十字架への旅路において、イエスの心があらわになるだけでなく、私たち自身の心もまたあらわにされます。

正直に言うと、私は『ジ・オフィス』のような気まずいユーモアが好きです。誰かが何かを言ったり、したりしようとする瞬間に、思わず目をそらしたくなるような、あのゾワっとする場面が好きなのです。私はこれを「正直なコメディ」だと思っています。なぜなら、私たち全員が日常の中で、あのような緊張感のある気まずい瞬間を経験しているからです。私たちは皆、自分がまったく的を外したことをしてしまったり、自己中心的になってしまったり、思いやりに欠けたりしてしまうことがあります。そして、カメラを巻き戻してやり直せたらどんなにいいかと思うような、恥ずかしい場面にも直面します。私たちは、見られたくない自分の一面がさらけ出されることに苦しみます。心の中では、何度も繰り返される“ビデオリプレイ”に苦しむのです。そして、他人の不用意な言葉や行動によって傷つけられた経験もまた、私たち全員にあるはずです。

この「すでに」と「まだ」の間の時を生きる私たちは、何度も自分の心が暴かれることを覚悟しなければなりません。言ってしまったこと、してしまったことによって、望まない形で心がさらけ出されてしまうのです。 
十字架へと向かうイエスの歩みの中でも、彼の心があらわになります。しかしそれは、気まずく恥ずかしい暴露ではありません。比類なき美しさを持った啓示です。飼い葉桶での誕生から粗削りの十字架に至るまでの間、イエスの心にある柔和さ、謙遜、思いやり、忍耐、愛、誠実、恵み、寛大さが何度も現れます。そしてイエスの心が明らかにされると同時に、私たちの心もまた明らかにされ、その対比は私たちを深くへりくだらせ、私たちがこの柔和な方の犠牲の死をどれほど必要としているかをはっきりと示します。

この対比が明確に描かれているのが、マルコの福音書9章2~37節の劇的な場面です:

2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。
13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

この長い聖書箇所を引用したのは、イエスの心と弟子たちの心との対比が、この文脈の中で最も鮮明に示されているからです。 
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、イエスの栄光が明らかにされた驚くべき「変貌(へんぼう)」の場面を経験しました。モーセとエリヤが両脇に立ち、律法と預言のすべての成就として、メシアであるイエスが栄光のうちに現されたのです。律法の要求を完全に満たし、すべての預言者たちの希望を一身に背負われた方が、そこにおられました。彼こそ人類の希望です。罪によって壊されたすべてのものを正しく回復する唯一の希望です。

ペテロたちは、この衝撃的な光景を心にどのように抱えたのでしょうか。この出来事は他言してはならないと命じられていたからです。

イエスの偉大な栄光を見た直後、彼は次に信じられないほどの力を現されます。少年を死からよみがえらせたのです。復活の力以上に偉大な力は存在しません。死んだ者の手を取り、その行為によって命を再び与えるという、これほど驚くべき出来事は他にありません。

さらに、イエスは弟子たちにご自分が殺され、三日後によみがえることを教えられました。彼の栄光、力、そして死と復活に関する驚くべき現実——あまりに大きすぎる内容です。これほどの栄光と力を持つお方が死ぬのか?そして死からよみがえるとは?弟子たちの心は悲しみに満たされ、見聞きしたことへの疑問でいっぱいになると思われるかもしれません。彼らはイエスのことを深く考えていたはずだと思われるでしょう。

しかし、ここにイエスの心と弟子たちの心の間にある大きな対比が現れます。

イエスは、ご自身の栄光と力を知っていながら、それを用いてご自身を救うことはされませんでした。むしろ、その力と栄光を持ちながらも、他者の罪のためにご自分を犠牲としてささげる道を選ばれました。彼は自分の使命を知っておられ、それを喜びをもって追い求められたのです。栄光と力に満ちた方でありながら、仕えられるためではなく、仕えるために、そして多くの人の身代金としてご自身の命を与えるために来られたのです(マタイ20:28参照)。

しかし、弟子たちの心には何があったのでしょうか?イエスの力に驚嘆し、死を悲しみ、復活に混乱していたのでしょうか?そうではありません。彼らが考えていたのは、まったく別のことでした。

道を歩いている間、イエスは彼らの間に議論があるのに気づかれました。そして目的地に着くと、それについて問われました。しかし弟子たちは答えられませんでした。というのも、彼らは誰が一番偉いかを議論していたからです。彼らは、見たばかりのメシアの栄光や、死と復活の知らせについて思い巡らすのではなく、自分たち自身のことを考えていたのです。

この偉大なるお方が、罪人のように十字架へと向かっているその道中、弟子たちは自分たちが誰よりも偉いかを競っていたのです。これが悲しいことに、私たちの心でもあります。私もこのような心を持っていると認めざるを得ません。そして、あなたもそうです。私は注目を浴びたい、議論に勝ちたい、コントロールしたいと思ってしまうのです。罪が私の内に生きている限り、私は「偉くなりたい」と思う瞬間を持ち続けてしまいます。そしてそのたびに、私は自分自身から私を救ってくださる、この栄光に満ち、力ある方の恵みをどれほど必要としているかを思い知らされるのです。

十字架の道であらわになるのは、イエスの心だけではありません。私たちの心もまた、さらけ出されます。そしてそのすべてに、恵みが注がれているのです。

黙想のための質問------------------

1. 弟子たちの反応のうち、どの部分があなた自身と重なりますか?彼らの行動に、自分自身の罪をどのように見出しますか?

