聖書は、イエスが神殿で怒られたことを記録することによって、イエスがどのようなお方であるかを示し、私たちの価値観を明確にします。
そして、イエスは神殿に入って、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。だが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)
イエスの最後の旅路の劇的な展開は、どれほど急激に感情が移り変わるかを私たちに示しています。賞賛する群衆の後には、物語は急転直下します。これは、私たちが理解しているつもりのメシア的場面の一つですが、実はもっと注意深く考察すべき出来事です。ここでは、イエスの生涯の中でも最も顕著な「聖なる怒り」が表れています。
なぜイエスはこれほどまでに怒られたのでしょうか?
これは単に神殿で商売が行われていたことに対する怒りだけなのでしょうか?
なぜ彼は商人たちを「盗人」と呼んだのでしょうか?
この瞬間、彼を突き動かした「熱意」とは何だったのでしょうか?
なぜイエスはその台をひっくり返されたのでしょうか?
救い主の「聖なる怒り」から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか?
彼の「熱心さ」は、どうすれば私たちの「希望」となりうるのでしょうか?
これらが、イエスが十字架へと向かうこの瞬間に私たちが問うべき問いです。
イエスはエルサレムに入城されても、賞賛の声を上げる群衆の栄光の中にとどまることなく、即座に次の行動に移られました。イエスはご自身が「救いの恵みの使命」にあることをご存知でした。そしてその恵みがどれほど広く及ぶものであるかもご存知でした。
神殿で起きていることは、御父の家を汚す行為であり、アブラハムに与えられた約束を損なうものであり、イエスが地上に来られた目的そのものを妨げる行為であることを、イエスはよく理解しておられました。
人々がどう思うかを気にすることなく、イエスは正しさに基づいた価値観と聖なる怒りによって、弱くされた者たちのために行動されました。
この黙想を心に留めましょう。
神殿はあなたの聖なる熱心さを
際立たせました。
そこにあったものは、
あなたの愛に満ちた心をあらわにしました。
制度以上のもの、
歴史的建造物以上のもの、
宗教的施設以上のもの、
公共の礼拝の場以上のもの—
それはあなたの御父の家でした。
怒りがあなたの心を満たしました。
それは、
聖なるものであり、
義なるものであり、
恵みに満ちた怒りでした。
異邦人のための場所が
商売の家となっていました。
祈りの場は売買の台に取って代わられ、
願いの声は家畜の鳴き声に取って代わられました。
この神聖な場所は、
今や盗人の巣窟となっていました。
市場の盗人たちは、
異邦人にとって唯一の祈りの場所を奪い、
売り手たちはあなたの契約のご計画を侵し、
商人たちはその栄光を奪いました。
神の愛の場であったその場所は、
今や人間の貪欲の場となっていました。
あなたへの愛はなく、
追いやられた人々への同情もなく、
あなたの御心への服従もなく、
あなたの救いのご計画への配慮もありませんでした。
あなたは御父への愛から、
除外された人々へのあわれみから、
アブラハムに与えられた約束への誠実から、
御父の家を汚した者たちの計画を
打ち砕かれたのです。
あなたの御心の熱心さを宣言し、
あなたの聖なる使命を示し、
あなたの永遠のご立場を現されました。
この熱心さは、あの時も今も、
私の希望です。
あなたの怒りは、あの時も今も、
私の安全です。
あなたの約束は、あの時も今も、
私の安らぎです。
あなたの恵みは、あの時も今も、
私の命です。
なぜなら、私は知っているからです。
あなたは変わらぬ熱心さをもって、
聖なる怒りをもって行動し続け、
最後の台をもひっくり返され、
私は御父の家において
永遠に安らかに住むことになると。
黙想の問い------------------
1. イエスは何に対して怒っておられたのですか?両替人たちは何を間違っていたのでしょうか?
宮は”祈りの家”、つまり、人々が神に思いを携えてやってきて、それを神に語るためにありました。
しかし、そういう神に向かおうとする人々の思いを惑わせたり、違う目的、神には目もくれないような目的の人たちも引き寄せてしまうものでした。そのように思いました。
2. あなたの心を「義なる怒り」で満たすものは何ですか?現代の「両替人」はどこに見られますか?そして、あなたはそれに対して何をするように召されていますか?
自分がジーザスを信じるきっかけになったことは、金がどれほど負の方向への力を持っているかを思い知らされた挙句のことでした。ですから、私はこの金の力については、霊的な負の力をいつも感じています。ですから、教会内で行われる商売じみた物事については、徹底的に戦いました。義憤と言うより、そのような引力に自分が引っ張られるのがもう嫌だったからです。ある時、伝道してもらいたい人がいる、ということで、教会の姉妹の友人に会ってみたら、伝道とのバーターでマルチの営業をされたことがあります。私はそれがわかると怒りを露わにして席を立ちました。その時、私を満たしていたものが何なのかと言うと、先のような恐怖なんです。神の義に満たされるべきところですが、痛い目に遭ったことからくる恐れがそういう怒りの行動を起こさせていたのだと思います。
この宮にいた両替人にジーザスが怒りを向けられたのは、そういう自分についての何かではないことを習いました。ご自分のため、ご自分の癇癪ではない、ということが重要で、これが私のそういう態度とは全く違うところです。
あの両替人、商売人らは、誰から何を盗んでいたというので”盗人”と呼ばれたのか、ということです。
それは、著者の解釈に賛同して恐らくそうだろう、とわかってきたことは、
神に向かおうとしている人から神を盗み、神が来るのを待たれている人を神から盗むような、
そのような、行為であったということです。
つまり、神が罪人である全ての人類との関係を回復しようとされているところを、妨げていたのがその両替人や商売人であったということになります。
違う目的で宮にやってくることになります。
とてもよくわかる解釈です。
しかもジーザスは、神と人との関係回復のために、ご自分が苦しみへと向かわれることがわかっておられます。
そういう点では、ご自分自身の事でもあられるわけですが、この怒りにさえも、私は神の完璧さを見る思いです。
3. 私たちはつい、イエスの側に自分を置いてしまいがちですが、両替人たちと同じ罪を自分も犯している可能性があるとしたら、それはどのようなことですか?
以前、教会でのメッセージで夫婦の在り方についてチャレンジを受けました。
それは、夫婦は互いを神の前へとみちびきあう存在であるべき、というものでした。
しかし実際には、むしろ、神の前から家内を引き離してしまうようなことがありましたし、家内からもそのような言動を受けた思いがありましたから、悔い改めと共に、課題感をずっと持っていたものです。似ているように思います。
教会は、人が集まるところですから、そこでどんな楽しみを持って集まるかというのも大事と言えば大事なのですが、その楽しみによって、もし神と信徒との間柄が簡素になるようなものであるなら、ダメですね。くだらない冗談など・・・思い当たります。
どれだけ仲良くしていても、そこに神の存在をこちらから受け取っていなかったら、それは両替人と同じ罪になると思います。
マルコによる福音書11章15~19節
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
ルカによる福音書19章45~48節
45 それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、
46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。
47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、
48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。
今日は、受難節に際するスモールグループの最後の集まりになります。
会うのが楽しみな人もいますが、その人と私の関係ではなく、その人の祈り、その人の神への近づきを促すような存在となれるように。聖霊を満たしを祈ります。