第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

第三百二十ニ弾「忘れられない人 その10」

第三百二十三弾「忘れられない人 その11」

の続きです

 

 

次回で終わりです

 



## 二十二

 永井は大型スーパーの入口から入って、
すぐに立ち止まった。

 どこを見ればいいのかわからなかった。
ただ歩いていた。
フロアを端から端まで歩いて、また戻った。

 蒼の顔を探していた。

 いるはずがない、とどこかではわかっていた。
でも足が止まらなかった。
ここで蒼とよく会っていた。
だからここにいれば会えるかもしれない。
その論理が正しいかどうか、
永井にはもう判断できなかった。

 判断できなくなっていた。

 食品売り場を歩いた。
衣料品のフロアを歩いた。
書籍コーナーの前を通った。
どこにも蒼はいなかった。

 周囲の客が、永井を避けるように歩いていた。

 永井は気づいていなかった。
自分がどんな顔をして、どんな歩き方をしているか、
もう把握できていなかった。
きょろきょろと視線を動かしながら、目的なく彷徨う男。

声をかけようとする人間は誰もいなかった。

 三周目に入ったころ、見知った顔が視界に入った。

 田所だった。

 上司の、田所だった。

 永井は足を止めた。

 田所は女性と腕を組んで歩いていた。
落ち着いた様子で、何か話しながら、
ゆっくり歩いていた。

 永井は田所の妻を知っていた。
会社の行事で何度か顔を合わせたことがあった。
隣の女性は、妻ではなかった。
年齢も、雰囲気も、違った。

 田所が不倫している。

 その事実が、永井の頭の中に入ってきた。

 最初は、ただの認識だった。

 でも次の瞬間、何かが燃え上がった。

 自分はこんなに不幸なのに。

 蒼を失って、家では透明で、
毎日をどうやって生き延びるかしか
考えられない状態なのに。
なぜ田所は笑っているのか。
なぜ田所は腕を組んで歩いているのか。
なぜ田所だけが。

 許せない。

 その感情が、永井の中で急速に膨らんだ。

 二人の後を、永井は歩き始めた。

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 しばらくして、田所と女性は別れた。

 女性は別の方向に歩いていった。
田所は一人になって、スーパーの出口に向かった。

 永井は田所を追った。

 出口を出て、駐車場を抜けて、
駅の方向に向かう道を歩く田所の、
十メートルほど後ろを歩いた。

 田所は気づいていなかった。

 商店街に入ったところで、前から誰かが歩いてきた。

 田所が立ち止まった。

 若い女だった。
高校生くらいの。
田所の顔を見て、露骨に表情が変わった。

 永井は立ち止まって、商店街の端に寄った。
声がかろうじて届く距離だった。

 娘だ、と永井は気づいた。
以前、会社の家族参観日に来ていた顔だった。

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## 二十三

「お父さん」

 恵の声は、平坦だった。

 田所は笑顔を作ろうとした。
でも娘の顔を見て、その笑顔が固まった。

「外に女がいるの?」

 恵は声を抑えていたが、
抑えている分だけ、言葉が鋭かった。

「今日、友達と一緒にいるときに見たんだけど。
あの喫茶店」

 田所の顔から血の気が引いた。

「恥ずかしいからやめてほしいんだけど。
止めないならお母さんに言うよ」

 田所は何か言おうとした。
言葉が出なかった。

 まさか娘に見られるとは思っていなかった。
あの席は入口から見えない。
外からも見えないはずだった。
そう思っていた。
でもそれは田所の側からの見え方であって、
外から角度によっては丸見えだった。

 こういうことをしている人間は、いつもそうだった。
自分に都合のいい部分だけを信じる。
見えないはずだ、バレないはずだ、大丈夫なはずだ。
その「はずだ」を積み重ねて、ある日突然崩れる。

 田所は娘に何か言いかけて、また止まった。

 父娘の間に、しばらく沈黙があった。

---

 商店街の端で、永井はその場面を見ていた。

 田所が娘に詰め寄られている。
動揺している。
言葉が出ない。

 永井の中で、何かが決まった。

 これを会社でばらしてやろう。

 田所が不倫していることを、職場に広める。
それだけで田所の立場は変わる。
人事評価も変わるかもしれない。
少なくとも、あの笑顔が消える。

 自分は不幸で、
田所が幸せでいることが許せなかった。

 論理ではなかった。
永井の蒼への執着と、田所の不倫は、
何の関係もなかった。
田所が何をしていようと、蒼は戻ってこない。
それは永井にも、頭の片隅ではわかっていた。

 でも関係なかった。

 誰かを道連れにしたかった。
自分だけが落ちていくのが、耐えられなかった。

 それが正義だと永井は思っていた。
田所は悪いことをしている。
それを暴くのは正しいことだ。

 永井の思考は、
もうその歪みを自分で検知できなかった。

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 田所と娘が別れた後、
永井は先ほどの女性を探した。

 田所と一緒にいた女が誰かわかれば、証拠になる。
田所を追い詰める材料になる。

 スーパーの周辺を歩き回った。

 なかなか見つからなかった。

 角を曲がったとき、
見覚えのある後ろ姿が目に入った。

 蒼だった。

 永井の足が止まった。

 心臓が跳ね上がった。
蒼がいる。
本当にいる。
毎日探し続けて、今日ここにいる。

 でも蒼は一人ではなかった。

 男と一緒にいた。中年の男だった。

 永井の中で、燃えていたものが、
一瞬で別の種類の炎になった。

 あの男は誰だ。
蒼の隣にいる資格があるのは自分だけのはずだ。
なぜあの男が。
なぜ。

 怒りが、視界を狭めた。

 その瞬間、
蒼が前を歩く女性に向かって手を振った。

 駆け寄りながら、声を上げた。

「お母さん!」

 永井は固まった。

 女性が振り返った。

 田所と腕を組んでいた、あの女性だった。

 蒼の母親だった。

 永井の頭の中で、いくつかの事実が繋がった。

 田所の不倫相手が、蒼の母親。

 蒼と一緒にいる男が、
蒼たちが今住んでいる場所の人間。

 全部が、一本の線でつながった。

 永井はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

 頭の中が、静かになっていた。

 嵐の前の、奇妙な静けさだった。