 

こうして、心をこめたQTをやります毎朝。祈りもしますから、結構な時間も割くことになります。その間、私はそれなりの頻度で涙がこらえられなくなります。普段は、涙など出てこないようなタイプなのですが、みことばから心を探られると、自分で自分が悲しくなること、それでも「赦す」というメッセージを受けますから、安堵がまじった悲しみになってきたりと、複雑な感情が入り組んだ涙が溢れてきます。

しかし、そういう時間が終わって、仕事の段取りをしてから、朝のニュースなどを聞いていると、もうあの涙はどこかに吹き飛んで、世の中の出来事にあれこれ思い、仕事関連位あれこれに揺さぶられて、朝から怒りを込めたメールを送り付けたりしているのです。まさに弟子たちと同じで、結局、あの涙というのも「私にとってのジーザス」をいつも探索しての結果です。その、動かざる「私」は、流動的な「私以外」による反応で生きているのです。これそのものは、罪であるかどうかはさておき、ここから出るものは罪ばかりになります。何故なら、ジーザス以外のものに対する私のリアクションは、どれもこれも罪を許容するものですから、そこに流されていくのです。この「私」「自分」を軸とすることが、恐らく弟子たちと同じ要素だと思いました。

2. マルコ9章で明らかにされたイエスの心の特徴のうち、弟子たちにとって驚きであったと思われるのはどれですか?

 

誰が一番かについて諭された、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」というみことばかと思います。弟子たちにとっての”一番”とは、誰かに仕えることではなく、誰か仕えさせたり、仕えられる者のことであったはずです。しかし、ジーザスはみなに仕える者こそ一番になると言われたのですから、これはもう真逆です。

 

結局のところ、リーダーというのは、配下に支持を出すような形で人を動かす事になる場合がほとんどなわけです。しかし、そのリーダーの心の状態、心に持つ志向性は、その配下のためとか、チームのためという、自分以外のものに満たされてこそ健全であると言えます。仕えるとか仕えさせるとかの次元を超えて、群れを勝利や何か素晴らしいものに向かってしっかりと方向性を固定させることが出来るということです。ジーザスは、弟子たちには全く無い、救いという方向性とそれを実現させるためのにお持ちだったご自身の力をよくわかっておられました。

3. 神の国を子どものように受け入れるために、あなたの態度や行動の中で何が変わる必要があるでしょうか?

 

わかりません。ただ、私がもう長い間取り組んでいることは、聖書を読んだり、教会でのメッセージを聞く時も、自分が子供になった”つもり”でいることは、結構よいものです。みことばやメッセージの内容を、混じりっけ少なく受け止めることが出来ます。私ならこうするとか、そういう事を全く思わないわけではないのですが、「そうかあ!」「そうかあ!」が多くなり、結果的に自分の支配を排すことにつながっています。それがずっと続くならよいのですが、、、です。

ヤコブの手紙 2章1~13節を読んでください。この箇所はマルコ9章の物語にどのような洞察を加えるでしょうか?

1 わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
2 たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
3 その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
4 あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
5 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか
6 しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
7 あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ

 

数週間前になりますが、礼拝が始まる前の時間のことです。私たちは、体や精神に障害がある方々がいつも集まって話しているテーブルを占領してしまっていました。そこに障害者の方たちが来られて、ここはあの人たちのテーブルだと気づいたのですが、咄嗟に「どうぞこちらへ!一緒に話ましょう!」と笑顔で言うと、彼らはとても嬉しそうに笑いました。私の言語能力の問題がそもそもあるため、楽しく話すという事にはならなかったのですが、ヘルパーさんを含めてとても嬉しそうにしてくれたことは、今でもとても嬉しく思うのです。私は、自分がかわいくて仕方のない人間ですが、そのようにして、自分以外を喜ばせることが出来る機会を与えてくださっていると思います。それは、我慢してやることではなく、自分にもまた喜びとなって跳ね返ってくる機会です。

テレビドラマのスクールウォーズで有名になった、京都の伏見工業ラグビー部の山口先生は「教師は生徒を喜ばしてやらないといかん」と言われていました。それは、あわれみの心がなくてはなしえないものだと思います。