十字架に敗北はありません。そこにあるのは勝利のみです。
イエスの生涯は死への行進でした。
イエスの生涯は勝利の凱旋でした。
この両方は真実であり、同時に保たれるべきものです。
正しい生涯と犠牲の死の中に、敗北は一切存在しませんでした。
イエスの誕生は勝利でした。
ヘロデの手からの脱出は勝利でした。
イエスの人間性は勝利でした。
完全な生涯は勝利でした。
誘惑に打ち勝ったことは勝利でした。
公のバプテスマは勝利でした。
教えは勝利でした。
癒しの御業は勝利でした。
ゲッセマネでの逮捕は勝利でした。
裁判と拷問は勝利でした。
犯罪人と共に十字架にかけられたことは勝利でした。
父なる神との分離は勝利でした。
十字架での死は勝利でした。
復活は勝利でした。
復活後に弟子たちに現れたことも勝利でした。
昇天も勝利でした。
イエスの生涯、死、そして復活におけるすべての出来事――それが一見敗北のように見えるものであっても――は、すべて勝利でした。
それら一つひとつは、神のご計画の成就としてなされたがゆえに勝利であり、預言の成就としてなされたがゆえに勝利なのです。
キリストは私たちの代わりとして、これらすべてを行われました。
私たちのために生き、私たちには到底生きることのできない人生を生きられました。
私たちが敗北してしまうであろう戦いにおいて、勝利を収めてくださったのです。
神の怒りによる裁きを私たちが受けずに済むように、私たちのために苦しみを受けられました。
私たちの最終的な敵である死に、私たちのために打ち勝ってくださったのです。
確かに、それは苦しみと死に満ちた生涯でしたが、そのすべてにおいて、勝利また勝利の連続でした。
彼は征服するために来られ、そのとおり征服されたのです。
彼は人類の歴史の流れを逆転させるために、勝利に次ぐ勝利をもって来られ、「完了した」と言われるまで歩まれたのです。
使徒パウロは、コロサイ人への手紙第2章で、イエスの勝利に満ちた生涯について語っています:
>「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストに根ざし、建てられ、教えられたとおりに信仰に堅く立ち、あふれるばかりに感謝しなさい。
>
>人間の伝統やこの世の幼稚な教えによる、キリストに従わない哲学や虚しい欺きによって、だれにもとりこにされないように気をつけなさい。
>
>キリストには、神の満ち満ちた本質が、からだをとって宿っています。
>
>あなたがたもキリストにあって満たされており、彼はすべての支配と権威のかしらです。
>
>あなたがたはまた、キリストにあって、手によらない割礼、すなわち肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受けました。
>
>あなたがたはバプテスマによってキリストと共に葬られ、またキリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのです。
>
>あなたがたは、罪過と肉の無割礼のうちに死んでいた者でしたが、神はあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての罪を赦してくださいました。
>
>神は、私たちに不利で、その規定により私たちを責め立てる債務証書を無効にし、それを十字架に釘づけにして取り除かれました。
>
>彼は、もろもろの支配と権威を武装解除し、それらを公然とさらしものにして、キリストにあって彼らに勝利されたのです。」(コロサイ 2:6–15)
パウロはあなたに知ってほしいのです。まさに「今、ここで」、あなたの人生はキリストの勝利の上に根ざしているということを。
あなたが築かれ、成長するのは、キリストの勝利によるのです。
この新しいアイデンティティこそが、あなたのすべての行動の動機となるべきなのです。
神の御子はその高き御座を離れ、苦しみ、死ぬために地上に来られました――しかしそれは、勝利のうちになされたのです。
それはあなたに新しいアイデンティティと、新しい可能性を与えるためでした。
もしあなたが神の子どもであるならば、あなたは夫、妻、息子、娘、父、母、隣人、友人、男性、女性、若者、年配者、労働者、退職者などといった肩書きを超えた存在です。
あなたは征服した王の子どもです。
あなたは勝利された救い主の息子・娘なのです。
あなたはすでに生かされ、復活している者です。
あなたは赦された者です――あなたの借金の記録は帳消しにされました。
その刑罰は、十字架に釘づけにされ、永遠に取り除かれたのです。
これこそが、あなたの正体です。
そして、これこそが、あなたが今、生きてよいとされた生き方なのです。
すべては、イエスがあなたのために勝利してくださったからです。
あなたは恐れや臆病の中に生きる必要はありません。
誘惑に負ける必要もありません。
この世の欲望に心を明け渡す必要もありません。
偶像を追いかける必要もありません。
失敗した時、神の拒絶を恐れる必要もありません。
自分の罪や弱さ、失敗を正直に告白することを恐れる必要もありません。
自分のアイデンティティを見いだせない場所で探す必要もありません。
敵に「ノー」と言うことができるのです。
自分にはない義を装う必要もありません。
不安に心を支配される必要もありません。
イエスがあなたのために勝ち取られた、揺るがぬ愛と赦しの中で安らぐことができるのです。
最後に、パウロのクライマックスの一節をもう一度心に刻みましょう:
「彼は、もろもろの支配と権威を武装解除し、それらを公然とさらしものにして、キリストにあって彼らに勝利されたのです」(コロサイ 2:15)
十字架の上で、イエスは敵からその武器を奪っておられました。
十字架の上で、敵は恥をさらされていたのです。
十字架は勝利でした。
罪は打ち破られ、赦しが与えられ、神との和解が確かとされ、永遠の命が保証されたのです。
今この時も、来るべき世においても、勝利はあなたのものです。
これがあなたのアイデンティティです。
さあ、それを生きていきましょう。
黙想のための質問---------------------
1. あなたの人生の中で、敗北を感じている領域はどこですか? 行き詰まりを感じているのはどこですか?
