
聖書が「肉」について語るとき、それは私たちの肉体のことではなく、堕落した性質、すなわち罪との闘いのことを意味しています。確かに、私たちは赦されています。キリストが成し遂げてくださったゆえに、神は私たちを義と見なされ、罪はもはや私たちの主人ではありません。しかし、私たちの内に罪が存在しているという事実を忘れてはなりません。その罪は、聖化の恵みによって徐々に取り除かれていっているのです。罪は、私たちの内にも、私たちの周囲にもあります。もしすべての夫婦が罪のない存在であれば、結婚生活は飛躍的に楽になるでしょう。同じことは友情、子育て、職場、政府、地域社会、教会、娯楽や教育の世界にも当てはまります。そのリストは続きます。罪は私たちの人生のすべてを複雑にします。私たちの日々の苛立ちや失望の多くは、私たち自身や周囲の人々の中にある罪の存在によるものです。
3.悪魔
使徒パウロはエペソ人への手紙6章での実践的な教えの結びにおいて、私たちが大いなる霊的戦争の中に生きていることを思い出させています。私たちの闘いは、実際には人や場所、物とのものではありません。そうではなく、私たちは「この暗闇の世の支配者たち、天にいる悪の霊的な力」―権威、力、支配―と日々戦っているのです(エペソ6:12)。本当に存在する、偉大で、暗く、欺く敵がいます。彼は飢えたライオンのようにうろつき、私たちを食い尽くそうとしています。人生が困難であるのは、人生が戦いだからです。私たちが日々行うすべてのこと、すべての人間関係は、霊的戦いのただ中で行われているためにより困難になります。誘惑する者、欺く者がいて、あなたの信仰を混乱させ、神の善さ、忠実さ、愛に対する疑いをあなたの心に植えつけようとします。彼はあなたの救いを奪う力は持っていませんが、あなたの歩みを混乱させようと必死です。
この世界、肉、そして悪魔の存在があるがゆえに、キリストの地上での働きが十字架で終わらず、空の墓という驚くべき栄光で締めくくられたことは、なんと素晴らしいことでしょう。イエスの空の墓は、今ここでの助け、そしてこれから与えられる助けの保証なのです。パウロはコリント人への第一の手紙15章において、キリストの復活がキリストの現在の支配の保証であると述べています(15:20–28参照)。今、王は何をしておられるのでしょうか?パウロはこう言います。「彼はすべての敵をその足の下に置くまで支配しなければならない」(1コリント15:25)。私たちに多くの心痛をもたらす罪は打ち破られるでしょう。私たちの人生に多くの混乱を撒き散らす敵も打ち破られるでしょう。そして、私たちの生にとって逃れられない現実である死さえも、打ち破られるのです。復活された征服の王がこれらの敵を打ち破られるのです。そして空の墓は、その約束なのです。
しかし、それだけではありません。パウロはキリストの復活が「初穂の復活」であると言っています(1コリント15:20)。これはとても励ましに満ちたイメージです。最初のリンゴが木になるとき、最初のぶどうがつるになるとき、最初の豆が枝に実るとき、それはやがて来る大いなる収穫の保証です。イエスの空の墓は、別の復活の保証です。私たちは最後の日に立ち上がり、新しい世界へと運ばれるのです。そこはすべてが新しくされた世界。罪はもはや存在せず、悪魔も存在せず、壊れた世界も、死も存在しません。すべての痛み、苛立ち、落胆、そして苦しみは、永遠に終わります。そして、復活し、完全に贖われた者として、私たちは復活された救い主なる王と共に、永遠に平和と調和のうちに生きるのです。
イエスの空の墓は、あなたが今日直面している現実が、永遠に続くものではないという保証です。今、ここであなたを悩ませているすべての敵は、あなたの復活の救い主イエスの勝利の足の下に置かれるのです。彼の空の墓は、その働きが完成するという保証です。彼は決してあきらめません。最後の敵が彼の足の下に置かれるまで、彼は決して引き下がらないのです。そしてそのときに初めて、彼はご自身の最終的な王国をもたらし、すべてが新しくされた世界へと私たちを招かれるのです。
イエスの十字架への旅路は、十字架で終わったのではなく、空の墓の勝利で締めくくられたのです――それは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。
黙想の問い---------------------
1. このレント(受難節)の学びを通して、地上の人生における苦しみや悲しみについて、あなたの見方にどのような変化がありましたか?
変わったというわけではないのですが、それは過程だった、過程にあるのだという印象が確証になっていくように思いました。
2. イエスの犠牲について思いを巡らすことで、今年のイースターの勝利は、あなたにとってどのように違って感じられるでしょうか?
複雑な思いが更に複雑になったような感じです。表現に窮しますが、ジーザスが受けてくださった苦しみは私の身代わりでありますから、すみません、申し訳ないという思いはどうしてもあります。しかし、それで終わってない!申し訳ない思いでは終わってない!という事が超重要なのであって、全部を俯瞰すると、悲しみではなく感謝とか安堵の方が強くなるんです。今日はイースター礼拝ですが、そういう気持ちで一杯です。
3. 空の墓の勝利は、あなたの人生にどのような意味を持つでしょうか?
ヨハネによる福音書20章1〜29節を読んで、最初のイースターの喜びを追体験してください。
さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
ボクシングの井上尚弥選手が、アルゼンチンの英雄的ボクサーと戦った時のことが頭をよぎりました。そのアルゼンチンの選手は、井上選手との対戦まで、一度もダウンを喫したことがないという無敗の絶対王者でした。ところが、挑戦者の井上選手はその英雄をボコボコにして早い回でKO勝利を収めてしまうのです。
あの英雄が若く小さな選手に打ちのめされる姿を見てアルゼンチンの陣営は、井上選手がボクシンググラブの中に鉄を入れているのではないかと疑います。そして、試合が終わってすぐに、彼らが注目する中で井上選手がグローブを外すと、中には何も入っていなかったんです。そして彼らアルゼンチン陣営は「偉大なチャンピオンだ」と井上選手を讃えました。
誰もがトマスです。ジーザスが死から復活されたことは、実際に目で見ないととても信じられない。そういうものだと思います。今になっては、それが事実であったかどうかを物質的に立証することは出来ません。まあ、実際に見たり、立証出来たら信じる必要などありません。ですから、人は「信じる」しかないわけです。感覚的には「信じ取る」というような。不思議な、何か突き動かすような積極的な力だと思います。「信じ取る」力は、ジーザスが人間のいのちにおける”偉大なチャンピオン”であることを確信するだけではなく、与ることに至らせるからです。ジーザスは先に行って復活してくださった、お膳立てしてくださった、お手本を見せてくださったから、同じ道を、信じ取る者は進むことになります。信じない者は進めません。つまり、いのちが終わって消滅してしまいます。永遠のいのちではなく永遠の滅びに至ることになります。
もし、ジーザスに与りたいのであれば、ジーザスのみを信じてください。他の何者も永遠に至らせてくれるものはありません。ジーザスに与るということは、今の人生を変える力があります。人生を変えたい、人生をやり直したい、生き直したいんだという方もジーザスを信じてください。進む方向が変われば、人生は変わります。横浜発で東京行きの電車に乗っていたのがそれを降りて、静岡行きに乗り換えれば景色は変わります。東京に向かいながら、静岡に向かうことは出来ません。乗り換えることは、ジーザス”のみ”を信じること、に近いと思います。信じない者ではなく信じる者になってください。その方が幸せな一生を送ることが出来ます。