第二十三弾の続編という感じにしました
舞台も日本にしてみました
# 影の男
夕暮れの空が、くすんだオレンジ色に染まっていた。
バスの窓に映る自分の顔を見て、
田中は小さくため息をついた。
三十六歳。擦り切れたスーツの襟、安物のネクタイ、
疲れ切った目。典型的な冴えないサラリーマンだ。
膝の上に置いたビジネスバッグを抱き直す。
中には「エイキュー警備保障」の社員証が入っている。
今日も巡回営業。成果なし。
「次のバスは……十八時四十分か」
乗り継ぎのバス停で時計を見た。
あと三分。走れば間に合うかもしれない。
だが、田中の足は動かなかった。
いつものように。
そして、バスは定刻より二分早く発車していった。
「ああ……」
次のバスは二時間後。終電には間に合わない。
仕方なく歩き始めた。
地図アプリを見ると、駅まで徒歩三時間。
山道を抜ければ少し近道になるらしい。
暗くなり始めた山道を、田中は黙々と歩いた。
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どれくらい歩いただろう。
完全に日が暮れ、携帯の電波も途切れた頃、
かすかな明かりが見えた。
小さな集落だった。
古びた家屋が十軒もないほど点在している。
「すみません……」
一軒の家の扉を叩くと、老夫婦が顔を出した。
「こんな時間にどうしたんだね」
事情を説明すると、老夫婦は快く泊めてくれた。
「もう終電も終わってしまったろう。
今夜はうちに泊まっていきなさい」
夕食をごちそうになりながら、
茶の間のテレビがニュースを映していた。
『連続銀行強盗事件、犯人グループ三名が逃走中。
武装している可能性があり、警察が広域に捜索を……』
「物騒な世の中だねえ」
老婆がつぶやく。田中は黙って頷いた。
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真夜中。
車のエンジン音で目が覚めた。
田中は布団の中で静かに耳を澄ませた。
車が近くに止まる音。複数の足音。荒い話し声。
玄関が乱暴に開けられた。
「誰かいるのか!」
怒鳴り声。老夫婦の部屋から悲鳴が上がった。
田中は音を立てずに立ち上がり、
障子の隙間から様子を窺った。
三人の男。
手には散弾銃と大型ナイフ。
テレビで見た顔だった。
「食い物を出せ! 服も寄こせ!」
「お、お願いです、何もしないで……」
老夫婦の哀願も虚しく、男たちは暴力を振るい始めた。
物を投げつけ、老人を蹴り飛ばす。
田中は静かに部屋の隅に身を潜めた。
呼吸を整え、気配を消す。
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一時間ほど経った頃。
「トイレ行ってくる」
男の一人が廊下を歩いていく。
田中が泊まっている部屋の前を通り過ぎ、
トイレのドアを開ける音。
田中は影のように動いた。
物音一つ立てずにトイレの前に移動する。
ドアが開いた瞬間、男の首筋に正確な一撃。
男は声も出せずに崩れ落ちた。
田中は男を静かに押し入れに運び、
ロープで縛り、猿ぐつわをかませた。
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「おい、遅いぞ」
やがて二人目の男が様子を見に来た。
「おーい、腹でも壊したか?」
廊下を歩く足音。
田中は暗闇に溶け込むように壁際に立っていた。
男が角を曲がった瞬間、田中の手が伸びた。
完璧なタイミング。
男は何が起きたか理解する前に意識を失った。
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「何だよ、二人とも……」
残った一人が苛立ちながら
散弾銃を握りしめて立ち上がった。
「おい! どこ行った!」
廊下を歩き、トイレを確認し、部屋を覗く。
誰もいない。
男の呼吸が荒くなる。汗が額を伝う。
「おい……おい! ふざけんな! 出て来い!」
恐怖。仲間が消えた。静かな家の中で、
男の叫び声だけが響く。
「出て来いよ! 出て来いよォォォ!」
男は発狂したように散弾銃を乱射し始めた。
壁に穴が開く。老夫婦に銃口を向ける。
「てめえら、何かしやがったな! 殺してやる!」
老夫婦は恐怖のあまり気絶した。
男が引き金を引こうとした、その瞬間――
視界の外から、何かが飛んできた。
男の手から散弾銃が弾き飛ばされる。
次の瞬間、背後から腕が首に回り、
男は抵抗する間もなく地面に押さえつけられた。
「が……」
最後に男が見たのは、くたびれたスーツを着た、
冴えない顔をしたサラリーマンの姿だった。
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翌朝、夜明け前。
田中は老夫婦がまだ眠っている間に、
小さなメモを残した。
『お世話になりました。無事で何よりです。』
名前は書かない。痕跡は残さない。
彼は静かに家を出た。朝靄の中を歩く。
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「はい、はい、わかりました。
ありがとうございます……」
その頃、老夫婦がパトカーと刑事たちに囲まれて、
何度も頭を下げていた。
三人の強盗犯は全員拘束され、
護送車に乗せられていく。
「本当に……あの方がいなければ、私たちは……」
老婆が涙ぐみながら言った。
「その方は? 今、どちらに?」
刑事が尋ねる。
老夫婦は顔を見合わせた。そういえば。
「あれ……?」
朝起きたとき、彼の姿はもうなかった。
布団はきちんと畳まれ、部屋には何も残っていない。
泊まっていた部屋を確認しに行くと、
小さなメモが置いてあった。
『お世話になりました。無事で何よりです。』
それだけ。名前もない。
老夫婦は家の外に出て、周囲を見回した。
山道。朝靄。誰もいない。
「あの人……誰だったんだろうね」
老人がつぶやく。
山道の向こう、遠くに小さな人影が見えた気がした。
くたびれた背広を着て、ビジネスバッグを抱えた、
どこにでもいそうな普通のサラリーマン。
だが次の瞬間、朝靄の中に溶けるように消えていた。
刑事たちは首を傾げながら記録を取り続けた。
事件は解決したが、最も重要な証人の素性は、
誰にもわからないままだった。
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その日の午後、田中は会社のデスクに座っていた。
エイキュー警備保障本社。三階の営業部。窓際の席。
「田中! また遅刻か!」
上司の怒鳴り声。
「申し訳ございません」
いつものように頭を下げる。
周囲の同僚たちは見て見ぬふりをしている。
田中は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。
膝の下のビジネスバッグには、
昨夜のことを示すものは何も入っていない。
窓の外を見る。
普通の街。普通の午後。普通の日常。
田中は小さく息をつき、仕事に戻った。
誰も知らない。誰も気づかない。
それでいい。
そういうものだ。