いっぱいあります。他人と比べること自体がナンセンスなのですが、私の人生はとにかく一般的ではないんです。幼い頃からそうなのです。普通が良いと思っているのに、体、心、家庭環境、道徳心などなど、どこか周りと変わっていました。ずっとそんな感じです。枚挙に暇がない、状態です。今もそう。一般的には50歳過ぎならどんな仕事にしても要領を得てそれなりに働くものです。私は、なぜか支店も無い遥か海外からリモートで仕事をしています。しかも、会社は別に繁盛しているわけでもない。普通なら辞めてから行け、と言われそうなところですが、何故か許される。良い意味で変わっていると言えるところなのですが、私はこの事についても、完全に喜べないところがあります。心のどこかに、普通がいい、という志向性を持っているのです。昨日、加入している生命保険の担当から電話がありました。一度会いたい、という申し出でしたが、私が今海外にいることを事情も踏まえて伝えると、まさにそういうことを言われました。彼は高校の同級生です。「お前の人生は多彩と言うか、普通ではいかんよなあ笑」と。
行き詰まり、ということでは、もう普通には行けないんだなあ、とは思っています。みんなやっているようにはいかないのです。人生は選択の連続だと言いますけれど、私はあえて変わったものを選択してきたつもりはありません。皆が選択しているからという理由で選択したものが、なんかおかしな方向に行くのです。
ただ、これも道。この道であったから、私はジーザスと出会い救われることができているのだとわかっています。
2. 「[イエス]は、私たちが敗北していたであろう戦いに勝利してくださった」という真理は、あなたが罪や霊的失敗と戦う上でどのように助けとなるでしょうか?
ジーザスの勝利が無ければ、罪を敵とする認識がまず無いだろうし、そうなれば戦う理由なんてありません。つまり、ジーザスの勝利というのは、敵を認識させてくれるものであるということです。私には。
3. あなたがキリストの勝利をもって打ち破るべき恐れは何ですか? 今、それを書き出して、キリストのもとにゆだねましょう。
先に述べました、皆と同じような感じの人生ではないことについての劣等感。何か悪い変化が訪れるのではないか、という恐怖感。恐れに関する全てと言えますが、特に今は、言語が流暢ではないことから来る消極的な姿勢。仕事をしていても、つい別の事を考えてしまったり、仕事ではないものに追われたりする集中力や目的意識の欠如。時に、罪を罪だとわかっていても止められなくなる強い罪への高まりのようなもの。
コロサイ人への手紙 2:6-15 をもう一度読み、イエスのあなたのための勝利を喜びましょう。
やはり、道を感じています。私は正直、普通じゃない人生を劣等感でもって受け止めているのですが、その普通じゃないものの一つに、ジーザスを信じていることおも含めてしまっている気がします。なんて不信仰な、と思うのですが、そういう視点から自分を見つめると、まぎれもなく”普通じゃない事”なのです。
しかしそれは、敗北で完結したものではないことが、このみことばからはっきりと示されています。私には、私自身がジーザスを選択できない弱さがあったのかも知れません。それが、神のあわれみによって、信じることが出来る者になれた事。このことは、世間一般には「普通ではない」のかも知れませんが、明らかにこれは勝利へのプロセスでした。この勝利が、すべての人生の”意味”を勝利に変えてくださるようにも思います。みことばから受ける高揚感で、そのように思うのかも知れません。しかし、そう受け取ることの方が、より事実であると思えます。私のこの人生での色々な良い事、悪い事、楽しかった事も辛かった事も、それそのままでは、そういう価値観での見方で始まり終わるものでしかありません。或いは、他人と比較しての評価で完結するものです。しかし、普通ではない事の一つにある、ジーザスとの出会いは、赦しがあり、育まれたり、本当のいのちへとみちびかれるという、劇的な出来事となっていることがわかるのです。人生をオセロに例えるなら、概ね黒で埋め尽くされてきたところで、ジーザスが4つの角を取ってくれているような、そんな感じです。私が勝利をするためにやるべきことはいくつかありますが、その角を取るという勝利へのプロセスは、既に完了してくださっています。ですから、私は空いている残りのスペースに、白を放り込む、ジーザスと同色のものを放り込むことで、大部分の黒をひっくり返すことが出来る、そのような感じです。本当に、奇跡のアンユージュアルが起きていました。感謝なことです。